【句集を読む】
生きながら永眠する日、それから
鴇田智哉『凧と円柱』を読む
小津夜景
前回の書評で、わたしは鴇田智哉『こゑふたつ』の作句原理を「線を引くこと」「息をすること」「疵を負うこと」といった3つの切り口から分析してみました。またその際明らかになったのは、大筋で言って次のようなことでした。(1)作者の生み出すさまざまな形状の線は、そのつど時空の契機/継起となって〈バレットタイムとしての間〉を押しひろげること。(2)この〈バレットタイムとしての間〉は、息づくものの航跡とその痕跡を句中に残すこと。(3)さらにその航跡/痕跡というのが〈生きながら/死んでいる/ことを知る〉現在性そのものであること。
さて今回は『凧と円柱』の感想なのですが、これも「いきものは凧からのびてくる糸か」を筆頭に、前回確認された原理が色濃く引き継がれた句集とみて差し支えないでしょう。とはいえ同じ話をするのはつまらない。わたしは鴇田の作句の特色について、また別のあたらしい視点から語ろうと思っています。
0. ヴェールへ向かって
まず最初は、この作者によく見られる構図の作品から見てゆきましょう。
すりガラスから麦秋へ入りたる
ひだまりを手袋がすり抜けてゆく
ひあたりの枯れて車をあやつる手
こなごなに凍てながら日は水底へ
はじめの句は、白濁のガラスを通りぬける線(たぶん光を受けた視線)が、移ろいやすい初夏のさなかへと伸びてゆく光景です。いっぽんの、あるいはいくつもの線を描くことで句中に〈生ける間〉を創りだすこの書法は「畳から秋の草へとつづく家」をはじめ『こゑふたつ』にもっとも多く見られたこの作者の基本形でした。次の句は、日だまりをすりぬける手袋がふいに痕跡として作者に知覚されたようすですが、このあかるさ/通過/痕跡のとりあわせは前作「綿虫のとほりし跡のあかるかり」と重なりあう構図とみなせます。その次の句では「空の絵を描いてをれば末枯るる」と同じ作用、つまり手の動きによる〈生ける間〉の創出がなんらかの枯渇・痕跡化と共鳴しあうさまが詠まれていて、さいごの句は「ゆふぞらをつらぬく胼の体かな」の系譜、すなわち伸びゆく線からうまれる〈生ける間〉が、現在性を無限に引き裂くことによって成り立つがために、それ自体の亀裂を同時に引き起こす原理に倣っているようです。
ところで今見た作品は、これまでの手法を単になぞっているだけでなく、実は『こゑふたつ』では印象としてしか語りえなかったこの作者の別の個性が、はっきりと押し出されたものでもあります。もういちどよく見てみると、ここでの麦秋はすりガラスという〈ぼんやりした光の膜を潜って〉現れ、手袋はひだまりという〈たゆたう光の泉を通って〉動き、車をあやつる手はひあたりという〈照り映える光を伝って〉働き、日は水中の〈ゆがんだ光を貫いて〉伸びながら砕けている。つまり作者は〈伸びる線〉と関係する〈生ける間〉の様相を、ある一定の〈ディアファネースのイメージ〉と絡めて表出しているのです。
ディアファネースとはディア(~を通して、~を介して)+ファイノー(現す、現れる)から成るアリストテレスの造語で、視線と対象との間にあって「見ること」を可能にする透明な領域を意味します。もっとも岡田温司の研究によると、アリストテレスの意図する透明性は目に見えないそれではなく、かなり幅のある光のグラデーションが想定されており、実際には半透明性とみなすのが適切とのこと。岡田はその著著『半透明の美学』で、この語の歴史的な使用例をさまざまに列挙します。たとえば聖書では大気、雲、煙、水晶、天使といった語が見えるものと見えないものとを媒介する役割を果たすディアファネース=半透明性とされ、また人間の言葉のあいまいさに注目したダンテはそれを ineffabilitade(汲みつくしがたさ)だとか corpo diafano(半透明な物体)などと呼んで、動物的なもの(叫び)と天使的なもの(沈黙の言語)との間に位置するディアファネースとみなしました。さらに岡田は彼自身の考えとして、メルロ=ポンティが物の見え方を歪ませる水中という場を「肉」にたとえ、それを「見る側=自己」と「見られる側=世界」との間にある半透明の膜、襞、ヴェールであるとしたことを、ディアファネースの系譜につらなる思想だと述べています(少し註釈すると、肉がヴェールであるというのは「神のヴェールを纏うと、イエスが肉体を着る(受肉する)ことになった」話に由来する西洋に古くからある見立てで、聖書では「イエスは、垂れ幕、つまり御自身の肉を通って、新しい生きた道を私たちのために開いてくださったのです」〔ヘブライ人への手紙10章20節〕といった風に使われています)。
壜ならばすんなり秋が来てくれる
ひなたなら鹿の形があてはまる
1. ヴェールのゆらめき
鴇田智哉『凧と円柱』の最大の特色、それはこの半透明性をめぐる語がほとんどの句で確認できることです。さいきん出たばかりの本ゆえ引用にはいささかの節度が必要ですが、そうした制限の中で、作者のイメージの普遍的な型をさぐってみたいとおもいます。
まちなかにこまかい塵の降るむかし
まなざしの球体となり霧をゆく
ひとつめは、作者が「塵」という語を「街中に降るもの」の意味から「降りつもる月日」の隠喩へとずらしうるよう巧みに配したことで、句全体が「歳月のヴェールに覆われた街」を遠望するかのような佇まいとなった作品です。むかしという場所はふつう肉眼で見ることのできないものですけれど、そこを作者はあるようでないようなヴェール、すなわち〈こまかい塵を介して〉、経験の領域(街)と想像の領域(昔)とを手品のように結びつけます。そして勿論ここで注目すべき点は、この塵という微小な粒子の膜が〈現前しつつ不在する半透明性〉の概念をわかりやすくイメージ化した図像学的な働きを担っていることに他なりません。
この図像のヴァリエーションとしては埃・煙・粉・灰・雲・霞・雪などがすぐに思い浮かぶことでしょう。またそこから上のふたつめの句で「霧」という〈こまかい水煙を通って〉まなざしが移動する際も、作者がこの語に〈現前しつつ不在する半透明性〉のメカニズムを担わせていることがおのずと見えてきます。加えて掲句は、霧の影響をうけて球体となったまなざしの描写が、水晶に映りこむ催眠的世界のイメージを召喚してもいるようす。私はこれを読んだとき、ああそういえば眼にも水晶体がついていたなと思いつつ、あたかも眼球までがダンテの言う
corpo
diafano と化した気分になりました。ものを見るとは〈間〉という〈意識の虚ろな泉〉を創り出すことであると同時に、その泉におけるものの見えにくさ(汲みつくしがたさ)と出会うことでもあるといったありさまが、この句ではなかなか手の込んだ形で語られているようです。
いちめんの桜のなかを杖が来る
うらうらと人のうねつて紙が散る
鳴りわたる時報に葛のはびこれり
2. ヴェールの肌ざわり
ところで、こうした半透明性は大気中をかがようだけではありません。すでに「街中にこまかい塵の降るむかし」における「塵の〈ヴェールをかぶった〉街/昔」等いくつかの構図をみていますが、この本のそれはものを遮るだけでなく、ものを覆ったり、ものに巻きついたり、ものと絡みあったりしながら複雑な世界を造形する皮膜ないし肉襞的な表象としても機能するようです。つまりディアファネースは、主体からも客体からも独立した領域であると同時に、しなやかな界面としてそれらと相互に深く綾なしてもいる。「肉とはまさに、わたしの身体から剝ぎ取られ、世界からも剝ぎ取られて、お互いに巻きつき絡み合いながら複雑に襞を刻んでいる、半透明の皮膜のようなイメージなのではないだろうか。『ヴェールのない視覚などない』とは、ほかでもなくメルロ=ポンティ自身のせりふである」(『半透明の美学』)。
たてものに布のかぶさる蝶のひる
ハンカチが顔を包んでゐる正午
古典彫刻に「濡れ衣」の技法というのがあります。これは風にそよぎつつも身体にぺたりとくっついた「濡れ衣」を人体像に彫り込むことで、視線と対象との間に、対象を〈隠しているけれど暴いてもいる〉ヴェールすなわち〈現前しつつ不在の〉ディアファネースを出現させるというたいへん面白い手わざです。当時の文脈において、人物像がなんらかのイデアの具現だったことを考慮すると、このような表現法は「真理というのが常に〈透かし見る〉ことしかできない姿で主体の眼前にある」ことの寓意として発展したのかもしれません——といった想像はさておくとして、上の句などはこの「濡れ衣」的アプローチと見て差し支えない作品でしょう。かぶさる布ないし包むハンカチいった発想は、とりもなおさず主体と客体とのあいだにある半透明の界域の概念をそのままメタフォリカルに意匠化したものだ、というわけです。
包帯の巻きついてゐる冬日かな
上着きてゐても木の葉のあふれ出す
風船になつてゐる間も目をつむり
ここでは包帯、上着、風船といったディアファネースが皮膚的な様相を呈しています。私はこれらの句を、この作者の皮膜フェティシズムがあからさまにあらわれたものとして読みました。
はじめの句は前作「西風は人の襟巻かも知れぬ」と同型の作品。「西風」ではディアファネースが自己の側に巻きついていて「冬日」では世界の側に巻きついているという細かい差はありますが、どちらも西風や冬日の表面に、自己や世界とじかに触れあう襟巻ないし包帯らしき半透明性を感じた、という作者の体験です。
次の句は、そのまま文字どおりに解釈するとなんだか思弁的で素敵なのですけれど、おそらくそうではなく、もっと単純に、上着をきている作者が目の前の木の葉を、あたかも自分の体から出ているような気分で眺めている光景だと思われます。メルロ=ポンティのいう「見るものと見えるものとの間の可逆性」に基づいた構図は、残像の留まる場であるまなうらに目そのものが映ってしまった「春の蚊が浮きまなうらに目のありぬ」や「水母を見ている目」を洗う気分で「目に見えている水母」を洗っていた「目を洗ふやうに水母を洗ふなり」など『こゑふたつ』でも定石でしたし、たぶん間違いありません。ちなみにこの句に関して一点、作者に代わって本当のことを言うと、上着を着ていても、ではなく、上着を着ているから、木の葉が身体から湧出するのです。なぜなら鴇田の場合、自己と世界との入れ換えは、両者のあいだに介在するディアファネースを見る(触れる)ことで起こりうるのですから。
さいごの句は、作者が目を閉じて風船という半透明の膜になり、ふわふわした意識の感触を味わっている光景です。これも作者が風船を見ていたようすが原型にあるとおもわれますが、実はこの句にはそこで話を終わりにできない要素が見られます。わたしの直観では、作者の体が風船と化したこと、つまり鴇田その人が全身ラバースーツとおぼしき形に生まれ変わって、おのれをすみずみまで触覚化するに至った理由を考えてみなくてはいけない。要するに鴇田智哉が「受肉」ならぬ「受ゴム」したことの意味がきわめて重要なのです。
この意味について、わたしはこう考えてみました。曰く、自分以外のものを感覚することのできない全身ラバースーツとなって目をつむるとは「本人が、唯一の世界である本人自身との間にディアファネースを創造し、かつそれを愛でる」ことに他ならない、と。
これは半透明マニアにはたまらない状態のはず。だってふつうは半透明の領域だけを見たいと思っても、その向うにある光景がいかんせん目に入ってしまうのですから。けれども前回の書評を引くなら「鴇田は世界の内部ではなく(また外部でもそれらの境界でもなく)その契機、すなわち〈私と世界とが未分化のまま生きられる現前〉の位相へ自らを関係」させたい作家です。また同時に、この未分化幻想が私と世界とを互いに触れ合わせるディアファネースなくしては(つまり私と世界とをいったん分離するものなくしては)成立し得ない思考上のパラドックスであることも当然心得ているでしょう。それが「受ゴムによる、自己の、自己への関係」という発想に立つだけで、究極の〈私と世界とが未分化のまま生きられる現前〉との戯れがすんなり可能になる。
風船という〈半透明の皮膜〉になった作者。それは膨らめば膨らむほど、意識の浮揚感を増してゆくことでしょう。またそのときゴムの膜は薄くなってゆくので、身体は八つ裂き感を強めることになります。つまり風船とはそれ自体がディアファネースであることに加え、私と世界とが未分化の場所で引き伸ばされると同時に引き裂かれてゆくという〈生きながら/死んでいる/ことを知る〉時空の原理そのままを目に見える境地に実現したすごいアイテムだったのです——正直わたしにはなんのこっちゃですが、これまで鴇田の示してきた諸々の偏愛をしかるべき角度から再構成するに、おそらく彼にとってこのゴム製遊具になるというのは、大変申し分のない快楽なのではないでしょうか(他にも、全身ラバースーツは時間の感覚が奪われるという意味で、まさしく生きながら死んでいる感覚を体験できる(らしい)のですが、話が悩ましい問題に発展しかねないので差し控えます)。
3. ヴェールの起こり、そして名ごり
ここまでディアファネースのさまざまな在り方として、ものを遮る、ものを覆う、ものに巻きつく、ものと絡みあうなどの様態をみてきました。さらにこの半透明性そのものの虚薄性(平たく言えば、気配としての薄さ)についても、いま少し確認してみたいと思います。
はだいろのとけこんでゐる竹の春
冷えて木は一本立つてをりにけり
円柱は春の夕べにあらはれぬ
これらは竹、木、円柱といった線の表象物が、あってなきかの幽霊さながら痕跡化された光景です(余談ですが、鴇田は花には具体名を与えるのに対し、木はいつも無名です。これは彼にとっての木の価値がなによりもまずその線的表象にあることを強調するため、余分な情報を拭い去っているのだと思われます)。そして、やはりこの場合も、作者の視線とこれらの線形体とを媒介するディアファネースはあいまいな、ぼんやりとした、模糊的特色をもっています。竹の句は色がとろけ、木の句は冷気という白濁性を帯び、そして円柱の句は「あらはれぬ」とある以上、暮靄に満ちているとみなして構わないでしょう。ここでは見るもの(視線)も見られるもの(対象)もディアファネースの肉襞に織り込まれてしまっているせいで、円柱は偶発的にあらわれる(そしておそらく消える)ように感じられるのです。
ここで留意したいこと、それは何かが現れてくると同時に消えてゆくような掲句の景色が〈はじまりのようでもおしまいのようでもある間〉の潜勢力を再現している事実です。この潜勢力は、ディアファネースが五感に関係するヴェールであるだけでなく時空のヴェールでもあることの、今までとはまた別の角度からの証明となりえます。ちなみに、この時空のヴェールは「起こり」あるいは「名ごり」をめぐる察知として描かれることが多いようです。
七月の舌にかすかな味がする
あふむけに泳げばうすれはじめたる
春昼のだれもの曲がる角のあり
前触れが葱の花よりただよへり
かすかな味、あるいはうすれはじめるといった痕跡ないし兆候。みんな曲がるけれどその先は見えないといった、確実性と不確実性とのないまぜになった角の気配。察知をめぐるこうした感覚は時と場合に応じて描写される経験的な叙述ではなく、つねにこの作者についてまわる先験的な条件です。さいごの句では、密集花の雲ないし埃のような葱坊主が「前触れ」を漂わせる作用をもつことがはっきりと書かれ、ディアファネースの虚薄性について鴇田自身が素直に告白した一例となっています。
裏側を人々のゆく枇杷の花
木の揺れを覚まさうと日の裏手へと
この「裏」というのも、視線と対象との境界をゆれうごくいわばディアファネースのカーテンです。このカーテンは一瞬に凝縮された起こり/名ごり(つまるところ契機/痕跡)の光速反転を、その微細な揺れによって読者に察知させたり、また「花」と「人の流れ」との感応をうみだす影のうつろいや「日」と「木の揺れ」との共鳴をつかさどる光のかがよいを具現したりと、さまざまな「時空をめぐる、虚薄な気配」を句にもたらし、作品の風景を根幹から支えています。
・
かくのごとく『凧と円柱』は、さながらディアファネースの標本箱と言うべき句集です。見ておくべき構図や語彙はまだ沢山ありますが、すでに結構な数の句を引用してしまいましたので、最後にわたしがこの本でいちばん好きだった半透明性について感想を述べて、ひとまずこの書評はおわりにしたいと思います。
わたしが一番好きだった半透明性。それは「子供」でした。その理由は作者がこの小さな存在を、具象と抽象とのあいだにあるえもいわれぬ気配として扱っていたためです。
いちじくを食べた子供の匂ひとか
からすうりの花に子供のゐてしまふ
おぼろなる襞が子供のかほへ入る
『こゑふたつ』の「十薬にうつろな子供たちが来る」では、子供という語は「実在と非在とを兼ねそなえた亡霊のごとき痕跡」として機能していました。『凧と円柱』ではこの視座がいっそう鮮明になったらしく、ここに掲げた子供のすがたは可視性(生者)と不可視性(死者)との中間項である半透明的存在としてありありと読者に差し出されています。鴇田の子供たちは、もはや「うつろな」という形容詞を必要としません。そうした属性は、彼らにおいて完全に内在化してしまったのです。
はじめの句は、いちじくを体内に吸収した子供がたいへん独特な痕跡化を果たした光景ですが、匂いのヴェールを纏う子供といったくすぶる余熱のような亡霊性は、意味を宙づりにした措辞「とか」によってさらに余韻を深めています。また次の句では、なんとからすうりの花の煙じみた半透明性に子供が発見されている。しかしこれも、作者がふだんからあの小さい人たちのことを、この世のものでいてそうでないような一種の余韻として眺めているからだ、とわたしには思われてなりません。
そしてさいごの句。これはそれ自体がディアファネースの織物だとしか形容しようのない作品です。というのも、ここではおぼろな襞(まちがいなくほの暗い光)といった半透明のヴェールが、生者と死者との中間的表象である子供の、あるようでないような「かほ」に差し込むというただそれだけの——とはいえその差し込みによって存在の意味、すなわち生きながら死んでいることの意味が柔らかく切り開かれてゆく神秘的な——光景が描き出されているのですから。
いくつものディアファネースを折り重ねて造り上げた、くぐもる宝石。あるいはかがやく埃。この句はそういったものにどこか似てはいないでしょうか。
ここには〈半透明性〉という切り口のみが辿りつくことのできる淡い煙のような、かすかな香りのような、ほのぐらいステンドグラスのような、いわば〈不安定なイマージュ〉に秘められた安らぎへの配慮が溢れています。そして確かに、思い返してみれば子供というものが大人に与える不思議な安息も、その種の〈定まることのない存在の気配〉こそが人にもたらすカタルシスなのでした。
Tomoya Tokita, Untitled, 1995
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Marcel Duchamp, Draft Pistons,
1914
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