2015-02-01

【鴇田智哉をよむ 8】写影、あるいはアンフラマンスなまぐわい 小津夜景

【鴇田智哉をよむ 8】
写影、あるいはアンフラマンスなまぐわい

小津夜景

前回は、デュシャンが〈影〉をはじめとした〈次元移動の限界閾〉をめぐる諸現象を「アンフラマンス=極薄」と名づけていた話を土台に、鴇田の句に顕著といえる〈あるかなきかの軽さや動き〉もまたそのようなアンフラマンスへの嗜好と関係しているのではないか、といった話をしました〔*1〕。今回も引き続きこの〈影と次元移動〉の観点から鴇田の句を眺めてみたいと思います。

鳥が目をひらき桜を食べてゐる   鴇田智哉

これは「目」というディアファネースを中心として構成された句です。

この目の中には、作者本人ならざるもうひとりの作者が映っています。あるいは角度や距離によっては映っていないかもしれませんがそれでも構いません。掲句から分かるように、作者の意識はこの鳥の何もみていないような、まるで死んだ人形のような、異界の鏡じみた瞳に深く吸い込まれている。そして吸い込まれているということは、目という〈インターフェイス=界域〉を媒介とした〈私と対象との往復運動〉すなわち〈見る者と見られる者とのあいだの可逆性〉に作者がすでに巻き込まれている、ということに他ならないのですから〔*2〕

〈見る者と見られる者とのあいだの可逆性〉とは、見る存在が見られる存在へも転じるという意味です。ですから鳥の、そのふしぎな瞳に捉え返されるたび、鴇田はまるで彼自身の側が〈世界の影〉であるかのように感じざるを得なくなる。かくして鴇田は鳥とまぐわい(目合い)、おのれの鏡を鳥のそれと戯れさせることで、おのれが〈自分その人でありつつその影でもある〉という存在のスライディング、あるいはアンフラマンスな次元移動の感覚を生々しく生きることになります。

ここで注目すべきは、一般に鏡像というのが自己同定の経験とセットで語られることの多い概念であるのに対し、この句ではその反対、すなわち自己の分裂をうながす作用を担っているといった点でしょうか。さらに、この鏡像が自己の分裂を引き起こすだけならいまだ想定内の発想といえますが、鴇田の場合は〈私自身とその影〉とのあいだの虚薄軽動な〈次元移動〉が目論まれている点で、かなり独特に思われます。

それはそうと、瞳とは鏡であり、小さな人(私)の宿る場であるといった見立ては、昔からさまざまな地域で共有されてきた感覚のようです。たとえば谷川渥の『鏡と皮膚』では、プラトンの発言が引かれたのち〔*3〕、ギリシア語の「ひとみ」が「人見」に由来する(これ、日本語も同じですね。ちなみに「かがみ」については「影見」ないし「屈見」がこの本で採られている語源です)と同時に人形の意味でもあったことが述べられています。その他にも「英語のpupilも、瞳と生徒の両義をもつし、そもそもラテン語のpupilla, pupillus, pupulaといった言葉は、瞳と女の孤児あるいは男の孤児の両義にまたがる。第一、漢字の「瞳」は「目」の「童」ではないか。川崎寿彦の『鏡のマニエリスム』(一九七八)は、英語で相手の瞳にうつる自分の小さな姿を「眼の赤ん坊」と呼ぶ場合があることを教えてくれる」など、瞳の語源にまつわる諸説が紹介されており、瞳の童の部分は子供だけでなく孔や窓の意味でもあるので谷川の話をそのまま鵜呑みにはできないにせよ(ただしイメージ論的には孔や窓の方がむしろ好都合なくらいですが)、目というディアファネースを介した「自己とその影」の問題を考える上で、私には重要な示唆を含んだ内容に思われました。


〔*1〕「息する影」を参照。
〔*2〕「生きながら永眠する日」「生きながら永眠する日、それから」及び「おもてとうらと、こゑのゑと。」を参照。
〔*3〕それなら、きみはもう気づいているだろうが、誰か人の眼をのぞきこむと、自分の顔が相対する眼のおもてにあたかも鏡に見るように映っていて、この鏡のようなものをまたわれわれは人見(ひとみ)と呼んでいるが、そこに映っているものはのぞきこんでいる者の写影みたいなものなのだ。どうだね。――おっしゃるとおりです。――してみると眼は眼をながめる、とくにまたその最も大切な部分、まさにそれによって見るということが行われているこの人見の部分へ眼差しを向けることによって、自分自身を見ることになるわけだ」(プラトン『アルキビアデス』)


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