2015-04-26

夢を読むこと にゃあにゃあにゃあにゃにゃあにゃあにゃあにゃにゃにゃあ(訳:夢は語る=騙ることができるのか、或いは夢の言説編制をずらす猫) 柳本々々

夢を読むこと
にゃあにゃあにゃあにゃにゃあにゃあにゃあにゃにゃにゃあ(訳:夢は語る=騙ることができるのか、或いは夢の言説編制をずらす猫)

柳本々々



夢は意志の手前にある、だから、眠りの閾を跨いだだけで、もう、おまえは意志の力ではなにものも得られない。
(ポール・ヴァレリー、清水徹訳「夢について」『ポール・ヴァレリー全集9 哲学論考』1967年、p.204)

わたしは睡れない。自分がベッドにおり、他の場所におり、そして睡れないでいる夢をみる。目が覚める。いまや、わたしは自分が睡っていたことを知る。しかし、もう睡れない。そして実際、その後はもう睡ることができない。
(ロジェ・カイヨワ、金井裕訳『夢の現象学』思潮社、1986年、p.94)

夢に見る猫はわたしの夢をみる  笹田かなえ
(『東奥文芸叢書 川柳15 笹田かなえ句集 お味はいかが?』東奥日報社、2015年)

笹田かなえさんの〈夢〉の句を読むにあたって今回は〈夢〉についてさまざまな角度から考察したポール・ヴァレリーのこんなことばから始めてみたいと思います。

夢とは、その不在のあいだにしか見られぬ現象である。〈夢をみる〉という動詞は、ほとんど《現在形》をもたない。〈わたしは夢をみる〉〈きみは夢をみる〉、これは修辞の綾である。なぜなら、語っているのは目覚めた者であり、あるいは、覚醒への志願者であるからである。
(ポール・ヴァレリーの言葉は次の文献に拠った。ロジェ・カイヨワ、金井裕訳『夢の現象学』思潮社、1986年、p.75)

ヴァレリーのこの「残肴集(アナレクタ)」からの言葉によれば、夢を語るということはレトリックでしかないんだ、ことばのうえのまやかしなんだ、夢っていうのは〈起きている者〉しか語れないんだ、だから夢を語るということはいつも《事後的にしか》ありえないんだということになります。

でも、考えてみればそうですよね。夢をみているときに、ひとは夢を語らない。ひとが夢を語るのは起きてから、だれかに・語るためです。だいたい語るという行為は、そこに必然的に因果関係をもたらします。因果関係があるからこそひとは物語を語り、それを聴いた他者も理解し共有することができる。けれども、夢に因果はないわけです。夢は、物語じゃないから。

笹田さんの句をみてみます。この句でわたしが大事だとおもうのは、この句のなかに〈ふたり〉の語り手がいるということです。ひとりは〈わたし〉です。〈わたし〉が言葉を組織し、この夢のような句をたちあげています。ただもうひとりこの句には語り手がいる。そしてそのもうひとりの語り手がこの句の肝心なところなのではないかと思うのです。

もう〈ひとり〉の語り手とは、〈だれ〉か?

それは、〈猫〉です。

この句を語っているのは〈わたし〉なんですが、その〈わたし〉を夢でみているのは、〈猫〉です。となると、〈わたし〉は〈猫〉がいることによってはじめて〈語る〉ことのできる〈語り手〉なわけです。ですから、〈猫〉がいてはじめて〈わたし〉は語ることができている、ともいえるわけです。

ところが、その〈猫〉も〈わたし〉が夢のなかでみているからこそ、〈猫〉としていられるわけです。おたがいがおたがいをウロボロスのように支え合い、のみこみあっている状況です。だから、この句には語り手が〈ふたり〉います。〈わたし〉と〈猫〉です。

ここで大事なことがわかってきます。実はこの句は、夢についての句ではないんじゃないかということです。夢の句ではない。夢《について》語ってはいるが夢《の》句ではないのです。

ヴァレリーによれば、夢を語ることができるのは起きている者だけでした。しかしこの句では実はこの句の「わたし」が「猫」がみている「わたし」かもしれないということを捨て去ることができないので、「わたし」が《ほんとうに》起きているのかどうかわかりません。一方で、「猫」もまたまだ「わたし」の「夢」のなかにいるかもしれないのでこの「猫」も起きているかどうかはわかりません。

そんなふうに、この句はなにかを存分に語りながらも、じつはなにも語っていないということがポイントなのではないかと思うのです。ただ「わたし」と「猫」の関係を(ぞんぶんに限りなく)示し合っている句なのではないかと思うのです。

だからこの句は実は「夢」を語っているのではない。「猫」と「わたし」の〈関係〉や〈構造〉を語っているというしかない。

夢、でないかもしれないのです。どちらかは起きているかもしれないし、ふたりとも起きているかもしれない。けれど、夢、かもしれない。どちらかはすやすやねむっているかもしれない、ふたりともぐっすりねむっているかもしれない。

わからないのです。わからないのはそれが〈構造〉だけを語っていて、内実は語っていないからです。だから、これは〈夢〉についての句ではない。〈構造〉の句です。でも、一見すると〈夢〉の句にみえます。ふしぎです。

どうして、か。

これはわたしたちが夢の支配圏に起きてなお強くひっぱりこまれているからではないかとも、おもうのです。わたしたちは覚醒しているからといって、夢のコードを〈あちらの(夢の)世界〉においてくるわけではない。こちら側の世界でまだ自分でもしらずしらずに大切に夢のコードを抱きかかえている。夢の物語にであうたびに、わたしたちはそれとなくその夢の枠組みを参照し、適用してしまう。

それはあたかも〈にゃあにゃあにゃにゃあ〉しか語られていないのに、わたしたちはその〈にゃあ〉を理解し、言語化し、わたしたちにんげんの語り=騙りとして押収してしまうように。

柄谷行人が、ロブ=グリエを引きながらカフカの小説が〈夢〉のような感じを与える理由をこんなふうに説明しています。

カフカの小説に夢の雰囲気を与えているのは、事物の精細な描写と明瞭な現前性である。カフカは夢を書いたのではない。ただ「距離」を奪いとられた現実を書いたのである。
(柄谷行人「夢の世界」『意味という病』講談社文芸文庫、1989年、p.75)

ぼんやりが夢ではないのです。むしろ、むき出しの事物性にこそ、〈夢〉はある。零度の距離のむき出しの構造にこそ。むき出しのにゃあにこそ、〈夢〉がある。そしてそれをまるで〈夢〉のように解釈し、ぼんやりとあいまいに言語化して騙るのがわたしたち〈起きているにんげん〉の〈仕事〉です。

だから、夢とはなにかともしきかれたとしたら、わたしは、こういうしかないとおもうのです。

それは、〈にゃあ〉であると。

〈夢〉にはいつもありそうもないにゃあだけが、起こっているのだから。

観察とはすべて事後の観察である。観察によって知る代りに、生きて知るという心掛けで眺めるなら、人生には在りそうもない事だけが起っている。
(小林秀雄「ペストⅡ」『小林秀雄全作品18 表現について』新潮社、2004年、p.125)

にゃあの挿絵・御前田あなた


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