2015-05-31

【澤田和弥さん追悼】わたしの澤田くん 堀田季何

澤田和弥さん追悼
わたしの澤田くん

堀田季何



澤田和弥くんについて追悼文を書けという。

通夜や葬儀でのスピーチやお悔やみ状で使われる、きちんとした類の文章はわたしには書けない。元々駄文しか書けないし、散文が大の苦手だからである(正式な追悼文では「元々」というような重ね言葉は禁句であるらしい)。そのせいもあって原稿もよく落としてしまい、数少ない信用もついでに落としているわたし。

それでもわたしに何でお鉢が回ってきたかと云えば、彼と友だちだったからである。そう、友だちだった。間違いない。天国にいる彼もこの関係性の定義は肯定してくれるだろう。

でも、友だちなんだから何か書かなくちゃ、と思っていても、澤田くんには私よりももっと親しい友だちがたくさんいるし、わたしが面識のない読者も沢山いる「週刊俳句」で澤田くんとのエピソードを大親友面して開陳してもイタいことになってしまうし、半永久的に電脳空間に残る追悼のメッセージなんて到底書けやしないし、そもそも何を書けばいいのかわからない、とずっと思っていて先週は見送った。

その後、松本てふこさん、金子敦さん、上田信治さんの文章を読んで、変な言い方だが、少し気が楽になった。今週は、漠然とながらも、何か書いてみたい、何か書かねばと思った。

彼と何々をした思い出とか私よりも若かった彼を失って自分がいかに取り乱しているかとか、そういったことは不特定多数の読者のまえで語りたくないし、澤田くんも喜ぶとは思えないので、、とりあえず、わたしが俳句関係で澤田くんについて思っていることを断片的に語りたい。

[句材の好み]

句材の好みは、間違いなく似ていた。

二人とも社会や歴史を詠むのが好きだったが、更に好きだったのはタナトスとエロスに関する句材である。彼のこういった嗜好は、句集名『革命前夜』や第1回新鋭評論賞準賞に輝いた『寺山修司「五月の鷹」考補遺』というテーマからもわかるだろう。少女を扱った絵画史についても造詣が深く、「美少女の美術史」展に私が行きたいと云ったら、すでに一回観ていたはずの彼はついてきてくれて、怖ろしいまでの博覧強記ぶりを披露してくれ、わたしを大いに喜ばせてくれた。

そんな感じで、お互い嗜好が合う者同士、お互い同じ句材を扱った句をシンクロニティのごとく作っていた。私が歴史ネタで王の処刑を詠みこんだ句を本郷句会に出すと、有馬先生は(よく欠席投句してくれていた)澤田くんの句としばしば間違えた。澤田くんは同人誌「のいず」に多くのバレ句、社会性のある句、死に関する俳句を出していたが、わたしもそれらの句にある語彙のほとんどで句を作ったことがあったので、お互いそれを知って、二人して驚いたことがある。

いずれにせよ、彼は「のいず」に出した句が「卑猥」「露悪的」と一部の読者から言われていることを少し気にしていたが、その媒体では自由に句を出せることを喜んでいた(一般結社誌では内容的に無理だっただろう)。

彼のメールから二か所引用してみたい。

「そうなんですよ! エロスとタナトスなんですよ!」

「私が詠んでいるものは、そんな高尚なもの(筆者註:エロスとタナトス)ではなく、『エロ』と『死』という、もっと猥雑で露悪的なものかもしれません。私の句を『嫌がらせ』と捉える方もいますし、忌避される方もいます」

両方とも彼らしい文章だ。後者は彼らしい他人への心遣いの現れ。前者こそが本音だろう。彼は、遠慮するタイプの人間であったが、俳句だけでは、他人の意見やトレンドといったものに迎合することはなかった。「エロ」や「死」に接近することを躊躇しなかった(ただ、実生活でも「死」に接近しすぎていて、それが死因になってしまった感がある)。

[俳人として]

正直言えば、天才でなく秀才だった。それも、とびっきしの秀才で努力家で勉強家。作句にそつが無いタイプでなく、当たって砕けろタイプ。天がほほ笑んでくれるタイプではなく、天を無理矢理笑わせるタイプ。しかも、俳句の上では、他者に迎合せずに失敗を怖れない剛の者。

そういう澤田くんの代表句がどの句になるかは、歴史が決めることなので定かではないが、そういった句について他人が意識し始める前に逝ってしまった。実験や観念による失敗を怖れなかったので、残された作品は概ね玉石混淆だと思う。でも、その中には確かに珠玉つまり秀句が色々とあるので、彼の代表句が取りざたされるのは時間の問題かもしれない。

彼は同世代(二、三十代)の俳人の中でも豊かな実力があった。ただし、万人の認めるところ、彼は神童としてすでに俳句史に大きな遺産を置いていったわけではなく、俳人としては大成する前であった。そのかわり、彼の故郷浜松の英雄である家康並みの大器晩成型。大きな器と素質があり、大物の片鱗があった。句会では小粒の伝統的写生詠で高得点句を狙うよりも豪快な観念詠を出して撃沈することを喜ぶようなところもあり、数十年以内に大俳人になった可能性は、わたしの主観を抜きにしても、極めて高いと思う。

わたしは「豈」57号に寄稿した文章「リアルでホットであること」にて、澤田くんが五十歳以下の俳人で現代における戦争や政治を詠める数少ない一人、数人のうちの一人であることを指摘した。そう、そういう素材を積極的に詠んでいる若手を数えてみたら数人しかいないのだ。澤田くんとあと数人。

数十年後になったら、日本語俳句における社会詠、戦争詠、政治詠はわれわれの世代の誰が担っているのだろうか。そのときは誰がまだ生きていて、俳句という短い形式に深い認識を込めつづけているのだろうか。今の俳壇もすでに穏健な日常詠が支配するぬるま湯の世界といった感があるが、澤田くんが離脱してしまった以上、将来はまさに冷めた湯のごときかな。わたし自身、自分がよぼよぼになっている数十年後の俳壇など想像もできないが、澤田くんを失ったことで未来の俳壇がつまらなくなってしまったことは間違いない。

[評論家として]

俳論も開花する寸前だった感がある。

彼は同世代の中では元々(あ、同じ重ね言葉をまたもや使ってしまった!)文章が巧かった。わたしとは雲泥の差。「天為」20周年記念作品コンクールの随想部門で第一席を、俳人協会のコンテストでも第1回新鋭評論賞準賞を獲っているし、太宰治の『女生徒』が大好きなわたしのために、そして「美少女の美術史」展で塚原重義監督による『女生徒』のアニメを一緒に観た記念に、「女生徒」風の文章をフェイスブックに載せてくれたこともあった。

俳論は、愛する寺山修司論や俳句仲間たちの句集評が主だったが、「『ミヤコ ホテル』を読む」
「胡散臭い日本の私」といった面白い文章も「週刊俳句」に遺している。ありきたりのコメントだが、もっと読みたかった、それに尽きる。

[句友として]

いきなり死にやがって、ばかやろー
あやまってもゆるさんぞ
今回ばかりは、福助のようにおじぎしてもゆるさんぞ
おまえさんが死にたくなかったのはよくわかる
おまえさんは死が好きだったけど、死を本当におそれていた
もっともっと生きたかった、もっともっと生きていたかった、ぜんぜん死にたくなかった
でも、死がおまえさんのことを好きだったんだ。死がこっそりおまえさんにすり寄ってきて、キスして、放さなかったんだ
死みてえなやつと何でキスしてしまったんだ、こんちきしょー
あいつは巨乳でもないし、そもそもあいつはいつも浮気していてひとの命を盗んでく
洒落のようだけど、死じゃなくて詩なら良かったのに 
おまえさんはいい人間でいろんな輩から好かれていた。おまえさんが思っていた以上に
みんなみんな、おまえさんのことが好きだった。おまえさんが思っていた以上に
ああ、おまえさんも死んでみて気付いただろう
自分の人気ぶりに、自分のばかぶりに、自分の他人行儀ぶりに
おまえさんは死を恐れていればよかったのに、人ばかり恐れていた
でも、みんなみんな、おまえさんには帰ってきてほしいと思ってる
とはいっても、いま帰ってくるなよ
そして誰も連れて行くなよ
どうせいつの日かみんなそこに行って句会をするんだ
そしたらゆるしてやるよ
ほんとにばかやろー、だ

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