2015-05-24

【澤田和弥さん追悼】和弥くんが亡くなった 金子敦

澤田和弥さん追悼
和弥くんが亡くなった

金子敦


澤田和弥さんのことを、僕はいつも、和弥くんと呼んでいた。

初めて知り合ったきっかけは、「週刊俳句」である。それは、2007年10月28日号に掲載された、角川俳句賞の落選展。僕の作品は、「チェシャ猫」というタイトルの50句。

http://weekly-haiku.blogspot.jp/2007/10/blog-post_3407.html

このコメント欄に登場している、さわDさんが和弥くんである。この拙い句群に対して、「一読して心地よい戦慄が全身に流れました。体内に電流を感じました」と、身に余るようなお褒めの言葉をいただいた。

その後すぐに、和弥くんからメールを頂き、急速に親しくなった。和弥くんはいつも、「敦さんの俳句を読むと、とても心が癒されます」と言ってくれた。

お互いに、精神的疾患を持つ身として、心から通じ合うものがあったのだろう。何が原因だったか。どんなふうに発病したか。病院には通っているか。医師の対応はどうか。どんな薬を飲んでいるか。などなど、事細かく語り合った。健常者相手には、とても出来ない話である。

僕は、「パニック障害」という不安神経症である。

パニック発作を怖れるあまり、様々な症状を引き起こす。その一例として、電車に乗ってドアが閉まる瞬間に、息が詰まって窒息しそうになる。本当に死ぬかと思うくらい苦しいのだ。この症状を健常者に話すと、「何を大袈裟な!」と言って、鼻で笑われるのがオチだった。「そんなのは、単なる気のせいだ!」とか「意気地なし!」とか、何度も言われ、何度も悲しい思いをした。

そういう僕の思いを、和弥くんはきちんと理解して接してくれた。僕は、何もかも包み隠さず話せる友が出来たようで、とても嬉しかった。僕のこれからの人生において、「心の支え」になってくれるような気がした。

2013年7月に、和弥くんの第一句集『革命前夜』が上梓された。

数々の秀句が収められているのは言うまでもないが、僕が一番驚いたのは、寺山修司の忌日俳句だけを纏めて、一つの章して収録していることである。第一句集の場合は、色々と制約が多いので、このような大胆なことはなかなか出来ない。何としてでも、修司忌の章を入れたい為、かなり自己主張を通したのではないかと思われる。そのことだけでも、彼の信念の強さと、ひたすらな純真さが伺える。

この句集のあとがきには、「これが僕です。僕のすべてです。これが澤田和弥です」という一文がある。まさしく、その通りだと思った。僕は、お礼の手紙と共に、僕の第四句集『乗船券』を送った。

すぐさま、和弥くんは『乗船券』の句集評を書いてくれた。それは、「週刊俳句」2014年2月16日号に掲載されている。

http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/02/blog-post_15.html

この句集評は、和弥くん自身の体験に基づいて書かれた、とても深い鑑賞文だった。ここまで深く踏み込んだ文章を発表するのは、和弥くん自身にとっても、かなり辛かったのではないだろうかと思う。涙が出た。涙が溢れて止まらなかった。

その日の午後、和弥くんから電話がかかってきた。
「少し深入りし過ぎた鑑賞でした。ごめんなさい・・・」
 「そんなこと無いって! こんなに深く鑑賞してもらったのは初めてだから、とても嬉しいよ!」
 「敦さんの心を、傷つけてしまったのではないかと心配で、電話してしまいました」
「傷つくどころか、むしろ大感激しているよ!本当にどうもありがとう!」
 「そうですか。よかったです。それを聞いてほっと安心しました」

和弥くんは、そういう細やかな心配りの出来る、とても優しい人だった。

そんな或る日、「敦さんが、電車に乗ることが怖いようでしたら、僕の方から逢いに行きます!」というメールが届き、わざわざ浜松から大船まで来てくれた。

改札口を出てきた彼の姿を見て、僕は驚いた。なんと、和弥くんは松葉杖を使って歩いて来たのである。精神疾患の影響で、足が痺れたような状態になり、思うように動かすことが出来ないと言っていた。松葉杖を使ってまで、わざわざ逢いに来てくれたことに感激して、僕は思わず涙ぐんでしまった。

その日は、カラオケ店に直行して歌いまくった。

何曲目だっただろうか。突然、和弥くんの顔つきが変わり、何かに挑むような鋭い眼差しになった。その曲は、桑田佳祐の「真夜中のダンディー」である。おそらく、この曲の歌詞のどこかに、琴線に触れるものがあったのだろう。心のこもった、素晴らしい歌唱だった。音程が正確であるとか、そういう問題では無く、本当の「魂の叫び」であるように感じられた。

カラオケ店を出て、僕が「真夜中のダンディー、情感がこもっていて、とてもよかったよ!」と言ったら、少し照れたように笑っていた。

その後、居酒屋で一緒に酒を飲んで、俳句の話で盛り上がった。

和弥くんの、俳句に対する情熱に、僕はただ圧倒されるばかりだった。結社のことについて、色々と話している途中、酔いが醒めたかのように、和弥くんの眼差しが真剣になった。

「今度、『のいず』という俳句同人誌を出します! 敦さんも、参加していただけませんか?」と誘われた。「もちろんOKだよ!」と、即答したのは言うまでもない。

『のいず』の発行について語る和弥くんの眼は、きらきらと輝いていた。それはまるで、何億光年も輝き続ける星が宿っているようだった。

居酒屋を出て、「また一緒にカラオケしましょう!」と言いつつ、固い握手を交わした。

2回目に逢った時、和弥くんは松葉杖無しで普通に歩いていた。病気が好転している証拠である。僕はとても嬉しかった。このまま順調に、病気が回復すると思っていた。その時、僕の第三句集『冬夕焼』をプレゼントした。彼のとても喜んだ顔が、今でも忘れられない。「どうもありがとうございます! 本当に嬉しいです! この次は、この句集評を書かせていただきます!」とまで言ってくれた。

だが、2015年2月頃、「体調が悪いため、しばらくフェイスブックをお休みします」という書き込みがあってから、ぷっつりと音信が途絶えてしまった。

僕はとても心配で、何回か電話をかけたのだが、一回も繋がらなかった。後から聞いた話によると、医師の指示により、インターネットや電話は一切禁止されていたらしい。せめて、一度でも話をすることが出来ていたらと思うと、本当に口惜しい。無念である。

この殺伐とした世の中で、和弥くんのような純真な人間は、どんなにか生きづらかったことだろう。けれども、どんなに辛くても、もっともっと、長生きして欲しかった。『のいず』の発行を、もっともっと続けて欲しかった。和弥くんはこの世を去ってしまったけれど、僕はこの世に生き残って、これからも「癒される俳句」を詠み続けていきたいと思う。それが、和弥くんに対する供養になるような気がしている。

澤田和弥様のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。合掌。

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