2015-05-24

【澤田和弥さん追悼】 ごめんね 上田信治

澤田和弥さん追悼
ごめんね

上田信治


水泳帽よりちくちくと毛が飛び出す 2007

毛深い人だった。手の甲や二の腕に手強い毛が生えていて、張りのある胸乳やお腹には、それどころではなく黒い毛が渦巻いているという噂だった。眉毛もまつげも濃いのだった。濃いまつげに囲まれた瞳はいつもうるんでいるのだった。

太宰忌やびよんびよんとホッピング 2007

可笑しな人だった。人に笑われがちであることは受け入れ済みですという顔をしているのだった。書くものは自嘲ネタが多かった。××とか、△△とか、すぐそういうことを、mixiの日記などに書くのだが、その日記はあまりに大量で、むく犬が自分の皮を嚙んで狂い回っているようで、愛らしくも暑苦しいのだった。

そして何が何だか分からなくなって吐く言葉に哀しみがあって、それがいちばん美しいのだった。彼には太宰なども、わけが分からなすぎて「びよんびよん」飛んだ果てに地面にばったり倒れる仲間に見えていたに、違いないのだった。

右攻めしラガー左へ駆け抜ける 2008

高校では剣道部だったと聞いた。主将だったと聞いた気がする。体が良く動く人だったのか。何かと優れた人だったと聞いたような気がする。いや、それはよくある伝説の類だったか。

ぼくが会ったころ、澤田さんはもう、澤田さんだった。句会後こっそり今日は澤田さん調子悪かったのかなあと言うと、彼の口の悪い後輩は、澤田さんはいつもあんなですよ、と言うのだった。澤田さんは、ひどく不器用だった。というか、いつもわざと、失敗必須の書き方で書いているように見えた。

男娼の錆びたる毛抜き修司の忌 2007
水番の叔父と女体を語り尽くす 2008

ふつうに書けないからああ書くのだろうかと、失礼なことを思わないではなかったが、むしろたぶん、澤田さんは、無条件にめちゃくちゃに愛されたい人なのだった。まず第一歩としてそうでなければ、はじまらないのだった。人として、そんなむりな望みがあるか。

めちゃくちゃに愛されるために、よくできた俳句など書いていられないのは当然のことだった。澤田さんは、とても愛せないような自分を仮構して、まずそれを愛せと示すことが多いのだけれど、その、愛せなさ加減すらたいしたことなかったりすると、受け取る側は困るのだった。

でも、ときどき、すごく愛せる。

澤田さんが早稲田で百句出しの句会を企画したことがあって、櫂未知子さんとか神野紗希さんが来ていて、百句出しだから流して書いたような句も多かったけど、澤田さんのは、そりゃあもうひどかった。ほとんど下ネタで、片目で見ても澤田さんのって分かる。あんまりひどいんで「あらかじめバツつけて回しましょうか」と言ったら、みんな笑った。

ママ今日の松茸が大きすぎるよ 2010
爽籟や胸の谷間にボンジュール 2010

あははは。

澤田さん、懐かしいね。めっちゃ面白いじゃん。ひどいこと言ってごめんね。

喜びは風船を割ることばかり 2009

澤田さんが、いろんなことをちっともあきらめていなかったことは、みんなよく知っている。

澤田さんはいつもまわりの人のために尽くして、そしてふさわしく愛されたと思う。思うけれど、澤田さんはこの世でもっといい目を見たらよかったのに、と本当は、そう思う。

澤田さんはたいへんだった。本当にたいへんだったですね。

春の夜のカフェオレふうふうされ困る 2011
のどけさのなんとさびしき空の上 2011
春惜しむ振ればカラカラ鳴る缶と 2011
新緑の底に沈みし船のごと 2011
看板のどれもさびしき春なりけり 2013
さびしさの乳首をつまむ春の宵 2013
草原に映写機ひとつ修司の忌 2013
目つむれば風かすかなり花の雨 2014
カーテンよりわづかに春の雲拝む 2014
精神病んで杖つき歩く花ざかり 2014

もっと読みたかったですよ。

心から。

みんな、あなたの句がもっと読みたかったですよ。

ずんべらずんべらと冬の川に板 2008



引用はすべて週俳で読む「澤田和弥」から。

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