2015-07-19

短いクロニクル風に 曾根毅句集『花修』について 森澤程

短いクロニクル風に
曾根毅句集『花修』について

森澤 程



曾根さんの姿を、初めて見たのは、「花曜」の句会だった。格別に若く内省的な風貌は皆の注目を浴びた。その後まもなく彼は、鈴木六林男選の「花曜集」で頭角を現した。13年前のことである。その頃の忘れがたい句がある。

春隣心の地図は水浸し  「花曜」2002年8月号
麦の秋弾道はまだ確かなり  同
桜咲く全速力の馬鹿息子  同

この3句は、「花曜集」に初投句されたものだが、曾根さんは、すでにここで俳句と遣る瀬無いほどの出合いを果たしている。「地図」、「弾道」、「馬鹿息子」などの初々しい表情には、読者の積極的な読みを誘発する力があるのだ。

鶴二百三百五百戦争へ
稲田から暮れて八月十五日


鈴木六林男は、極限状況としての戦場体験を『荒天』一巻に収めた。曾根さんは、師である六林男からみれば、孫に当たる世代だ。「戦争」「八月十五日」は、明らかに六林男の経験したものとは違う。六林男は、「花曜集」で、この若い曾根さんの戦争の句について、「読書などの追体験を基調とした重厚」と評している。この両者の出会いは、興味深い。

冬銀河本日解剖調査拒否
くちびるを花びらとする溺死かな
快楽以後紙のコップと死が残り
いつまでも牛乳瓶や秋の風
木枯の何処まで行くも機関車なり


爾後、曾根さんは「花曜集」で、ナイーブな心性を背後に、言葉と物のあわいに立ち上がる像を、緊密な構成をもって模索してゆく。

鈴木六林男は、この曾根さんの資質を早くから見抜き、「あせらずに基礎づくりに専念した場合多くの人は、彼の重厚に瞠目するにちがいない」という言葉を寄せ、彼の広範な作句対象に対し「モノで情を陳べる方法、読者の読みに任せる作り方に、気づいた曾根君には未来がある」としている。

玉虫や思想のふちを這いまわり

この句が、句会に出句されとき、私は、30歳前の青年の「思想」に対するデンとした落ち着きぶりに戸惑った覚えがある。出来すぎという感じもした。

しかし、最晩年の六林男は「花曜集」の選後随想で、「玉虫も思考も同時進行の形で作者を悩ませている。出来そうでできない思想構成。それにからみついてくる玉虫なる存在。俳句は深い形式である」という感嘆とも溜息ともつかぬ思いを吐露している。

この句を発表し、まもなく曾根さんは「花曜集」の巻頭作家となり、「花曜」同人となった。ほどなく鈴木六林男の死、「花曜」終刊を迎え、彼は、「光芒」(久保純夫代表)に参加する。「光」章は、「光芒」時代の作品だ。

白菜に包まれてある虚空かな
阿の吽の口を見ている終戦日
敗戦日千年杉の夕焼けて
温暖な地球のつるべ落としかな
地球より硬くなりたき団子虫


俳句形式によってのみ、立ち現われてくる像を探り当てるのは、容易なことではない。これらの句には、初発のパワーとは一線を画し、形式のダイナミズムを修得しつつも、予定調和的な世界への傾斜も感じられる。修辞の巧みさがそう思わせるのだろう。この頃の曾根さんにとって、俳句形式は、両刃の刃となっていたのではないか。両刃の刃とは、捉まえたと思った途端、逃がれてしまうもの、というほどの意味である。

「光芒」は10号で終刊、「ロータス」に参加し、曾根さんは東日本大震災に遭遇した。このときの体験を対象とした句群は、「芝不器男俳句新人賞」を受賞し、世評にのぼる。この経緯は、曾根さんの俳句の歩みの確かさにおいて、当然とも言える帰結だろう。しかし、世評とは別に、私は、この句群に先行する鈴木六林男の試みを思い出し、感慨深かった。

桐一葉ここにもマイクロシーベルト
燃え残るプルトニウムと傘の骨
風花の我も陥没地帯かな
放射状の入り江に満ちしセシウムか
布団より放射性物質眺めおり


これら、『花修』の句群に対し、以下は、六林男の句集『王国』、「芳香族」章の句である。

氷雨の夜こんなところに芳香族
凍る夜の塩化眠らぬエチルやビニル
三寒の近づいてくる硫化水素
悪の如し純水・工業用水・飲料水
緊急時用超低硫黄重油槽雪烏


両者の句群に共通する目に見えない物質。六林男の句の対象は、石油化学コンビナートにある。これに対し曾根さんの句は、原発事故の実際の体験上に生まれた。

《海であったところー粗い国土の上に建設された石油化学コンビナート そこには住民の干渉を拒否する聖域がある》

この、六林男の「芳香族」章の前書の「聖域」は、今回の原発事故後の光景にかさなる側面がある。そして、曾根さんの句の、目に見えない物質の現実的な脅威から生まれる像は、六林男の表現意識を止揚しつつ、リアルである。

大震災、津波、原発事故を図らずも体験させられた曾根毅、戦争、戦場を図らずも体験させられた鈴木六林男。俳句形式における、両者の時を超えた出会いの深さと不思議さを思う。

雪解星ふっと目を開く胎児かな
夏の蝶沈む力を残したる
化野に白詰草を教わりし
原発の湾に真向い卵飲む


ストレートで曇りのない像は、曾根さんの俳句の特徴だ。そして、茫洋とした明度のある句の世界には、読み手の触手が伸びていく余地がある。一方的に読ませようとする俳句ではない。逆に、読者を一句の現場へと引き込む。ここに感じられるイロニー、含羞、批評性などは、曾根さんの俳句の大きな魅力だ。

最後に、『風姿花伝』の「花修」を、タイトルにした曾根さんの心意気を頼もしく思う。
《この條々、心ざしの藝人より外は、一見をも許すべからず。》

「花修」の最後に置かれた世阿弥の言葉である。

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