2015-09-06

自由律俳句を読む 108 「尾崎放哉・種田山頭火」を読む〔2〕

自由律俳句を読む 108
「尾崎放哉・種田山頭火」を読む〔2〕

畠 働猫


すばらしい乳房だ蚊が居る  尾崎放哉

ちんぽこもおそそも湧いてあふれる湯  種田山頭火

テレビやツイッターなどを眺めていると「すべての男は(ときに女も)みなおっぱいを好む」という意見が一般論として語られることが多いように思う。
私はそうした風潮には違和感を覚える。
自分自身はそこまで思い入れはなく、あれば揉む程度で、なければないで特に困ることはない。
性癖や嗜好は人それぞれであるはずだ。
そうした性的な話は、インターネットの普及によって匿名性を得た個人により、オープンに語られるようになったように思う。
ネット以外のマスメディアが自主規制によって閉塞状況に陥っているのと、ちょうど反対方向である点がおもしろい。
ただ、上記のおっぱいに対する一般論や、フェチだのSだMだの話はいかにも表層的でステレオタイプであり、今や食傷気味な話題とも言える。
「性」とは、もっと根源的なものであり、人間存在の根本にかかわる問題であろうと思う。
男はみんなマザコンであるとか、おっぱいが好きであるとか、そういったステレオタイプな理解に留まっていては、その深淵にたどり着くことはできまい。

さて、前回に続き、尾崎放哉と種田山頭火の句を鑑賞する。
先に二者の「孤独」について取り上げたが、今回は「性」について触れてみたい。

冒頭に上げた二句は、それぞれに佳句である。
また、それぞれの特徴がよく表れているようにも思う。

放哉の「乳房」へのこだわりは、たびたび句に表れる。
以下にいくつか紹介する。


女乞食の大きな乳房かな  尾崎放哉

『層雲』への投稿を始めた時期、すなわち自由律俳句を作り始めた時期の作である。
ついそこに目が行ってしまう若さと正直さがおもしろい。
物乞いの貧しさとそれに不釣り合いな豊満さへの違和感を詠んだものかもしれないが、何を言ったところで言い訳にしかなるまい。


以下三句はすべて小豆島での作。晩年である。

すばらしい乳房だ蚊が居る  尾崎放哉

冒頭にも取り上げた。乳房句の中でも白眉である。
「女乞食」の乳房から目が離せなかった若さはもうここにはない。
「蚊」の存在に集中は削がれ、視点が移動してしまう。
大きな変化と言えよう。
ただ、その「蚊」の発見までその目は、じっと乳房を見つめていたのだ。
人は簡単に変わることなどできないのである。


波へ乳の辺まではいつて女よ
  尾崎放哉

女性讃歌である。美しい情景である。
そしてその美しさはやはり乳房への視線によって発見されるのである。


お椀を伏せたやうな乳房むくむくもり上る白雲  尾崎放哉

形についてのこだわりにフェティシズムを感じる。
最晩年の作であることも考えれば、乳房や白い雲に生への憧憬が込められているともとれる。



一方、山頭火にも「乳房」を詠んだ句がいくつかある。
しかしそのほとんどが牛の乳房や授乳の様子であり、放哉のような情熱はそこにはない。

秋暑いをんなだが乳房もあらはに  種田山頭火

日だまりの牛の乳房  種田山頭火

ごくごくおっぱい おいしからう  種田山頭火

どうも山頭火にとって、「乳房」は魅力的な句材ではなかったようだ。
上にあげた三句もけしてよい出来ではない。
では、山頭火の性的な関心(あくまで句材として、だが)はどこにあったのか。


ちんぽこもおそそも湧いてあふれる湯  種田山頭火

冒頭にあげた句である。
混浴の露天風呂を詠んだものであろう。
実に牧歌的であり、美しく楽しい情景である。
神話のようなおおらかな性がここには描かれている。
この、性へのおおらかさが山頭火の特徴と言えるだろう。
放哉のようなこだわりは存在しない。
湯の上に見えるであろう乳房などは眼中になく、湯の中で見えない部分が、どれもこれも同じように湧いているわい、とユーモラスに詠む。
「あふれる湯」が、豊かさや幸福な様子を表現している。
また、「ちんぽこ」「おそそ」といった幼児語・俗語が実に効果的に作用している。

おおらかさとこだわりのなさは、山頭火の世間的なイメージとも合っているように思う。しかし、山頭火には放哉における「乳房」のような性的関心(句材として)の対象は本当に無かったのだろうか。

霜へちんぽこからいさましく  種田山頭火

幼児性とも言える無邪気さである。
寒い日の外出に、一番前に出っ張っている部分を詠んだものか。
それとも冬の日の露天風呂への突入であろうか。
いずれにせよユーモラスで、生きる力にあふれている。
谷川俊太郎に「男の子のマーチ」という詩があるが、まさにこの句もマーチであろう。ちんぽこの行進である。

山頭火はこのようにいくつかの句で「ちんぽこ」を詠んでいる。
「おそそ」を詠んだ句は、すでにあげた温泉を詠んだ句(とその推敲句)以外にはない。
山頭火の句材としての性的関心は「ちんぽこ」にあったと言えるのではないか。

山頭火に関する論考で、彼に同性愛の気質があったとするものを目にしたことがあるが、なるほど肯けなくもない。ただそれは性愛というよりも人間そのものへの愛情(あるいは依存と言った方が適当かもしれない)であろうかと思う。
放哉が「乳房」という、「自分にはないもの」を求めたのに対し、山頭火は「ちんぽこ」という、「あるがままの自分」を見つめていたのではないか。

放哉がその晩年を海のそばで過ごしたことと、山頭火が好んで山中を旅したこととも関連性があるかもしれない。
母なる海、父なる山。
放哉が追い求めたのは母性であり、山頭火が見出そうとしたのは父性であった、とも言えるのではないか。
山頭火が幼くして母を亡くしている点もこのことと関わりがあろうかと思う。


*     *     *


芸術、ことに「美」の追求については、人類が種として取り組んでいる試行錯誤と言えるだろう。
今回取り上げたような性に関する分野は、芸術とは切っても切れないものである。性が人間存在の根源的なものである以上、人間の美しさを表現する芸術においてそれらは無視することのできないものだ。
しかし同時に、性は抑圧や禁忌の対象ともされてきた。
自分も保守的な性格であるので、性をあまりおおっぴらに語るのは好まない。
とは言え、表現とはあらゆる抑圧や禁忌から自由であるべきであるとも考えている。
現在、短歌や詩の世界では、かなり赤裸々に性が詠われているように見える。
個人的な好みは置いて、試行錯誤の段階として見るならば、どんどん実験に取り組んでほしいと思う。
自由律俳句においては、この分野の開拓は未だ十分には進んでいないように思う。すなわちそこには、試行錯誤の余地が大きく残されているということだ。
自由律の句友に小澤温(おざわ はる)や吉村一音(よしむら いちおん)がある。
温は性的な語を句にしばしば詠み込む。
また、一音の詠み込む「性」は非常に趣深いものだ。
ともに今後の自由律俳句の世界を広げていく開拓者と言えるだろう。いずれこの記事でも取り上げたいと思う。


次回の予定は、「尾崎放哉・種田山頭火」を読む〔3〕。
二者の句を例にとり、今度は「名句の条件」について考えてみたい。

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