2015-09-20

自由律俳句を読む 109 「尾崎放哉・種田山頭火」を読む〔3〕

自由律俳句を読む 109
「尾崎放哉・種田山頭火」を読む〔3〕

畠 働猫



障子あけて置く海も暮れ切る  尾崎放哉
入れものが無い両手で受ける  尾崎放哉
墓のうらに廻る  尾崎放哉
肉がやせてくる太い骨である  尾崎放哉
春の山のうしろから烟が出だした  尾崎放哉

分け入っても分け入っても青い山  種田山頭火
うしろすがたのしぐれてゆくか  種田山頭火
秋風の石を拾ふ  種田山頭火
どうしようもないわたしが歩いている  種田山頭火
何を求める風の中ゆく  種田山頭火


前回に続いて、尾崎放哉と種田山頭火の句を鑑賞する。
3回目である今回は、すでに紹介済みの句以外も例として挙げ、「名句の条件」について考えてみたい。

とは言え、これもまた試行錯誤の一段階であり、慮外者の一考察としてご笑覧の上、お叱り等は勘弁願いたい。

私の考える「名句の条件」は、概ね以下の3点にまとめることができる。

①3つの要素(チャンク)でできていること
②各要素に割かれた音数が心地よく音楽性を持つこと
③3つの要素それぞれで(あるいは全体で)序破急が表現されていること

これら3点がなぜ「名句の条件」足り得るのか。
それは恐らく人間の「記憶」というシステムと関連している。

では、放哉・山頭火およびその他の作者の句を基にこれを検証してみよう。


①3つの要素(チャンク)でできていること。
 
前々回、「せきをしてもひとり(放哉)」の鑑賞文でも少し触れているが、自分が鑑賞の際、また作句の際に特に意識するのがこの「3つの要素でできていること」である。

「要素」とは、品詞に関わらず、ひとかたまりの意味を持つ語句のことである。
これを認知心理学の用語に倣い「チャンク(意味をもったかたまり)」とする。
せきをしてもひとり」をチャンクに分解すると、次のようになる。

「せきを【行為】」・「しても【逆接】」・「ひとり【状態】」

要素が2つ以下の場合には物足りなさを感じるし、3つ以上になれば多すぎる。
これは私が「句であるか否か」を判断する基準になっている。

自由律俳句においては、その長さによって短律(句)・長律(句)という分類をすることがあるが、そのどちらにもこの「3つの要素(チャンク)」という考え方を当てはめることができる。

短律としては、以前「又吉直樹を読む」の中で触れた大橋裸木の「陽へ病む」が例として相応しかろうと思う。

「陽【対象】」・「へ【指向】」・「病む【状態】」

わずか4音でありながら、意味のかたまりとして3つのチャンクで構成されていることがわかる。

対して、裸木の句を引いた又吉の記事中で挙げた「空吸う」(又吉直樹)については、どのように分けても2つのチャンクになってしまい、物足りない。句として不十分であるように感じるのである。

長律では浪漫派と呼ばれる平松星童の句を例としよう。

ラジオが生々しい海戦の模様を、日本の夜は満点の空」(平松星童)

「ラジオが生々しい海戦の模様を、【彼岸】」・「日本の夜は【此岸】」・「満点の空【状態】」

いわゆる長律と言われる長い句についてもこのように3つのチャンクに分けることができる。

前述したように、品詞による分解ではないため、何を「要素(チャンク)」と判定するか、については未だ悩ましい問題である。読む側のさじ加減のようにも思うし、まさにそこに説明不可能なセンスが表れるようにも思う。

そして、この3つの要素(チャンク)のうちいずれか(あるいは複数)に音数を割く必要があった場合に、長律句というものになるのだろう。
では次に、その音数に関わる条件について触れてみる。

②各要素に割かれた音数が心地よく音楽性を持つこと

要素(チャンク)で区切って読む際に、気持ちのいい音数が選択されていること。

具体的には3・5・7音が基本になるだろう。
基本の音数に±1音でかすかな破調を加えることもできる。

また、長律句に見られる基本の音数の組み合わせである、8(3+5)・10(3+7/5+5)・12(5+7)音にも心地よさがあるように思う。

「せきを【3】」・「しても【3】」・「ひとり【3】」(放哉)
「まつすぐな【5】」・「道で【3】」・「さびしい【4】」(山頭火)

先ほど例とした短律句・長律句について見てみると、

「陽【1】」・「へ【1】」・「病む【2】」

「ラジオが生々しい海戦の模様を、【19+読点】」・「日本の夜は【7】」・「満点の空【7】」

どちらも基本の音数を大きく逸脱している。
中でも「陽へ病む」については、音楽性は乏しいと感じる。
しかし、音楽性を排する音楽がここにはあるようにも思う。既存の音楽性からの脱却、革新の意志を感じるのである。

星童の句については、初句の【19+読点】という逸脱が激しい。
しかしその後【7】【7】の基本音数で受けていることから、初句を一気呵成に読ませ、あとに続く二句・結句でゆったりと受ける緩急を表現していることがわかる。読点の使用からもそれは明白である。こちらは、初句における大きな逸脱を持ちながら、全体として高い音楽性を有していると考えていいだろう。

「5・7・5」あるいは「5・7・5・7・7」といった定型の魅力は、この音楽性が常に担保されている点であろう。
それは強力な律である。

自由律俳句を詠む際も、音楽性を追求した結果、定型になることはままある。
自分の考え方では、定型は自由律の一部である。

定型を超える強力な律を追い求めることには意味があるが、心地よい音数を選択していって定型になったのであれば、それはそれであるべき姿なのだろう。「575では自由律ではない」と、音楽性を捨てて推敲するのは本末転倒であるように思うし、不自由が過ぎる。

最後に、内容の上での条件について述べたい。

③3つの要素それぞれで(あるいは全体で)序破急が表現されていること

これはつまり、その句に物語性があるか、ということである。

序「せきを【行為】」
破「しても【逆接】」
急「ひとり【状態】」

たったの9音で構成された物語がここにはある。

序「ラジオが生々しい海戦の模様を、【彼岸】」
破「日本の夜は【此岸】」
急「満点の空【状態】」

星童の句は、この序破急が非常にわかりやすく表現されている。
物語性が高いということである。浪漫派という呼ばれ方もそこに起因するのであろう。

全体としての序破急とは、例えば裸木の「陽へ病む」などが挙げられよう。
本来、太陽は生命の象徴であろうし、そこに向かって病むということは常態ではない。つまり「陽へ病む」は全体として「破」であるということである。その前後の「序」と「急」は省略され、読む者に委ねられているのだと言える。

以上の3点を、冒頭で挙げた放哉と山頭火の10句に当てはめてみる。

障子あけて置く海も暮れ切る  尾崎放哉
序「障子あけて置く【行為】」   8音
破「海も【視点の移動】」     3音
急「暮れ切る【状態】」      4音

入れものが無い両手で受ける  尾崎放哉
序「入れものが【対象】」     5音
破「無い【状態】」        2音
急「両手で受ける【行為】」    7音

墓のうらに廻る  尾崎放哉
序「墓の【対象】」         3音
破「うらに【指向】」        3音
急「廻る【行為】」         3音

肉がやせてくる太い骨である  尾崎放哉
序「肉がやせてくる【状態】」    8音
破「太い【評価】」         3音
急「骨である【対象】」       5音

春の山のうしろから烟が出だした  尾崎放哉
序「春の山の【対象】」       6音
破「うしろから【方向】」      5音
急「烟が出だした【状態】」     8音

分け入っても分け入っても青い山  種田山頭火
序「分け入っても【行為】」     6音
破「分け入っても【繰り返しの行為】」6音
急「青い山【状態・評価】」     5音

うしろすがたのしぐれてゆくか  種田山頭火
序「うしろすがたの【対象】」    7音
破「しぐれて【状態】」       4音
急「ゆくか【行為・問いかけ】」   3音

秋風の石を拾ふ  種田山頭火
序「秋風の【状況】」        5音
破「石を【対象】」         3音
急「拾ふ【行為】」         3音

どうしようもないわたしが歩いている  種田山頭火
序「どうしようもない【評価】」    8音
破「わたしが【対象】」        4音
急「歩いている【行為・状態】」    6音

何を求める風の中ゆく  種田山頭火
序「何を求める【意思・疑問】」    7音
破「風の中【状況・指向】」      5音
急「ゆく【行為・決意】」       2音

*     *     *

今回挙げた3点が「名句の条件」となり得る理由として、私は人間の記憶というシステムが関連しているのではないかと推測する。

まず「名句」とは何か、という定義が必要となる。
それは「人の心をとらえて離さない」ことであろう。
放哉の「せきをしてもひとり」が長く私の心をとらえて離さないように。
そして、「とらえて離さない」とは、「長く記憶される」ということに他ならない。

人間の記憶は「短期記憶」と「長期記憶」に分類される。
短期記憶とは、文字通り短期間保持される記憶のことであり、長期記憶はほとんど失われることのない記憶である。

人間は与えられた情報をまず短期記憶の引き出しに格納する。
心理学者ジョージ・ミラーによると、その際処理できる分量は、7±2のチャンクであるという。

例えば、羅列された数字の暗記を試みてみるとわかりやすい。
「86521」「2548579」「689245178」
5桁、7桁、9桁の数字をランダムに並べた。
年齢のせいもあろうが、私自身は7桁あたりからかなりあやしくなってくる。
しかし、次のような数列であればどうだろうか。
「197550201527」
12桁の数字である。しかしそこに意味を見出し、チャンクに分けてみる。
「1975」「50」「2015」「27」
(西暦2015年・昭和50年・西暦2015年・平成27年)
12桁を記憶できなくとも、こうして4つのチャンクに分けることで記憶が容易になる。

こうして短期記憶に格納された情報の一部は、その後「意味記憶」「エピソード記憶」「手続き記憶」といった長期記憶に移行する。

ここで「名句の条件」に話を戻す。

①3つの要素(チャンク)でできていること
これにより、短期記憶へ容易に格納されることになる。

②各要素に割かれた音数が心地よく音楽性を持つこと
③3つの要素それぞれで(あるいは全体で)序破急が表現されていること
②と③の音楽性や物語性は、それぞれ、意味記憶やエピソード記憶、手続き記憶として短期記憶から長期記憶へと移行させる条件となっている。

以上のことから、3つの条件を満たすことで、長く人の心をとらえて離さない名句となり得ると言えるだろう。

ただし今回の記事の冒頭で述べたように、これもまた試案、仮説であり、無限の試行錯誤の一プロセスに過ぎない。

「美」というものの追求、すなわち芸術とは、人類という種全体で取り組んでいる試行錯誤である。

俳句・短歌においては、定型によってその試行錯誤の方向性が定まっているように思う。そのため、効率的に「名句・名歌」が生み出されているのだろう。

しかし、自由律俳句においては、自由であるがゆえ、試行錯誤に方向性がない。先人の試行をうまく生かせていないのが現状ではないだろうか。

歌人の高野公彦氏がその著の中で、短歌の定型を「ゆったり流れる一本の川」、句割れ、句またがりを用いた歌を「水面に大岩の突き出た川」「水勢は屈曲」「鋭い複雑な流れ」と川に擬えている。

それに倣って自由律を語るならば、詠者・読者ともにそれぞれの川を持っているのだと言える。それらは非常に主観的なものであり、それぞれの「好み」の流れであると言ってもよいだろう。

春の小川を好む者もいれば、激流を好む者もいる。あえて流れない者もいるだろうし、美しさとは程遠いどぶ川を好んで浚う者もいる。

そのどれとして同じ流れはなく、それゆえに自由律俳句には孤独や孤高がつきまとうのだ。

自由律俳句における名句を生み出すためには、そうした各人の試行錯誤を共有する必要がある。

現在ある結社や集団を越えて横断的に。
過去から未来へ縦断的に。

孤独や孤高の流れをつなぐものは、水や空気のように普遍的なものでなくてはならない。

そうした場や器こそが「名句(誕生)の条件」となるのかもしれない。


*     *     *


もう一つ、「名句の条件」として欠かせないものと考えていたものに「末期の眼」がある。

(ただし、次回詳しく述べたいと考えているが、一般的に解釈されている意味、すなわち「死を覚悟した者の眼」という意味ではない。)

私にとって「末期の眼」こそが美を発見するために至るべき境地であり、それを持ち得ることが「名句を生み出す才能」なのであろうと確信していた。

しかし、そうではない人物に出会ってしまい、それは揺らいでいる。
私は彼の視点を「末期の眼」と対比して「原始の眼」と名付けた。



次回は、「原始の眼」を持つ俳人「中筋祖啓」を読む〔1〕。

参考:「定型があってこそおもしろい」高野公彦

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