「ku+2号」付録 「(略称)俳句界map」 を、読みほどく(1)
上田信治
「ku+2号」に掲載の「平成二十六年俳諧國之概略」(以下「俳句界map」)は、現代を代表する俳人120余人の、俳句の現在におけるポジションを、マッピングしたものです。
西原天気さんに「ku+」のそれは《統治の欲望》である、というヒヤッとくる評言をいただきまして(「欲望」というワーディングが天気さんのとりわけ上手いところ、人の悪いところなわけですが)、たしかに、地図化とは、それ自体、たいへんな「上から目線」であることに間違いはない。
たしかに、私たちは、たなごころを指すように俳句の現在を見通す、ということを目指しましたね。そして、その景色を、視座を、双眼鏡をお貸しするように、人に手渡したいと思った。
いつもと同様のおせっかいですが、それは《統治》の《欲望》だったのかもしれませんね。二重山カッコついてるから、むずかしい意味だし、たぶん。
ええ。たしかに。
いま「上から目線」必要だと思うんですよ。
この世界、エライ先生や上からモノを言う人は沢山いるわけですが、その先生がたを「上から」見る視点がないと、その人たちの存在の意味は見えないわけじゃないですか。
ちょっと気球にでも乗れば、ずいぶん先まで見えるはずです。 つまり、目線を上げれば、未来が見える。
というわけで。
今回こちらでは、俳人名の入らない白地図をもとに、私たち「ku+」の一部男性メンバーが、俳句の現在を「上から」見たら、どう見えたか──ということを、概説していきたいと思います。
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図1
この「(略称)俳句界map」、まず、同号の特集「正岡子規ネオ」の一文「正岡子規ネオとしてのワタシ ワタシなき合ワタシ性」において山田耕司さんが提出した、俳句の現在に三つの「主義」があるとの見立てが、ありまして。
それを、上田が図式化し、高山れおな、山田耕司、上田信治、古脇語(ku+の覆面メンバーです)が、座談会形式で、地図のディテール、解釈、各俳人のポジションニング等を、検討したものです。
いろいろ失礼感とかやっちゃった感のある項目が目を引くことと思いますが、まずは、三つの「主義」による、分割について説明します。
図2
山田耕司さんは、いわゆる「前衛」の嫡流に属するといってもいいような人ですから、「前衛」「伝統」の二分割図式の非生産性については、熟知しています。
山田さんは、そこでまず、いまの俳句を三つに分けました。二つ「ではなく」三つに分けることに意味があったのだと、自分は解釈しています。二つは対立し、排除し合いますけど、三は三すくみで、蛇のシッポ呑みが作れる。
この三分割の概念を、上田の解釈で申します。
まずは旧来の「前衛」「伝統」の二項対立を、俳句を疑いつづける「原理主義」と、そこは問わない「伝統主義」、という二つに置き換えます。
そして、その二つの対立軸とねじれの位置にある(つまり、その対立に関わることのない)グループが、前衛でも伝統でもない、自己表現としての俳句を書いていることを発見し、それを「ロマン主義」と命名します。
図の三箇所にあるオレンジ色の楕円の「俳句は変わらない」「俳句とは?」「自分の俳句」が、それぞれ、「伝統」「原理」「ロマン」の三つの思潮の、中心的言明に当たります。
中心的言明は、耳を澄ませてみれば、その人たちが心の中でつぶやいていることくらいの意味で言ってます。
それぞれの人が「自分の俳句…」「自分の俳句…」「自分の俳句…」、「俳句は変わらない…」「俳句は変わらない…」、「俳句とは?…」「俳句とは?…」「俳句とは?…」と、つぶやき続けているように思われる、ということです。
あ、つまり、みなさん誰もが、自身の胸中のささやきに、素直に正直に、耳をすませていただければ、map上の三大陸の、皆さんがどこに位置されているかが分かります。
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さて。この三つの「主義」が他の二つの主義と、何を分けもち何をもたないかを見極めることによって、三つの主義を、三すくみにすることからが、上田の作業でした。
これは、ある種の「謎々」です。
「伝統主義」と「ロマン主義」にあって、「原理主義」にないものは、なーんだ? 答「大衆性」
「ロマン主義」と「原理主義」にあって、「伝統主義」にないものは、なーんだ? 答「新しさ」
「伝統主義」と「原理主義」にあって、「ロマン主義」にないものは、なーんだ? 答「専門性」
「大衆性」とは、ふつうの人が読んで感じるものがあることに、価値をおくということです。
「専門性」とは、俳句にとって価値があることに価値をおくということです。あるいは、プロ俳人だけが読んで価値があると感じることに、価値をおくということです。
「新しさ」とは、新しさに価値をおくということです(笑)。
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図1
ここで、はじめの図にもどります。
「伝統主義」のなかの「大衆性」薄めで「原理」よりのエリアには、「低廻派」と「高踏派」がいます。「低廻派」は(用語的には「低徊」でしたか)、近現代で言えば波多野爽波、「高踏派」は宇佐美魚目をイメージしています。より原理主義によりには橋閒石のような人がいる。「低徊」的な態度が「高踏」のやつしであったり、その逆であったりが可能で、両派には相通じるところがあります。
「伝統主義」のなかの「新しさ」や「原理」から最も遠く「大衆」よりのエリアには「分からないとダメ派」「品格派」が、マッピングされます。近現代の作家でイメージしてもらうのは、ちょっと難しいのですけれど、そうだなあ、虚子のある部分と言っておきましょうか。
「ロマン主義」のなかの「伝統」よりのエリアには「等身大派」がいます(「低廻派」と「等身大派」は、しばしばよく似ているのですが、よろこびの根拠がどうも違う)。ここは、もちろん細見綾子、星野立子ですね。こちらではあまり俳句の根源とか「原理」とかは、問われない。
「ロマン主義」のなかの「文学派」「Jpop派」は、俳句が、俳句のみを参照して書かれることを否定し、俳句外部の表現と同一の価値基準で成立することを志向します。それは「原理主義」と共通するところですが、「俳句は中味である」とする基本思想が、「原理」とは大きく分かれる。
「文学派」と「Jpop派」というのは本当に分けられるのか、それはいったい、いつの「Jpop」なのか。
……という問題については、自分への宿題にします(中味が「子ども」を含む「ワカモノ」である俳句が「Jpop派」。「青年」である俳句が「文学派」という分け方はどうかな…青年を文学内存在として定義できればいけるかも)。
もうひとつ宿題は、この図上に複数のポジションを持ったり、図上を動いたり駆け抜けていったりということの意味、あとこの貝の口のような回廊的な部分について、ですね。
なるべく次号で、そういうことは。
つづく
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俳人120余名をマッピングした「俳句界map」完全版掲載の「ku+2号」。
9月20日(日)から、通信販売、開始します。
紀伊國屋書店新宿本店2階でも、販売中です。
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