2015-09-13

名句に学び無し、 なんだこりゃこそ学びの宝庫(13) 今井聖

名句に学び無し、
なんだこりゃこそ学びの宝庫 (13)
今井 聖

 「街」107号より転載

夫愛すはうれん草の紅愛す 
岡本 眸(おかもと・ひとみ) 『朝』(1971)


なんだこりゃ。 

 ツマアイスホウレンソウノベニアイス

この句、眸さんの代表句の一つに挙げる人も多い。何度、どう読んでもこの句が代表句になる理由がわからない。

実は今回のなんだこりゃは富安風生の「まさをなる空より枝垂桜かな」にしようかと最初考えた。偶然だが風生は眸さんの師匠である。僕は風生のこの句の良さもまったくわからない。どちらにしようかと迷っていたのだが、この欄は本来僕が敬愛している俳人の失敗作を取り上げ、その俳人が無惨な試行を繰り返しながら如何に高みに向って行ったかを論ずるコーナーである。

敬愛の対象とならざる俳人はここに出してもしかたがない。愛の無い否定、つまりただ貶すだけのコーナーになってしまう。そこで眸さんの方にしたのである。

僕にとって風生はどうも一級の俳人とは言い難い。その点岡本眸はまぎれもなく一級である。

この句を評価する人は、対句の内容の比較が面白いと言う。夫を愛する気持と菠薐草の根に近い紅色の部分を好む気持を並列に置いている。この句には自註があるらしいが、そんなものに捉われることはない。自註に添って鑑賞するなど愚かなことである。

作者は四八歳のときに夫を亡くされている。この句の制作年のずっと後のことだが、鑑賞者の中にはそういう悲劇を念頭に置いて、妻が夫への愛を詠んだ句という思い入れをするむきもあるだろう。だがそういう思い入れは一句から直接受け取る感興とは別に論じるべきだろう。

坪内稔典さんはこの句について、両者を並列に置いて愛しているという解釈ではなく、夫が愛している菠薐草の紅を私も愛しているという解釈をされたらしいが、こちらはあり得ない。それなら「夫愛するはうれん草の紅愛す」と、動詞を連体形にしなければならない。

僕は、「夫愛す」という出だしがもういやだ。

この「夫愛す」は胸を張った宣言のような愛ではなくてちょっとおちゃらけた、あなたのそういうヘンな(地味な)ところが好きなのよという笑いのオチのようなニュアンスが狙いなのだが、どちらにしても夫を愛していることの宣言には間違いない。

「うちの人、ほんとに馬鹿なのよ」と言いながら夫との仲の良さを強調する幸せそうな奥さんを目にするのはいつもことである。

夫を愛してはいけないとか、愛情を基盤に置いての創作がいけないというのではない。どうぞいくらでも愛してください。ただ、「夫愛す」と読者に向って言い放つその神経を疑うのだ。反語的に言うのなら別だが。

そもそも「夫愛す」には社会的倫理観の肯定というか、「夫婦相和し」という啓蒙に対して従順に言いなりになるような態度が感じられる。

夫は働いて家族を支え、妻は子を育て家庭を守る。懸命に働くことは美徳でそういう夫を愛すると宣言する妻こそ国家推薦の「妻」である。そういうのがいやだなあ。

脇目もふらず働く夫とそういう夫を愛しているとおおらかに宣言する妻が家庭という最小単位の社会を維持していくことで結局誰が一番得をするのか。
得をするのは時の施政者、権力者以外に無い。

夫を愛し菠薐草の紅の部分に目を向けるのは家庭内の均衡や厨事にアタマを向けている「私」でございます。小国民としてはこれでいいのですと自ら宣言しているようなものだ。

 男愛すはうれん草の紅愛す

ならもう少し上の評価をあげてもいい。男なら「純粋」に性というものへの自分の欲求というか、肯定がうかがえる。それなら「夫」よりは自己の露出がある。

  退屈なガソリンガール柳の芽 風生
  ガーベラを挿し秘書の娘もホ句作る 風生

東大法科を出て官僚になり事務次官となって頂点を極めた師風生の視点は、中卒や高卒でガソリンガールとならざるを得なかった少女の屈折を思い描くことはできない。

秘書の娘が、自分の仕える上司の歓心を得たいためにホ句に興味をしめしたふりをしていることには、思いは至らないのである。否、わかっていてもそこに思いを致してはならないのである。

体制の秩序を安泰にすることが自らの使命であり義務でありそのためには文芸であろうとも時の倫理観の枠から外れないようにすることが第一。俳句もそれに沿って作らねばならない。そこを外れたら官僚という自らの立場が問われてくる。倫理や通念に外れたことは仮に思っても言えない。風生さんだって苦しかったのだ。

聖心女子学院に学んだ(二年で体調不良のため退学)眸さんの中にもそういう社会観、倫理観を肯定するところがあったから風生師を選んだとも言える。

しかし、眸さんには

  桃枯れてビルの奈落へ投げ込まる
  略奪の速さに過ぎて雪野汽車

のような秀吟がある。ことに二句目は昭和俳句という枠組みで見ても屈指の名句と思う。

おおらかで育ちが良くて当時としては珍しいオフィスレディであった作者が、「夫愛す」で古い男の求める女流像をきちんと示したあと、奈落へ投込まれる「私」や略奪される瞬間を描くに到る。

その過程と作品の幅に、昭和俳句屈指の女流の真実を見ることができる。

なんだこりゃこそ学びの宝庫。



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