2015-10-11

敏雄のコトバ(1)生駒大祐

敏雄のコトバ(1)

生駒大祐


取り合わせの片方が季語だとしますと、上手くいかない場合は「季語が動く」ということになりますが、いわゆる季題諷詠というものでは季語は動かない。逆に言うと、これはひとつの無季俳句なんです。

第10回現代俳句協会青年部シンポジウム
「対談 俳句の五〇年」鈴木六林男・三橋敏雄 司会:久保純夫
http://www.gendaihaiku.gr.jp/intro/part/seinen/archives/archive.htm

敏雄の言葉は新しい。たぶん、敏雄は言葉についてよく考える人だったのだろう。そんな気がする。

引用元は久保純夫を司会として鈴木六林男と共に行った対談であるが、少々極論めいた感じに一般的な俳句の言論のストライクゾーンから外にはずすことを狙っていることが見てとれる六林男に対して、敏雄はど真ん中のストライクを取りに行っているように見える。

ようは、全体を読むと至極まっとうなことを言っているように見える。至極まっとうなことを言って面白い、というのはとても貴重で、俳句にとって大切なことだと僕は思う。

冒頭の引用文について、敏雄は明確にその意図することについて説明してはいないけれど、季語が動く取り合わせの俳句が「有季俳句」で、季語が動かない一物の俳句は「無季俳句」だ、という指摘は面白い。

それは実感としては良く理解できて、取り合わせの俳句は、俳句が俳句として成り立つ過程で背負ってきた諸々の読みのルールを背負って初めて俳句としてなりたつ。

有季性(とでも呼ぶべきもの)がそのルールを指すならば、一物の俳句はそのルールから外れてもちゃんと俳句として成り立つ。

季語が、季語でなくモノとして働いている。それを無季俳句だと敏雄は呼ぶ。

僕はこの小さな連載で、敏雄のコトバの新しさについて少しでも光を当たられたら、と思う。そして、「新しい」ということの厳しさについても、話して行けたらいいと思う。


幽霊を季題と思ひ寝てしまふ 三橋敏雄『鷓鴣』



現代俳句協会青年部 第140~144回勉強会
「読み直す新興俳句 何が新しかったのか」全5回
第3回 11月1日(日)三橋敏雄
岸本尚毅  遠山陽子  山口優夢 (司会)生駒大祐
http://genhai-seinenbu.blogspot.jp/2015/10/1401445.html

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