俳句雑誌管見
「ふるさと」
堀下翔
初出:「里」2014.6(転載に当って加筆修正)
「澤」の俳句の文体は異様である。「澤」調と呼ばれているらしい。中七の切れ字「や」、下五の短いセンテンス、三段切れ。『澤』(2014.3)から引く。
箱河豚の背の四角の穴や焼きあがる 小澤實
消防のホース平たし地に伸びる 林雅樹
ファクスにて賀状来りぬすぐ返す 田中槐
キャリーバッグ杖の代はりや銀杏散る 浅川裕子
セーターにゴシック体やМの赤 豊田・ヌー
全体に切れが多い。一見すると切らないでよさそうなところも切る。断絶感が強く、一句読むたびに心がざわざわする。どうしてざわざわするのか、考えてみたい。
断絶感は、一つには切れの強さ自体が生むものである。豊田の句がわかりやすい。「セーターにゴシック体のМの赤」と言えばよいところを「や」で切る。「や」自体が大きく響くうえに、さらに、ふつう「の」だろうと思う読者への裏切りが加わる。そうして「や」の後ろにひろびろとした空白が生まれる。
もうひとつには、下五の短いセンテンス(池田澄子は『俳句』2013.11掲載の第59回角川俳句賞選考座談会でこれを「ダメ押し」と呼んでいる)の言い足りなさだろう。「焼きあがる」「地に伸びる」「すぐ返す」――いずれも主語や目的語が上五中七にあり、それが切れによって下五からは失われているため、欠けている感じがどこまでもついて回る。
断絶感のことを考えていたら、坂口安吾が文学の本質を断絶に見ていたことを思い出した。「文学のふるさと」において彼は、『赤頭巾』『鬼瓦』『芥川』などを例に挙げ、その唐突な幕引きを、こう評する。
私達はいきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いしながら、然し、思わず目を打たれて、プツンとちょん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を見ないでしょうか。(『堕落論・日本文化私観 他二十二篇』所収「文学のふるさと」岩波文庫/2008)ここでいう「ふるさと」は存在の原点のようなものだ。安吾の論はこのあと、自分たち人間の存在自体がむごたらしいものであるゆえに、突き放された文学と人間は、おなじ「ふるさと」にある、というふうに展開する。
「澤」の俳句を読んで胸がざわつくのも、その切れがもたらす断絶感に、荒漠たる「ふるさと」が見え隠れしているからかもしれない。
原始的なものには常に切実さが伴う。道具が必要に迫られて生まれるような切実さである。「ダメ押し」もまた切実である。上五中七で何か言って、切って、もうこれだけで充分な筈なのに、まだ言わねばならないことがある。
「澤」に限らない。俳句における切れが文学の「ふるさと」にごく近いところにあるのは確かだ。
湧水に寄れば音ある御慶かな 湯口昌彦 「汀」2014.4
湧き出すものに感じる存在。「かな」の後ろにはだんだんと水のたまってゆくような空間がある。俳人が切れ字に見た響きは、この空間である。ただしそれは、まだ誰もいない真っ白な場所ではなく、むしろ人間全員にとっての出発地点である。
安吾は書く。
このふるさとの意識・自覚のないところに文学があろうとは思われない。文学のモラルも、その社会性も、このふるさとの上に生育したものでなければ、私は決して信用しない。(同上)切れの後ろに隠されているのが「ふるさと」であるとしたら、俳句が世界最短の詩形であるという事実が、説得力をもって浮かび上がってくる。俳句という戻りようのないものを作るわれわれは、ふるさとに立っているがためにそのことにほとんど無自覚である。それがあるとき、作るときにでも読むときにでも、ふいにその「ふるさと」の存在を、感じる(筆者が「澤」を読んでざわざわしたように)。俳句をやっていてよかったな、と思うのは、おそらくこんなときである。
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