2016-02-28

自由律俳句を読む 127 「鉄塊」を読む〔13〕 畠働猫

自由律俳句を読む 127
「鉄塊」を読む13

畠 働猫


卒業の季節ですね。
「感傷にひたってばかりもいられない」(中筋祖啓)
というわけで、今回も「鉄塊」の句会に投句された作品を鑑賞する。
第十四回(20136月)から。
各句につけた当時の句会での自分の評も再掲する。
文頭に記号がある部分がそれである。
記号の意味は「◎ 特選」「○ 並選」「● 逆選」「△ 評のみ」。



◎第十四回鍛錬句会(20136月)より
空き家の窓の夜より暗く 小笠原玉虫
◎失われたものの持つ闇をよく表現している。夜の闇はいずれ朝にかき消されてしまうが、そこに生きた人々とともに何もかもが失われ、空っぽになってしまった空き家を包む闇は深く、悲しい。(働猫)


佳句である。
「夜より」の部分が作者の主観である。溢れ出る情感をぐっと抑制できたとき、玉虫は良句を生むように思う。
「暗く」のあとの感情が言い尽くされないことによって、読者はかえってその暗さを意識することになる。
そしていつのまにか、その孤独の闇の前に立たされているのだ。
そしてそれは他者の孤独。為す術のない闇である。
自分自身の闇には対処できたとしても、他者の闇の前では立ち尽くすほかに何もできない。この句ではそうした、単なる寂しさに留まらず、無力感や疎外感までが表現されている。

人身事故の駅何事もなく雨の夕暮 小笠原玉虫
△個人的な哀しみとは関係なく世界は回るのですね。(働猫)


「事故」といいながら、その多くは自殺なのだろう。
自殺に至る心の動き、痛み、悲しみは、本人にとっては世界の全てである。
また遺される者も大きな傷を一生背負うことになる。
しかし他者にとっては何の関係もない。それは人生の悲しい終焉でもなく、生涯背負う経験でもない。
作者はその何事もなさに違和を覚えるのだろう。いや、この日に限って、夕暮れに降った雨がSentimentalismeに影響しただけだったのかもしれない。

コレクションなぞ捨てちまおうか南風(はえ)強く吹く 小笠原玉虫
上記二句に比べると冗長に思う。南風という豊潤な語句も生きていない。

攻撃的ミッドフィルダーそれは僕ではなかったTVの中 シブヤTヒロ
自分も学生時代サッカーをやっていたので、このような心境はわからなくはない。ただこうした憧れや陶酔(投影?)に根差した感覚は自分にはないな。ない。

2ちゃんに書き込むというクレームに困っているのだ老店主は シブヤTヒロ
ネットの悪評はたやすく小さな店舗を廃業に追いやってしまうものだ。
句会当時は新鮮さのあった題材だったかもしれないが、今見ると老店主への同情しか起きない。

くたびれた枕カバーからいろいろと出てくる シブヤTヒロ
当時も今もこの句から感じるのは「汚さ」である。
自分が中年のせいか、「くたびれた枕カバー」は加齢臭にまみれた汚物でしかない。一刻も早く洗うべきだと思う。
こうした汚さを発見することも写生なのだろうが、どうせなら自分は美しいものが見たい。汚物の中にも美しさを見出すことはできる。そういう句がいい。
「蟲師」という漫画の「枕小路」という話では、枕に「夢野間」という蟲が寄生していた。こちらは悲しく美しい情景を描き出していた。

視界も定かでない目に梅雨晴れ 白川玄齋
「梅雨晴れ」の清々しさと対比して、自らの境遇を卑下したものか。

カフカに傍線を引いても忘れているテスト時 白川玄齋
学生時代、自分は専ら一夜漬けであったが、傍線やマーカーを引くということは一度もしなかった。そんな行為は記憶に何の影響もしない。覚えたければ書くのが一番いい。
したがって、この句の「引いても」という逆接にはさもありなんという感想を抱く。

先輩の背中をどやしつけた飲み会の翌日 白川玄齋
翌日ということは、酔いが醒めてからどやしつけたのだろうか、よくわからないな、と思っていたが、そうではなく飲み会でどやしつけてしまって、その翌日、ということなのですね。
相手の心情が気になってしまうのですね。なんだか初々しい感覚です。
こうした繊細さをもう私は失ってしまったのだろうな。
私は酔っても素面でも割と平気でどやしつける方です。

朧月に電車が着いた 天坂寝覚
△視点の移動が自然。(働猫)


「朧月」に心が動き、一句詠もうかとしたところに電車が着いてしまったのだろう。つまりこの句は、句に至らなかった状況を詠んだメタ句である。これが並の俳人であれば、朧月に執着し電車を見送ってしまうところであるが、さすが寝覚氏の諦めの早さである。朧月そのものではなく、その場の状況が焦点化されている。
のちに「朧月」が「おぼろ月」と本人により推敲されていることからも、ここでの「朧月」は動くもの、句の中心ではないものであるということがわかる。

いっしょのみちはみじかいゆうぐれ 天坂寝覚
△すべてひらがなで表現することによって、ありきたりな発見を、まるで幼い者の気づきであるかのように新鮮に見せている。しかしありきたりと言えばやはりありきたりかなあ。当たり前すぎるか。(働猫)


当時の句会においてこの句が最高得点句であった。参加者11人中5人が選にとっている。
私が求めるものは一般的ではないのだろうか。鉄塊参加者が一般的とも思えないが。

Fは鳴りませんでした十五歳 天坂寝覚
思春期の挫折か。ギターに限らず、楽器が弾けるとかっこいいですよね。
我々世代はBARBEEBOYSのコンタの影響で、ギターと同じくらいサックスの人気があった(と思う)。また、音楽室のシンバルがぐにゃぐにゃだったのは吉川晃司が悪い。

感傷にひたってばかりもいられない 中筋祖啓
●定型に収まっているが、句というにはあまりにもそのままというか、散文的というか、違和感を覚える。(働猫)


祖啓の悪い癖が出ている。
自分自身が新鮮に感じる経験や感情が、必ずしも他者にも新鮮であるわけではない。
しかしその区別ができるようであれば、その「原始の眼(全ての事象を初めて見るように見る眼)」は偽物である。
したがって祖啓には余計なことは考えさせずにどんどん句を詠ませて、第三者がその取捨を行うのがよい。
人類の歴史上、天才と凡人とはそのように共生してきたではないか。
「鉄塊」とはそうした相互扶助の役割を持つ場でもあったのかもしれない。

職場には阿修羅のような人が要る 中筋祖啓
△忙しいのですね。クワーカッカッカッカ。(働猫)


アシュラマンが他の超人たちの腕を奪っていく設定は今見るとひどくえぐい。
昭和のジャンプはえぐかったね。
この句にしても、自身の新鮮な気づきのままに詠んだものと思うが、「八面六臂の働き」という慣用句がすでにあるように、世間的には全く新鮮ではない。

コピー&ペーストの煉獄 中筋祖啓
パソコン仕事あるあるですね。
地獄や煉獄の苦役も軽くなったものである。
ゆとりか。
当時の句会では、古戸暢が蜘蛛の糸を垂らすように、「CtrlCCtrlV」を教えていた。あとさらに「CtrlX」も覚えておくと、句会の集計作業程度ならだいたいいけますね。

しゃがむ男の陰に猫 馬場古戸暢
まず目線を合わせるためにしゃがむ。次に人差し指を立てて差し出す。
猫はとがったものの先端を嗅いでしまう習性があるので、その指についふらふらと寄ってきてしまう。猫が嗅ぎ始めたらそのまま指で顎の下、頬、耳と耳の間(頭頂部)などを撫でてやる。これでほとんどの猫は籠絡できる。
お試しください。
まったく愚かで他愛のないものである。

すれ違う赤子が咳をした 馬場古戸暢
△自らを穢れた存在、不吉な存在としてとらえる自虐。生きててすいません。という哀しみか。(働猫)


赤子でなくとも、すれ違った人に咳をされたりすると、なんとなく自分が原因であるかのように感じ、もやもやするものだ。
私自身、喘息を患っているため、ストレスが咳や発作のトリガーになることは実感している。
特にこの句では、相手が抵抗力の弱い「赤子」である。
自分自身の穢れを強く意識し、申し訳なく思ったことだろう。

お母さんに切られたそうなおかっぱが俯いている 馬場古戸暢
△かわいらしいですね。(働猫)


早熟な思春期の少女を詠んだものか。
大人の考える「かわいさ」と子供たちが考える「こうありたい状態」とはまるで違うものだ。たとえお母さんであってもそれを尊重してあげるべきだろう。
たとえおかっぱがどんなにかわいらしくても、自分で選択せずにおしつけられたものであることに、自我の芽生えた少女は我慢ができないのだ。

札束を前に黙ってみる俺達 藤井雪兎
ハードボイルドよりはコメディ寄りのクライムドラマの一場面のようだ。
「黙ってみる」という表現は、それが互いの腹を探り合うための意識的な試みであることを示している。3人が銃を抜いて突き付け合うレザボアドッグスのような場面がこのあと展開されそうだ。

死んだのは妹の方です服を脱ぐ 藤井雪兎
○双子なのだろう。服を脱ぐと、姉にだけ尻にあざがあるのだ。「相棒」で見た。(働猫)


「相棒」というかコブラの三姉妹かな。
コブラではレディが一番エロく感じていたな。

やっぱり男は俺ひとりだった 藤井雪兎
△いろいろな状況が考えられますが、いいじゃないですか。どうぞ楽しんでください。(働猫)


料理教室とかをイメージしていたのですが、どうですかね。
余談だが、この「○○は○○だった」という形で自嘲や特異な状況報告がなされる句は、以前に紹介した又吉の句やTwitterでよく見られるように思う。
半ばテンプレート化している形であるので、内容はよく吟味してほしい。
本人は面白いと思って言ってるんだろうけど、だからどうしたという句が多いからだ。
山頭火の「まっすぐな道でさみしい」にしても、このテンプレートで「まっすぐな道は寂しかった」と言われれば、「お、おう」としか言えないだろう。あとは飴でもやって追い払いたい。
自らの句風、リズムを獲得するためには、まず模倣から始めるのが自然であろう。
ただ、借り物はどこまで行っても借り物であることは意識しておきたい。

涼しげな笑顔の女だ酔えない 風呂山洋三
△好きなんだろうな。(働猫)


好きなんだろうねえ。

ホトトギス告げる白線止まりなさい 風呂山洋三
北海道では、「ぱっ、ぽー、ぱっ、ぽー」と鳴る信号があるが、あれは鳩なのかな。
白線ということは駅か。
ここでのホトトギスは季語としても働いていると考えれば、ほぼ定型の句であると言える。やはり定型のリズムは強い。よくまとまった句になっている。

この店に決めた夏のにおいのする 風呂山洋三
△店かー。「部屋」だったら好き句だった。(働猫)


当時の句評を補足するならば、「夏のにおい」のような微かな要素を判断材料にするならば、「店」程度では驚きがない、ということである。
店は飲食店であると仮定するが、所詮長くとも2~3時間過ごすだけの場所である。その程度なら、「夏のにおい」で決めたところで何の問題もない。
「部屋」の方がいいというのは、以後何年も暮らす部屋の決め手がそれなのか、という意外性と、夏に向かう頃、春先に新生活のための部屋を探している、あの高揚感が表現できると思うからである。
おそらくは実体験に根差した句なのだろうから、「部屋がいい」などと言っても難癖でしかないのだが。

達筆が便所の壁 本間鴨芹
△男子トイレの小便器にはなぜか壁に格言が貼られていたりしますよね。(働猫)


「朝顔のつゆ」だとか「松茸のつゆ」だとか書いてあるの見るよ。
一生懸命うまいこと言おうとしている感じがむずがゆい。

その女には触れさせなかった日に揺れる海の音 本間鴨芹
△ドラマがありそうなのですが思い浮かばないなあ。こういうのなかったから。(働猫)


女の手を振り払い、海へ。
そんな日の句であろうか。なかったなあ。

後半37分ピザ届きました 本間鴨芹
自宅でのスポーツ観戦の情景であろう。臨場感のある描写である。
幸福の一つの形のようにも思う。

後ろ姿消えてそこにも道があった 松田畦道
○後ろ姿が誰のものかによって印象が変わりますね。はじめ自分は街中で、裏路地に消える人を見たのだと思ったのですが、考えてみるとそれだけではないですね。山の中で獲物(熊だな)を追いかけている猟師。都会で女性を追いかけるストーカー。トトロを追いかけるさつきとメイ。いずれにしても新鮮な驚きが表現されていていいですね。(働猫)


良句である。
日常の小さな発見、小さな驚きが抑制された表現で描き出されている。
また「道」を象徴的に解釈すれば、その発見は人生の選択肢を広げることともとれる。それがこの句を明るい光で照らしている。

お悔やみの口から餃子のにおい 松田畦道
○他人事のいやな感じがよくでている。こっちは身内亡くして悲しいのに、何をにんにく食って精つけてんだ、おまえは。という。(働猫)


他人の口臭が臭うとき、私は気づかないフリをして何事もないかのような顔でやり過ごす。においは非常に繊細な問題だからだ。
同様の指摘し辛い事項として、鼻毛がある。
自戒として、両方に常に気を配るようにしている。
餃子はおいしいよね。

もういらない玩具なのか夾竹桃にぶら下がって 松田畦道
夏の一場面であろう。
見上げた夾竹桃の枝に何かのおもちゃがぶら下がっている。
日の影になり、その形は判別できない。打ち捨てられたおもちゃに何を重ね合わせたことだろう。
自分自身か、それとも家族であろうか。
などとつらつら綴ってみたが、夾竹桃に馴染みがないため、句意を読み切れないな。



*     *     *



以下三句がこの回の私の投句。
吐息かさねて月を研ぐ 畠働猫
ほのあかい胸もとあとは闇 畠働猫
もうだれも叱ってくれない影夏草にのびていく 畠働猫
いわゆる「長律」の傾向が出てきた頃だろうか。
思えば句作についても人に師事することなく今に至ってしまった。
ただ長いだけの悪ふざけのような句を作っても、一緒に面白がって笑うような(例えば錆助のような)句友しかおらず、誰も私を叱ってはくれない。

叱られることによって子供はルールや枠組みを意識することになる。
そしてそこからはみ出すことによって「自由」を実感する。
実際には、そのような他者選択的な自由は本来の自由とは異なるものである。
しかし、全く枠組みがなければ「自由」を理解する手掛かりもない。
時々耳にする「自由律俳句は難しい」という印象は、その辺りにも起因するように思う。
多少強引に「自由律俳句とはこういうものだ」と定義し、そこから逸脱するものをガミガミ叱りつけて嫌われる存在、すなわち権威が必要なのかもしれない。
ただ、そうした権威は「自由」の概念からは遠くなってしまう。
ジレンマである。




次回は、「鉄塊」を読む〔14〕。

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