2016-02-14

【週俳1月の俳句を読む】 毎日があって 青木ともじ

【週俳1月の俳句を読む】 
毎日があって

青木ともじ


太初には大陸ひとつ初御空    仲 寒蟬
伊勢海老のあかあか父と正対す  齋藤朝比古

その大陸はパンゲアという。世界地図を開くと、現在のアフリカ大陸西岸と南米大陸東岸がパズルのように組み合わさることに気付く。これが大陸移動説発見の先駆けとも言われる。大陸の集合と離散は実は周期的に繰り返されていて、これをウィルソンサイクルという。ウィルソンサイクルは気候とも相関しており、大陸が集合している時は寒冷化し、離散するときは温暖化する。そう考えると、パンゲアがあったころの初御空は今よりもっと寒々としていたのかもしれない。地表も辺り一面凍りついていたかもしれない。太初の大陸へのロマンは、現在の空と遠い過去の空を繋ぐ壮大なものだ。「太初」「大陸」「ひとつ」という余分なものを極限まで排したすっきりとした表現は、眼前の青空を突き通すほどに潔い。

父はそんな小難しい話を自慢げにする人かもしれないし、或は常に寡黙な人かもしれない。いずれにせよ、父と息子の間の関係というのは独特なものがある。いま、おせち料理だろうか、姿のままの伊勢海老を挟んで向き合う父子。普段は食事を一緒にとることも少ないのかもしれないが、すこしぎこちない二人がそこにいる。「あか」という色は難儀な色だ。情熱の色だったり警戒の色だったり。二人の間の「あか」は何を象徴しているのだろう。

一刀で首刎ねられて初寝覚    滝川直広
元日の愚かに過ぎぬ茜雲     岸本尚毅

なんとも冷やりとする初寝覚。終わりで始まるなんて縁起がわるくないか、いやむしろ一刀で刎ねられる潔さは心地よいほどだ。きっとこれは死ではなく転生。おめでたいに違いないと、そう感じたのかもしれない。前向きにいきたい、そんな一句。

おめでたい元日も結構なことだが、あまりに平凡な元日も良いものではないか。特に特別なこともしない元日。愚かに過ぎたのは自らか茜雲か、そんなことはどうでもいい気持になって、満足してしまう。茜雲が綺麗だったからそれでいい。こんな元日があってもいい。

元日をおめでたく過ごすか否かは、結局その人次第だ。おめでたくてもそうでなくても、元日という日を楽しめるのが俳句の良さだ。

海にどこか燃ゆる匂ひや初写真
   今泉礼奈
釦に糸頼りなし春遠からじ

新年に友人と出かけて、海を背に撮ってもらう写真。視線はカメラを向きながら、背中で海を感じている。漠然と、でもその漠然とした全てを背中で探っている。感覚的手探りである。「燃ゆる匂ひ」は作者の内なる情動なのかもしれないし、あるいは心象風景の中の海の匂いなのかもしれない。「燃ゆる匂ひ」を感じた作者の一年は明るいものになりそうだ。いま、カメラのレンズには、確実に新年の海光が映っているだろう。

カメラを向きながら何気なく触ったコートの釦がゆるい。気になる。確かめるように、そしてすこしだけ控えめに、引っ張ってみたりする。頼りないと言いながらもそこには確かな釦の手触りを感じている。その頼りない感覚への慈しみは、春が「近い」とは言い切れないけれども「遠からじ」とは確信しているというとても微妙な感覚とよく響き合っている。この繊細さがとても優しい。

いずれも上五の字余りが活きている句だ。一句目の感覚的に模索する感じも、二句目の不安定な感じも、字余り故に押し出される感覚だ。流石である。

寒卵割れば双子や黄身の濃き      椎野順子
牡蠣殻隙間ナイフ揺すりて差し込みぬ

案外出会うことの無い黄身が二つの卵。ささやかな幸せは嬉しくて、しかも色も濃い気がする。このだめ押し的に添えられた「黄身の濃き」には、ささやかな幸せを一身に受ける作者のあふれ出る思いが感じられる。たかが黄身という、たいしたことではないのが良いのだ。句のなかの倒置によるかすかな違和感が、気持ちの昂りを代弁している。

牡蠣を食べるときもまた、なかなか昂るものだ。ましてや武骨な漁師が舟の上で剥いてくれる牡蠣はなお佳い。牡蠣の口からぐいぐいっと特殊なナイフを差し込む様子はまさに「揺すりて」という表現がぴったりだ。揺するナイフには殻の内の牡蠣の身もふるふると従う。句の出だしの、名詞で畳みかける感じが牡蠣を剥く手さばきの雰囲気をよく出している。

美味しいものは美味しそうに詠んでこそ活きる。この二句を読むと、それを実感する。

蝌蚪の水国旗の端を浸しけり   曾根毅
蘭鋳の臍のあたりが水の底

ひとことに水といっても無限の種類の水がある。この水は蝌蚪に与えられた水。例えば小学校の小さな池。掲揚されたのち下された国旗を回収する生徒がつい濡らしてしまった国旗。それに気づかずに彼は畳んでしまったかもしれないが、作者はその一瞬を見逃さなかった。濡らすではなかく「浸す」と言ったところに水の質感が活きる。

あるときは蘭鋳に与えられた水。どてっとした身体は水槽の底に触れているが、人間で言ったらお臍のあたり。そこで自らの身体と蘭鋳の身体がシンクロする。そしていまそれは水槽に満たされた水の底にある。水槽の水全体と、自らもシンクロする気がする。さりげない見立てに三体の間の共鳴を感じる句である。

両句とも水の句であるが、それは単に水を詠んでいるという意味ではない。どちらも、なんとなく主体が水にあるのだ。水がみずから浸したような、蘭鋳が水みずからの体内に在るような、どこか屈折した述べ方に不思議な魅力がある。



誰もがそれぞれに毎日を送っていて、それぞれにいろんなことが起きるものだ。太初の大陸を思っていてもいいし、春に思いを馳せていても、美味しいものを味わっていてもいい。そして各々が俳句になったとき、それぞれがまるで世界の中心であるかのように読者の心に立ち上がる。その全部を一気に読んだとき、各々の「中心」が凝縮されて、読者の一日が贅沢すぎるほどに満たされた時間になるのだ。





第454号  2016「週俳」新年詠 ≫読む

今泉礼奈 顔の高さ 10句 ≫読む

椎野順子 身と海水 10句 ≫読む

第458号 2016年1月31日
曾根 毅 国 旗 10句 ≫読む

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