2016-07-10

【週俳5月・6月の俳句を読む】 思考は絶えない ひだか命樹

【週俳5月・6月の俳句を読む】
思考は絶えない

ひだか命樹



生きていればこその春寒海の青  広渡敬雄



生きている私たちが感じる春寒というものは、両の腕を抱えて震えつつも、冬の寒さとは違い、まだ気力というもので耐えられる程度の寒さだ。そんな適度に寒い中、外に出て少し海を見に行く。そうした冒険心の先にある澄みきった海の青が、作者に春を待つだけの気力を与えるのだろう。


さて、しかし気になるのは「生きていればこそ」というフレーズだ。死んでいれば春寒は感じない、という意味では決してないと思う。これはきっと死者にもまた別の春寒があるのだ。私たちの認識を超えた、温度でも風量でも測れない「春寒」という感覚、作者はそれを見つめているのかもしれない。


そういえば、自殺率というものは春が一番多いと聞く。あるいはこの句は、友人の不幸に寄り添った一句なのかもしれない。生きていればこそ、思考は絶えない。





雨を書く生まれてくる日に追いついて  野間幸恵



この句を読むとき、まず雨を書くという行動そのものの理解が必要だ。描くではなく書くなのだから、絵筆は要らず紙とペンが必要だ。紙は紙に限らず、ペンはペンに限らない、例えば床と指でも良い、確かに書いているという感覚が大切なのだ。雨を書くということは、雨という字を書いているのか、それとも雨の様子を文字として描いているのだろうか。


次に誰が書いているのだろうか。生まれるという単語から、胎児が母胎の内側に書くという意味に取りたかったのだが、生まれてくる日という表現は胎外のものであり、ならば母胎である母親が書いているのだろうか。いや、あるいは具体的な主体は存在しないのかもしれない。


中八は気になるだろうか、その一音が生まれてくる日までの長さを示唆しているようにも感じられる。そして、それに追いつくとはどういうことだろうか。


この句は総じて答えが出ない句だ。答えのない、宙空を泳ぐような感覚に浸るとき、雨の静かな音が聞こえた気がした。





睡眠と思うシマウマでは近い  野間幸恵



総じて答えの出ない問いかけをくり返す十句の中で、この句は何かが見えた気がした。それは言葉がある意味人間的というか、現実に即した使い方をされているからだろうか。簡単に言えば、日本語として意味が分かるのだ。



かたくなに三半規管だろう雨  同



例えばこの句だが、かたくなに三半規管だろうという言葉は日常で使うことがありえない一文だ。それに比べてシマウマの句は、日常で(実際に使うかは別として)使うことが可能な言葉で構成されている。


シマウマではなくて睡眠だと思う。それがこの句を一文にしたものだ。何故シマウマではないのか、それは「近いから」だという。シマウマでは近く、睡眠が適しているといえば、やはり色に行き着くのは当然かもしれない。


白と黒が明確に区別されたシマウマではなく、起きているか寝ているか分からないような仮眠を想起させる、白と黒が混ざりあった、けれども灰色ではない「何か」を睡眠だろうと指摘している。


何を睡眠だろうと言ったのか、そこに再び答え探しの旅が始まる。



木は森に友が答えのように来る 同



木が森になるまで何年かかるだろうか。その頃には友がこの十句の答えのように来るかもしれない。





夏の夕とほき小芥子と目が合つて  黒岩徳将



小芥子といえば、和人形を連想する。どちらも日本の伝統的産物だからではなく、どちらも怖い話に頻出するからだ。


この句は「夏の夕 / とほき小芥子と目が合つて」「夏の夕とほき / 小芥子と目が合つて」の二通りに読めると思う。文法的には前者なのだろうが、ここでは敢えて後者で読みたい。小芥子と目が合って夏の夕が遠ざかる。それは小芥子に誘われて現実から足を踏み外す「怖い話」の冒頭ではなかろうか。暑さが日に日に厳しくなる今日この頃、小芥子と目が合えばもう二度と夏の夕日を拝むことはないだろう、なんて。





記憶より明るきくらげ出てきたり  小林かんな



この句を一目見たとき、くらげの句なのか、きくらげの句なのか分からなくなった。人間の認知能力が一瞬試される。


さて、認知能力に関して、この句では「より」という助詞の意味もまた判別が必要なのではないだろうか。「記憶から」と訳される、出発点としての意味か、「記憶よりも」と訳される比較の意味か。


まずは比較で読むことにする。海辺で水遊びをしている、夜が良いだろうか、すると海に光のほわが現れる。その光は昔見たくらげよりもくらげ一倍ほど明るく、空の月と並ぶほど幻想的な光だったと。なるほど、勝手に浮かべた月だが、ここでは月とくらげの対比、記憶のくらげと眼前のくらげの対比という二つの対立構造が現れる。


次に、出発点として読む。もちろん記憶は海に落ちていないのだから、そのくらげは実体を持たないだろう。しかしそれでは寂しいので、作者を海辺に立たせる。幼き日にはくらげの棲んでいた海だったが、今は絶滅し、光のない真っ暗な海が広がる。作者のその寂しさを慰めるように、記憶からかつての光が蘇る。そのとき、作者はその光を追って海に足を踏み入れ泳ぐ、あるいはその冷たさに正気を取り戻して喪失感に襲われるのだろう。


どちらの読みもまた面白い、一句で二夏の思い出を味わえる。





海の底見てきた夜の扇風機  小林かんな



この句はくらげの句の続きだろうか。海の底ということで、前句はもしかしたら海中泳の最中の句だったのかもしれない。いや、むしろそう読んだ方が面白かっただろう、とんだ失態だ。


さて、この句もまた読み方が分かれる。海の底を見てきたのは誰か、ということだ。「海の底見てきた夜」の扇風機なのか、海の底見てきた「夜の扇風機」なのかということだが、扇風機が海の底を見てきたのだ、なんてロマンチックな読み方をしても良いのだが、海中泳をしていたという想像を引き延ばすことにする。作者は海の底で見た海藻や魚を思いながら、扇風機に当たっている。その涼しさに力を抜けばただ揺られ続ける海藻のことを思い、「あああああああ」という声を出して遊べば、息を吐くたびに出ていた気泡を思うだろう。


扇風機でもクーラーでも、作者の感動は冷めないのだ。





ででむしや箱にしんなりふたつの性  嵯峨根鈴子



この句を一読して、二つの性という単語が目につくのは当然であろう。そこで、でで虫に性別はあるのかと思う。調べてみると、雌雄同体らしく、つまりふたつの性を一匹で持ち合わせているということだ。てっきり私は体の性と心の性の相違に関するものかと思ったのだが、そうではないらしい。ただの雌雄同体を意味しているだけの語句だった、そう思ってしまった。



夏鶯ふたつの性を跨いでしまう  同



しかしどうだろう、やはりと言うべきか、題に掲げている言葉がそう簡単に片づけて良い言葉であるはずがなかったのだ。ふたつの性を跨ぐ、というのは雌雄同体の動物を跨いだということだろうか、いや、それでは物足りない。きっとこれはもっと抽象的なもので、例えば雌の鶯がふとした瞬間に雄に勝る、そういった夏鶯の強く美しく儚い逆説的な存在感を示しているのではないか。


男女平等が掲げられる現代に、夏鶯は誇り高く啼く。

第472号 2016年5月8日
広渡敬雄 黒 潮 10句 ≫読む
第473号 2016年5月15日
野間幸恵 雨の木 10句 ≫読む
第476号 2016年6月5日
こしのゆみこ まみれる 10句 ≫読む
第477号 2016年6月12日
黒岩徳将 耳打ち 10句 ≫読む
第478号 2016年6月19日
小林かんな 休 日 10句 ≫読む
嵯峨根鈴子 ふたつの性 10句 ≫読む

0 コメント: