2016-08-14

あとがきの冒険 第4回 無い・鈴木・剝奪 斉藤斎藤『渡辺のわたし』のあとがき 柳本々々

あとがきの冒険 第4回
無い・鈴木・剝奪
斉藤斎藤渡辺のわたし』のあとがき

柳本々々


今までは書かれたあとがきについて考えてきた。今回考えてみたいのは「あとがき」が書かれなかった場合についてである。言わば、〈不在のあとがき〉。「あとがき」が書かれずにその書物が終わった場合、いったいどういうことになるのか。

ここで取り上げてみたいのが斉藤斎藤さんの歌集『渡辺のわたし』である。

この歌集に顕著なのが〈固有名の相対化〉だ。それは、歌集の表紙からすでに表れている。

表紙には「渡辺のわたし@斉藤斎藤」と大きく記されている。一見してわかるように「渡辺」「斉藤」「斎藤」という怒濤の名字の羅列はあるが、ここには〈名前〉がない。名字ばかりなのだ。しかも表紙には薄く大きく「渡辺のわたし」「斉藤斎藤」とタイトルに重なるように印刷されてあるのでさらに名字は増幅している。裏表紙にもそれが〈反転〉したかたちで印刷されている。だからこの歌集の装幀には名字が9つもあるのだ。

名字とは、なんだろう。

名字はあくまで〈家〉をあらわすものだ。たとえば私の「柳本」なら〈柳本家〉をあらわしている。しかしそのままでは私は浮遊したままだ。そこに〈々々〉という名前が与えられることで、名字=家は、ひとりの固有の〈わたし〉に収束=終息する。名字→名前というベクトルをもってひとりの人間は差異化されている。

しかし「渡辺のわたし」というタイトルのように「渡辺」から「名前」に向かわず、「わたし」に向かった結果、その名字はどこにも収束しえない。それどころか「渡辺の」とつければ、あなたも「渡辺のわたし」になることができるだろう。

「渡辺のわたし」、「斉藤のわたし」、「斎藤のわたし」。助詞「の」によって〈着ぐるみ〉のように着脱可能な名字とわたし。

名前の不在とは、〈名字〉がモジュールのように取り外し可能になるということなのだ。たとえば次の歌。

私と私が居酒屋なので斉藤と鈴木となってしゃべりはじめる  斉藤斎藤
ここに表れているのは、実は〈わたし〉とは《ただ単に》名指しされることによってしか生じえないものなのではないかという〈相対的わたし観〉ではないか。
アイデンティティとは、制度の派生物を“自然”として受け取ることにほかならない…。犬は犬だ、私は私だ、私は誰々の子だ……こうしたアイデンティティは互いに共通している。それは、とりかえの禁止として在る制度が強いるものであり、更に制度の結果に対して、“自然”に適合することである。 (柄谷行人「文学について」『増補 漱石論集成』平凡社ライブラリー、2001年)
柄谷さんは「アイデンティティ」を「とりかえの禁止」としての「自然として受け取ること」としたが、斉藤さんの歌集にみられるのは、「アイデンティティ」は〈とりかえ可能〉であり、〈非自然として受け取ること〉が可能《かもしれない》なにかである。上の歌において「斉藤」と「鈴木」は「私」と「私」という〈言語レベル〉においては〈等価〉であるように、明日「私」は「鈴木」かも知れないし、きのう「私」は「斉藤」だったかもしれない。それは〈わたし〉が「私」と名指しした瞬間に起きる〈非自然〉のマジックである。「私」には、なんらかの、罠がある。

《だから》、なのではないか。「あとがき」が書かれなかったわけは。

「あとがき」とは実は《わたしの顏》がもっとも出てくる場である。せっかく〈わたし〉を相対化し続けたこの歌集が「あとがき」で最終的に〈わたし〉にとどめをさすわけにはいかなかった。それではなんの意味もない。「あとがき」が書かれず、〈わたし〉は〈わたし〉と一致することをせず、〈ひらいたままで〉歌集は終わる必要があった。「渡辺のわたし」の「わたし」の意味は埋められずにズレたまま終わること、「斉藤/斎藤」の名前のように。

「あとがき」が不在であるとはそうした〈わたしのズレ〉をそのまま引き受けることのあらわれではないか。
ちょっとどうかと思うけれどもわたくしにわたしをよりそわせてねむります  斉藤斎藤
歌集最後の歌だ。もちろん、語り手はそれが「ちょっとどうかと」は「思」っている。でも語り手はそのことについては語ろうとしない。明かすことはせず、「ねむり」につく。「あとがき」を手渡されなかった読者は、〈Xのわたし〉である〈あなたのわたし〉を引き受けなければならない。名前を奪われた誰でもない・あなたのわたしとして。
カラスが鳴いて帰らなければなにひとつあなたのわたしはわからないまま  斉藤斎藤

(斉藤斎藤『渡辺のわたし』ブックパーク、2004年 所収)

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