2016-08-14

【句集を読む】都市生活者の不穏と安堵 小久保佳世子『アングル』 生駒大祐

【句集を読む】
都市生活者の不穏と安堵
小久保佳世子アングル

生駒大祐


雑踏を倦みては慕ひ夾竹桃  小久保佳世子

小久保佳世子『アングル』(2010年1月/金雀枝舎)には都市の景色、それもどこかに不穏さを孕んだ景がよく現れる。

エスカレーターの横顔循環春満月  同

中心にブランコ化学工場跡  同

屏風絵の秋翳として監視員  同

「エスカレーターの横顔」と満月の取り合わせ自体はどうとでも処理できる素材であるが、「循環」と置くことで字余り・漢語の効果が出る。おそらく、その横顔は無表情だ。
ブランコという「子供のもの」の遊具も、化学工場の跡地に置かれることによってあくまで「大人が作ったもの」であることが強調される。

この作者は屏風絵の美しさに素直に感じ入ることはしない。なぜならそこには「翳」としての監視の目があるからだ。小久保は屏風絵自体よりも、都会にあってはその優美に必然の要請として生じるヒトの存在に着目するのだ。

そのように都市景が描かれる一方で、半ば驚くほどあたたかな句も句集には時たま現れる。

白猫のごとき春日を膝の上  同

鶏頭花馬鹿と言はれて嬉しくて  同

編み耽りセーターの首伸びてゆく  同

日の当たる膝の暖かさを美しい白猫に喩え、気の置けない人ならではの言葉に無邪気に喜び、セーターを夢中で編んでいる場面のよくある何気ないおかしみを詠む。

そこにあるのは、親しさによって生じる人間関係の暖かさの肯定である。

小久保の批評的都市詠は、都市への一方的な否定の眼差しからなるものではない。小久保はおそらく人間とその営みが好きで、それが失われる場としての都市に批判的感情を覚えているのではないか。

最初に挙げた一句には、都市の中で人が行き交う雑踏が詠まれている。雑踏は人間で構成されているが、そこにあるのはあるとしてもごく少数の人間関係であり、大方は「孤独」が多を構成しているにすぎない。小久保はその孤独の集合としての雑踏を倦み、しかし同時に人々の中にいられることによるかすかな安堵感を慕って雑踏の中にいる。

人によって植えられたにすぎない仮初めの自然物としての夾竹桃を詠みこんだのは、その相反する感情の揺らぎの中で見た作り物ではない美しさに心惹かれたからであろうか。


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