2023-03-12
小久保佳世子【週俳1月~2月の俳句を読む】玉手箱を開けたような
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2022-02-06
【週俳11月・12月・1月の俳句を読む】もしも俳句にしなければ 小久保佳世子
第761号 2021年11月21日 ■花島照子 フェルマータ 10句 ≫読む
第765号 2021年12月19日 ■岡田由季 宴 10句 ≫読む
第769号 2022年1月16日 ■佐藤智子 背はピンク 10句 ≫読む
第770号 2022年1月23日 ■大室ゆらぎ 霜 10句 ≫読む
第771号 2022年1月30日 ■野崎海芋 三連符 10句 ≫読む
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2021-06-20
【週俳4月の俳句を読む】学校よ健やかであれ 小久保佳世子
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2021-02-07
【週俳12月・1月の俳句を読む】響きあう一句と一句 小久保佳世子
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2020-09-13
【週俳8月の俳句を読む】暗がりのわくわく 小久保佳世子
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2020-01-19
【週俳12月の俳句を読む】しあわせの青い鳥 小久保佳世子
【週俳12月の俳句を読む】
しあわせの青い鳥
小久保佳世子
かわせみが雪の景色の枝に待つ 福田若之
この句から原石鼎の《雪に来て見事な鳥の黙りをる》を思い出したのは、どちらも背景が雪で鳥が擬人化されているからでしょうか。石鼎句の鳥の名前は分かりませんが、かわせみだったかもしれません。石鼎句も掲句も鳥の静かな意志のようなものが感じられ、雪世界の凛とした空気が伝わってきます。
かわせみは夏の季語とされていますが、辺りが落葉した冬場のほうが出会いやすい気がします。雪後のかわせみを偶々見たことがあり、それは正に中村草田男の《はつきりと翡翠色にとびにけり》を再現した景色として印象に残っています。
ところで掲句の「待つ」ですが、餌を待っているともとれますが、或いはしあわせを求めて青い鳥を探す作者を待っているのかもしれません。遠いしあわせへの切実な希求を詠んだ同じ作者の《ヒヤシンスしあわせがどうしても要る》とセットで読むと枝で待つ青い鳥に作者はまだ出会っていない、そんな気がしてきます。
雪の景色は、いよいよ深い沈黙に包まれてゆくようです。
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2019-09-08
【句集を読む】根幹を見つめた沈黙の時間 鷲巣正徳句集『ダ・ヴィンチの翼』 小久保佳世子
【句集を読む】
根幹を見つめた沈黙の時間
鷲巣正徳句集『ダ・ヴィンチの翼』
小久保佳世子
鷲巣正徳さんは大学時代の友人舘山誠さんに連れられ、ふらっと「街」の句会に現れたと記憶しています。館山さんと鷲巣さんを繋ぐキーワードは、吉本隆明の『最後の親鸞』だったと伺ったことがあり、大学時代から定年間近まで続く男の友情の底流にあるという『最後の親鸞』とはどんなものかと当時読んでみたりもしました。その後、舘山さんは古文書研究に向かい俳句から遠ざかってしまいましたが、逆に鷲巣さんは精力的に俳句作りに邁進、様々な句会に参加されるようになったという印象があります。
俳句と出会い本当に楽しそうだった数年後のある日「難病と診断されてしまいました」というショートメールが届き、それからしばらくして「命あるかぎり俳句を作ってゆきます」という言葉が忘れられないメールを頂きました。
作者の個人的な情報を抜きに俳句そのものを鑑賞する態度が好きですが、句集『ダ・ヴィンチの翼』はどうしても作者の境涯に思いが行ってしまいました。と言っても境涯俳句の重さ暗さはなく、モノに語らせる鷲巣正徳俳句の知性、品性に胸を打たれる思いがありました。
鷲巣さんは、俳句の始まりのころから牛、犬、猫、鳥、昆虫など生き物をよく詠んでいて特に牛の俳句の数は目立ちます。
星月夜どしやと子牛の産まれたる
牛の擦る柱艶艶蔦紅葉
これらの句には、牛に親しんでいないと生まれない言葉の真実があります。
猫の尾の箪笥より垂れ秋うらら
柚子湯出てぞりと腓に猫の舌
ゑのころや電車見るのが好きな犬
猫や犬と暮らす日常の一コマが活写されていて、もしかして鷲巣さんは犬猫たちと同じ次元にいる幸福を知っている方なのでは、とも思うのです。
国債売る背広に汗の翅模様
事務引継ぎ自分の匂ひ消して冬
俗社会のなかで鷲巣さんのような純粋な方は生きづらかったかもしれない、と余計なことを思ってしまいました。それはかつて『最後の親鸞』(吉本隆明)に救われたと聞いたからかもしれません。
生きむとて気管切らるる秋の暮
繋がれてゐても銀河と交信す
もしここに白鳥来れば乗つて行く
凍蝶を我が身と思ふ月日かな
かなかなを聞きつつ行けば透明に
夕焼を掬つて妻の髪飾らむ
ダ・ヴィンチの翼で翔ける冬銀河
病によって不自由になってゆく全てを静かに受入れ、鷲巣さんの詩境はますます澄んで深い俳句となって結実していったようです。
『ダ・ヴィンチの翼』を読んで、「言語のほんとうの幹と根になるものは、沈黙なんだということです」という吉本隆明の言葉を思い出しました。枝葉ではなく根幹を見つめた沈黙の時間を鷲巣さんは知っていて、吉本のこの言葉の意味するところを深く理解されているに違いありません。
それは、お見舞いに伺った折の鷲巣さんの笑顔の透徹した美しさに触れて強く実感されたのでした。
鷲巣正徳句集『ダ・ヴィンチの翼』2019年7月/私家版
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2018-10-21
【週俳600号に寄せて】金原まさ子さんと週俳 小久保佳世子
【週俳600号に寄せて】
金原まさ子さんと週俳
小久保佳世子
句集『遊戯の家』(2010年金雀枝舎)、『カルナヴァル』(2013年草思社)、エッセイ集『あら、もう102歳』(2018年草思社文庫化)を遺し、2017年6月27日金原まさ子さんは亡くなりました。享年106歳でした。
私は晩年の金原さんと度々おしゃべりする機会に恵まれましたが、その話題の中心は変わり目にある俳句の現在、新しい作家や論客のことで、金原さんの情報源は主に「週刊俳句」でした。
新しい動きに敏感な金原さんは、「週刊俳句」の独創性、スマートさ、面白さに強いインパクトを受けられたことは間違いないと思っています。おそらく毎日曜日、真っ先に開いたページは「週刊俳句」だったと思います。私は、「俳句の今」への興味を興奮気味に語るお元気なあの声が忘れられません。
やがて、「週刊俳句」に金原まさ子さんも何度か登場し、追悼号もでました。アーカイブとしてまとめられているので、そこに行けば100歳を過ぎて尚面白く充実した俳句生活を送られた金原まさ子さんに何度でもお会いすることができるのです。なんとありがたいことでしょう。
100歳を過ぎ最期まで冒険者だった俳人金原まさ子の晩年に「週刊俳句」の存在が大きかったという事実、その証人として今思うことは「週刊俳句」は新しい俳句の時代が必要としていたweb誌だったということです。
週俳600号、感謝をこめて心からおめでとうございます。
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2018-09-23
【句集を読む】 山田耕司句集『不純』第5章「山田耕司vs山田耕司」で 小久保佳世子さんと太田うさぎさんに旗を挙げてもらいました
【句集を読む】
山田耕司句集『不純』第5章「山田耕司vs山田耕司」で
小久保佳世子さんと太田うさぎさんに旗を挙げてもらいました
山田耕司『不純』p61~70「山田耕司vs山田耕司」の章は、1ページに赤白2句が並んで掲載され、読者が勝ち負けを決めるという趣向。特集「山田耕司『不純』を読む」の興奮さめやらぬなか、小久保佳世子さんと太田うさぎさんに判定を下していただきました。
●
進行:西原天気▼
最初の取組は「白魚」です。
赤 白魚やがさりとラジオ黙りたる
白 青春の飲む白魚のやうなもの
それぞれ、どちらかが勝ちか、旗を挙げてください。
小久保佳世子(以下、佳世子)◆
《赤 白魚やがさりとラジオ黙りたる》です。
太田うさぎ(以下、うさぎ)◆
私は《白 青春の飲む白魚のやうなもの》。
進行▼
分かれましたね。
佳世子◆
《赤 白魚やがさりとラジオ黙りたる》の「がさり」という音には荒っぽい容赦なさがあります。その為、その後の沈黙には一方的に切られた電話の後のような痛みすら感じます。白魚のロマンもまたそこで非情に遮断されてしまったような。
うさぎ◆
不思議な句です。「白魚のやうなもの」と言っているので実際に飲んでいるのは白魚ではありません。
ですが、それが何にせよ、踊り食いのようにピチピチと犇めく生命を臓腑に落とし込むのが青春期というものか、とも思いました。青春の文字に隠れた青と白魚の白のコントラストもいい。どことなくエロスを感じるのは私の妄想でしょう。
進行▼
佳世子さん、うさぎさんが妄想とおっしゃる「エロス」という点、いかがですか?
佳世子◆
「しらうおのような指」と女性のしろく細い指を言ったりすることから、女性への憧れのようなものを感じました。ですから掲句にはエロスの生々しさより、むしろ初々しさを感じました。
進行▼
次は「末黒野」です。
赤 末黒野や知らない家族また出てくる
白 さびしさの末黒野を出てなほ道たる
うさぎ◆
《赤 末黒野や知らない家族また出てくる》。
枯草を焼いて新芽の生長を促すのが野焼き。焦げ臭い野原から家族が出て来る。「知らない」と言いながら家族だとの認識は何故かある。家族の再生とも解釈できますが、シュールな光景です。「また」がじわじわ来ます。
佳世子◆
私も赤です。
消えてはまた出てくる家族なんてゾンビのようでちょっと不気味。知らないけれど、意識下では知っている家族のような気もします。「また出てくる」ことを、もしかして懐かしがっているのかも。家族という言葉にはある温みがあるからでしょうか。背景が末黒野ということは原始からの累代の家族が描かれているのかもしれません。
うさぎ◆
末黒野は最初、《白 さびしさの末黒野を出てなほ道たる》だったんですよね。でも見直していたら赤の方が段々よく見えてきて……。
佳世子◆
末黒野は荒涼とした景なので「さびしさ」は言わずもがな。そんなこと分かっているにちがいない作者なので、そこに興味があります。
進行▼
「白魚」2句と「末黒野」2句は、「や」切れと喩がセットになっているということで、この見開きは合わせ鏡のようです(「末黒野や」の「や」は一物っぽいですが)。佳世子さんは、「白魚」「末黒野」ともに、「や」切れの句に旗を挙げた。うさぎさんは、「白魚」では喩の句を、「末黒野」では「や」切れの句をお採りになった。
うさぎ◆
上五を「や」で切る句の場合、読み終わった余韻の中に上五の言葉がぼやーんと反響している感じがあるのが好きです。白魚の句ですと、ラジオが黙るという事象に対して白魚がどう関わるのかが私にはちょっとピンと来ませんでした。末黒野の句は、「また出て来る」……そんな末黒野であることよ、と始まりに戻っていくのが面白いです。
喩の句はその象徴するところに読者がどれだけ感興を催せるかにかかっていると思います。「さびしさの」は「道」にどの程度の深みを汲み取るべきなのか、測りかねたところがあります。
進行▼
なるほど。次に行きましょう。
赤 丸腰を蛍のせゐにしてをりぬ
白 蛍衰へたどりつきたるハムエッグ
どちらも一筋縄では行かない句ですね。それでは旗をどうぞ。
佳世子◆
《白 蛍衰へたどりつきたるハムエッグ》。
源氏蛍、平家蛍と名付けられたり、古くから死者の霊魂に見立てられたりしてきた蛍。もののあわれという美意識の代表のような蛍ですが、それを支える共同体が衰退し、蛍がたどりついた先はなんとハムエッグという味気ない和製英語。都市のホテルで鑑賞用に飼育される蛍などが思われます。現代の蛍の滑稽と哀れを痛烈なアイロニーで描いた一句です。
進行▼
蛍にまつわる観念や情緒の歴史性を思えば、「アイロニー」が読み取れるというわけですね。そのあたり、うさぎさんはいかがですか?
うさぎ◆
衰退の果ての変性という図式はアイロニカルというよりどちらかと言えばシニカルな印象を受けました。解釈のむつかしい句ですが、「螢衰へ」は枕詞的な使われ方なのかなと思ったり。夜が明けて朝ごはんに目玉焼きが出ました、実はそれだけのことだったりして、とも。「それだけ」というのは悪い意味ではなく、ありきたりのことを如何に書き表すかは誰もが苦心するところです。
進行▼
うさぎさんは、どちらの句を?
うさぎ◆
私は《赤 丸腰を蛍のせゐにしてをりぬ》です。
可笑しいです。やましいことがあったりすると、人って何かの所為にしたがるよねって。蛍に罪を着せた時点で即座に周囲から集中砲火を浴びそうな気がします。愛すべき人物です。《じゃんけんで負けて蛍に生まれたの 池田澄子》への遠くからの挨拶のようでもあります。
進行▼
次は「金魚」です。
赤 提げ歩く金魚赤赤黒茜
白 姿見に金魚きて去り去りはてず
佳世子◆
《赤 提げ歩く金魚赤赤黒茜》です。
色が際立つ句でかなり好きです。提げ歩く速度も思われ、その動きを「茜」で止めるあたり技あり。赤と茜の間にある「黒」は出目金か金魚の模様でしょうか、或いは存在しない何かの影のようで気になります。この黒があることによって赤も茜も鮮やかさを増すようです。
うさぎ◆
うーん。迷いました。「アカアカクロアカネ」の心躍るリズムもいいのですが、私は《白 姿見に金魚きて去り去りはてず》を。
水槽であれ金魚釣りのビニール袋であれ、姿見の細い幅を金魚が過った。鏡中から消えた後でも眼裏に鮮やかな姿態が揺らいでいる、「去りはてず」はそういう意味に受け取りました。姿見の前に立っているのは美しいお嬢さんでしょうか。涼やかな句です。
進行▼
あくまで「美しい」「お嬢さん」なわけですね。山田耕司さんじゃなくて。
うさぎ◆
うーん。姿見や金魚に女性のイメージを重ねるからでしょうね。男性と考えるとこの金魚はメタファー的な意味合いを帯びてきそうです。
進行▼
次は「西瓜」です。
赤 男手をわたりてきたる西瓜切る
白 西瓜に顔彫つて真闇へ向けにけり
うさぎ◆
《赤 男手をわたりてきたる西瓜切る》。
「男手を」と断るからには西瓜を切るのは女性でしょう。バケツリレーのように何人もの男性の手から手へ運ばれてきたというだけで、大きくてはち切れそうな西瓜が目に浮かびます。俎板の鯉ならぬ西瓜に刃を入れる様が頼もしい。「切る」の二字が爽快です。
佳世子◆
私も同じく赤。「男手をわたりてきたる」ことに焦点が当たることに何故か不穏を感じます。「西瓜切る」も読み方によって不穏さを引きずります。女手では手に負えない西瓜の大きさ重さをイメージすればよいのかもしれませんが、それだけではないような。男手に悪い感じを持ってしまうのです。悪い感じは決して俳句の魅力を損なうものではありませんが。
進行▼
6つめは「黄落」。
赤 黄落や触るるも見えぬ盆の窪
白 黄落にすべなき笊となりにけり
佳世子◆
《白 黄落にすべなき笊となりにけり》。
籠と笊の違いはよく分かりませんが、器の出来は籠のほうがよさそう。思えばザルという響きは何となく情けないものがあります。この句の笊はますます貧弱に見え、それに比して黄落の大いなることよ。「すべなき笊」という表現によって黄落の怖いほどのエネルギーが感じられます。昨今の想定外の自然現象まで思ってしまうのは読みすぎでしょうか?
うさぎ◆
私も白です。
かねてより笊には秋の季感があると思っています。季語認定して貰いたいくらい、と言うと大袈裟ですけれど。
黄落という終わっていくものと使い途のない笊とはいわゆる「即(つ)く」関係にあるのでしょうが、そこがいいというか。私は佳世子さんのおっしゃるエネルギーよりも諦念とか受容といったものをこの句から感じました。私という人間も所詮一枚の笊である、みたいな……。考えすぎかな。
赤の「触るるも見えぬ盆の窪」は確かにぃ~と感心しましたが、その発見がちょっと黄落の情緒に寄りかかってしまっているように思いました。
佳世子◆
同じ句に軍配をあげていても、西瓜の句にうさぎさんは、ある爽快さを、私は不穏を感じたり、黄落の句も、うさぎさんは黄落を終わってゆくものと見たけれど、私は怖いほどの大黄落という思いから離れられなくなっていたことに気付き、とても面白いなあって思いました。
うさぎ◆
ほんとうに。
一つの句でも受け取り方が違うものですね。黄落をエネルギーと捉えたことがなかったので、佳世子さんの鑑賞にハッとしました。
進行▼
ラス前は「柚子湯」です。
赤 恋おとろへ柚子に湯舟の広きこと
白 はらわたを暗さと思ふ柚子湯かな
佳世子◆
《白 はらわたを暗さと思ふ柚子湯かな》
英語のdarknessを調べると、暗さ、色の黒さ、秘密、邪悪、無知などと訳されていて、darknessのすべてが「はらわた」にもあるということでしょうか? 柚子の黄色と白い(とりあえず)素裸の表面的にはシンプルで明るい場面ですが、はらわたの暗さ重さがあるから、湯のなかに沈むのですね。「はらわたを暗さと思う」場として柚子湯はとてもふさわしいような気がしてきました。
うさぎ◆
同じく白に軍配。
句集にはほかに《はらわたは見えぬがよろし大どてら》《はらわたは温し遠しや曼殊沙華》があり、はらわたを単なる臓腑として以上に意識していらっしゃるようです。この句、「暗し」ではなく、「暗さ」であることが肝心だと思います。柚子湯に芯から温まりながら、自分の体内の暗黒に目を据えている。それでいて結語は「柚子湯かな」と平和。このちょっとした捻じれが面白いです。
進行▼
《蛍衰へたどりつきたるハムエッグ》は「衰へ」と漢字、こちらは「恋おとろへ」と平仮名。用字が変えてあるんですね。
佳世子◆
「衰へ」は、まだどこか頑張っているけど、「おとろへ」はちょっと諦めを感じませんか? そういえば、「蛍衰へ」の句には、三橋敏雄の有名句《 昭和衰へ馬の音する夕かな》をちらっと思いました。
進行▼
さて、いよいよ最後です。
赤 冬愁てふ季語無きことよ海鼠嚙む
白 ゆく雲を足裏と思ふ海鼠かな
佳世子◆
《白 ゆく雲を足裏と思ふ海鼠かな》
雲足はゆく雲の速度をいう言葉。その雲足とは足裏のことだと言われれば、だんだんそんな気がしてきます。地上の生き物は雲の上層部が見えないので。
初めは奇想と思えたことも何? 何故? と頓智を考えるように嵌ってゆく感じです。そこに海鼠。海鼠の目は見えないような気がしますが思考する生き物かもしれず、とやや強引に海鼠の気持ちに納得させられてゆく困惑と楽しさ。
うさぎ◆
同じく白……と思いましたたが、佳世子さんと同じ旗ばかり上げていても、ということで、《赤 冬愁てふ季語無きことよ海鼠嚙む》。
「ない」ことを考えるとき、大概はその存在を意識しているものです。とすればなにがしかの憂いがふと胸を過ったのでしょう。でも、そこが俳人根性といいますか、「春愁、愁思はあるが冬愁は季語にないなあ」とそちらへ考えが行ってしまう。いや、あえて物思いに真っ向から挑まずにスライドさせたのかも。海鼠が大人の味わい。でも、顎が疲れそう。
進行▼
俳人根性! すごい言い方! 俳人魂、俳人の性(さが)ということですね。
うさぎ◆
柚子湯に戻るのですが、読み返してふとわからなくなりました。
○○を△△と思ふ□□かな
は一つの型としてありますよね。よく知られたところでは攝津幸彦の《露地裏を夜汽車と思ふ金魚かな》。『不純』にも
瓢箪をわが子とおもふ鯰かな
ゆく雲を足裏と思ふ海鼠かな
があります。いずれも"思う"のは金魚であり、鯰であり、海鼠であると何の疑念もなく受け取りました。
ですが、《はらわたを暗さと思ふ柚子湯かな》の思う主体は〈私〉。金魚、鯰、海鼠という生命体ではなく、柚子湯は〈場〉だから、自然と「柚子湯にいて~思う」という流れで読むんですよね。読み返して一瞬あわてたのは、これはもしや、柚子湯が思っている句なのでは? 私は誤読したのでは? と。よく考えればあり得ないのでしょうが、そそっかしい性格なもので。
見開きに同じ型で解読が異なる句を載せたのはやはり作者の意図なのでしょうか。
佳世子◆
私も「……を……と思ふ……かな」という言い方には攝津幸彦句のパロディを思いました。とくに海鼠の句は、攝津句を強く感じました。でも、柚子湯の配合はパロディから離れてゆく感じがしました。「もの思う柚子湯」とは露ほども思いませんでした。
見開きにあえて載せたのは、読者サービスかもしれず、柚子湯のところは少しずらしたあしらいだったのかもしれませんね。
進行▼
これでひととおり旗を挙げ終えたわけです。さて、赤対白、どちらが勝ったのか。句によって好悪が分かれたケースもあるのですが、合計点は、佳世子さんもうさぎさんも、4対4のイーヴン。これ、作者の山田耕司さんが仕組んだ結果だとしたら、すごいですね。
あるいは、赤と白の配分で、読んだ人の俳人としてのタイプがわかるとか、性格がわかるとか。この句集には、その手のことは書いてありませんが、どこかで仕掛けが明かされるかもしれません。あるいは、仕掛けなど、ないのか。
おふたりには、もうすこしだけお付き合いいただきます。この句集『不純』をひとことで人に伝えるとしたら、どう表現されますか?
佳世子◆
軽やかならざるものを抱えつつも、人を喜ばせようと意匠を凝らし才気あふれたサービスをしてくれたような句集。
うさぎ◆
ひとことですか。おっぱいの真ん中に置くならこの一冊、とでも。
進行▼
ありがとうございます。最後に、もうひとつだけ。句集『不純』から一句選ぶとしたら?
うさぎ◆
ありすぎて困りますけれど、敢えての一句なら
うぐひすや順番が来て巴投げ
無性に好きです。前進する線がある地点でクルリと回転するという運動の永久のリフレイン。天上には伸びやかな鶯の鳴き声。説明の出来ないところが魅力、なんて逃げているようですが、とにかく読んでいてとても楽しくなります。
佳世子◆
私は、
挿す肉をゆびと思はば夏蜜柑
エロチックな描写に違いないけれど、騙し絵を見ているように知覚が刺激されるところがあって、句集『不純』への期待感が否応なく高められる奇妙な巻頭句だと思います。
進行▼
ありがとうございました。たいへんおもしろい話をお聞きできました。
2018-05-13
【週俳4月の俳句を読む】組み立て直された景 小久保佳世子
【週俳4月の俳句を読む】
組み立て直された景
小久保佳世子
うたごゑの天の高きを組み上ぐる 吉川創揮
重層的なうたごゑ。合唱、特に讃美歌でしょうか。聴覚が視覚を刺激し天上を描いた宗教画が見えてきます。
冬晴に靴音届く自転かな 同
やはり聴覚の句ですが、突然の「自転かな」によってだんだん「冬晴」はどうでもよくなってゆき、靴音が地球規模に大きくなるようです。
牡蠣啜る太陽吊りて薄き街 同
「薄き街」が奇妙で、太陽が紙のようで平面的な二次元の街をイメージしました。街に人の気配はなく、牡蠣を啜る音だけが聞えてきます。
闇つうと蛇の鼻腔を抜けて春 同
目立たない蛇の鼻腔が大きくクローズアップされています。この句から「戒壇巡り」の長い闇を抜けた時を思い出しました。闇と一体になって進んだ出口は確かに春でした。
蝶の脚たんぽぽの絮乱さずに 同
作者は見逃しがちなポイントに焦点を合わせ、たんぽぽの絮に触れそうで触れない蝶の脚の動きを発見し、性能のよいカメラがとらえた一瞬のような一句に仕上げています。
かなしみの耳の熱しよ紫木蓮 同
「目頭が熱くなる」は感覚的によくわかりますが、その時耳もまた熱くなっているのかもしれません。「かなしみの耳」は、紫木蓮の配合によって更につーんと熱くなるようです。
春眠やあこがれて鳥降りてくる 同
「あこがれて鳥降りてくる」は意外です。天空を領分とする鳥世界に人はあこがれますが、鳥が降りてくるのは地上への「あこがれ」だったなんて。「春眠や」の宙ぶらりん感は不思議にいいです。
水菜食む遣唐使船すずしく朱 同
復元の遣唐使船の鮮やかな朱。水菜の色彩と相まって海辺の涼しさを演出しています。
牛りんと匂ひ立ちたる桜かな 同
「匂い立つ」は、辞書によると(美しさなどで)あたりが輝くように感じられることなので、この牛はただの牛ではないらしい。季語中の季語の桜が上手い脇役の働きをして、神々しい牛の佇まいを浮き上がらせています。
割れて窓光なりけり燕 同
凝った修辞ですが嫌味はなく、言い古されたテーマを新しくしています。
「空」10句は、独自な空間把握によって従来の景が組み立て直されたような面白さがありました。
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2018-03-11
【週俳2月の俳句を読む】たかがビー玉されどビー玉 小久保佳世子
【週俳2月の俳句を読む】
たかがビー玉されどビー玉
小久保佳世子
ビー玉を落として跳ねて鳥渡る 川嶋健佑
ビー玉はガラスだから落としたら割れることも。でもこのビー玉は割れることもなくボールのように跳ねて、もしかしたらそのまま鳥になった?郷愁のビー玉はもう戻ってこないのです。
二の腕が摘まめて泣けてきて無月 川嶋健佑
石内都「肌理と写真」展。舞踏家大野一雄の皮膚のアップは凸凹の地表のようでグロテスクすれすれの迫力でした。大野一雄の来し方の時間が生々しく残酷に美しく刻印されたモノクロの皮膚。かなり刺激的だったあの写真を掲句からふっと思い出しました。
万国旗ずたずたにして冬に入る 川嶋健佑
国旗はそれぞれの国の背景がデザイン化されているので深入りすると面倒な気配がありますが、カラフルな旗が連なって風に揺れている風景はただただ楽し気で好きです。誰がずたずたにしたのでしょうか。静かな抗議の句として読みました。
山眠り難民白い波に散る 川嶋健佑
「海は燃えているか~イタリア最南端の小さな島~」(ジャン・フランコロージ監督)。
海を渡って島にやってくる難民たちの悲劇と島の穏やかな暮しが隣り合って進行している様子を描いたドキュメンタリーですが、特にサムエルという男の子や島民たちの素朴なリリシズムが印象的で、それが難民の溺死者の陰惨な映像をより際立たせ胸に迫ってくる映画でした。
私たちも時代の悲劇と交わることなく俳句を書いていると思うことがありますが、この句はあのナレーションも無かったドキュメンタリー映画のように読者に解釈をゆだねているようです。
ビー玉を拾い集めてある平和 川嶋健佑
子供の頃無くしたあのビー玉を拾い集めているのでしょうか? 作者にとってビー玉は世の邪悪の真反対のものなのかもしれません。たかがビー玉されどビー玉の平和力。分かるような気がします。
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2017-11-26
【週俳10月の俳句を読む】月の魔力 小久保佳世子
【週俳10月の俳句を読む】
月の魔力
小久保佳世子
月の出のフォーク逆さに使いおり 上森敦代
逆さ?フォークの裏を使うこと?だとしたらちょっと当り前なので逆さに使うのはやっぱり柄の部分かも。そうなると俄かに謎めく景が始まります。月が出て世界はさかさまになったのです。
宵待の壺の中から波の音 同
眼前に壺があってそこから波の音が聞こえてくるとしたら、いまが昼と夜の狭間だから。夜を待つ時、人は動物のように耳敏くなるのかもしれません。
白き尾を抱えて眠る小望月 同
白き尾を持つ生き物と言えば狐や猫が思い浮かびますが、白き尾そのものが生き物のような存在感があります。抱えていなければ喪ってしまいそう。
コンソメの匂いの残る良夜かな 同
コンソメは澄んだスープのこと。濁りがなく透き通ったスープは良夜の空気のようでもあります。作者は良夜の中にまだ残るスープの匂いを嗅ぎ分けているのです。
月の船父が手招きしておりぬ 同
月は何故か死の気配を漂わせます。父は、どこに「おいでおいで」と誘っているのでしょうか。行ってはいけないところのような。
十六夜を巡れば骨の軋みけり 同
きいきいとなる骨は舟の櫓の音のようです。十六夜を巡る白い骸骨のような舟が見えてきます。
錠剤のひとつ失せたる居待月 同
多分、錠剤のひとつは月を待つつれづれに飲んでしまったのでしょう。我知らずそんなことをしてしまうのも月の夜らしいことかもしれません。
ちぎれそうな月が男の上にあり 同
空から月が剥がれて落ちてくる光景でしょうか。不穏な月の下にいる男をじっと見ている作者のクールなまなざし、コワイ!
城山に残る山彦昼の月 同
山彦は山の神の声ともいわれているようです。城山には山彦のあれこれも伝承されているのだと思います。
襖絵の虎が水飲む十三夜 同
水飲む音まで聞こえてきそうな月夜です。
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2017-07-30
金原まさ子に死は似合わない 小久保佳世子
金原まさ子に死は似合わない
小久保佳世子
電話が鳴り、「あっ!来た」とわくわくしながらファクスを受け取り新しい俳句を見ては「わー凄い!」といつも驚かされていた、あれは確かに金原まさ子(敬称略)との蜜月の日々でした。
私が何故金原まさ子にブログを勧めたのか振り返ってみたい。
99歳で上梓した『遊戯の家』(金雀枝舎)編集のお手伝いでお会いしたのが、〈ナマ金原まさ子〉との濃い年月の始まりでした。何故か急激に親しくなり、「死んでも口外してはダメよ!」とびっくりするようなヒミツを打ち明けられたり、「コクボは清く正しく、だからね~」と突き放すように言われたりすることもありました。サービス精神とユーモアと毒がミックスされた金原まさ子の話術には、人をぐっと惹きつける力があり私はすぐ虜になりました。
東日本大震災後、金原まさ子は「俳句はヤメタ」と言うようになり、今思えば私はその言葉をストレートに受け止め過ぎたようです。その後、「そんなこと言ったかしら」ととぼけたりするので。
その頃の金原まさ子は『遊戯の家』を自らの集大成の句集として捉えていて、あれ以上の句集は出来ないと言うこともありました。もしあの凄い句集『遊戯の家』の続きが無いとしたら、それは何とも残念なことでした。
反面、俳句の新しい動きに敏感で、特に「週刊俳句」や「豈ウィークリー」は、熱心に読んでいて興奮気味で話題にすることも多かったのです。
私は金原まさ子は、ネットと相性が良いと直感しました。というより高齢者で好奇心の旺盛な人こそネットは必要と思うところがありました。
と言うのも、80代の後半からネットに親しみ、一人住まいの晩年を4人の子供たちと毎日メールのやりとりをしていた知人(池田澄子の母、偶々金原まさ子と同じ女学校に在籍)が、ぎりぎりまでネットのコミュニケーションを楽しんでいたことを素敵なことだと思っていたので、そういう気持ちが強くなっていったように思います。
その知人の場合は、キーボードもこなしていたけれど、100歳からはさすが無理なことなので、私が出来る範囲でサポートすれば可能なことだと思いました。
そして2011年6月頃、「ブログに毎日一句」を提案してみました。ネットの読者から発信者になるということは、流行に敏感な金原まさ子にとって魅力的なことだったと思います。俳句熱も再燃しどんどん句が送られてくるようになりました。それを曲りなりにも2017年まで継続させた力は紛れもなく金原まさ子の若さと好奇心に違いありません。正直、開設したもののブログ始まりの頃からすぐ終了の恐れがありました。100歳から毎日一句はハードなことに違いないと危惧したからです。しかし、それは杞憂でした。
金原まさ子は例外的な100歳だったのです。
送られてきた句の差し替えは数え切れず、それは金原まさ子が一句一句に決して手を抜くことがなかった証であり、私もだんだんブログ継続を当然のことと思うようになり、その更新作業はただただ楽しいものとなっていきました。
その後、ブログに載せた句を中心にした句集『カルナヴァル』(草思社)、エッセイ集『あら、もう102歳』(同)が誕生し、『カルナヴァル』は現代俳句協会賞特別賞を受賞します。
マスコミ出演、「豈」や「庫内灯」からも俳句依頼があるなどファンも増えてゆきました。特筆すべきなのは、これらの出来事がすべて100歳からのことだということです。
それまでにも金原まさ子ファンは居たに違いないのでブレークが遅すぎただけかもしれません。ただ、確かに金原まさ子は100歳からパワーアップしたと思っています。
棺に眠る金原まさ子は、ブログに掲載した106歳の誕生日の写真そのままでした。着物もあの着物です。「これは冗談よ!」とウインクでもしそうでした。
不謹慎なことですが不意に「金原まさ子に死は似合わない」と思いました。100歳から色んなことが始まったように、死から始まる金原まさ子がいるに違いないと思いました。
俳句史のみならず女性史に残るべき人だったと思っています。なんて、言ったら金原まさ子は「コクボはやっぱり何にも分かっていない、私は只のミーハーよ」って笑われそうですが。
分かりました。ヒミツは守りますから。さようならは言いません。
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2016-08-21
「オルガン」1号そして6号 小久保佳世子
「オルガン」1号そして6号
小久保佳世子
2015年の春、宮本佳世乃さんから出来立てほやほやの「オルガン」1号を手渡され、まだ深く読んではいなかった翌日、オルガンという言葉に誘われて次のような句が出来たことを憶えています。
オルガンにずれてブランコ揺れてゐる 佳世子
「オルガン」は明るくて遠近の広がりもある良いネーミングだと思いました。
「オルガン」1号は薄く、編集後記もなく、やや素っ気ない雑誌というのが第一印象でした。
その巻頭には
とあり、同人(生駒大祐 田島健一 鴇田智哉 宮本佳世乃 後に福田若之参加)共通の俳句観がこの言葉に籠められていると思いました。息をする、と言う。息をと。
でも息と、それをするものとは分けられない。
むしろ、息がする、と言ったほうがいい。
息が、するのだ。
俳句もまた、そうではないか。
俳句をするのではなく、俳句がするのだ。
俳句がする、4つのオルガン。
俳句がするオルガンとは、何の喩かと言えば作者と切り離せないそれぞれの作品に他ならないでしょう。作品は目的や意味に呪縛されない息のようなもの(切実なもの)でありたいということでしょうか。
「オルガン」は同人それぞれ2ページ分の作品発表、座談会を挟み後半にまた作品発表1ページという体裁になっていて、前半と後半に分けて発表するのは何故と気になりました。1号の場合後半の俳句は読んでいてどうも芭蕉、蕪村などが下敷きになっている?とだんだん気づく仕掛けでした。私はその試みを、古典と競い立つ気概と受け止めました。
あかときの芭蕉がふたりいる柳 田島健一
をととひや兵どもがちかちかす 鴇田智哉
梅一輪川下へ影伸びゆけり 宮本佳世乃
どういう流れで現俳壇の長老的存在の金子兜太が座談会のゲストとして選ばれたか興味あります。座談会のなかで、兜太は年長の中村草田男と社会性俳句や季題をめぐる論争を展開した若き日を語り、飯田龍太、森澄雄、鷹羽狩行を糾弾し、「オルガン」の俳句についてもそのやわらかさに物足りなさを表しています。既成の価値へ確執を醸す志が足りないということでしょうか。兜太ならそう言うかもしれませんが私は「オルガン」が決してヤワではないと思いました。何故なら「オルガン」には面白く読ませる力があったからです。その後入手した2~4号に触れて一層「オルガン」という存在に頼もしさを覚えました。例えば句集ほか震災詠、仕事、読者、視覚詩などをテーマに繰り広げられる座談会は、それぞれの同人の立ち位置の違いがはっきり分かり、それが対立項となるのではなく刺激として作用しているように思いました。兜太の座談会に生駒さんと福田さんが不参加だったことは、彼らの意志表示とも取れました。兜太が若き日に挑んだやり方とは違うけれど、「オルガン」を通じて彼らは自らの求める俳句を鍛えていると思いました。そのことを特に感じたのは、岸本尚毅句集『小』をテーマにした座談会です。この座談会による岸本尚毅俳句の読みは、新しいものでした。
福田「僕は『小』のなかで住んだり暮らしたりということはちょっと難しい気がする」生駒「一句のなかに新しさの核みたいなものがない作り方をしている」「参照項として虚子や爽波の真似をしているんだというよりは、俳句の真似をしているんですよね。型を使うっていうよりは、その延長線上にある型を創造していこうとしている」
鴇田「作者は墓から世界を眺めている感じはあるんじゃないかと思う」
田島「岸本さんの後ろに必ず保護者みたいな人がいる。虚子なのか、俳句そのものなのかわからないけど」
宮本「主人公のキャラクターに(トホホ感)(つぶやき感)をまず感じました」など、ある層に一定の影響力を持つと思われる岸本尚毅に対して、曇りのない率直なそれぞれの読みを展開しています。それは、そのまま自らの俳句作りに反映されているのだと思います。
「オルガン」6号から
来て夜は沖のしづけさ蝉の穴 生駒大祐
移民あつまり青鷺は風景に 田島健一
さかさまの蟻のめきめき歩く部屋 鴇田智哉
泊まる蛾と手の甲が毛まみれの僕 福田若之
ごつそりと舟虫がゐるシテの声 宮本佳世乃
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まだ6号(季刊)。これからオルガンがどのように化けてゆくかとても楽しみです。
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