2017-07-30

金原まさ子に死は似合わない 小久保佳世子

金原まさ子に死は似合わない

小久保佳世子


電話が鳴り、「あっ!来た」とわくわくしながらファクスを受け取り新しい俳句を見ては「わー凄い!」といつも驚かされていた、あれは確かに金原まさ子(敬称略)との蜜月の日々でした。

私が何故金原まさ子にブログを勧めたのか振り返ってみたい。

99歳で上梓した『遊戯の家』(金雀枝舎)編集のお手伝いでお会いしたのが、〈ナマ金原まさ子〉との濃い年月の始まりでした。何故か急激に親しくなり、「死んでも口外してはダメよ!」とびっくりするようなヒミツを打ち明けられたり、「コクボは清く正しく、だからね~」と突き放すように言われたりすることもありました。サービス精神とユーモアと毒がミックスされた金原まさ子の話術には、人をぐっと惹きつける力があり私はすぐ虜になりました。

東日本大震災後、金原まさ子は「俳句はヤメタ」と言うようになり、今思えば私はその言葉をストレートに受け止め過ぎたようです。その後、「そんなこと言ったかしら」ととぼけたりするので。

その頃の金原まさ子は『遊戯の家』を自らの集大成の句集として捉えていて、あれ以上の句集は出来ないと言うこともありました。もしあの凄い句集『遊戯の家』の続きが無いとしたら、それは何とも残念なことでした。

反面、俳句の新しい動きに敏感で、特に「週刊俳句」や「豈ウィークリー」は、熱心に読んでいて興奮気味で話題にすることも多かったのです。

私は金原まさ子は、ネットと相性が良いと直感しました。というより高齢者で好奇心の旺盛な人こそネットは必要と思うところがありました。

と言うのも、80代の後半からネットに親しみ、一人住まいの晩年を4人の子供たちと毎日メールのやりとりをしていた知人(池田澄子の母、偶々金原まさ子と同じ女学校に在籍)が、ぎりぎりまでネットのコミュニケーションを楽しんでいたことを素敵なことだと思っていたので、そういう気持ちが強くなっていったように思います。

その知人の場合は、キーボードもこなしていたけれど、100歳からはさすが無理なことなので、私が出来る範囲でサポートすれば可能なことだと思いました。

そして2011年6月頃、「ブログに毎日一句」を提案してみました。ネットの読者から発信者になるということは、流行に敏感な金原まさ子にとって魅力的なことだったと思います。俳句熱も再燃しどんどん句が送られてくるようになりました。それを曲りなりにも2017年まで継続させた力は紛れもなく金原まさ子の若さと好奇心に違いありません。正直、開設したもののブログ始まりの頃からすぐ終了の恐れがありました。100歳から毎日一句はハードなことに違いないと危惧したからです。しかし、それは杞憂でした。

金原まさ子は例外的な100歳だったのです。

送られてきた句の差し替えは数え切れず、それは金原まさ子が一句一句に決して手を抜くことがなかった証であり、私もだんだんブログ継続を当然のことと思うようになり、その更新作業はただただ楽しいものとなっていきました。

その後、ブログに載せた句を中心にした句集『カルナヴァル』(草思社)、エッセイ集『あら、もう102歳』(同)が誕生し、『カルナヴァル』は現代俳句協会賞特別賞を受賞します。

マスコミ出演、「豈」や「庫内灯」からも俳句依頼があるなどファンも増えてゆきました。特筆すべきなのは、これらの出来事がすべて100歳からのことだということです。

それまでにも金原まさ子ファンは居たに違いないのでブレークが遅すぎただけかもしれません。ただ、確かに金原まさ子は100歳からパワーアップしたと思っています。

棺に眠る金原まさ子は、ブログに掲載した106歳の誕生日の写真そのままでした。着物もあの着物です。「これは冗談よ!」とウインクでもしそうでした。

不謹慎なことですが不意に「金原まさ子に死は似合わない」と思いました。100歳から色んなことが始まったように、死から始まる金原まさ子がいるに違いないと思いました。

俳句史のみならず女性史に残るべき人だったと思っています。なんて、言ったら金原まさ子は「コクボはやっぱり何にも分かっていない、私は只のミーハーよ」って笑われそうですが。

分かりました。ヒミツは守りますから。さようならは言いません。

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