「オルガン」1号そして6号
小久保佳世子
2015年の春、宮本佳世乃さんから出来立てほやほやの「オルガン」1号を手渡され、まだ深く読んではいなかった翌日、オルガンという言葉に誘われて次のような句が出来たことを憶えています。
オルガンにずれてブランコ揺れてゐる 佳世子
「オルガン」は明るくて遠近の広がりもある良いネーミングだと思いました。
「オルガン」1号は薄く、編集後記もなく、やや素っ気ない雑誌というのが第一印象でした。
その巻頭には
とあり、同人(生駒大祐 田島健一 鴇田智哉 宮本佳世乃 後に福田若之参加)共通の俳句観がこの言葉に籠められていると思いました。息をする、と言う。息をと。
でも息と、それをするものとは分けられない。
むしろ、息がする、と言ったほうがいい。
息が、するのだ。
俳句もまた、そうではないか。
俳句をするのではなく、俳句がするのだ。
俳句がする、4つのオルガン。
俳句がするオルガンとは、何の喩かと言えば作者と切り離せないそれぞれの作品に他ならないでしょう。作品は目的や意味に呪縛されない息のようなもの(切実なもの)でありたいということでしょうか。
「オルガン」は同人それぞれ2ページ分の作品発表、座談会を挟み後半にまた作品発表1ページという体裁になっていて、前半と後半に分けて発表するのは何故と気になりました。1号の場合後半の俳句は読んでいてどうも芭蕉、蕪村などが下敷きになっている?とだんだん気づく仕掛けでした。私はその試みを、古典と競い立つ気概と受け止めました。
あかときの芭蕉がふたりいる柳 田島健一
をととひや兵どもがちかちかす 鴇田智哉
梅一輪川下へ影伸びゆけり 宮本佳世乃
どういう流れで現俳壇の長老的存在の金子兜太が座談会のゲストとして選ばれたか興味あります。座談会のなかで、兜太は年長の中村草田男と社会性俳句や季題をめぐる論争を展開した若き日を語り、飯田龍太、森澄雄、鷹羽狩行を糾弾し、「オルガン」の俳句についてもそのやわらかさに物足りなさを表しています。既成の価値へ確執を醸す志が足りないということでしょうか。兜太ならそう言うかもしれませんが私は「オルガン」が決してヤワではないと思いました。何故なら「オルガン」には面白く読ませる力があったからです。その後入手した2~4号に触れて一層「オルガン」という存在に頼もしさを覚えました。例えば句集ほか震災詠、仕事、読者、視覚詩などをテーマに繰り広げられる座談会は、それぞれの同人の立ち位置の違いがはっきり分かり、それが対立項となるのではなく刺激として作用しているように思いました。兜太の座談会に生駒さんと福田さんが不参加だったことは、彼らの意志表示とも取れました。兜太が若き日に挑んだやり方とは違うけれど、「オルガン」を通じて彼らは自らの求める俳句を鍛えていると思いました。そのことを特に感じたのは、岸本尚毅句集『小』をテーマにした座談会です。この座談会による岸本尚毅俳句の読みは、新しいものでした。
福田「僕は『小』のなかで住んだり暮らしたりということはちょっと難しい気がする」生駒「一句のなかに新しさの核みたいなものがない作り方をしている」「参照項として虚子や爽波の真似をしているんだというよりは、俳句の真似をしているんですよね。型を使うっていうよりは、その延長線上にある型を創造していこうとしている」
鴇田「作者は墓から世界を眺めている感じはあるんじゃないかと思う」
田島「岸本さんの後ろに必ず保護者みたいな人がいる。虚子なのか、俳句そのものなのかわからないけど」
宮本「主人公のキャラクターに(トホホ感)(つぶやき感)をまず感じました」など、ある層に一定の影響力を持つと思われる岸本尚毅に対して、曇りのない率直なそれぞれの読みを展開しています。それは、そのまま自らの俳句作りに反映されているのだと思います。
「オルガン」6号から
来て夜は沖のしづけさ蝉の穴 生駒大祐
移民あつまり青鷺は風景に 田島健一
さかさまの蟻のめきめき歩く部屋 鴇田智哉
泊まる蛾と手の甲が毛まみれの僕 福田若之
ごつそりと舟虫がゐるシテの声 宮本佳世乃
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まだ6号(季刊)。これからオルガンがどのように化けてゆくかとても楽しみです。
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