【週俳8月の俳句を読む】
あきらかに言葉から
鈴木茂雄
8月に発表された週刊俳句の作品を再読した。感想を書けと言われたからだが、各週にアップされた折に通読したときは一句も採っていなかった(採れなかった)のに、精読するとこれだけの作品をピックアップする結果となった。もし依頼がなかったら、これらの作品はあとから読んだ作品によって、いわば上書きされた状態になって、このさき話題にでもならないかぎり、わたしの中では意識下に沈んだままになっていただろう。すべきは再読、読み直してつくづくそう思った。
「清 水」進藤剛至
清水汲む零れぬやうにこぼしつつ
こほろぎの畳みそんずる翅に風
「引き潮」加田由美
理科室の鍵を返しに青葉木菟
追ひこさず追ひこされずに踊の輪
「ぽこと」鷲巣正徳
点滴のぽこと終はりぬ牽牛花
おんおんと酸素を吸へば月の前
「秋とオルガン」生駒大祐
覚えずのはかなさの秋来りけり
見せ消ちの秋をとどめて深吉野は
「あるいはねびめく」田島健一
かかりさるともだちいんび秋まつり
いることのまびわりかなし鬼やんま
「tv」鴇田智哉
めりめりとしたるパラソル状の祖父
かなかなのこゑの数だけある画像
「バックナンバー」福田若之
『週刊俳句』オルガンまるごとプロデュース号 テーマ詠「オルガン」
タイムマシンにたくさんの管風が鳴る
『オルガン』6号 テーマ詠「ゲーム」
冷蔵庫→孤独→クローン、でおしまい
「ひかる絃」宮本佳世乃
耳は目を追いかけてゐる川に月
ひかる絃肺胞がひらきゆく霧
「焦げる」岡野泰輔
九月の水着深田恭子でもなくて
時代が詩形に変化を求めているからだろうか、現代の俳句はあきらかに言葉から成り立とうとしているように思われる。平成俳句と言われるようになったあたりからさらにその思いを強くしている。俳句をして俳句は言葉から成り立っているというのは当然だと言われそうだが、そうではない。ここでは、これまでの俳句はコトバよりむしろ季語をコアにしたハイクという詩形の上に成り立ってきたいうことを強調しようとしている。
この俳句という表現形式の変遷を俯瞰的に眺めると、明治の子規の俳句革新以後、なにを表現してきたか、いかに表現してきたかを問うたとき、いつに俳句という詩形を創造することに、先人たちは腐心してきたように思われる。
高濱虚子、河東碧梧桐、飯田蛇笏、原石鼎、高野素十、右城暮石、中塚一碧樓、尾崎放哉、山口誓子、日野草城、三橋鷹女、橋本多佳子、西東三鬼、杉田久女、富澤赤黄男、高屋窓秋、石田波郷、渡辺白泉、高柳重信、阿部青鞋、 桂信子、飯田龍太、 金子兜太、鈴木六林男、佐藤鬼房、三橋敏雄、津沢マサ子、池田澄子、坪内稔典、等々枚挙にいとまはないが、すべてみな極めて個性的な詩形を創造してきた。(なぜここに長々と先行する俳人の名を列挙したか、それは個々の俳人の作品を具体的に思い浮かべて欲しかったからである。)
その俳人を俳人たらしめるのは「俳句を書くという表現の根拠を自ら問うこと」(「現代俳句小史」齋藤愼爾『現代俳句ハンドブック』所収)だとすると、はたして今日の俳句の書き手は何を根拠にこの俳句という表現形式の力を借りて書こうとしているのだろう。
そのヒントが、たとえば上掲の作品の中にある。同じハイクという表現形式でありながら、言葉の使い方の違いが一目瞭然だ。コトバ自身で成り立とうとしている作品とそうでない作品の差が歴然としている(優劣を云々しているのでは勿論ない)が、なかでも田島健一のコトバは、作者自身からも俳句そのものからも独り立ちしようとしていて、加藤郁乎的韻律でもなければ阿部完市的色調でもない詩を形作ろうとしている。誤解を恐れずに言うと、音楽に例えるならクラシックというよりジャズのアドリブ精神。それは有季定型が俳句という詩形の本質と疑わない俳人たちと一線を画していて、俳句という詩形の力を信ずるがゆえにコトバを過信せず、あるいは言葉の力を信ずるがゆえにハイクという詩形を過信しない、俳人・田島健一は思考的なバランス感覚のある人なのだろう。いま俳句という詩形に必要なのも、この思考的なバランス感覚なのかも知れない。
2016-09-11
【週俳8月の俳句を読む】あきらかに言葉から 鈴木茂雄
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