【週俳8月の俳句を読む】
もやもや中
栗山 心
一年程前から小説講座に通い始めた。講師は、歌人でもある作家の西崎憲先生なので、短詩形に造詣が深く、小説について考えることは俳句について考えることだったりもする。まだ数編の短編小説を仕上げた程度だが、俳句と小説の違いについては毎度、困惑している。
ネットで調べると、俳句は瞬間を小説は変化を描く、とか、凝縮させたものが俳句で細かく書くのが小説、単純に長さの違い、など色々な意見があるが、どれもそのようで反対のようで、またもやもやするのである。
看護師の胸に蜻蛉のボールペン 鷲巣正徳「ぽこと」
小説を書くには「フック」が必要だ、と習った。ちょっとした引っかかり、ということで、話に深みが出る。「看護師が蜻蛉の付いたボールペンを胸に挿していた」、小説ならここがフックになるところであり、ほんの一部分であるが、俳句はこれですべてだ。しかもこれは、おもちゃの蜻蛉ではなく、看護師が外から知らずに連れてきてしまった、本物の蜻蛉だろう。
おんおんと酸素を吸へば月の前 鷲巣正徳「ぽこと」
理科室の鍵を返しに青葉木菟 加田由美「引き潮」
どちらも行動しているのは「私」だが主語が無いので分かりにくい。俳句を知らない人には説明が必要なタイプの句。二句目「理科室の鍵」というノスタルジー。返しに行くのは、職員室か理科準備室か。昔の学校の理科室は、いつ行っても不気味だった。青葉木菟も何やら不穏な感じ。
蜩は胴がブラウン管である 鴇田智哉「tv」
言い切れる、話を完結出来る、という点では、俳句の経験が役に立った。どう詠んでも受け手に任せるしかない。それ故、俳句は各自勝手に鑑賞して想像力の翼を広げることが出来る。この句は、定型で季語もあるのに、何故か俳句らしくない。だが小説の冒頭の一文のような、強烈な印象と吸引力を持っている。ほら、この続きを小説にしてみたくなりませんか。
小説講座も新学期。俳句とは? 小説とは? またもやもやする日が始まる。
2016-09-11
【週俳8月の俳句を読む】もやもや中 栗山心
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