2016-12-04

評論で探る新しい俳句のかたち(3) 近代俳句と現代俳句の違いを20字以内で説明しなさい、的な 藤田哲史

評論で探る新しい俳句のかたち(3)
近代俳句と現代俳句の違いを20字以内で説明しなさい、的な

藤田哲史


よく似ている2つの俳句がある。

原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ   金子兜太
蟹歩き亡き人宛てにまだ来る文   波多野爽波

かたや「前衛」、かたや「伝統」の枠で捉えらえる俳人だけれど、死を主題として「蟹」を鍵に終末的なイメージを与える点でよく通じあっている。ともに大正生まれで、昭和の東京オリンピック開催前、「労働者の権利」「組合」という言葉がしっかりと効きめがあった(であろう)時代の作品。

金子兜太は「俳句造型論」で知られる前衛俳句の旗手の1人。社会性の強い作品は他にもあって、掲出句のほか「銀行員等朝より螢光す烏賊のごとく」もその1つだろうか。いっぽう虚子門下で、「俳句スポーツ説」「多作多捨」で知られる波多野爽波は、鍛錬による作句を意識して創作に向かった。昭和30年代ごろ前衛俳句作家たちと交わっていたからか、その影響もあるのだろうか。ちなみに金子兜太の「蟹」は、昭和30年刊行の『少年』に収録されていて、波多野爽波の「蟹」は昭和35年の作。波多野爽波に発想の出どころをぜひ訊ねてみたかった。

実のところ、構造から言えば、金子兜太の作品であっても、波多野爽波の作品であっても、近代俳句らしさなど微塵もない。「蟹」という季語とのいわゆる「取り合わせ」は、はっきりと現代俳句らしい構造をもっている。

(この2句以外にも昭和30年代とそれ以降の作品を詳細に見ていけば、ここに挙げた俳句構造が、派閥を問わず現在の俳句に受け継がれていっていることがわかるのだけれど、その説明はここでは省いておきたい)

近代俳句と現代俳句の違いを、かなりかなり大ざっぱに断定してしまえば、構造により詩性を表す意図があるか否かにある。

鶏頭の十四五本もありぬべし   正岡子規
赤い椿白い椿と落ちにけり   河東碧梧桐
流れゆく大根の葉の早さかな   高濱虚子
夏草に汽罐車の車輪来て止る   山口誓子
あを海へ煉瓦の壁が撃ち抜かれ   三橋敏雄

河東碧梧桐の印象明瞭な作品が近代俳句の代表格で、「写生」という文脈なしに作品を当たっていけば、三橋敏雄の作品のような新興俳句の作家たちの作品も含められるかもしれない。おそらく彼らの目指した詩性に(もちろん目指すところは各々に違いはあったろうけれど)「取り合わせ」による俳句らしさは必須でもなんでもなく、「取り合わせ」なしでも近代俳句を語ることができるだろう。

彼らは措辞に細心を注意を払ったし、内容以上の詩性の存在も信じていただろう。けれど、構造そのものに俳句の新しさがある、なんてことはほとんど意識していなかったんじゃなかろうか。

万有引力あり馬鈴薯にくぼみあり
   奥坂まや
 
2005年刊行の句集にあるこの作品も、「前衛俳句」とその時代が構造による詩性の表現を発見しなければ、まったく理解されないことになっていたんでは、と思うのです。つくづく。 

誤解しないでほしいのは、近代俳句を貶める気は全くないということだ。むしろ、俳句のハウツー本を読めば必ずといっていいほどどの本にも載っている「取り合わせ」が、今、あまりにも当たり前の技術になってしまっているがために、本当に表現に必須のものかどうかを問う機会があまりに少ないんじゃなかろうか。俳句即季語とその他の言葉の取り合わせ、もいい。けれど、それだけでもない。そういったことを近代俳句の秀句たちは改めて教えてくれる。

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