【週俳12月1月の俳句を読む】
愛すべき方向音痴
安岡麻佑
綺麗に並べられた俳句たちを眺めているとき、ふと、引きよせられる力を感じることがある。何ということもなく気になるのである。本能、というのだろうか。大袈裟に聞こえるかもしれないが、比喩ではない。まるで私がその句を好きだということを知っているかのように句が瞬いて見せる瞬間が確かにあるのだ。
闇白し幹が奥へと縦に続き 生駒大祐
闇白し、と切り出されるこの一句はすとんと、腑に落ちる感覚があった。この句においておそらく森や林の夜に訪れる少し水っぽくて纏わりついてくるような闇なのだろう。白っぽい重たい闇の中に木の幹が浮き上がるように奥へと連続し、縦へと積み重なっていく。闇というものは不思議なものだ。ぱっと見た瞬間はのっぺりとしたものなのに、段々と目に慣れていくうちにひそんでいる明るさがぼんやりと浮かび上がってくる。ふと引き寄せられたこの俳句もじっと立ち止まって見つめるうちに「奥へと縦に続き」という表現で闇の立体感がぼんやりと立ち上がるのである。
たとへば彼方の鳥たちを呼び戻す指笛 生駒大祐
私は指笛を吹くことができないから、指笛、と書いているだけで幼い憧れが呼び起こされてしまう。けれどこの指笛は少し風合いが違って聞こえる。その理由は「たとへば」にあるだろう。羊飼いの指笛で牧羊犬が走ってくるような景だったらここまでの引っ掛かりはないのだ。彼方に散らばっている鳥たちを呼び戻す。そんなありそうであり得ない一種のメルヘンのような景色を「たとへば」が可視的なものにしている。遠く広がる景色にむかって木霊する指笛にはたはたとさざめく鳥たちの羽音が聞こえてくる。引き合うような音の連鎖が世界をつくる。
海になつて鯨を出入りするといふ 中村安伸
まずは驚いた。鯨の中に海という循環を初めて見た気がしたのだ。確かに海水は鯨を出入りするものだ。がばりと開いた口の中から大量に流れ込み、潮を吹いて吐き出す。海の波の隙間を浮き沈みするような景色ならよく見かけるけれども海という大きなものが鯨の中を出入りするという表現は斬新だ。「といふ」というように、句中では作中主体の発言だということでまとめられているが、本当に海になって鯨の中を出入りしてしまうのかもしれない。そうなってしまってもいい、とすら思ってしまう。悠々と泳ぎ食事をし、生きている鯨のスケール感が躍動感と共に迫ってくる。
マフラーを編み国境の橋を編む 中村安伸
中村氏の句はこういった不意をつかれるような句が特徴的だった。マフラーと国境の橋に一見して繋がりはない。それなのに、どうしても気になる。マフラーを編み、一目ごとに結び目をつくっていくような、ただ、「編む」という行為の中にひそんでいる何かと何かを結ぶような行為。それが遠く離れた国と国の境目にかかる橋と共鳴して独特の空気を作っている。マフラーを編むという単調な行為の中で心が空に泳いでいくようなそんな光景まで浮かぶ。
暖炉燃ゆババ抜きのババひと周り 青柳 飛
勿論強烈な引力をもつ句も捨てがたいが、このようにしみじみと読める句もやはり戴きたい。ぱちぱちと小さな音が弾けている暖炉の活気を背景に黙って輪になってババ抜きをしている面々。このババ抜きはかなり真剣勝負なのだろうと思う。いや、次第に真剣勝負になっていってしまったというのが正しいだろうか。暖炉というものはそういう不思議さがある。
冬萌やいつもだれかが開くる窓 小関菜都子
冬の冷たい空気の中でも窓を開けるのが好きだ。この家族もそうなのだろう。きっとベランダに面した大きな窓。ぱたん、からから、と音がしてふと見ると誰かが窓を開けている。体温であたたかくなった部屋の窓を開けると風穴があいたように寂しさとくっきりした空気が流れ込んでくる。勿論暖かい空気は名残惜しいのだが、窓を開けている先にある冬萌が冷たくとも明るいあたたかさを添えてくれる。日々の暮らしの中のふとした気づきがぽつり、と存在している。
冬のベンチにも体が沿うてきた 西生ゆかり
公園や遊歩道のベンチは決まってプラスチックのような硬質な素材でできていて、塗装が剥げ落ちていたり木の葉が降りかかっていたりする。そんな冬のベンチにずっと坐っていて、そんなベンチと自分自身のぬくもりをわけあうように寄り添っている作者。腰かけた瞬間からお尻からしんしんと冷たさが伝わるベンチと体を分け合う独特の孤独、青春の一抹の寂しさがうっすらと漂っている。
脱ぎ捨てたものがかさこそ鳴っている 瀧村小奈生
この脱ぎ捨てたもの、はきっと服や靴だけではないのだろう。過去の自分を脱ぎ捨てるすがすがしさが詠まれた俳句は何度が見かけたことがあるが、その脱ぎ捨てたものに対する眼差しはなかなか見かけるものではない。しかもこの句の場合、脱ぎ捨てたものが「かさこそ」と語りかけてくるのだ。捨ててよかったのか。これから先をどうするのか。脱ぎ捨てたはいいけれどまだ逡巡している様子だ。明確な季語はなくとも、冬めいた物悲しい感情を感じるのである。
●
私は自他公認の方向音痴だ。頭の中の平たい地図にはそれまで通ったことのあるルートで行ったことのある場所と家が線で繋がっていて、それ以外の道の構造だとか立体的な地形だとかが抜け落ちているのである。一度行ったことのある場所への道のりでも必ず迷ってしまう。確かあそこにファミリーマートを右折して、あのイタリアンが左手に見えて、あれ、定食屋さんもあったっけな…というような映像的な覚え方をしているせいで、応用ができないのだ。しかもこれはほとんど無意識だ。なんとなくあれがあったような気がする、なんとなくこんな風景だったような気がする、そんなおぼろげな記憶の中で歩いている。(原因が分かっていても改善できないのが方向音痴なので、許してほしい。)急いでいるときの方向音痴ほど面倒な性質はないが、ゆったりと歩いているときはそうでもない。意外と似通っている街並みに自分の脳裏のどこかに引っかかっている目印をみつけたときは「ほら、やっぱり!ここにこれがあったでしょう?」と、すぅっと胸が晴れるような爽快感を感じる。どこにでもあるようなコンビニでもとても特別なものになる。方向音痴だからこそ、私の体のどこかに引っかかっている感覚を掴んだ時の感動はひとしおだ。
迷いやすい私にとって、引力をもっている俳句とはつまりそういうことだ。体のどこかで覚えている感覚、頭から離れて体の周辺に広く漂っている感情が目の前に、「こんな色で、こんな形で、こんな重さでしょう?」と語り掛けてくる。だからこそ、心から「よくぞ表現してくれた!」と手を打って共感することができるのだ。袋小路に迷い込んだ私を切り開いててくれるのはファミリーマートでもなく、イタリアンでもなく、言葉なのだと思う。うん、方向音痴、悪くない。
2017-02-12
【週俳12月1月の俳句を読む】 愛すべき方向音痴 安岡麻佑
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 comments:
コメントを投稿