2017-02-12

【週俳12月1月の俳句を読む】 不可視なる神秘 柴田健

【週俳12月1月の俳句を読む】
不可視なる神秘

柴田健


シュワキマセリ水中のもの不可視なり 生駒大祐

讃美歌「もろびとこぞりて」の歌詞の中に「主は来ませり」と三回歌う部分があることは知っている人も多いだろう。私はキリスト教の高校出身であるが、クリスマス礼拝でこの部分を歌う際ネタにしていた生徒をちらほら見かけた。意味を知らずに聞くとそれだけインパクトが強く独特だということであろう。この句ではあえてカタカナで表記することによってその独特さを印象付けている。

この句でもう一つ注目すべきなのは「水」である。「シュハキマセリ」というフレーズ・表記のインパクトに目を奪われがちであるが、この句に意味を持たせる過程において「水」は重要な役割を果たしている。キリストが宣教活動を行う以前、洗礼者ヨハネはヨルダン川の水によって洗礼を授けていた。今でも多くの教会で洗礼式の際水を用いており、中には身体を水に沈めるところもあるという。それだけキリスト教にとって水は神秘的な存在なのだろう。そんな神秘的な「水」の中にあるもの(神秘性)を「不可視なり」と言い切ったことで、クリスマスの讃美歌が流れている中でもキリスト教の神の存在を感じることが出来ない、という詠者の思いを読み取ることが出来るのだ。それがわかれば「シュワキマセリ」とカタカナで表記した理由がより明確にわかってくるだろう。

だが、この俳句はもう一つ真逆の解釈をすることもできる。多くの日本人は「シュワキマセリ」の意味を知らないということをあえてカタカナで表記することで表現し、上五で切れを生じさせている。もちろん詠者は俳句にしている時点でその意味を知っているわけである。「水中のもの不可視なり」の部分は、水中には神秘的な何かがあるがそれは目には見えないものであると断言しているとも読み取ることが出来る。この中七下五の解釈を上五にあててみると、他の人は「シュワキマセリ」の意味は知らず、クリスマスソングが流れている中ですらも「水」の中にいる神秘性に気を留めることはなくただクリスマスをイベントとしてだけ楽しんでいるが、詠者は水の中にいる目で見ることは出来ず信仰によってのみ見ることが出来る神秘的なものに気を留めることが出来る、というキリストを知らないクリスマスに対する皮肉と神への信仰を表した俳句とも読み取ることが出来るのではないだろうか。

この句はキリスト教徒から見ても、それ以外から見てもそれぞれの立場で解釈することが出来る俳句なのである。

襟立てて深海魚として街へ 青柳 飛

街が深海であると表現されているということは、この街は夜ではないかと想定される。百万ドルの夜景というように夜の街は上から見下ろすと確かに美しいこともある。だが、物事は上から見下ろすだけが美しい見方ではない。その中にもぐってみて初めて発見される美しさもあるのだ。襟を立てて夜の街にもぐり行く当てもなく彷徨う、そこは確かに多くは深海のように暗く危ない世界かもしれない、だがそこで味わえる美しさは上から見下ろしていては味わえないものなのである。

春近し小山のやうに盛るパスタ 小関菜都子 

「小山のやうに盛るパスタ」という表現は単にパスタの状態を表しているだけでなく、「小山」という単語自体からも春が近いことをほのかに漂わせている。また、まだ冬である「春近し」という季語がパスタが温かいことを想起させ、涎なくして読めない句としているのではないだろうか。

マフラーを編み国境の橋を編む 中村安伸

国境に橋を編むことは単純に物理的に橋を架けるということだけではない。例えば二つの国が同じ目標に向かって歩みだすとき、あるいは災害や内戦などで困っている国に対し他の国が手を差し伸べるときなどだ。そういった橋を編むという行為には愛が伴う。対して、祖母が編んだマフラーは単純に温かいだけでなく、そこには祖母の愛による温かさがある。国境に橋を編む愛はまるで祖母の愛のように優しく温かいものなのではないだろうか。


生駒大祐  10句 ≫読む

第508号 2017年1月15日
青柳 飛 襟立てて 10句 ≫読む
小関菜都子 空へ 10句 ≫読む

第509号 2017年1月22日 
中村安伸 狐の鍵 10句 ≫読む
西生ゆかり ままごとの人参 10句 ≫読む

瀧村小奈生 いいにおい 10句 ≫読む

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