2017-03-19

評論で探る新しい俳句のかたち(14) 仮名遣いと想定読者 藤田哲史

評論で探る新しい俳句のかたち(14)
仮名遣いと想定読者

藤田哲史



仮名遣いついて少し。

発端は2016年12月28日の俳人島田牙城さんのツイートだ。

今、自分の散文集を作り始めていて、(評論でも随筆でもなく、書き散らかしです)、正字・歴史仮名なんだけど、ゲラの段階で仲間に人気がない。
一度聞きたかったのだけど、なんで若い人は歴史仮名遣いで俳句書くの?
学生俳人の8割が歴史仮名遣い、という印象なのだけれど、どういう信念からなの?

表現するうえでなんとなく現代仮名遣いでなく歴史的仮名遣いを選んでいはしないか、という投げかけだ。

このあと牙城さんと何人かの人とやりとりは続いて、「現代仮名遣の人には信念いらんのですよ。いつもの仮名遣ですから、で終わり。」とも牙城さんは書いている。

文字数が限られるツイッターからは、牙城さんのいう「信念」がどんなものかははっきりとわからなかったが、仮名遣いについて再考する機会になったことは、ありがたい。



歴史的仮名遣いは、江戸時代に国学者によって古文献を基に整理された仮名遣いを指す。契沖仮名遣いともいう。一方現代仮名遣いは、昭和21年の内閣告示によるもの。現在の日本語の標準的な仮名遣いだ。

歴史的仮名遣いにせよ、現代仮名遣いにせよ、発音と表記のずれについての自覚があって、それを規定化するためのものといえる。そして、現在俳句を表記するとき私たちは原則このどちらかを用いている。



仮名遣いの選択に信念が必要かどうかはさておき、仮名遣いからは、少なくとも作者の想定する読者がどんな人か伺うことができる。

想定する読者が歴史的仮名遣い表記の俳句に親しんだ人なのか、それとも現代仮名遣いでないと違和感を感じるような人なのか。自分の俳句を読む読者がどちらの仮名遣いになじみがあるか、という点への配慮によって仮名遣いは選択されうる。歴史的仮名遣いで俳句を書く人を読者に想定した場合、自分も自然と歴史的仮名遣いを採用する、というのはごく自然なことだ。



ところで、これは全く直観的なのだけれど、歴史的仮名遣いが生む表現、というのがある。

言い換えると、歴史的仮名遣いだからこそ成り立つ表現、ふだんから歴史的仮名遣いで書いているからこそ思いつく表現。そんな表現は経験上たしかにある。

たとえば

妻がゐて夜長を言へりさう思ふ  森澄雄

は、その最たるものといえる。ある秋の夜の仲睦まじい夫婦のやり取り。その話題のなかには卑近なものもあったかもしれないが、歴史的仮名遣いの視覚的な婉曲表現としての効果か、この俳句には現実のなまぐささが感じられない。

このほか歴史的仮名遣いが可能にした表現というものを思いつくままに挙げれば、

   春の水とは濡れてゐるみづのこと  長谷川櫂
   ふはふはのふくろふの子のふかれをり  小澤 實

などがそうだろうか。「水」を「みづ」とし「梟」を「ふくろふ」としたことによる視覚的効果がたしかにある。

   落ちそしてとほく梢とかよへる葉  生駒大祐

最近の週刊俳句から。「かよへる」は、気持ちが通じあっているの意味か。表意文字の漢字を用いて「落ちそして遠く梢と通へる葉」とすると、その歴史的仮名遣い独特の視覚的効果がよくわかる。



とはいえ、歴史的仮名遣いの視覚的効果には限界がある。それは可読性の乏しさだ(つまり、読みづらい)。「落ちそして~」の俳句が作品として成り立つのは、想定されている読者を歴史的仮名遣いを難なく読みこなすことができる読者に限っているからだ。

読者を限ってしまうことがいいことなのか、そしてまたどの程度限るべきなのか。

たしかに今以上に歴史的仮名遣いが使いこなせる人が増える見込みのない世界で、歴史的仮名遣いを採用するのは、ふつうの感覚から言ってたしかに特別な理由が要るのかもしれない。

それを牙城さんのように「信念」と呼ぶかどうかはともかく、だ。

4 コメント:

三本 さんのコメント...

どっちかというと、俳壇内部だと歴史的仮名遣いのほうが「信念がいらない」ような気がします。
歴史的仮名遣いはコスプレといった意見もあるように、歴史的仮名遣いは割と簡便に「俳句っぽさ」を演出できるからです。下駄をはかせられるとでもいいますか。
現代仮名遣いに限るということは、そういった演出効果を捨てることになります。その代り、俳壇の外に対してはオープンになりやすい。
つまり俳壇内外への姿勢の違いがある程度反映しているとみるのは、うがち過ぎでしょうか。

あまのらくえん さんのコメント...

歴史的仮名遣いと文語の親和性も大きいかと。
俳句の短さもあり、「出ず」「出づ」などの区別が一目でつかないと不便。現代仮名遣いだと何度読んでもどちらの事か判明しない事もあり得る。
俳句が口語主体になれば、現代仮名遣いがもう少し流行るだろうが、俳句の短さゆえに(字数の多くなってしまう口語に比べ)文語優位は動きそうにもない。よって、歴史的仮名遣いの優位も動きそうにもない。
これに関してついでに挙げておきたいのは、仮名遣いに関する内閣告示(これが唯一の文法的根拠)でも、現代仮名遣いは現代口語用と書かれている点(もちろん現代口語に歴史的仮名遣いを用いるのは間違いではない。逆に、文語や昔の口語を現代仮名遣いで表記するのは内閣告示に全く基づかない文法のモンスター)。つまり、現代口語でなければ歴史的仮名遣いで書くのはある意味当然であり、文語が9割以上である俳句の世界で歴史的仮名遣いを用いるのは至って普通な考え。
どちらの仮名遣いを使っても、信念の問題ではない気が。

えーと さんのコメント...

「現代仮名遣い」に関する内閣告示には「科学、技術、芸術その他の各種専門分野や個々人の表記にまで及ぼそうとするものではなく」とありますが…。

あまのらくえん さんのコメント...

えーとさんがお書きの事(現代仮名遣いの使用範囲は限定されているという意味で、そもそも芸術等の分野では現代口語であっても現代仮名遣いを用いる必要はないという意味です。文語自体に関しては、いかなる分野でも現代仮名遣いの適用範囲外です)があるからこそ、なおさら俳句における文語を現代仮名遣いでするのはおかしいのです。