2017-05-07

天蓋または皮膚 小津夜景『フラワーズ・カンフー』論 竹岡一郎

天蓋または皮膚
小津夜景フラワーズ・カンフー』論

竹岡一郎

『びーぐる』第35号(平成29年4月20日発行)より転載

小津夜景の句集『フラワーズ・カンフー』(ふらんす堂、2016年10月)について、私は最初、否定的であった。その認識を変えたのは、関悦史である。彼と電話で四時間近く議論した、その要旨を挙げる。

竹岡:本歌取りが目立つ。「スプーンの硬さ泉にかほがあり」「戸は萩にわれは仮寝に酔うてをり」「夜の桃とみれば乙女のされかうべ」「葱の世にひとりよがりの陽だまりだ」「長き夜の memento mori の m の襞」「戦争のながき廊下よクリスマス」「トナカイの翼よあれがドヤの灯だ」は各々、「泉の底に一本の匙夏了る 飯島晴子」「一つ家に遊女もねたり萩と月 松尾芭蕉」「中年や遠くみのれる夜の桃 西東三鬼」「夢の世に葱を作りて寂しさよ 永田耕衣」「死の襞をはらへばひとつ籾落ちぬ  河原枇杷男」「戦争が廊下の奥に立つてゐた 渡邊白泉」「翼よあれがパリの灯だ リンドバーグ」を踏まえているのだろうが、原句を茶化すような処が匂う。これはパロディではないのか。

:いや、プレテクストからテクストを生み出すというよりも、間テクスト性それ自体に語らせようとしている感じがする。夜景句は未完結性による批評性がむしろ魅力なので、そのなかではこれらはパロディ的な批評性が生で出ている分、解り易すぎる部類。

竹岡:スプーンの句、襞の句は抒情性への批評、萩の句は遊女側からの見解、葱の句は禅臭への批評、翼の句は大きな物語を共有する事への批判、戦争の句は終わりのないテロ戦争の批評と取ることはできる。しかし、本歌取りでない句でも全ての言葉が動く気がする。名詞でさえも交換可能ではないか。例えば、「重力のはじめの虹は疵ならむ」はトマス・ピンチョンの「重力の虹」を意識しているのだろうが、重力は斥力であっても良いし、虹と疵は交換可能ではないのか。「風鈴のひしめく空を食べあます」は、「錫杖」でも「掃きあます」でも良くないか。しかし名詞を変えれば、そもそも因って立つ処の俳人格自体が別人になるか。とはいえ、こういう作り方なら量産可能ではないか。例えば、シュルレアリズムの「優雅な死骸」のように。

:「優雅な死骸」は今でいえば人工知能によって俳句を作るやり方だが、実際に人工知能によって作ると、無数に下らない句が出来るだけだ。言葉の選択は行われている。夜景句は従来の思考とは異なる処から発生している気がする。名詞が交換可能か否かの論議は別として、その危うく動いて見える観が却って魅力ではないか。

竹岡:しかし立句の精神がない。俳句は屹立していなければ、歳月に耐えられない。

:基準を変えろ。ブロンズ像を鑑賞する基準でモビールの批判をされても困る。恐らく、制作原理からして従来とは異なる地点に立っている筈だ。

竹岡:しかし、モビールであっても重心は存在するはずだ。

:その重心、言い換えるなら、作者の狙いが、非常に見えにくい、不定形な感触と言おうか。主知的な作風はえてして技が見えやすいものだが、夜景句はどこから出てくるのか謎なところがある。作曲家で言うなら、エネスコの正体不明な不定形な妖しい生気とフォーレの瀟洒とケージのあっけらかんとしたユーモラスな偶発性を足して割ったような。君はさっき量産可能だと言ったが、これを真似するのは至難の業で、下手に真似すると、阿部完市を真似るように、結局、夜景に取り込まれてしまう。個々の句を真似ることはできても全体のテイストは真似できない。真似へと誘惑しながらその不可能性を味わわせるのはある種、傑作の条件でもある。

竹岡:ケージの偶発性の喩えはわかる。空白性ともいえる。「あたたかなたぶららさなり雨のふる」は、アルヴォ・ペルトの「タブラ・ラサ」か。しかしペルトに感じるような、いわば「鳩の薄闇」、夜明け前の永劫に続くような昏さとはまるで違う。言葉の組み立て方は阿部青鞋に似ているような気もする。例えば、「ほうと吐き一糸まとはぬ月自身」「ナフタリンのやうだ二人は抱きあつて」「丸をただひとつ残せし声なりき」には、青鞋の「虹自身時間はありと思いけり」「公園のさびしさ立錐形のキス」や「半円をかきおそろしくなりぬ」を思うが、決定的に違うのは、青鞋が自我の黄昏色へ凝縮してゆくのに対し、夜景は白く拡散してゆくことだ。「タブラ・ラサ」の意味である「白紙」を思わせる。

:そう、ナフタリンは消えてしまうし、声も然りだ。青鞋は逆に空虚なものを言葉でブロンズ化している。青鞋とは違う。

竹岡:明るすぎる。構造がないように見えるほど明るく映る処、この捉えどころのない幸福感が、俺は気に障るのか。頭部に呪いを刻まれた弾丸であるべき俳句は、未完であり不定形であり漂い続ける俳句を訝しむものだ。

:大震災の後、私は虚構のまとまりを追う気力が無くなって小説が読めなくなり、その後、初めて気持ちよく通読できたのがレーモン・クノー『あなたまかせのお話』だった。あの断片性とナンセンスがある種の救いになったように、『フラワーズ・カンフー』の幸福感も何らかの条件下で、あの現実捨象ゆえに現実と切り結んで「効く」可能性がある。

竹岡:慰撫する力ということか。クノーのナンセンス性に、慰撫の力があると?

:夜景句はナンセンスを狙っている訳ではなく、ある指向性はあると思う。ただ狙っている方向を抽出するのが非常に難しい。「語りそこなつた一つの手を握る」は優れた句だと思わないか。一見迂遠な批評性を通して初めて出てくる生々しさがある。

竹岡:確かに優れた句だ。夜景句の背景となる思考を象徴するような句でもある。恐らく言葉は永遠に事物を指し示す事は出来ないという、その語りそこなう現実への愛撫なのだ。では、その方向性を抽出してみよう。

と大見栄を切ってみたものの、抽出し解析する作業はかなり難しい。

言の葉に効く毒抜きはいらんかね

この句に意外と作者の本音が現れている気がする。恐らく言葉の持つ「意味」を「毒」と考え、その毒を取り除きたい欲求があるのだと思う。私は先に「パロディ」と貶したが、実は日本文学の一峰は批評性の文学にある。芥川龍之介の「杜子春」にせよ、太宰治の「駆込み訴え」や「カチカチ山」にせよ、みな出典があり、パロディの一種であるが、出典を超えて独自の見解と詩的感興に満ちている。

この句集最大の収穫はⅢ章の「天蓋に埋もれる家」「出アバラヤ記」であろう。

刻々と〈ごとく〉のやうに此処にゐて

「犬」という言葉は実は「犬」という実際の動物ではない。言葉は全て「如く」である。私という存在も言葉によって思考し存在を確認する以上、その時々に「如く」のようでしかありえない。「発語して光をにごす須臾となる」も同じ悲しみであって、発語は常に事物の透明性を濁す。須臾、暫くの間であっても。成文文化は常に眼前の世界と乖離するからだ。尤も、この「須臾」は文明の発生から滅亡の時間を指しているかもしれない。

まつしろな瞼を下ろす万華鏡

まなぶたはとぢて硝子のばくてりあ

では、言葉の無い世界において人間は事実を見ることが出来るだろうか。人間の文化の九割方が視覚に依るなら、やはり見ること自体も世界から乖離する運命にあるかもしれぬ。白紙の瞼の内に見える世界は、如何に彩なそうとも鏡像に過ぎず、眼球の硝子体は気付かぬ内に硝子体とは似て非なるモノに侵蝕されているかもしれぬ。「硝子藻を夜もすがら食(を)すしろきもの」も、水槽のガラス面に繁殖する藻を食うモノは、飼われている魚だろうが、深読みするなら硝子は観照する眼球、藻は観照を妨げるもの、白きものは白紙を志す作者の精神かもしれぬ。「夜もすがら」、永劫の闇に視力を得んと勤めるのだ。

嘔吐(もしわれ影でない何かなら)

サルトルの「嘔吐」を思う。自己の運命は自己に決定権があるとするサルトルに対して、運命は関係性により決定されるとする態度だろうか。自己が何かの影であるなら、決定権は自己にはない。「影である」とは、自らが、様々な原因と関係性によって仮に集合しては拡散するものに過ぎないとの謂だろう。

永遠はうごく剝製 蔦の手を

剝製=(生けるが如く保存された死)のモビール性が語られている。興味深いのはむしろ一字空けて漸く置かれる「蔦の手を」である。這い上り絡みつき固定する志向を持つ蔦を置いたことから、作者の句の特色である「モビール性」が巧まれたものではなく、作者にもどうしようもない流れであることが窺える。

森ゆるくかたまる夜のしつけ糸

忘却は星いつぱいの料理店

白き夜のことばは小鳩さまよはむ

本当はこの辺りを書きたいのではないかと思う。というのも、ここには批評性は影を潜め、ただひたすらに美しい景が描かれるからだ。いずれも夜の景であり、眠りの中の当ての無い旅のようだ。とはいえ夜は必ず明ける。

箒星ほろびうすべに色の野辺

この一見明快な夜明けの景に漂う悲しみとも清々しさともつかぬものは何だろう。彗星という荒魂の、野辺にとっての理想の死がここに描かれているような気がする。野辺はその色から、まどろむ女性性であろうか。

凍蝶をはがしあふ日のふるへる眼

ここで凍蝶はまるで美しい瘡蓋、傷を庇う牲のようだ。「まなぶたのかさぶためきて年深し」なる痛ましい句も、Ⅰ章にある。合わせ読むと、観る事の苦痛が浮かび上がるように思う。凍蝶の句においては、観る行為は二人という関係性においてなされている。

たましひにばねある刑やあたたかし

サルトルの「人は自由の刑に処せられている」を踏まえているか。運命が関係性、言い換えれば無数に犇く業の歯車の組合せによって生じるとして、運命を打ち破るには強大な跳躍力がいる。そこを気張らずにふわりと跳躍してみたい、そんな美しくも儚い夢想なのだと解釈すれば、季語は良く利いている。

わたくしは空き家であると名を告げり

あばらやがのつぺらぼうと戯れてゐる

空き家もあばら家も、共に空白の破れやすい肉体であろう。のっぺらぼうは、自己を未決定に止め置く認識か。期せずしてここに匂う、永劫に吊り下げられているような、今生全てが猶予期間であるような惨たらしさは何か。円環は予め閉じられていると認識しているのか。のっぺらぼうが作者の一番正確な自画像かもしれず、この自己認識に制作原理があるかもしれぬ。

北開くしかばねかんむりの家で

尸(しかばねかんむり)は人が横たわっている形状で死体を表す。履物、尿などの排泄物、また广(あさかんむり)と混用されて家を覆う部位(「屋」等)にも用いられる。掲句は実際の家屋と、人体という「精神の家」を重ねていると読んでよいだろう。季語は春であるが、中七下五ゆえに「北」だけが強調され、良い意味で季感を裏切っている。

そびゆべし囀はわが死後の木に

下村槐太の「わが死後に無花果を食ふ男ゐて」の茫洋とした寂しさと比べると、随分明るく恍惚たる死後だ。掲句が句集中で異様なのは、他の句ではベクトルは水平であるのに対し、この句のベクトルは垂直に上昇しているからだ。言い換えるなら、この句だけがブロンズ像たらんとする動機を持つ。Ⅱ章の「フラワーズ・カンフー」中の次の句群を読むと奇妙に涙したくなるのは、ブロンズ像的な何かの崩壊を見てしまうせいだろうか。

ぬつ殺しあつて死合はせ委員会

朱に染まる臍(ほぞ)に残花をふらせよう

白骨となりそこねてや夢のハム

明るくアナーキーな捨身といえようか。「ぬっ殺す」は「ぶっ殺す」を茶化した現代訛り、「死合わせ」は死に至る立ち合い、「委員会」は死合を幸せと見なす共有意識。臍は死穴であり、中有と今生とを繋ぐ門、霊を肉へと結び直す穴でもある。残花は残心の花、臍より今生が断ち切れた相手への哀悼でもある。死合とは相手の屹立を喰い肉を壊す事、ハムとは食用肉、そのハムの憧れ、屹立する幻の白骨。この三句は無論、パロディであろう。捨身でなければ勝てず生きられない立合への風刺であり、だが、立合う者はその滑稽さにとうに気付きつつ、そこにしか日々の錬磨と苦痛の意味を見出せないので、挑まれれば立合い、また生き残り白骨となり損ねた事に呆と立ち尽くす。

語りそこなつたひとつの手をにぎる

先に関悦史との対話の中で述べたが、なお補足するなら、関が「生々しさ」と表現したのは恐らく「にぎる」の一語による。あらゆるものは語りそこなう。自身も対話の相手もまた語りそこなう。それでも相手の手を握る。それは言葉に拠るものでもなく、見る事に拠るものでもない、やむにやまれぬ身体で世界と接触するのだ。

夢殿やくらげの脚をくしけづる

くらげらの声をひかりは書きしるす

くらげみな廃墟とならむ夢のあと

作者が己の在り方、世界との関わり方をくらげの如く不定形に漂うモノとして認識しているなら、納得できる。くらげはのっぺらぼうで、平衡胞により重力方向を知り、眼点により光刺激を受ける。重力と光に反応する生きたモビールと考えても良い。一句目は言葉の組み立て方、二句目は句の雰囲気を自ら批評しているか。ならば、三句目を句集の掉尾に置く行為は、自らの有り方に対する容赦ない批評と観ることが出来る。なぜなら、くらげは水と消えても廃墟となることはない。水と消える言葉、水と消える思考、ひいては水と消える己を廃墟として残そうという不可能性を「夢のあと」になお夢見ている。先の対話で、夜景句における詞の交換可能性を述べたが、ここまでの解析の結果、「風鈴のひしめく空を食べあます」「重力のはじめの虹は疵ならむ」の各詞は、実は動かない。風鈴=(須臾に発語する人造のくらげ)と見、「海にひしめくくらげらを廃墟として余す」と考え、その重力の方向を変え、天地を逆転すると、風鈴のひしめく空が現出する。くらげの行動原理を、虹=彩なす光と重力への反射と見れば、くらげの受想行識を引き出す光と重力は、くらげの実存における疵となる。

別のかたちだけど生きてゐますから

レヴィナスの「存在するとは別の仕方で」を思う。掲句は死とも死者とも言わない。あくまでも「生きている」という。生きるとは「思弁する」の謂であるなら、死後も「生きている」。魂は分裂し、断片は融合し、思惟は長夜に足踏みし続ける。「別のかたち」という言葉に、アリス症候群をも思う。空間、事物、全身或いは体の一部が不意に拡大または縮小するように感じられる症状で、幼年期に始まり、多くは自然に消えるらしい。消えない場合も、恐怖には慣れる。世界との距離が摑めなくとも生きてはいける。瞼を閉じれば、身体感覚の異常だけが際立つ。拡大と縮小が同時に起こる事もある。極小の己と極大の己との間の遥かな空白に、世界全体が収まる時がある。空白は時に星間のように暗黒で、世界は幾十にも重なるベールだ。多くの予め完結する世界自体が、一枚ずつのベールであり層なのだ。その狭間に蟠り湧き立ち渦巻く数多の死霊生霊、或いはどちらでもない霊たち。彼らの息遣いが、空想か脳の器質異常の産物なら良いのだが。周囲と身体の野放図な拡大と縮小の結果、世界と私は侵蝕し合う。世界は私に憑依し、私は世界に憑依する。

広すぎて果てが見えないやうな、狭すぎて息もできないやうな、まるで天蓋にめりこんでしまつたやうな、この家とは。
ここがすべてを呑み込むせゐで、私は世界の外をうしなひ、私は孤独な世界になつた

『天蓋に埋もれる家』中の散文である。これが文学的比喩でなく、実際の身体感覚なら、解る。肉体は無限に変化する。感受作用も無限に変化し、表象、意志、認識の作用も然りだ。私は囁いてみる。不死あるいは不老が最上なのではない。不生こそが恐らく最上なのだ。

(了)

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