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2026-07-19

柴田千晶〔俳句の沃土〕獄に灯る 舟として地獄に灯る夏布団 竹岡一郎

〔俳句の沃土〕
地獄に灯る
舟として地獄に灯る夏布団 竹岡一郎

柴田千晶
『みらいらん』第4号(2019年夏)より転載

シナリオの師、馬場当はよく地獄の話をした。終わりの見えない階段をずっと降りてゆくと、死んだ母親が電信柱に生まれ変わっていたとか。先生が話す地獄の景色は、現実の景色とそう変わりがなくて、ただ死んだ人が、郵便ポストになっていたり、バス停や自転車、切り株なんかになって、日常に紛れていた。先生は、もう人に生まれ変わりたくないと思っていたのかもしれない。

竹岡一郎『けものの苗』の世界は、馬場先生が話していた地獄と少し似ている。冒頭の句、ただ夏布団に寝ていたはずなのに、いつの間にか地獄を漂う舟に乗っている。竹岡の俳句には、夢と現の境、この世とあの世の境がない。

句集に登場する動物や虫や草たちは、かつては人であったのかもしれない。

蛇となる途中の廊下拭き磨く

雑巾がけをしているうちに、廊下が蛇に変わる。いや、廊下の途中で人の方が蛇になるのかも。もうすぐ蛇になると思いながら廊下を拭いているほうがいい。ぴかぴかに磨いた廊下には、蛇になりかけている自分の顔が映っていて、もう人ではいられない悲しみがこみあげてくる。

でも蛇になってしまえば、人であった記憶はきっと消えている。

竹岡はその消えた記憶を手繰り、懐かしんでいる。「狐わらし」の章の扉には〈十三歳の私を迎えに来た母は狐であった〉という詞書がある。母と子の再会の場面を描いた十六句は童話のよう。

狐詫ぶ人の世に吾を置きしこと

白き尾に夜をくるみけり狐の母

狐跳び月嚙み取って呉れにけり

町の灯がみんな狐火住む人も

人に還り狐の言葉もうわからぬ

子を人の世に置き去りにし、十三年後に迎えに来た母狐。人目を避けるために夜を白い尾でくるんだり、月を嚙み散って子にやったり。母狐は離ればなれでいた時間を必死で埋めようとしているよう。けれど、子狐は人の世に戻ってしまい、もう母の言葉がわからない。

どうしようもない淋しさ。存在の不安のようなものが、俳句として立ち上がる。

紅蓮なす世の突端は尺蠖立つ

蟒蛇の舌に東京熔けても綺麗

蛸だらけなる廃園を逃げ惑ふ

朧より生れし巨艦が東京へ

ミサイルの光と知らず草ひばり

陥落の町の真中に撮られ家族

紅蓮なす世も、熔けた東京も、蛸だらけの廃園も異様な景色だ。東京は壊滅し、きっともう人は生きていない。

ではこの記憶は、だれのものなのか。

地獄に灯る夏布団に何かが乗っている。


竹岡一郎『けものの苗』2018年/ふらんす堂

2024-06-30

追悼・竹岡一郎 リンク集 

追悼・竹岡一郎 リンク集



6月21日、竹岡一郎さんが急逝されました。

ついこのあいだ、週刊俳句/ウラハイへの寄稿についてメールをやりとりしたところでしたので、たいへん驚き、衝撃を受けています。

小誌を遡ると、竹岡一郎さんの週刊俳句への最初の寄稿は2012年5月13日。その年の3月に「10句」の寄稿を依頼させていただいたことがメールに残っています。

竹岡さんから、諾の返信と併せて、「十句限定ですか」との問い合わせ。「10句以上でも結構です」と返答したところ、何通かのやりとりがあり(竹岡さんにとっては初めての媒体なので確認したいことがいくつかあったようです)、やがて「100句超えました」のメール! こんなことは後にも先にもこのときだけなので、なんだか、こちらも高揚してきて、「大いに期待が高まります」と返信。

果たして、締切の5月に届いた「比良坂變」は圧巻の153句。

これが竹岡一郎さんと週刊俳句の付き合いの始まりでした。その後も、精力的な執筆はとどまることがなく、小誌がその受け皿のひとつになれたであろうことは、大きな喜びであり、誇りと言ってもいいでしょう。

以下は、竹岡一郎さんの週刊俳句への寄稿のリンク集です。漏れがあるかもしれませんが、御海容のほどを。当記事の体裁に瑕疵がある場合(フォントの乱れなど)も、ご容赦を。

拾ってみると、俳句作品も、評論も、思った以上に膨大です。竹岡一郎さんは、週刊俳句に、これだけのものを残してくれた。リンク集を眺めていると、あらためて、感謝の気持ちが湧いてきます。

(西原天気・記)


■竹岡一郎 比良坂變 153句 ≫読む 第264号 2012年5月13日

■神人合一論 10句 ≫読む 第302号 2013年2月3日

■炎帝よなべて地獄は事も無し 30句 ≫読む 第430号 2015年7月19日

■進(スス)メ非時(トキジク)悲(ヒ)ノ霊(タマ)ダ
前篇:舌もてどくどくする水平線を幾度なぞつてもふやけず諦めず舌が鳥になるまでパアマネントは褒めませう 30句 ≫読む 第446号 2015年11月8日

後篇:接吻一擲無智一擲惜しむべからず抱くまでは木琴聴いても正気が足りぬ億兆の新たなる終末に洗濯は素敵だ! 30句 ≫読む 第447号 2015年11月15日

■バチあたり兄さん 40句 ≫読む 第535号 2017年7月2日

■敬虔の穹 42句 ≫読む 第858号 2023年10月1日

■敬虔の乳 42句 ≫読む 第870号 2023年12月24日

■
敬虔の鎧 42句 ≫読む ウラハイ 2024年4月27日


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■綺麗なニート ≫読む 第300号 2013年1月20日

■花独活論または苦き妹こそ花 関悦史『花咲く機械状独身者たちの活造り』を読む ≫読む 第522号 2017年4月23日

■天蓋または皮膚 小津夜景『フラワーズ・カンフー』論 ≫読む 第524号 2017年5月7日

■戦争という日常 【俳苑叢刊を読む】第16回 片山桃史『北方兵團』 ≫読む 第527号 2017年5月28日

■とおい文化祭 福田若之『自生地』を読む ≫読む 第575号 2018年4月29日 

■鴨と玉虫 西村麒麟を読む ≫読む  第667号 2020年2月2日

■樹の灰、名の灰 斎藤秀雄を読む ≫読む 第695号 2020年8月16日

■ありあまる椅子 安里琉太『式日』を読む郎 ≫読む 第699号 2020年9月13日

■冥途のちょっと前 鴇田智哉『エレメンツ』を読む ≫読む 第723号 2021年2月28日

■錯乱の地霊よ 髙鸞石「痴霊記」を読む ≫読む 第728号 2021年4月4日

■桃売りババアの正体 〈凍死の山寂然(しん)と桃売りババア有難う 髙鸞石〉を読む ≫読む 第789号 2022年6月5日

■これが光、これが春 北大路翼句集『見えない傷』を読む ≫読む 第796号 2022年7月24日

■麒麟の鯛焼あるいは当たり前という異様へ ≫読む 第809号 2022年10月22日

■アルゴンたらむと関悦史 ≫読む 第821号 2023年1月15日

■天上火という始点 櫻井天上火を読む ≫読む 第840号 2023年5月28日


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■超ひまつぶし鼎談 第1回 『フラワーズ・カンフー』を肴にする 竹岡一郎×関悦史×小津夜景 ≫聴く 第541号 2017年9月3日

■超ひまつぶし鼎談 第2回 『ふるさとのはつこひ』を肴にする 竹岡一郎×関悦史×小津夜景 ≫聴く 第542号 2017年9月10日

■超ひまつぶし鼎談 第3回 『花咲く機械状独身者たちの活造り』を肴にする 竹岡一郎×関悦史×小津夜景 ≫聴く 第543号 2017年9月17日

●

■西原天気 常ならぬ過剰(あまりのこと)へとブーストされる地上の事物 竹岡一郎『ふるさとのはつこひ』の一句  ≫読む 第416号 2015年4月12日

■小津夜景 草笛を手放して 竹岡一郎『ふるさとのはつこひ』を読む ≫読む 第436号 2015年8月30日

■福田若之 数多なる忌を遥かに 竹岡一郎『ふるさとのはつこひ』を読む ≫読む 第439号 2015年9月20日


2023-12-24

竹岡一郎 敬虔の乳 42句




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敬虔の乳 竹岡一郎

乳粥の零れより起つ雪女
帯解の子へ勾り橋捩れ橋
帰り花滅びの歌をはつか羞ぢ
虎落笛たふとき魄に碧き塞
世は蠱毒甕を覆へる室の花
皸の指が緻密な罠描く
逆恩を受けし汝こそ小春の咒
耳鳴りに血と眼が睦む雪の鹹
白炭と化す銃身に月測る
城址轟く猟夫と狒狒の受け答へ
十二月八日躱せば血が終る
沈む柱は海溝を統ぶ鮫の嗚咽
饒舌に着ぶくれ逆恩愧ぢぬ彼奴
閘門や色なす鬼火敢へて堰く
毛皮から血の粒除く簸るやうに
耳塚聴けり鼻塚嗅げり餅搗を
牛告げし事変をずらす世継榾
凍つる分岐器へと注ぐ指の雨
誰何せよ澄める屍が氷湖割る
軋みけり魂ずれ著き傀儡師
熊裂けて梁のわが魔を降し得ず
逆恩を糺す鬼火の結晶化
すくひ放題やつめうなぎへねぶりの血
息白し人死の毎かはる番地
鐘氷る巨眼の化石あざらけし
鬼の読経はいつのまに寒茜色
咳きや轆轤の律にまつろはず
鷹鳴くが殯の鏡もゆる証
雪女眼窩の棘へ緋の息吹
獄門の跡地が舞台漫才冴ゆ
眉引くに閨の余韻を夕霧忌
骨の手の忽と銭置く夜鷹蕎麦
生殖や小禽に似て病む鬼火
雪兎月は和毛を与へたし
鎌鼬跋扈の痕も顔彩る
焼くや縊るや狐火嚙んで髪しごき
「あたしの羽」虚空の冴えをしふねく撫で
雪の胚はらむ天命うつろ貝
除雪車を積み白炎の座礁船
崖たり囚徒たり凍鶴が星かくまふ
磐に啓くが狼の智慧と声
敬虔の乳噴く天を雪女

2023-10-01

竹岡一郎 敬虔の穹 42句

竹岡一郎 敬虔の穹




うつろより歪な羽化を踊らんか

花街や伽羅焚いて秋渇く彼奴

墓洗ふ戒名を火と見紛ふが

水晶のさかえは月の餮ぬらす

魂棚の灯の奥に路ある如し

施餓鬼会に科つくりける新地かな

どろどろと盆の土産を嗅ぐ姉ら

鬼灯や妓の吐く唾が楼を焼く

兄失せる露地へ稲妻這はんとす

刑場の残暑の腑分け外典誦し

ししびしほ啄む孔雀露の色

琥珀の獄とんぼの咎を億年も

姿見に血の剋し合ふ弟切草

抜けど折れど焼けど明けには立つ案山子

全天が蝗の流砂電波に沿ひ

汝が背に凭れん霧に逝く虎よ

熔岩原は鬼形に凹み律の風

鉤と鞭集ひて我と化す身に入む

夜学子の声臈たけて正答す

葛原を心臓七転び光れ

不知火に脱皮はじめの鉄を宿す

蠟涙の螺旋が龍を成す長夜

豊年の山のはらわた璧と彫る

蠱毒最後の鳴く虫ひとつオルガンへ

フォーマルハウト鹹湖にて擬死冷え尽くす

良夜の看板「翔ぶ首に耳貸すな」

目無きものらの鎬けづるが不知火

流星を湖の焦がるる蛟かな

血泥より醒めればいつも虫時雨

谷神にふくらむ木通持ち重り

はららごや粉黛にほふ風しづしづ

嘴あるは渦巻け威銃咲ふ

縄ほどく秋天よりの宿命の

敬虔の穹をうべなふ鴇の影

梁満つる湾をわれから赦し鳴く

木犀揺するは深更の巫女もどき

輪回しの韻くよ猿の腰掛闌く

珠すさまじ誰も汲まぬ井を浮き沈み

無念彩らん露のもの壜に溜め

雲廊を鹿さまよへる諱かな

白無垢の裡なる紅葉且つ散りぬ

棹は鍵は三角智印を雁めざす

2023-09-17

竹岡一郎 私とは地獄

私とは地獄


竹岡一郎


世は地獄よし原すゞめほとゝぎす  原石鼎

何処までも続く此の世を、果てしなく飛んでゆく不如帰には、いつまで追いかけても見失わないだけの地平が広がっていなくてはならない。地平の果てに、いつも黒雲がある。彼方では、既に驟雨が降っている。雨の匂いが、こちらまで漂ってくる。それとも鉄錆の匂いなのか。吐く血で虚空を染めながら、不如帰が今、驟雨の下へ突入した。

てっぺんかけたか、と鳴く時、私の天辺である首は落ち続ける。その度に身を屈め、首を拾ってはまた駆ける。

何もない地平を駆ける間は、飛ぶ影を見失う事がない。不如帰の叫びが人声に聞こえるのは、私の思考を叫んでいるせいだ。追わねばならぬのは、叫びを阻む為か、聞き続ける為か。私のものでない言葉が、私の思考として降り続いているなら、思考をまとめる余裕なく駆けている今の私は、帰らざるが如き声の断片か。糸紡ぐように巡る息の、持ち重る怨霊の集積。

血とは魂、言葉とは思考。不如帰が叫ぶ言葉は血によって枝分かれる。血は雨に、一旦切れてはまた繋がる。血泥の地平と地獄の地平が繋がってはまた切れる。その度に不如帰と私は重なり離れる。降り継ぐ言葉と私の思考とが、咎の響きに似て、重なっては離れる。

この雨は果たして白雨か、或いは紅の雨、血の雨、魂が降る結果としての雨か。雨は地を囃し、葭原の広がりを煽る。嬌声と、喘ぎと、喀血と腫物のほむら渦巻く廓を望んで、葭はあかあかと茂り揺らぎ、葭原雀を産み継ぐ。地を蹴っては虚空に散らばり、声を刃と降らせる嘴達。

初めは彼方に、今は真上に在る黒雲が、葭原雀の犇く影だ。その雨音は、魂が地平を抉って発する音であり、私の思考が言葉として鬱血した証、かくり世からうつし世まで尾を引いて泡立つ航跡でもある。

意味を為さない嬌声と喘ぎが、その真下を突っ切る不如帰の言葉に濾されて紅く降り注ぎ、私の肉を鋭く削ってゆく。それを雨と呼ぶのを肯う。

雨が血が声が、まだ死なぬ、まだ死なぬと、その程度に繰り返し薄く削いでゆく半世紀。

私が削がれるのを愉しむ観客とは、私自身が細かく砕いた鏡、魂の気泡の極小までに砕き切った鏡の断片が抱く映像、即ち私の分霊の数だけの地団駄だ。雨とは足裏に砕け続ける鏡。観客即ち、ひとりひとりのお前である私。

摺足で進み出て、殺された事を告げるシテである私。「痩男」の面を外そうとして躊躇う。この妄執を、殺され続けた無念と観れば、絶息の回数ほどには痩せ、露わに突き出る骨は捩じれゆく錐の形に、お前の眼を耳を舌を貫こうと震え出す。

お前に残るのは鼻腔一杯の血の匂いだけとなれば、骨は取り敢えず満ち足りた振りをして、此処である地獄以外の何処かへ、よろよろと向かうだろう。

だから錐が悪を為す前に、その先端からあまねく錆びさせ、自壊させ、骨を足止めせねばならぬ。

面を外した私の顔は、虚ろ貝だ。既にこの世の女陰としての肉は落ち、だが殻の内なる曲面は鏡ではないから、お前たち全ての顔は一旦消そう。雲間から注ぐ光に対して殻は虹を産むだろうが、今は血の雨、凝れば充血した陰として、銀色の虚ろに蠢く。

地獄を産む陰から剥がれ落ちるのは、帰らざるが如き私。紅く鋭い嬌声に囲まれ、とめどなく血を吐く。

蟬生まれ石ある方へ這ひにけり  原石鼎

ところどころ露わになった骨を観ていて、蟬が鳴く事に初めて納得がいった。大陸には「含蟬」なる副葬品がある。軟玉を蟬の形に彫り、屍の口に含ませる。ヒトのまま黄泉還るのを願うのではなく、ヒトよりも高く羽化する事を願う。だからこそ蟬は「痩男」の復活のあわれだ。

白い骨を彩る黝さ、それは無念の全貌を一息に示そうとする色だ。その骨は何を求めて、無間に皮膚を偽りつつ蟬の幼虫と化し、暁に染まる穴を這い出るのか。なぜ緑匂い立つ樹ではなく、眼前に在りながらも遙かに遠い石を目指すのか。

磐座でもない只の石に取りつき、斜めに身を起こそうとする。羽化の捩れる危険を冒してまで、己が背丈にも足らざるほどの石にしがみつく。地獄から隆起したままに凝り切った血の姿勢。

蟬の構造は外骨格であり、堅く黒い体は殆ど骨、蟬を輪切りにすれば中身は空だ。その洞を、翅に共鳴させて歌う為に、蟬とは閉じられた虚ろ舟だ。

肉削がれ白い骨となった体が、無念が、今や反転する。生ある時は内奥に閉ざされていた骨は、蟬としての復活に際して、その色を白から黒へと反転し、その位置を陽と風に曝される表面へと移す。そのようにして骨は、自らを無間から汲み上げる。陽の七色、あらゆる希望を混ぜた黒い骨。

ひとえに歌う為の反転だ。無造作に虚ろへ放り込まれたように、呆けたように、無念を告げんとする意志が廻天し、言葉を超え、羽搏きと囀りの空白を歌う。

蟬は地獄の鏡像なのか。削がれ切った最果ての、陽に灼かれ続ける硬い復活を、歌う事にのみ捧げるのか。陽が蟬を、更に炭の如く崩すにつれ、蟬の歌は、漆黒を翻した白の柔らかさ、ついに風の無色を求め、罅割れる。

顧みれば、私は地獄の領域。膚は地獄の国境、肉は地獄の獄卒、骨は地獄の城、神経は地獄の迷路、血は地獄の亡者。血は無数の無念の滾り。何処に長嘯なす余地があろう。

では、破地獄とは何か。地獄が、その形状はそのままに浄土と化すのが、我が解体か。私という地獄の領域が隅々まで光と化す時、蟬の抱く石もまた光と化す。

積まれては崩される石達の韻く磧も、幻の川を渇望する葭原も、川面にのみ映る巨大な廓も、地平の果ての黒雲までもが、ことごとく豊饒の稲妻を抱く。ようやく歪な羽化が始まる。蟬の咒が陽を裂くまで、待とう。

2023-05-28

竹岡一郎 天上火という始点 櫻井天上火を読む

天上火という始点
櫻井天上火を読む

竹岡一郎


令和四年の第六回芝不器男俳句新人賞の一次通過作品、去年は色々あったせいで、とても全部読む気力が無かったが、一年経った今、漸く思い立って全部読んでみた。田中泥炭が本賞受賞した事は、安定した詠み振りから、今読んでも特に異論は無いが、芝不器男という作家の早熟性を踏まえた時、最も果敢に挑んでいる応募者として、櫻井天上火に瞠目した。抜きん出ていると思う。幾ら論じても論じ足りない気がする。

1

眼奥の昏きを隔ち羽音くる   櫻井天上火
(以下、無記名は全て作者・天上火)

眼球の奥にあるものは網膜だが、網膜はスクリーンであって皮膚の外の現実を脳内の幻想に変える役割を果たす。昏いのは網膜だろうか。光を展開させるもの自体は、必然として昏くなければならない。その「昏きを隔ち」来る羽音は、音だから観えないのは当然として、光の塊だから却って観えないのではなかろうか。ならば、この羽音も炎天の如く昏い。

羽音を認識するのは、耳の鼓膜と鼓膜の背後の蝸牛だろうが、その鼓膜という壁と蝸牛から、現実を幻想に変える網膜までの距離は如何ほどか。音として聞く認識と、色として見る認識の、その間の距離は如何に。

海百合の頸吊の木のえくれえる

海百合という棘皮動物は、結構這いもし舞いもし、一番近い形状と言えば羽箒だ。「頸吊の木」というからには、それにぶら下がっているものがある筈だが、この句からはそんな雰囲気は無く、むしろ海百合自体が頸吊という状況を模しているように思える。

えくれえる、とは稲妻なのだろうか。エクレール・オ・ショコラ、いわゆるエクレアは、割れ目が稲妻、焼く音が稲妻、一瞬で食べられてしまうから稲妻、等々、諸説あるが、掲句の場合、「えくれえる」は海百合に属する、又は頸吊の木に属する。そして頸吊の木は海百合に属するから、やはり海百合の形状、そして動き、そして縊死を孕んだ海百合の心、それらが稲妻の如く速く、ギザギザに割れ、轟き光り、そして垂涎の的であるというのか。

この句の中心に位置して他の語を統べるのは、海百合でも「えくれえる」でもなく、「頸吊」だと思う。他の全ての語が「頸吊」という語に奉仕していると見れば、絞首刑の体から滴り落ちる精液がマンドラゴラを生むように、海百合が生えて辺りは忽ち海底と化すようではないか。

リズムが良い。この場合のリズムとは、単に音のリズムだけではなく、景のリズムでもある。

切株やあるくぎんなんぎんのよる   加藤郁乎

とりめのぶうめらんこりい子供屋のコリドン  同

を思わせる。但し、加藤郁乎の句よりもずっと暗い。海百合に象徴されるように海底の闇であり、海底における縊死を一瞬、何処から来るともなき稲妻が照らす。

接続に無があれば飛ぶ垂直の鳥

「垂直の鳥」は本来飛ぶはずではなかったのだ。切岸が飛ばないように「垂直の鳥」も飛ばない。その鳥の飛ぶ奇蹟が生じたのは、接続に無があったから、無が生じたというべきか、最初から接続しそうで接続できないという焦燥があるからか。ジャコメッテイの「吊り下げられた球」(1931年製作)という彫刻を思い出す。球は吊り下げられている。球には溝がある。球の下にはバナナ状の物がある。真横から見ると、太陽の直ぐ下に半月があるように見える。球の溝である凹面と、その下にあるバナナ状の稜線である凸面は、どんなに球が揺れ動いても、接触しそうで、しない。無という接続がある。

掲句に戻ろう。その無の跳躍板(スプリングボード)として、或る暴力があり、鳥は地上に垂直に墜ちる代わりに垂直に天を目指す。鳥の方向性を真反対にする力、重力を真逆にする力、暴力に対抗する鳥の「暴力の核」、鳥は地表に砕かれも押しつぶされもしない。代わりに接続にある無を求めて、または無になり替わろうとして、巨大なモノリスあるいは光の柱を模するごとく飛ぶ。

80年代、学生の頃に何十回となく読んだ本を思い出す。ジャコメッティの書いた本だ。《どんな場合でも、私が一番感動するのは、鬱勃とした暴力(ヴィオランス)が感じられる彫刻だ。彫刻の中にある暴力が、感動させるのだ。》
《その形態はまるで人物の形態そのものが、常にその人物のありようを凌駕しているかのように、まことに鬱勃たる暴力を内に秘めているのだ。しかしまた、彼は、何よりもまず、いわば暴力の核なのだ。他の点からいっても多分そうなのだ。彼が実存しうるという事実そのものから彼が実存し、砕かれも、押しつぶされもしていない、という事実そのものから、そうなのだということを私は是認出来ると思う、彼を倒れずに支えている力が必ずあると私には思われる。》(「ジャコメッティ 私の現実」130p-131p 矢内原伊作・宇佐美英治 編訳、みすず書房、1976年)

本から目を挙げて窓の外を見ると、雨は切岸のように、景色は無へと成長するように、そして鳥はいつも垂直に飛ぶ。鳥を倒れずに支えている力が、鳥を垂直に飛ばす。だが、ここで「暴力の核」と呼ばれるものは実際には、暴力とは似て非なるものだ。

それは人体に喩えるなら、下腹部にあるエネルギーの車輪、地を具現するもの、もっと言うなら神性の荒々しさを思わせるもの、或いはモーハ、暗黒と呼ばれるもの、つまりは何が何でも存在しようとする万物の意志、「接続の無」に抗し、重力に抗するもの、だがそもそも無も有も絶えず入れ替わる概念に過ぎず、鳥はその空性(くうせい)を翼に沁み込ませているから、空(そら)を目指す。

夜汽車よお前は眠りから想像まで貝を運ぶ

眠りは無意識の奔流であり、想像は意識して見る非在の奔流であろう。夜汽車であるから、もはや殆ど走っていないもの、夜汽車なる存在自体が今では既に、ほぼ眠りに突入し想像を走る。だから、「眠りから想像まで」のフレーズは夜汽車を滑らせる線路の本質を表していると読んだ。「眠り」という駅があり「想像」という駅がある、わけでは無かろう。夜汽車の窓を過ぎるあらゆる表象が駅である。

或いはこの「想像」とは、殆どの人にとって生きている間は想像しか出来ない死後かもしれぬ。眠りとは一旦死ぬ事だからだ。ならば、夜汽車が崩れ落ちるまで貝は恒久に運ばれてゆく。硬く己を閉ざしたもの、柔らかい内臓自体に充足し沈黙するもの、作者が独りなら貝も独りであろう。夜汽車よ、と親し気に呼びかける声は、独りから発する声でなければならないからだ。

眠りも想像も果てがあるようで果てが無い。それらに果てが無いなら、貝が口を開く事も無いだろう。電車または汽車に乗る夢は、死への誘いである。夜汽車なら尚の事、長夜という果てしない輪廻をひた走る。

海のなかへ電車がはいるまでねむる  阿部青鞋

貝のほか飛ぶもののなき時間かな  同

貝が死ぬもうしばらくの音楽よ  同

を思った。それらを踏まえているのかも知れない。

光線消失火に向う老犬が非時の躍動へ帰る

老犬には時間があまり無いのだ。だからこそ「火に向う」。老犬の目には火がきらめいているだろう。非時(ときじく)の躍動とは不老不死の永遠の躍動であって、老犬とは対極にある状況だが、だからこそ老犬の背後には、ときじくの躍動がある。対極のものは引かれ合うからだ。

ここで老犬が火を纏い不死となるとも思えるが、肝心なのは「光線消失」で、光線は此処ではないどこかに行ったのだ。老犬は光線を取り込んだ、とも見える。あたりは暗黒だ。光線が無いのだから、当然、向かっていた火さえも無い。だが、「失火」なる語、「過失から火を出す事」も句中に隠されている。火は、此の世の理(ことわり)の過失の結果か、老犬の眼奥にある。それが、ときじくの躍動だと言うならば、もはや老犬自体が、ときじくの具現化で、老犬は老犬自身に帰るが、同時に、ときじくそれ自体でもある。

なぜ他の動物ではなく犬なのか。これが猟犬ならば火を恐れない。だから、老犬は優れた猟犬であったと思われる。焚火は老犬にとって懐かしい記憶であろう。

移気の空木の不死の少女性

空木、卯の花とも言う。日本人には馴染み深い。枝の内が中空なので空木という。内が中空の木は神に関わる木だ。虚ろ舟を思わせるからだろうか。その中空に何か宿るのだろう。

「不死の少女性」とは絶妙な表現で、神は移り気であり少女は「妹の力」を宿す巫女であり、少女が移り気なのは神性の表出とも見える。掲句の四つの名詞は互いに補佐し合い連環して、日本の神の性質を言い留めている。

2

始点にして真円pommeがhommeを曳く

pommeは林檎(仏、女性名詞)、hommeは男または人間(仏、男性名詞)、林檎はアダムとイヴの原罪の始まりを思えば、その役割は明らかだ。それが創世記における人類の始点であるのはわかる。「始点にして真円」なる状態が「pommeがhommeを曳く」と読めば、罪を知って初めて真円となるのか。始点以前が真円であるなら、罪を知らざる時が真円であった筈だが、掲句はそうではないと言うのか。

「明日世界が滅びるとしても林檎の木を植える」とは宗教改革者ルターの言葉だ。この場合、林檎とはカトリックの立場から見た罪を表すものだろうが、新教にとっては革命だ。林檎という女性性が鈍重なる男性性または鈍重なる肉体を曳いて、世界を知るという罪も死を知るという悲しみも得て、初めて真円が始まる、と読む事も出来よう。

但し、ここでhommeを原初の人アダムと解釈するなら、事は厄介となる。その身体が星気(アストラル)体ないしは光体で出来ていたアダムと取るならば、《彼の内部には、上位の諸潜勢力が、たとえ下降時に屈折し弱まっても依然よどみなく流入しており、このためすべての世界の生命を小宇宙として映し出している。彼に課せられた仕事は、瞑想と精神活動の総力をあげて、まだ流謫の状態におかれたままの「落下した火花」を自分の内部より掬い上げ、すべて適切な場所に置きなおすことにあった。》《ところが、アダムは使命を果たさなかった。この不首尾については、ここでもまた多様な象徴で描き出されている。たとえば、時期尚早にすぎた男女の結合といった象徴、あるいは楽園の植物の蹂躙、木からの実の切断といったような、すでに昔のカバラ主義者たちも用いていた象徴である。》《アダムの堕罪は、神智学的次元で器の破壊が描き出す過程を、もう一度人類的な次元で繰り返す。》(ゲルショム・ショーレム「カバラとその象徴的表現」159p、小岸昭・岡部仁訳、法政大学出版局、1985年)

更に「タルムード」の「アガダ―」によれば、《宇宙全体を満たすアダムの巨大な大きさは、堕罪後はじめて、いぜんとして巨大ではあるが、人間の大きさに縮小されたのだという。元来は宇宙の大きさをもっていたこの地上の存在の像には、ふたつの表象が確認される。そのひとつの表象においてアダムは、宇宙神話の巨大な原存在のように現われ、いまひとつの表象においてこの寸法はむしろ、アダムのうちに圧縮された、宇宙全体のもつ力の包括的な表現として現われている。》(同前、224p)

以上の長い引用を以て読み解くなら、掲句の「始点にして真円」とはアダムの堕罪以前の姿であろう。pommeは、《物質的な悪魔化した自然界の奈落への転落》(同前、159p)の象徴としての林檎であり、転落という状況を林檎という物質に置き換えたものだ。hommeは「土から出来た人間」或いはゴーレムであり、しかし《アダムは地と神の「永遠の象徴」として、「彼らの愛の封印および記念碑」として現われるのである。》(同前、227p)

ならば、「真円」とは、堕罪以前以後に拘わらずアダムの本質、そしてアダムの運命の軌跡という事になる。末尾「曳く」とは、アダムから始まる人類の流謫である。その流謫の軌跡自体が、結果として、真円を描くとするならば。(アダム以前の存在である)アダム・カドモンからアダムへ、更に現在の矮小な人類に至るまで繰り返し描かれる真円、それを東洋に当てはめれば「輪廻の輪」となろう。「苦の本際を知らず長夜に輪廻する」。輪であるから果てが無い。果てしなく流謫する。

舞台の真円軌道には歪みが答えよう

先に挙げた「真円」の象徴を以て解釈するなら、この舞台とは現人類以前の始点から現在に至るまでの過程であり、軌道とは流謫の有り様であり、「歪み」を真円の歪みと取るならば、この歪みの結果は楕円である。或いは林檎と取るか。

膣の楕円に沈めば月桂樹〔ローリエ〕が勃つ

月桂樹をダフネと取るなら、アポロンの求愛を拒んで樹木に身を変えた娘であり、また桂冠詩人の名誉を思うなら太陽に愛される詩人だ。「勃つ」とは勃起と見る。冒頭に「膣」とあるから、詩と性愛とその拒絶された落胆と、またしても真円の歪みの結果として、楕円。

手淫の上昇を帰して観音は・・・・・・開く!

或る時代、或る地方の者達にとっては、郷愁を誘う句だ。観音開き、又は御開帳といえば、ストリップの用語で踊り子が大股開いて陰門を見せる事。「さあ、御開帳!」という掛け声が昔は入った。「観音様の御開帳!」とも言った。

円形舞台の踊り子を囲んで、観客は己が股間に、寂しく熱い手をやる。拍手は無く、代りに息を呑む音が渦巻く。(掲句中の「・・・・・・」を、息を呑む沈黙と読んだ。)踊り子はその登場の初めから既に観音であった。御開帳に至って踊り子は谷神または玄牝の権現となる。

円形舞台の周囲には敬虔なる信徒達が瞬きもせず、息もつかず、一様に仰向いて犇めく。踊り子は、彼らの欲望の息と液の「上昇を帰して」、舞台の真円の核に展き、たおやかに神秘を啓く。

これは昭和の、まだバブル期に入る前の物語、中学校の通学路の横にストリップ劇場が堂々と建っていた頃、裏口はなぜか開いていて詰襟のまま客に紛れる事も出来た時代の、優しい逸話だ。それ以外、掲句に聖性を見出す読みがあるだろうか。

古遊戯や廻る花天のrivière

rivièreは仏語の川、特に「他の川に注ぐ川」という。「古遊戯」は古い遊戯だろう。「廻る花天」と相俟って、大正浪漫の香りもする。「廻る」は「まわる」と読むのか、「めぐる」と読むのか。「めぐる」と読む方が良いような気がする。「廻」の偏は、歩いて回る意を示すからだ。そして「廻」の意にあるように、もとへ還る。

花天を「満天の花」と読めば桜だが、「花天月地」なる語が隠されていると読むなら、花咲き乱れ月の光が地を照らす春の宵となる。ならば「廻る」の語に、月の運行が隠されていると読む事も出来よう。廻るのが月であれ、人あるいは作者であれ、(または前出の句の踊り子であれ)、もとへ還るのならば、それは古遊戯へと還るのか。これを懐かしい遊戯と取らずに、原初の遊戯と取るか。川が流れている。主流へと注ぐ川だ。「月地」を昏く煌めいているのか。或いは満天の桜に、細い川が、幻のように映っているのか。

「めぐるかてんのリヴィエール」とは、めくるめくリズムだ。イメージの惑乱の句であり、その繚乱こそが古遊戯であると言うかの如し。そしてこの繚乱の描く古遊戯の軌跡は、たぶん「真円」を「廻る」。

蜜蜂telepathこおりの星は鎖骨あたり

蜂に限らず群れを成す昆虫は、群れとしての統一した意志があり、群れ全体で一つの個体だ、という説を読んだことがある。

蜜蜂という種の在り方をtelepath(精神感応)と表現するなら、我々の体もまた60兆の細胞が互いに精神感応して動いている事になる。実際、細胞はそれぞれ記憶を持つという。

前半の「蜜蜂telepath」は後半の「こおりの星は鎖骨あたり」の状況と符合していると読んだ。だから、鎖骨あたりに「こおりの星」があり、体の各部位の星々は蜜蜂の如く精神感応し合っている、という読みも可能だが、鎖骨という或る意味エロティックな部位に注目するなら、眼前の女性の鎖骨を思いたい。

女体に浮き出る骨で、最も艶然たるは鎖骨であろう。男体ならば、艶然たるは指の骨か。蜂の中でも愛らしい蜜蜂は春の季語だから、春の愛らしい鎖骨に「こおりの星」がある。「こおりの星」は彼女の心であり、作者を冷たく見下ろす星だ。彼女は一言も発しないが、その星の心が作者の胸中に響く。即ちtelepathである。

落ちる(風鈴の闇に手足や寝るをんな)襤褸

括弧内の句だけでも充分に美しい。寝ている女はその白い手足が闇に浮かび上がっている。夜風に軒の風鈴が鳴る。縁側のある家の、その縁側の奥の闇に白い手足が伸びている。だが、それを見る視線までをも詠いたい、その欲望が掲句の如く成ったのだと思う。

「落ちる」と「襤褸」の間に風鈴の句があるから、括弧内の艶なる景を裡に抱えて、落ちる襤褸がある。「襤褸」とは、寝ている女と比較した時の表現で、襤褸は作者の自画像と見る。落下する久米の仙人を思ったりもする。括弧内の景と比べて如何にも滑稽で情けない。そこまで詠わねば納得できない作者はどうも正直すぎる。

3

赦されざる(氷片にspermaは南中する)赦しを!

sperma(種子、精液)が命中ではなく、南中と書くところが謙虚でよろしいと思う。南中、即ち天体が真南に来る事を考え、この天体が太陽ならば時刻は正午だ。種子または精液は、天を巡って子午線を通過する、その瞬間、天地の間の遥かな距離を超えて、氷片との決定的な関係が生じるのではないか。この場合、氷片は地上にあり、南中するspermaを観測しているのか。

前掲句の「こおりの星」がちらつくのだが、星もまた或る時点で南中する。spermaは星なのだろうか。となると、spermaの白という色の冷たさと、地上の氷片が親和する。

括弧の前後、「赦されざる」と「赦しを!」の状況の変化について考える。「赦」という漢字を使っているから、出来事の背後には罪がある。括弧内の出来事が起きたから、「赦されざる赦し」を乞うているのか。spermaに罪があるようにも思えるが、括弧を除ければ、つまり枠あるいは障壁を取り払えば、「赦されざる氷片」に「spermaは南中する赦しを!」となり、氷片にも罪があると読める。氷片とspermaとの間の遥かな距離を思う時、恋とは良いものだ。

陵墓の虚空に南中の繭[コクーン]を置こう

陵墓とは高貴な者の墓、その虚空は墓の内部と読んだ。虚空とは、陵墓の意志が充填している陵墓上空かも知れない。そこに南中の繭はある。

虚空とコクーンで韻を踏んでいるなら、虚空は繭の謂かもしれぬ。繭の内部では肉体が一旦分解し再構成されようとしている。繭の中は生と死の間に在る。南中、地上から見た時のその天体の絶頂の位置、繭は生死の間の絶巓にある。陵墓の意志である死者の魂は、絶巓の繭中にある。

「置こう」とあるから、その絶巓に陵墓からの黄泉がえりを企図するのは、作者だ。禁忌の咒を使おうとするのか。

王権をふたなりの鹿走り過ぎ

一角獣の偽史にふたなりを末裔する

神の使いのように、アンドロギュノス(両性具有)である鹿が、完全なる性の奇蹟として地上を過ぎる。王に王権を与えるためか。キリスト教の神は完全だという。掲句の「王権」には王権神授説を思う。神に与えられた権利だから完全にして神聖だという説。「走り過ぎる」のだから、いっときの栄光として神授はあるに過ぎぬか。

一角獣にモローの絵「一角獣」を思う。島にくつろぐ一角獣達と貴婦人達、一人はほぼ全裸だ。一角獣は処女にのみ懐く。問題は「偽史」であるが、一角獣に象徴されるものが常に偽史を形作って来たと読むなら、その偽史が「ふたなりを末裔する」、両性具有の血統を相続し続けることになる。偽史とは必ずしも偽ではない。例えば王権から、偽と断じられた史実の事だ。貴いものは封じられるのが、此の世の常である。

小説家であり魔術に傾倒したぺラダンは、レオナルド・ダ・ビンチを最も好み、ヨーロッパの退廃を芸術で防ぐべく薔薇十字展を開催、しかしモローは遂に出品しなかった。

レオナルドの微笑をうつろぶねに流す

レオナルドの微笑と言えば、それはレオナルドが希求した微笑を思い、そしてモナリザの微笑はアンドロギュノスの微笑に通じる。完全なるものの微笑か。

プラトンの「饗宴」におけるアンドロギュノスは、月から来た男と女の性を両備する者、二つの頭と腕と脚が各々四本ずつ、男性器と女性器を備え球状の体で回転しつつ移動する人間で、ゼウスに真っ二つに裂かれるまでは完全だった。それ以来、人間は半身である。今の人間の不完全な在り方を、神に裂かれた結果と観るなら、完全を夢見た微笑は虚ろ舟に乗せるしかないか。

赤はグラネロを垂れて牡牛座のAとなり

牡牛座のAとは、Aldebaran(アルデバラン)だろう。牡牛座の目の位置に輝く赤い星だ。掲句の冒頭の「赤」は、ゆくゆく星になるのだと分かる。問題はグラネロで、これが分からない。ネットで引いてもサッカー選手の名が出て来るだけだ。しかし、どうも人名らしいとは思う。赤と牡牛座とグラネロ、この三つに動かない絆があるように感じる。遠い昔に何処かで読んだ記憶がある。

魍魎たちを掻き分けて記憶を探り、唐突に思い出す。「眼球譚」だ。バタイユがロード・オーシュ(便所神)という変名で書いた小説。調べてみた。眼球譚の或る一章、「闘牛士の眼」に登場する闘牛士の名がグラネロ。久しぶりに眼球譚を読み返す。

主人公のシモーヌは闘牛を観戦しながら、牛のなまの睾丸を自らの陰門に押し込む。闘牛士グラネロは牡牛の角に右眼を貫かれる。「恐怖に打たれた闘技場のどよめきはシモーヌのオルガスムスの瞬間と重なり、石の座席から腰を浮かすと、そのまま彼女は仰向けにぶっ倒れてしまった、鼻血を垂らし、目くるめく日光に体をさらけ出したまま。直ちに人々が駈け込み、グラネロの死体を担ぎ出した。死体の右の眼は頭蓋からダラリと垂れ下がっていた。」
(「マダム・エドワルダ」161p-162p、生田耕作訳・角川文庫、昭和51年)

眼球譚においては、玉子、眼球、睾丸が連環し、それらの球体を入れるものとして陰門と肛門が示される。これを前提に掲句を解釈するなら、牡牛座のAは単にアルデバランだけではない。anus(肛門)であり、amour(愛、恋)である。

アルデバランは牡牛座の右眼に位置し、グラネロの死体から垂れ下がるのも右眼である。

赤はグラネロを垂れて牡牛座のAとなり

最初から解析しよう。赤は牛を昂らせるもの、闘牛士の武器、絶命するグラネロの目からの血、ぶっ倒れるシモーヌの鼻血、それら全てが「グラネロを垂れて」、この「を垂れて」には二つの見方がある。一つには「赤」がグラネロの屍の上を垂れる、もう一つは「赤」がグラネロを吊り下げる。グラネロのためには後者と取りたい。

「赤」はグラネロを吊り下げつつ、どこまで昇ってゆくのか。牡牛座のアルデバランまでだ。そこまで行けば、グラネロの屍、特にその垂れ下がる右眼は、牡牛座のアルデバランと重なり融合する。殺されるべき牡牛と殺すべき闘牛士、実際には殺された闘牛士と殺した牡牛が、星座として融合する。

シモーヌの鼻血と陰門と肛門に彩られて、牡牛座の右眼=グラネロの右眼は、種子を生む睾丸という器官、卵という受胎の結実の要素を兼ね備える。それらは星々の栄光を得る。

こういう物語がキリスト教の生んだ暗黒の伝統として、絶えず現れる。カミュの戯曲「カリギュラ」中の、カリギュラの台詞を思い出す。
「おれは天を海にぶちこみ、美と醜を混ぜあわし、苦しみの中から笑いを湧き起させてやる。」「おれはこの時代に平等という贈物をしてやる。そしてすべてがまったいらになったとき、初めて不可能が地上に存在し、月がおれの手にはいる、そのときこそ、おそらく、このおれ自身というものが変り、世界もおれと一緒に変る、そうなって初めて、人間たちは死なずにすみ、幸せになるのだ。」(カミュ「カリギュラ 誤解」34p、渡辺守章・鬼頭哲人訳、新潮文庫、昭和46年)

高校生の頃、この台詞をどれほど思い返したか。だが、今となっては、これが胸底の地獄から立ち昇る瘴気であったと理解できる。だからこそ、己が地獄は隅々まで観照されなければならない。瞼を閉じてはならぬ。

目玉の忌惑星を閉じその反復の詩

前句と関連付けたいところだが、ひとまずアルデバランも睾丸も忘れよう。目である玉の滅びた日、と読む。惑星を一つの目である玉と見なして、その惑星の忌とも読める。「閉じて」とあるからだ。惑星の生涯が、瞼のように閉じた日。だが、「その反復の詩」とある。閉じてはまた開く、その反復と読める。目が閉じてはまた開く如しだ。

私は解釈を暴走させて、シュレディンガーの猫の代わりに惑星を箱の中に置こう。観るとは認識する事である。観測者によって存在は確定する。存在と非在の間の反復、それを詩と観るのか。詩は、観測者の瞼の開閉により、存在と非在の間を反復するか。

だが、「目玉の忌」とある。「惑星を閉じ」とある。「その反復の詩」の「その」が、「忌」と「閉じ」以降を指すのなら、目玉も惑星も既に無く、つまり観測無しに、更に惑星という拠り所なくして、詩は虚空に存在し得る可能性がある、と掲句は言うのか。(或る忌の後に初めて存在を始める詩があるということか。)

外在する(遠雷、ヴードゥーの蜂は這い回る〈色〉)自我

先ず「外在する自我」と読む。まるで他の意志のように在る自我だ。それが遠雷の轟くように、或いは光り疾駆するように輝くように在る。「外在する」と「自我」の間に、まるで内臓のように括弧内の語群がある。

ヴードゥーの蜂とは「ヴードゥー・ワスプ」、コマユバチだろう。コマユバチはシャクガの幼虫である芋虫に卵を産み付ける。産み付けられた卵は体内で孵化し、芋虫の内部を食い荒らしながら成長し、やがて外に出て蛹となる。その蛹を芋虫が守る。蛹に近づくものたちを防ぎ、狂ったように暴れる。芋虫の体内にまだ残っているコマユバチの幼虫たちが、芋虫を操り、同胞の蛹を守らせるのだという。

掲句、「這い回る」はコマユバチに掛かるが、実際には芋虫にも掛かる筈だ。芋虫は既に半ばゾンビであり、自らの意志は既に無い。〈色〉を、芋虫の意志の如く彩るもの、即ち芋虫内部のコマユバチの意志と読む。ここで遠雷と〈色〉が繋がる。遠雷に象徴されるコマユバチの意志であり、同時に芋虫にとっては自分の中に内在する何か、〈色〉としか言いようのないものだ。この〈色〉は遠雷の輝く色でもあろう。

「ヴードゥー」という語をわざわざ使ったのは、ヴードゥーのゾンビとは、ある種の薬と呪術で、人間を人形の如く操った結果だからだ。

この句は皮肉でもあろう。本当に自分の意志か、と問うている。しかし、いわゆる洗脳や情報操作を指しているのではない。遠雷、とあるからだ。遥かに轟くもの、天に疾駆し光るもの、その意志を自分の意志の如く誤認して動いているのではないか。

沛艾のイコンや閉鎖病棟に蟲の遊泳

沛艾(はいがい)、荒馬が暴れるようであるイコンは、聖性の暴虐を表していると読む。イコンの金色は、その沛艾を抑え隠匿し制御するための色だったのか。

このイコン、もはや調えられた金は剥げ、その下から暴虐なる原色が沸騰してるのではないか。イエス、またはイエスに続く聖人たちの像、イコンの意義である「遠距離恋愛者が持つ恋人の写真」から、恋というエネルギーそのものが決壊している。その決壊の前では、調えられた教義は押し流されてしまう。それがあからさまになれば世の理は滅びるから、恋の兇暴なる聖性は、この世から閉じられる。それが、掲句の「閉鎖病棟」たる所以と読んだ。

蟲は、人が社会的動物である事から解放された慶びに遊泳するのか。蟲はみな、果てはイコンに泳ぎ着く。この蟲を、例えば精神における精虫と読んでみる。恋に最も近しい蟲だ。「閉鎖病棟」を、秘蹟を行なうために閉じられた教会の役割を果たすものと観る。蟲の逡巡し褶曲する道程の果てに、聖性は蟲を受け入れ、分裂し融合し増殖する。

4

半球体の眠りを脱ぎ言葉の椅子に棲む

不具に書く自意識に書く星月夜

この「半球体」と「不具」は同じ状況を指していると読む。アンドロギュノスではない現人類の形状だ。言葉だけが「眠りを脱ぎ」、自意識の迷宮を巡るか。

半球体、ゼウスに裂かれた不完全な体、アンドロギュノスから見れば不具の状態から目覚め、横たわる状況から抜け出て、椅子に終の棲家の如く座す。

人は書く時、横たわりはしない、立ちはしない、羽ある如く飛びはしない。「寝そべって書く事もある」と反論されるかもしれぬが、これは執筆時の肉体の状況ではなく、書く時の精神の姿勢について述べている。人は書く時、精神における椅子に座すと決まっている。椅子とは、書く者にとっての家である。

「自意識に書く」とある。「自意識で書く」ではない。同じく「不具に書く」である。「不具」と「自意識」は同義とも取れる。自意識の上に、自意識とは別の領域から降る如く、言葉が書かれる。自意識という闇の混沌の上に星々が置かれるように。だから「星月夜」である。

天上火忌を滑りだし桃に満ち

アンドロギュノスを具体的に想像するなら、ちょうど桃に二つの頭、八本の肢が生え、一つの成り余りたる突起、一つの成り足らざる穴を具えたようなものだ。桃が不死を与え不浄を払うのは中国の伝承だが、日本にも黄泉比良坂の桃がある。

「天上火忌」とは如何にも自意識過剰だが、宮沢賢治の「さそりの火」を思えば、罪の意識をも備えているかもしれない。己が死を滑りだして、これは不死に満ちると読むか。いや、むしろ両性具有に帰ると読みたい。だが、胎児の発達を思うなら、それは未だ無性の段階であろう。桃として未だ子宮にある。未生ではあるが、既に肉化している。

「桃に満ち」とある。「忌を滑りだす」何かが満ちるのだが、これも二つの読み方が出来よう。一つには「桃の内部に満ち」、もう一つは「沢山の桃に満ち」、これは更に二つの見解に分かれる。「沢山の桃が外部に満ち」と「沢山の桃が内部に満ち」だ。

蟲泳ぐ天上火忌を言語とし

この蟲が何であるか、それは幾つかの想像が出来よう。魂、自我を侵蝕するもの、或いは単にspermaか。今まで挙げて来た句群が浮かび、何が蟲であるかは各人の想像に任せれば良い。

重要なのは、「天上火忌を言語とし」だ。作者の忌日を言語とし、又は作者の死後を言語とし、という意味に取れるが、これは作者の死を以て新たな言語が生れると読んでも良い。一見、大変な自信のように見えるが、内実はもっと深刻かもしれぬ。

即ち、自分の死後、自分がもはや聞く事も読む事も詠う事も出来なくなった以降、新たな言語が生れるという事だ。その言語を以て泳ぐ蟲を、作者は見聞きする事も感じる事もできぬ。そう取れば、次に挙げる句が、或る諦観または絶望を以て読めないか。

天上も花鳥に捨てよ人語解

「天上」とあるのであって、「天上火」ではない。「天上火」が燃える、その虚空の事だ。その空間も「花鳥に捨てよ」、花鳥へと墜落せよ、と読める。

「天上も」であって「天上を」ではない。そのほか諸々を捨てて遂に「天上も」である。「天上」以前のものは既に捨てる前提にある。それらは「花鳥に」捨てるのかどうか分からない。もっとつまらない状況の中に捨てるのかも知れぬ。

「花鳥」と聞いて俳人の私が思うのは「花鳥諷詠」、私がこの三十年、身を置いてきた伝統俳句だ。「人語解」、人の言葉を以て解する事が出来るものと読む。此処まで読めば、作者が本当に希んでいる詩、その希みに引き裂かれる魂が観えて来る。

人語の解語の不可能なもの、恐らくは伝統俳句の枠からは、はみ出る、否、伝統だろうか前衛だろうがその枠を超えるもの、否、それ以前に文学の、否、言語文化の枠を超えるもの、そこに在る詩、否、そこにあるものこそがそのまま詩であり、この否づくしを密教の言葉で仮に表せば「言説不可得(ごんせつふかとく)」となり、或いは聖書の概念を用いれば「発音不可能な名」となろうか。

それを仮に「天上」と呼ぼう。その天上に燃える詩を「天上火」と呼ぼう。これは傲慢さではなく、慢心でもない。これは「詩人としての無一物」から希求しているのだ。宝生如来であれば「無一物すなわち無尽蔵」だが、残念なことには如来ではなく凡夫だ。未だ真の「天上火」ではない者が、生きている内には叶わない希みの如く「天上火」を希求している、その状況を「天上火忌」と呼ぼう。

カミュのカリギュラとは全く逆の試行で、「初めて不可能が地上に存在し、月がおれの手にはいる、」その試行を仮に「廻る花天のrivière」とでも呼ぼうか。

5

青薔薇、盃の閏にさかしまは止まってゐる

青い薔薇は前千年紀までは「不可能」の代名詞とされてきた。2004年に日本のサントリーが土壌バクテリアによる遺伝子操作で、青い薔薇の開発に成功。1990年から着手して14年の試行錯誤の末だ。この開発の逸話を読んで思ったのは、遺伝子は環境の干渉により変化するという事だ。(青い薔薇の場合は、土壌細菌が自らの遺伝子を薔薇の細胞に運ぶことにより変異した。)自然界においても、恐ろしい数の附合が一気に重なれば、突然変異は可能という事になる。

次に「盃の閏にさかしまは止まってゐる」を解析する。先ず、「盃」。なぜ「杯」でないのか。「盃」という漢字を分解する。「不」は花の萼または莟の象形。莟のように膨らんだ形。それが皿に載っている。

次に「閏」。閏年などに見られるように、日や時間の余ったもの。「閏」という漢字は、門の中に王が入っている。王が引き籠もって政をしない意だ。余った日には、王は何も決定しないからだ。

次に「さかしま」。大きく言えば、この世の理に逆らうもの。さかしま、を名詞と取るなら、掲句では「さかしま」という状況が、「止まってゐる」。止まったまま、居る。「さかしま」が物の如く存在しているとも読める。

物である「さかしま」を色々に考える。理と逆行する状況が物としか見えないほど濃密にある。或いは肉体の如くか。

ユイスマンスの「さかしま」を読む。澁澤龍彦訳の光風社版には「美と退廃の人工楽園」なる副題がついている。「人工楽園」は、青い薔薇を思わせる。「さかしま」中、掲句から湧くイメージに反応するのは、モローの描いた「サロメ」に関する記述。

《彼女はいわば不滅の「淫蕩」の象徴的な女神、不朽の「ヒステリイ」の女神、呪われた「美」の女神となったのである。その肉を堅くし筋肉を強張らせたカタレプシーによって、彼女はすべての女たちの中から特に選ばれたのである。古代のヘレネのように、近づく者、見る者、触れる者すべてに毒を与える、無頓着な、無関心な、無責任な、怪物のような「女獣」なのである。》(J・K・ユイスマンス「さかしま」79p、澁澤龍彦訳、光風社出版、昭和59年)

ワイルドの「サロメ」を思う。銀の皿に載せられ、サロメの接吻に供せられるヨハネの生首は、その頸の切り口から血が流失し切って、青ざめた美しい顔は巨きな青薔薇の莟のよう。

「盃」において、「不」はヨハネの首、皿は銀の大皿。ヘロデ王は門の彼方に引き籠もる如く、ヨハネの斬首を阻止できない。「何にても求むるままに与えん」とサロメに約束したのだから。預言者の斬首は、王の執政する時ではない「閏」に属する。

余計な時間に起こった事、この世の理の外で起こった事だ。青い薔薇でさえ「不可能」の象徴であった。ましてや淫蕩なる踊り手が、その手に聖性を抱き接吻することなど、この世の政にあってはならない。

サロメは口づけにより青薔薇と、即ちヨハネと化しただろうか。殺した者と殺された者は、淫蕩と聖性、斥け合う力により、逆に図らずも、「さかしま」として融け合っただろうか。その「さかしま」のまま止まって、「ゐる」ために、ワイルドの筆に於いてサロメは衛兵の槍に刺され、ヨハネと死を共有するのだろうか。

イメージが暴走した。掲句に戻ると、「青薔薇」と「盃」の間にある「、」には「即ち」の意があると読んだ。青薔薇とは即ち「盃の閏にさかしまは止まってゐる」状況であると。「閏」、「さかしま」、「止まってゐる」この三つの語だけで、不安定且つ不安なイメージは惹起されるだろう。「盃」が酒を酌む物であるから、陶酔のイメージは薫るだろう。

今挙げたサロメは、掲句に触発された私的なイメージだ。人の頭の数だけ異なった読みがあるだろう。そのような読みをせざるを得ない句は、「不可能を地上に存在させる」一助となろう。

酷暑日の石を葡萄にする造語

酷暑日の石は、手で持つのも素足で踏むのも躊躇うほど熱いのだ。それを瑞々しい果汁の塊である葡萄にする造語。その造語はもちろん「人語解」の外に在るものだろう。

酷暑日の石の本質は、葡萄の本質の対極にある。対極にあるものを融合し一つにする造語と読むか。対極の、その両岸を瞬時に入れ換える造語と読むか。いずれにせよ夢、「天上火忌」以後に幻視する瑞々しい奇蹟だろう。だが、夢を詠わぬものは詩人ではない。(ここで、創世記の楽園に実る禁断の果実は葡萄である、という説も思い起こす。林檎よりはずっと柔らかく、汁に満ちている。)

花鳥書の棲む両岸や炎、我が

花鳥書は活きているから、「棲む」と書く。川という存在は、その両岸の存在に依って確立するのだ。両岸が無ければ川ではない。炎は両岸には無いと見る。炎は希求であり、花鳥書に満足していれば、ただ両岸に棲めば良いだけだ。だから、この炎は両岸ではない何処か、両岸に挟まれたところ、川面の上に立つと読もう。水に接触すれば炎は消えるから、炎は水面ぎりぎりの虚空に立つ。そして流れてゆく、海へ、真円へ。

「我が炎」ではない。「炎、我が」だ。炎で在る事の先に、さらに在るもの、「わが何か」、それを詩の成就と呼ぼうか、或いは単に奇蹟と。そして「炎、我が」を「炎、われが」と、己自身を炬火たらしめようとする宣言とも読もう。

優曇華の忘れを不二の辻に置く

優曇華には二つの意味があり、一つには草蜉蝣の卵、一つには三千年に一度咲く樹、この花咲く時、転輪聖王が世に現れるという。優曇華の花と言えば滅多にない幸運、この世に人身を得て仏法に巡り合う難しさを喩えて、「優曇華の花、盲亀浮木」と言う。

不二は二度と無いもの、富士山、不死。辻は辻占する処から転じて未来の分岐点、あるいは橋や袋小路と同じく異界へ通じる道。

珍しいもの尽くしで解釈するなら、滅多に無い物が幸か不幸か忘れられていて、それを未来と世界の分岐点である不死の場所に置く、となろうか。そして忘れられたモノとは、等しく不死の性格を持つ。

しかし、これは「優曇華の忘れ」を「忘れられた優曇華」と解釈した場合。では、文字通り、「優曇華の忘却」と解釈した場合はどうだろう。優曇華に自我があり、その自我が何かを忘れたと読める。三千年に一度の何かを忘れたのだろうか。

ただ、実際の語の連なりとしては、「優曇華」「忘れ」が連関する意味を持たぬままに取り敢えず接続されているとも読める。「優曇華」と「忘れ」が同義であるかのように。

ここで唐突に、優曇華の花を草蜉蝣の卵とも読むなら、現実主義者はそれ見た事かと言うだろうか。三千年に一度咲く花など無く、不二の辻など無い、只の道の分かれに生えた草蜉蝣の卵に、白昼夢を見ただけだと。しかし奇蹟とは常にそういうものだ。「忘れ」るも何も、眼が無ければ奇蹟は最初から最後まで見えぬ。

いまわの火に鶴は延びフォーマルハウトを成る

もうこれ限り、または最期の火に、鶴は延び、魚座の口にあたる「フォーマルハウト」なる星を成る、と読めるが、問題は「を」である。

助詞の「に」と「を」の違いは、「に」は許可、放任、「を」は強制という違いがあるが、掲句の場合、「フォーマルハウトを成る」、鶴はフォーマルハウト上に、又はフォーマルハウトと重なり、或いは融合して、自らをフォーマルハウトとして成就させる、という意味に取れる。

フォーマルハウトという天体は、一つの明るい星の廻りに塵、ガスが楕円上に掛かっている。(本当は真円かもしれぬが、地球から見ると楕円にしか見えぬのであろう。楕円の写真しか見出せなかった。先に挙げた句群の、「真円」と「楕円」を思い出すが、この両者は単に観測する地点の違いかもしれない、と今更ながら気付く。)

天体望遠鏡の写真では、フォーマルハウトは一つの目のようにも見える。星が小さな瞳で、周りの楕円が上下の瞼だ。その形状と輝きが、「いまわの火」に「鶴」が延びた結果だという。またしても眼、しかも閉じない眼、真円と楕円、フォーマルハウトという球体。先に「目玉の忌惑星を閉じその反復の詩」を挙げたが、そのヴィジョンとの関連を思う。

ここで鶴が「成る」のは単に、フォーマルハウトという星とその周囲に輝く楕円の形状、ではない。フォーマルハウトの霊的本質とでも言うべきものになる。それを言い表すための「を」だ。

なぜ「鶴」かと言えば、鶴の形状はこれ以上無いというほど伸びている。それが「いまわの火」に更に延びる。(この「火」を鶴の生命または希求と読むか、鶴が死を羽搏き越えた動きと読むか。)

今、「伸びる」と「延びる」の字を交互に使った。「伸びる」とは形の増大である。「延びる」とは、継ぎ足す意、時を遅くする意、そして限界を突破する意だ。だから、「いまわの火」に「延び」る鶴は、生の限界を突破してフォーマルハウトの本質へ到達する。

6

天使は斥力を凝視するひたすらのくれなゐ

天使とは完全な者であろう。完全な故に唯一神に従い、唯一神の命令を忠実に実行する。天使に自我は無いから、自意識も無い。「不具に書く自意識に書く星月夜」にある作者の状況とは対極にあろう。

だが、「斥力」。完全な者の筈の天使が凝視しなければならないのであれば、この力は天使自身の中に存在するのか。そうであれば、天使自身をその内部から斥ける力だ。この力は人間を眺めやる内に徐々に育まれたか。

桃の核がやがて剣と化せば、桃は月から来たアンドロギュノスのように真っ二つに裂けるだろう。同じく、この斥ける力が膨らめば、天使は真っ二つに裂け、地上に落ちる。本来は血を持たず肉を持たず粘性も匂いも持たぬ筈の天使が、その真っ二つの断面に初めて麗しく、血という色と粘りと匂いを得る。血は魂である。天使は斥力により魂を得る。己が完全性を自ら斥け、重力による墜落により、己が血を種子のように地に撒くのか。

「凝視するひたすらのくれなゐ」を次のように読もう。「ひたすらの」を橋として、「くれなゐ」と「凝視」は通じ合う。二つの語は裏と表かもしれぬ。凝視は血を呼び、凝視とは閉じない眼、瞼という暗黒を拒む有り様、望むは暁光、そして朝焼けはひたすらの紅である。

この「ひたすらのくれなゐ」を魂である血と読むか、天の血である朝焼けと読むか。なぜ夕焼けと読まないかと言えば、夕暮れは万物が眠りに入る前であり、瞼の閉じる時刻である。瞼を開き続ける行為である「凝視」の語が馴染むのは、夕焼けよりも朝焼けだと感じるからだ。

「天使」に「天」の字が含まれている事から、天の血である朝焼けと読もう。更にその中に斥力があるとすれば、それはどんな形で顕現するか。

暁の明星を思う。太陽に抗して最後まで輝き続ける星か、それとも暗黒からいち早く抜け、暗黒を照らす先駆けとなる星か。

イザヤ書14.12「黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。」この「明けの明星」は堕天使ルシファーを指すという。神への愛と情熱に燃え上がる天使とも、智の天使とも言われたが、墜落したという。

但し、イザヤ書の「明けの明星よ」が誰を指すかは諸説あり、元々はバビロンの王を指すという説も読んだ。ルシファー、ラテン語で《光を帯びた者》の意である此の呼称が、堕天使と結び付けられるまでには、多くの変遷があったようだ。

元々ヘブライ語の聖書をギリシャ語に訳した際、語意には既に揺らぎが生じているだろうが、堕天使の名称として確立するまでには更に多くの詩人たち、正確には「詩人の揺らぎを持つ者たち」の思考が導入されて来た筈だ。

一方で、黙示録2・28 「わたしはまた、彼に明けの明星を与える。」黙示録22・16「わたしイエスは、使をつかわして、諸教会のために、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星である。」

結果として、この暁の明星は、(現在の認識では、)一方で堕天使を指し、一方では人でありながらも神の子であるイエスを指す。それが謎である。暁の明星の定義が、正反対だ。

しかし、聖書が次々と他言語に翻訳される度に、元々の語義が増殖してゆくのは頷ける。「天使」の語しかり、「明けの明星」の語しかりだ。先に「詩人の揺らぎ」と書いたが、この「揺らぎ」を(薔薇に混ざる青色の遺伝子のように)多義性、融合性、増殖性と言い換えても良い。アジアの思考で言えば、本地垂迹のようなものだ。

その増殖を誤謬だとは、私は思わない。言葉というものが、人間の観る世界の鏡像であるなら、それは思考を増殖させて世界を隅々まで理解しようと欲する人間の知的欲求を具えるだろう。その結果、「暁の明星」なる呼称が遂に、対極にある両者を同時に表すもの(両者の間の斥け合う力をも含むもの)、として意味されても不思議ではない。

これは「饗宴」を通して観た場合、引き裂かれたアンドロギュノスの在り方と希求に関わるのだろうか。カバラを通して観た場合、光体のアダムと肉体の現人類に関わるものだろうか。

斥力とは、暁の明星の白い輝きか。掲句に沿って言えば、斥力とは、己を言葉のように引き裂く詩人の懊悩なのか。

斥力を凝視する天使とは、もはや凝視以前の天使、つまり神の栄光をひたすらに仰ぐ天使ではないと思われる。

この天使を理解するためには、むしろリルケの「ドゥイノの悲歌」における天使を想起した方が良いと思う。

《すべての天使は怖ろしい。けれど、ああ、わたしは、
おんみら天使よ、ほとんどわれらの命をも絶(た)つべきおんみら「魂の鳥たち」よ、
おんみらにむかって歌う、おんみらについて知るゆえに。》(リルケ「ドゥイノの悲歌」15p、手塚富雄訳、岩波文庫、1957年)

《けれどいま、もしもあの大天使、危険な存在が、星々のかなたから
ほんの一足われらにむかって歩みよるならば、たかくたかく
鼓動(こどう)して、われらの心はわれら自身を打ち滅ぼすであろう。天使よ、おんみらは何びとなのか?》
(同前、15p)

この訳者である手塚富雄は、「第一の悲歌」註解において、リルケの天使について次のように述べる。

《地上の無常性と無関係な楽園の住者たちではなく、地上的諸性格をもちながら、それを永遠的なものたらしめることのできるものであり、くだいていえば、「死」に触れつつ「永生」であり、「永恒的(えいごうてき)」であって「はかなさ」にも住むようなものであろう。》《もう一度別の言葉でいえば、「現実」または「生」をそのまま「高次の現実、高次の生」に化するもの、もしくはその高次の現実そのものが、天使なのである。詩人や芸術家は、もっとも熱烈にそういう現実を求める。真にそれを求めるものだけが、それとの隔絶を身にしみて知るのである。》(同前、87p)

これは掲句を解釈する上では大変分かり易い。もう一度解釈をやり直そう。

天使は斥力を凝視するひたすらのくれなゐ

「高次の現実そのもの」は斥力を凝視する。《「死」に触れつつ「永生」であり、「永恒的」であって「はかなさ」にも住むようなもの》、《「現実」または「生」をそのまま「高次の現実、高次の生」に化するもの》、これは詩人が求める詩そのものではないか。

では、《至高の詩》、《人語解を超える詩》、《「天上火忌」以後に来る詩》は斥力を凝視する、と読もう。

斥力を、詩人の内部に常に在って詩人自身を引き裂く力、更にアンドロギュノスが引き裂かれて現人類と化す力、アダムが現人類へと移行する巨大な運命の真円の力、更に暁の明星の中に同時存在する墜落(または堕落)と上昇(または復活)の力と読もう。

「ひたすらのくれなゐ」を、暁の明星を取り巻く状況としての朝焼けと読み、更に「天使」である「高次の現実そのもの」が内蔵する血、「高次の現実」から隔絶されるが故にそれを希求する詩人の血、即ち「天上火」の血と読もう。更に「天上火忌」という忌日そのものが、その忌以降に実現される詩の暗喩であるとも読もう。

そして、「凝視する」と「ひたすらの」は同義の状況とも読める。「凝視する」は天使の行為であり、「ひたすらの」は「くれなゐ」の状況であるから、ここで「天使」と「くれなゐ」が重なり合う。「くれなゐ」は血であり、魂であり、暁の明星を取り巻く朝焼けでもある。

ここにもう一つの読みが生じる。「ひたすらのくれなゐ」が、凝視の結果であるとすれば。凝視を継続する眼の充血であるならば。至高の詩を凝視し希求する詩人の眼は充血をやめぬだろう。ならば、至高の詩、或いは高次の現実そのもの、或いは天使は、詩人の凝視する行為の本質を示している事になる。

天使は斥力を凝視するひたすらのくれなゐ

これを作者の名付け難い希求のイメージと読む。書き表し難いもの、一生を賭け、恐らくは己が忌日以降も賭けて希求するもの、それを詩と呼んで良いのかどうか。もしかしたら詩を超えるものかもしれぬ。

(了)



引用句一覧
(句末尾の番号は芝不器男俳句新人賞の選考に当たって付けられたもの)
1
眼奥の昏きを隔ち羽音くる 2
海百合の頸吊の木のえくれえる 5
接続に無があれば飛ぶ垂直の鳥 12
夜汽車よお前は眠りから想像まで貝を運ぶ 55
光線消失火に向う老犬が非時の躍動へ帰る 66
移気の空木の不死の少女性 21
2
始点にして真円pommeがhommeを曳く 41
舞台の真円軌道には歪みが答えよう 58
手淫の上昇を帰して観音は・・・・・・開く! 44
膣の楕円に沈めば月桂樹〔ローリエ〕が勃つ 54
古遊戯や廻る花天のrivière  26
蜜蜂telepathこおりの星は鎖骨あたり 49
落ちる(風鈴の闇に手足や寝るをんな)襤褸 85
3
赦されざる(氷片にspermaは南中する)赦しを! 71
陵墓の虚空に南中の繭[コクーン]を置こう  46
王権をふたなりの鹿走り過ぎ 20
一角獣の偽史にふたなりを末裔する 50
レオナルドの微笑をうつろぶねに流す 78
赤はグラネロを垂れて牡牛座のAとなり 43
目玉の忌惑星を閉じその反復の詩 59
外在する(遠雷、ヴードゥーの蜂は這い回る〈色〉)自我 62
沛艾のイコンや閉鎖病棟に蟲の遊泳 65
4
半球体の眠りを脱ぎ言葉の椅子に棲む 76
不具に書く自意識に書く星月夜  86
天上火忌を滑りだし桃に満ち 30
蟲泳ぐ天上火忌を言語とし 35
天上も花鳥に捨てよ人語解 39
5
青薔薇、盃の閏にさかしまは止まってゐる 47
酷暑日の石を葡萄にする造語 23
花鳥書の棲む両岸や炎、我が 100
優曇華の忘れを不二の辻に置く 3
いまわの火に鶴は延びフォーマルハウトを成る 69
6
天使は斥力を凝視するひたすらのくれなゐ 79

2023-03-19

竹岡一郎 琵琶の音の赴く先〔前篇〕髙鸞石「琵琶法」を読む

琵琶の音の赴く先
髙鸞石「琵琶法」を読む

竹岡一郎


この連作「琵琶法」は、作者のこれまでの連作とは趣を変え、抑制の利いた句群となっている。その抑制を「法」と詠んだか。作者の奥底に怨念はまだまだ存している筈で、その怨念を敢えて脇に置いている感、怨念を客観的に描写していない憾みはあるが、これもまた一つの過程であろう。今までとは違った姿勢、渦の中で猛るのではなく、渦から一歩引いて観ようとしている姿勢は伝わる。

Ⅰ

諦めよ
これだけ滝があるならば  「琵琶法一」
(以下、作者は全て髙鸞石)

鯉の滝登りをまず思う。登っても登っても滝があるから龍になるのは諦めよ、と読んでしまえば諦観の句だが、逆に、滝を「浄めの場」と考えれば、これだけの滝に打たれてなお穢れを維持することは諦めよ、とも読める。穢れが維持できなければ必然的に浄められてしまう訳で、滝を登るのか滝に打たれるのかで、先の展開が真反対になる。

なぜ多行にしたかも考えなくてはならない。「諦めよ」と、次の行にある滝の有り様とは、断絶していると読んでみる。つまり、一旦は「諦めよ」と、自分か他者かに諭しておいて、そしてふと目を上げる。縦にか、横にか、連なる滝を見る。諦めよ、と言いながらも、これだけ滝があるなら何とかなるかもしれん、と作者が思うなら、これは諦観を蹴り飛ばそうとする句か。

壊す神が桜のなかを上下する  「琵琶法一」

桜を国花と読めば、壊す神は国家転覆の破壊神だ。だが、古来、日本人は桜に、「死」をも見て来た。その咲きざまの絶巓と散り様の潔さに対してか。となると、「壊す神」は、桜の本質の顕現なのか。

桜と「壊す神」が違うものだとすれば、桜という「死の中」を上下する「壊す神」は、そもそも何を壊すのだろう。何も壊さずとも桜自体が死を含むのであれば、「壊す神」は死自体を壊そうとするのだろうか。破壊を伴う再生の神とも読める。

桜をどう観るか、また、桜と神の関係をどう捉えるかにより、神の解釈が幾つにも分かれるが、更に、掲句においては神自身も上下する。神もまた高められ低められ、天に近づき地に落ちかかるという反復運動を繰り返すのだ。

「桜のなか」とは桜の木の中なのだろうか。ならば、神は桜を支えようとしているのか、それとも桜の芯から壊そうとしているのか。咲き誇る桜の花の中と取るなら、神の繰り返す上昇下降は、夢幻の美しさを具える。

煮え立つ
蜘蛛工
事の
黒い煙
を吸い   「琵琶法一」

繫げて読むなら、「煮え立つ蜘蛛工事の黒い煙を吸い」となる。現実的な景だ。何かの工事によって煮え立つように苦しんでいる一匹の蜘蛛。この蜘蛛を作者と読む事も出来よう。

だが、多行の区切りを得ると、蜘蛛は被害者ではなく、「蜘蛛工」という一種の職人になる。黒い煙を吸いながら、煮え立つ如く事をこなしてゆく蜘蛛工。果たして蜘蛛は、或いは蜘蛛工は、煙にやられる立場か、煙を作る立場か。

「煮え立つ」「蜘蛛工」「事の」「黒い煙」「を吸い」をそれぞれ断絶した言葉、と読む事も出来る。その場合、掲句はコラージュの技法、本来は関連性の無い写真を貼り合わせ、虚空に浮遊させて、新たな関係性を誘う技法となる。「蜘蛛工」のイメージは、手足が八本もあるような職人を思わせる。いかにも有能な職人だ。その職人の手足は、それぞれ断絶した言葉へと伸びて、己を中心に、言葉の新たな関係性を創り出そうとしているのだろうか。

いま、一句の中に、同時に異なる意味が立ち上がる例を挙げて来た。解釈を丁寧に行なえば、複眼の視点が浮かび上がって来る。複眼の利点とは、様々な立場、様々な観点が同時に示されることだ。いうなれば、地上における鳥瞰である。

虫ども複眼でとらえているか糞と教会   「毒存在紀」
(「教会」に「church」とルビ)

これは作者が髙田獄舎と名乗っていた頃の連作にある句だが、この時点で既に、複眼の視点への信条は現れている。なお、ここでわざわざルビを振っているのは、「キリスト教の教会」と特定する為だろう。「church」には、キリスト教の教会や集会所の意の他に、「キリスト教徒の共同体」の意もある事を付け加えておく。

腐るミサイルにて長糞の巨人   「琵琶法一」
(「長糞」に「ながぐそ」、「巨人」に「ガルガンチュア」とルビ)

「汝の意志するところを為せ」とは、ラブレーの「ガルガンチュアとパンタグリュエル」中の「テレームの僧院」における唯一の規律だが、西洋文明がそれを忠実に実行した結果、どうなったかというと、現在の世界となった。核ミサイルは何万発あるのか知らないが、腐食した物も沢山あるだろう。それを喰って長い一本糞を垂れる巨人。その糞は一国を横断するかもしれず、場合によっては地球を一周するだろう。

「テレーム」は、元々ギリシャ語訳聖書にある「テレーマ」(神の御心、人間がそれによって動かされるところの意志)から来た言葉だが、転じて「意志」となった。「神の御心」を正義の御旗として十字軍、大航海時代と、ヨーロッパが為してきた大略奪と大虐殺は遂に、腐食に怯え発射を待ち焦がれるミサイル群へと結実した。掲句の「腐るミサイル」を象徴として読み替えれば、「正義の常なる末路」となろうか。

この巨人は人類の総数の具現化なのか、それとも教会や王権の恣意なる利権なのか、或いは常に餓えている魂の集合体か。現代においてガルガンチュアの飽食を相続しているのは何か。この長糞は終わる事の無い汚染なのか、それとも戦争絶滅の奇跡なのか。

掲句は「巨人の長糞」ではなく、「長糞の巨人」であるから、長糞自体が巨人であるとも読める。糞が世界の状況ではなく、巨人自身であるなら、それは即ち人間全体、更に絞り込めば何よりも作者自身に糞の要素があると告白しているに等しい。作者が意識的にその結論に達したのであれば、それは含羞を含んだ自己省察だ。無意識に書いたとしても、いずれ意識には浮かび上がってこよう。

そして自己肯定と自己否定との間の振幅の激しさが、詩人の特性であり、その絶望と希望は、詩を書き続けたければ受け入れるしかない。この自己肯定と自己否定の並列も、己自身に向けられた複眼の視点の結果だからだ。「日に三たび己を顧みる」という。その実行者に強靭さを与える言葉だ。

ラブレーの描くガルガンチュアは、無数の餓鬼が集まって巨体を構成しているようにも見える。ガルガンチュアが死ねば、その屍は無数の餓鬼へと戻って世界中に散らばるだろうか。その時には、餓鬼の頭の数だけの正義の御旗が、虫の大群の羽音のように唸るだろう。屍も糞も似たようなものなら、掲句の長糞からは無数の餓鬼が「虫ども」の如く湧き、世界を喰らい尽くそうとするだろうか。

「虫ども」が観ている「糞」と「教会」の二つが各々指向するものは、現在の結果として、重なるか否か。更に、長糞を滋養として再び世界は芽吹くかもしれないが、その中に現行の人類は居られるか否か。

東洋には、唯一絶対神の概念は無い。「神の御心」なる言葉の代わりに、一つの言葉がある。「業力不滅」という。業力は何処までも飛ぶ矢のようなものだ。例え火星に移住しようが、異界に神隠しされようが、自殺してあの世に逃れようが、業力は必ず到達し、その力を顕わす迄は消える事が無い。

Ⅱ

火山の歯車に雨とは常に雨裁    「琵琶法二」
(「雨裁」に「あまさばき」とルビ)

気になるのは「雨」が二回出て来ることだ。「雨とは常に裁き」ならわかる。なぜ裁きの前にもう一度雨をつける必要があるのだろうと考える。「雨裁」とは「雨が雨を裁く」のではないか。

「火山の歯車」に、噴火のシステムを思う。実際に真っ赤な歯車が超現実的に回っている様を思い浮かべても良いが、むしろ此の歯車は火山の、目には見えない業か。

火山の潜在的形成力に雨が降る。チッチタ、チッチタ、と音を立てて蒸気と跳ね、白く煙る。天からの雨を、蒸気と化した雨が裁く。または火山の歯車に当たった雨を、天からの雨が裁き続ける。

「あまさばき」というルビに、「天裁き」という言葉が隠れている。天が裁くのか、天を裁こうとするのか。対極にある二つの姿勢が、ルビの中に並列して隠されている。

蒸気は再び雲に吸われては、雨粒として落下するだろう。天と火口との二点を果てしなく往復する雨の在り方を「雨裁」と名付けたか。雨の永久運動を支える仕組みの一つとして「歯車」を読むなら、この歯車が止まる事は無い。業力の不滅を、作者は果てしない「裁き」と感じたか。

大蛇棲む墨の中にも秋来たる  「琵琶法四」

墨に五彩あり、と言う。黒は全ての色を含む。全ての色の潜在的形成力、即ち業を含むのだ。その業、五彩の本質を、「大蛇」と表現したか。

その墨にも夏を経て秋が来る。実りと寂しさの秋だ。墨の勢いと神気が秋の中で熟れ、醸される。これが他の季でないのは、墨の本質が練熟し、大蛇の如く躍り出る機を、「秋」と表現するのが一番ふさわしいからだろう。

火の長とは寒雁の望むもの   「琵琶法三」
(「長」に「かしら」とルビ)

「火の長」に、荒れ野に立ちあがる炎を想う。荒れ野は広く凍てついていれば良い。寒雁とはシベリアから飛来して日本で冬を越す雁だから、荒れ野をシベリアと観ても良いと思う。

火は、シベリアでは恐ろしく貴重なものだろうから、「火の長」は荒野を統べる長(おさ)かとも思う。部族や個人ではなく、「火の長」と呼ばれる一種のスピリット、霊的な本質だと思いたい。なぜなら、寒雁がそれを「望む」からだ。雁は暖まりたいのだろうか。それも勿論あろう。だが、それよりも遙かな眺望もある。雁の「志」とでもいうべきものだ。

この「望む」という語、「求める」意の他に、「遥かに見やる」意もある。後者と取った場合、雁の眼の奥にか、翼の記憶にか、「火の長」があり、それを雁は、日本の穏やかな水面に於いて、遠景を見やる如く想っている。

峠の蕾開くは塩の思念によりて  「琵琶法四」

塩の名を冠した峠は、全国にある。いわゆる「塩の道」だ。海辺で製した塩を、海の無い地域へと運ぶ。その峠を越えれば、塩が目的地へと届く。「峠」に、塩の貴重さと塩運ぶ道程の険しさを思う。

「塩の思念」とは、塩を製する者、塩を仲介する者、塩を運ぶ者、塩を待ち望む者、それら全ての者達の思念だろう。人間の思念が染みついた峠に、開く蕾。「花開く」ではない、「蕾開く」と詠むのは、蕾は花の、ようやくの始まりだからだ。いつでも始まったばかりの人間の希望とも観える。

生きる為、肉体が力得る為、解毒の為に、塩が如何に重要か。合成される塩化ナトリウムは、塩ではない。塩とは、海の塩や、古代の海の遺産である岩塩を指すのだ。海のミネラルが入っているものを塩という。血がしょっぱいのは塩による。人間も動物も塩によって動いている。

血は魂である。血を保つとは魂を保つ事、血を支配するとは魂を支配する事だ。そして塩は、魂である血を養うものだ。「塩の思念」とは、人間が塩を希求する思念以前に、塩自体が持つ思念かも知れぬ。元々は「海の思念」とも言える。その思念によって開く蕾の色は、塩の白か、それとも血の赤か、それとも岩塩の如く混沌とした「谷神」の色か。

Ⅲ

わが影に雪降る未婚の夏の廃湖  「琵琶法三」

この夏もまた未婚であったと読んでみる。未婚という状況が、夏に雪降る如しなのだろうか。寂しい詩情がある。

そもそも「廃湖」とは何だろう。例えば、廃車、廃校、廃坑、廃港などと云う。或いは廃人と云う。廃山、廃河、廃森とは云わない。尤も、廃鉱とは云う。その半分は人工物だからだろう。生き物ならば、廃馬、乳廃牛と云い、廃犬届なる物もある。人間が露骨に利用できるものの末路に「廃」の字が使われるらしい。

狐や蛇や猫に対しては使わない。人間が制御し得ない独特の力を持つものに、「廃」は当てはまらない。翻って人間を見れば、廃人とは社会的に利用価値が無くなった者を指すのか。「廃」が頭につくものとは、人間社会が必要とし強制する役割から、ようやく解放されたものとも取れる。

そこで「廃湖」である。今挙げた「廃」の意味から考えると、人造湖だったのか。灌漑か飲用か観光の目的で造られた湖が廃棄されている。せっかく造った湖をわざわざ廃棄されるまで汚染するとは考えられないので、廃棄は単に干上がった結果と読む。

となると、句中の「夏」が活きて来る。劫暑だったのか。ダム湖が干上がる例は良くある。もっと浅い湖なら、ひとたまりもない。あるいは護岸に不備があって、水が流失したのか。かつて湖だった広い窪地で、罅割れたコンクリートが人造の残骸として転がっているかもしれぬ、と読もう。

「未婚」は意味としては、「わが影」或いは作者自身に掛かるのだろうが、文法としては「廃湖」に掛かるように詠われている。「未婚」とは〈公認された位置付けとしての配偶者〉を一度も持たない状態だ。「未婚の廃湖」とは、人間に一度も使われぬまま、人間社会から遺棄され解放された人造湖の意味か。

「わが影に雪降る」と「未婚の夏の廃湖」、この二つの景が、鏡像の如く向かい合うと読めば、「未婚の廃湖」は「わが影」に対応し、「夏」に「雪降る」が対応する。

「夏」と「雪」の如く、互いが互いを補完するなら、「わが影」の濃さに反比例して「未婚の廃湖」は明るい。水涸れるほど陽が降り注ぐ湖の跡か。

では、「雪降る未婚の夏の廃湖」と一括りに読めば、どうなるか。廃湖は人間のみならず季節の摂理からも解放された結果、夏にも拘わらず、廃湖にのみ雪が降る。「わが影に」とあるから、この場合、「廃湖」は「わが影」の中にある。

影とは、この世に物体がある証だ。影を失くした者はまもなく死ぬ、と聞く。既にこの世から離れかかっているから影が薄くなり消える。ならば、廃湖は存在を続けるために、作者の影の中に棲むと決めたのだろうか。

廃湖に選ばれた作者の影は、暗黒のように濃いだろう。影の中に、そして廃湖に、夏を拒み否むように雪が降る。雪片は小さく幽かに冷たく降り、僅かな光をも逃さずに取り込み、白々と反射する。かつて水であった雪は、湖を再び湛えようとして降るのか。

迷路の水盤乳房うつれば行き止まり  「琵琶法三」

乳房は「映る」のだろうか、それとも「移る」のだろうか。「映る」のなら、水盤の上に乳房がある。「移る」のなら、水盤の水中に乳房がある。水盤を自然の鏡と見れば、こちらの世界の乳房と鏡中の乳房は入れ替わり可能とも読める。

いずれにせよ迷路の行き止まりには水盤がある。しかし、水盤に乳房が「うつる」までは、そこが行き止まりか否かは、分からない。乳房を肉欲の対象と読むなら、この迷路はミノタウロスのそれの如く、或いは膣道の如く暗黒である。その暗黒は全ての人にとってと同じく、作者自身から生じているとも、作者自身を生じているとも観える。

「行き止まり」である袋小路は、「乳房うつる水盤」によって溺れるためにあるのか。だが、乳房が肉欲の意を遙かに遡って、赤子にとっての安らぎの意を含むと見る事も出来る。柔らかく温かく、乳という名の「血と同じ成分」を噴き出して、飲むを誘う。乳は母の魂だ。迷路は母性に果てるとも言える。地母神は屍を抱きとめ、分解して土の養いとし、実りをもたらす。

道が行き止まる時、その道は終わりではない。辻や橋と同じく、行き止まりの先は別の世に繋がっている。「乳房のうつる水盤」を標識として行き止まる道の先は、膣道の果ての如く子宮であり、子宮回帰の更に先へ進めば、未生の領域へと踏み込む。時間の空白である領域だ。

不要な時間いくつもあれば駆ける木々  「琵琶法四」

宮沢賢治の「月夜のでんしんばしら」を思わせる。「不要な時間」は木々の数だけあるように見える。一方で、「いくつも」の「も」には、「不要な時間」が、あとから幾らでも湧いてくるような印象がある。木々もまた湧いて出るのか。

木々を駆けさせるだけの「不要な時間」は、恐らく普段の景に潜む永遠で、我々の日常においては先ず絶対に駆けない筈の木々が、駆けられるほど長い時間だ。この「不要」とは「空白」に近い意味ではないか。

あくまで人間にとっては「不要」であるに過ぎず、木々にとっては大切な時間かも知れない。木々の中に在る時間とも、木々がその日常に於いて感じている時間とも読めようか。人間の時間の区切りを捨てて、木々の時間に寄り添うなら、我々の目にはいつまでも止まっているとしか見えない木々が、実は駆けているかもしれぬ。

Ⅳ

草原の能は円もて徐徐に雪  「琵琶法四」

美しい景の見える句だ。草原のようなところで能が舞えるかと言われれば、それは能のスピリットがそのようなものなのだと答えるしかない。ここでの「能」は、その踊りの姿勢を示すものかもしれない。極度の緊張感の裡に、腰は常に水平を保ち、摺足で移動する。そして鳥瞰すれば、その舞いは円を描いている。この円とは天穹の似姿でもあろう。「円」の字に「まどか」なる形容をも思う。

「徐徐に雪」がひどく美しい。「徐徐に」は雪の降り初めであると同時に、舞う者の足の運びでもある。その舞いが雪を誘うのか。その踊りの本質(それを能と呼ぼうか)が、そもそも雪を蔵していて、天に雪を与え、天はまた雪を返すのか。

凍る
鹿の荒祈
なら記憶にある  「琵琶法一」
(「荒祈」に「あらいのり」とルビ)

「荒祈」とは作者の造語だろうが、荒く躍動する祭、或いは荒々しい祈りを思わせる。これだけではどんな祈りなのか分からない。ここで具体的な像は「鹿」である。鹿のような祈りが荒々しいと読むなら、発情し、或いは戦う鹿の像が浮かぶ。

しかし、一行目に「凍る」とある。寒さの中で凍ったように動かない鹿だろうか。その鹿自体が「荒祈」なのか、或いはその動かない鹿の中に、寒さを降伏する炎のように「荒祈」があるのだろうか。此処で「凍る」と「鹿の荒祈」が断絶していると読むなら、凍るのは現在の状況、「鹿の荒祈」は胸中の景とも読める。

三行目を見ると「なら記憶にある」、つまり、他の祈りは記憶にない、または否定する、という意志に読める。「鹿の荒祈」以外の祈りは認めないという態度は、わからないでもない。

祈りとは、本来、凍るが如き只中で生死を賭けて荒々しいものだからだ。寒中の滝行を思えば納得できるだろう。神仏よ、わが絶望と希望を聴け!と血を吐く想いで為されるのが祈りだ。

(経験則から観れば、「見捨てる」のは常に人間の側であり、神仏の側ではない。それは器の違いによる。)

冬の鏡に問うなら
山の相こそ     「琵琶法二」
(「相」に「すがた」とルビ)

鏡に問うなら、とある。鏡に問うのは自分の姿である。鏡には山が映る。冬の山景だろう。「冬の鏡」とあるからだ。枯れた、くすんだ、或いは雪に白く凍てる山だ。厳しい山である。

単に「姿」ではなく、「相」の語を用いているから、山の内なる本質が窺えるような姿、と読む。その姿を己が姿として問う。「こそ」に、己が在るべき姿として山の本質を選び取った、という意志が籠められている。

「山の相」は、同時に己を取り巻く世界でもある。世界を見る時、人は己が姿を見るからだ。世界は冬山の厳しい姿であれ、我が姿もそのようにあるべきか、と鏡に問うている。求道の良い姿勢である。

しかし非日の空白を生む崩れた橋  「琵琶法四」
(「非日」に「ひじつ」とルビ)

「非日」はやはり作者の造語だろう。二つの意味が推測される。一に、太陽ではない。二に、一日という時間の区切りではない。更に「空白」と相まった時の印象は、太陽も時間も無い、白い空っぽである。それを未生とか死とか断ずれば判ったような気にもなるが、作者の感じているのは恐らく違うものだろう。

「非日」を生むのは「崩れた橋」だという。渡るに用を成さない橋だ。橋とは、異界か彼の世を繋ぐものだ。それが崩れるとは、単に彼岸に渡れぬというだけではなく、此岸もまた行きどころ無きが如し印象を与える。バランスを保つための通路が崩れるとは、そういうことだ。

「非日の空白を生む」と「崩れた橋」の間に、因果関係は無いのかも知れない。何かが「非日の空白」を生み、一方では橋が崩れている、と。そう読めば、「非日の空白」に具体的に響き合う物が、「崩れた橋」ということになる。「非日の空白」を喩えるなら「崩れた橋」であるとも。

「しかし」に悲痛な感がある。この世の日常、太陽が空にある時間帯、区切られた一日、「非日」とは対極にあるだろう立ち位置に於いて、色々と為すべき事はある。「しかし」、ふと見ると橋は崩れている。「非日の空白」という、奇妙な、今は如何ともし難い、ものとも感覚ともつかぬ何かが生まれている現実を見せつけられる作者だ。


2023-01-15

アルゴンたらむと関悦史 竹岡一郎

アルゴンたらむと関悦史

竹岡一郎


1

俳句雑誌「翻車魚」6号(2022年11月20日刊)の中に、次の句を見つけて驚いた。

冷夏ですから鋏が不意に立ちあがる  関悦史(以下同)

軽やかに静かに迫り来る感じ、とでも言おうか。一読、情景は簡単に立つ。立つのだが、言いようのない不安がある。しかも、この不安感はなぜ、軽やかで静かなのだろう。上手く言えないが、句の匂いと、句から発する不安感が矛盾するのだ。

掲句は何処から摑めばよいのだろう。驚きが驚きのまま摑みようもなく進行してゆく感じ。私は困惑する。評を書くのを諦めるには、香りと不安が大き過ぎる。どうしても読み込みたくなるような詩がある。厄介な句である。

この句は二物衝撃とは思えない。「冷夏なり」ではないからだ。「ですから」とわざわざ丁寧に理由付けするからには、相応の理由があるからだと考える。

まず、冷夏である。夏なのに気温が上がらない。農家に打撃を与える異常気象だ。惨い季節である。レイカ、と聞いた時の耳への印象は、薄い鉄のように冷たく、密かに容赦ない感じがある。

次に「ですから」だ。前に挙げた事象をもって次の事象の理由とする接続詞だが、「だから」ではなく、わざわざ慇懃な言い方をしている。この慇懃さが、次に来る事象への冷静さとも取れる。鋏はその用途として残酷な性質を持つ。「ですから」は、その冷静さによって、鋏の性質を際立たせる。

その「鋏」。なぜ包丁やナイフや刀ではないのか。蟹やロブスターの鋏はなぜああいう形状なのか。獲物を挟み込んで離さぬためだ。掲句の鋏もまた、対象を挟み込んで確実に分断するまでは離さないのか。その鋏は「不意に」、予測不能な今、動く。横に動くなら、「立ちあがる」とは言えない。

どう立ち上がるのか。刃の切っ先を上にしてか、下にしてか。上五の「冷夏」という酷薄な響きからは、切っ先を上にして立ちあがる方が相応しい。これを蟹などの鋏だとすれば、鋏が上を向くのは威嚇、又は戦いの準備だ。

掲句は多分、鉄製の道具としての鋏だろうが、「立ちあげる」のではなく、「不意に立ちあがる」のだから、作者も含む人間の意志とは無関係に、鋏自体が意志を以て、或いは何か目に見えないものの意志に憑依されて、立ちあがる。

立ちあがって何をしようとするのか。「冷夏ですから」、その冷夏を防ごうとするのか、或いは冷夏に更に何物かを付け加えようとするのか。道具の鋏なら、見た目にも冷たい輝きを放っている筈だから、冷夏を防ごうとするには相応しくない。

冷夏に更に何かを加える目的なら、立ちあがる理由は納得できる。冷夏という、秋以降の飢饉を招くような、人間にはどうする事も出来ない現象に追い打ちをかけるべく、鋏は立ちあがる。

作者は只それを見ている。何とかしたくとも、どうにもならない。冷夏をどうにかすることは出来ない。その上、不意に立ちあがる鋏と来ては。

目の前の鋏は、普通の鋏かもしれない。手に持てるサイズかもしれない。しかし、その鋏の意志(意志というものがあるとすればだが)は恐らく、手に持てるどころか、人間が扱える大きさではない。

此処まで考えて漸く、なぜ「立ちにけり」と単純に立つのではなく、「立ちあがる」なのかが見えて来る。これは「聳え立つ」という意味を隠した「立ちあがる」か。または「立ち揚がる」のかもしれない。鋏は地上から解き放たれるまでに高く立つのか。そこに思い至る時に「不意に」という形容が、恐怖を伴うように見えて来る。この鋏は、冷夏という天災に続く、更に恐ろしいモノ、人間にとっては天災よりも防ぎようのない何かを表しているとも読める。

しかも全体を読み下すと、如何にも軽く詠っている。「軽々しく」という意味ではない。透けるように、見通すような目で詠っているという意味だ。「不意に」という語感は、そよ風の吹くように感じられる。例えば、「不意に」を「突如」に変えると、そよ風の感じは忽ちなくなってしまう。「ですから」には、ユーモラスな、揶揄するようなニュアンスさえ感じ取れる。名詞以外の言葉はあくまでも優しく穏やかに選択されているのだ。例えばアルゴンの立場からは、そんな風に感じられるのだろうか。(アルゴンについては後に述べる。)

関悦史もまた地獄を抱えている事を、私は知っている。これは地獄をブイヨンスープのように煮詰めて、その上澄みを掬ったような句だ。読み込むほどに味わい深いが、色々解釈してもまだ言い得ないところが残る。もうどうしようもない、という作者の予感だけは繰り返し伝わって来る。

その予感は、単に関悦史個人に関わるだけのものではなく、人間全体(人類、と大仰に言うべきか)に関わるものと読む。冷夏は飢饉に直結しかねず、そして食糧危機は今や全世界に及ぶ気配があり、去年末にはアメリカ全土を覆う大寒波の惨状をテレビで見た。

だが、掲句を食糧危機の暗喩と観ては、却って句に潜む詩情を矮小化しかねない。無論、食糧危機を含むと読んでも良かろうが、それだけでは「鋏」を捉え切れない。この鋏が果たして人間の作り得る人工物なのか、それとも蟹のそれのように自然物なのか、または彼方から飛来したモノリスのようなモノなのか、或いは目には鋏の如く認識されるだけで、実は、挟み断ち切るという容赦ない作用を持つ何かなのか。

では、何を挟み断ち切るのか。読者が各々「断ち切られるには最も耐え難いもの」を想像するが良い。冷夏とは、夏とは逆の悪作用を及ぼす季、矛盾する巨大な事象だ。鋏がもし、冷夏という矛盾の鏡像、或いはエッセンスとして在るとすれば。

2

関悦史は見る者だ。凝視する者と言っても良い。どのような立場から凝視するかと聞かれれば、思い出す句がある。彼の第一句集「六十億本の回転する曲がつた棒」の「襞」という章にある句だ。

またの世はアルゴンたらむ磯遊び

この句には作者の注がつけられている。「アルゴンは大気中最多の希ガス、他の元素との化合はほぼ無し」。「母なる」海に面した、ごつごつざりざりした岩場で、細々とした生き物を掬いながら、そんな寂しいことを希んでいる。

この注を読んだ時、私はひどく悲しかった。まだ若いのにそういう事を言うな、という気持ちだった。同時に、そう言わざるを得ない彼の境涯も胸に沁みた。

此処で翻車魚ウエブに去年秋発表された句群を挙げる。2022年9月の「水の自覚」より。

音楽や水母が水母呑みゆくも

水母は体の九割以上が水であり、水中に死ねば死体も残らない。そのような余りにも儚い水母が別の水母を呑む、その様もまた音楽だというのだ。そして海はそんな音楽に満ちる。「母なる海」というが、寄る辺ない水の母たちさえもが、弱肉強食を演じる、その集合として海があるのなら、母とは、何と抗し難い残酷さであるか。

天はいま割れゆく卵午睡して

午睡、つまり一旦の死に入っているのは作者なのだろうが、言葉の並びからは天とも読める。卵とは壊れやすいものの象徴でもあるが、現実にか、午睡の夢中にか、天は今まさに割れようとして、何しろ手の届かぬ天であるから、その毀損を地上の誰も止める事が出来ない。更に「割れゆく」で一旦切れると読めば、午睡しているのは卵だ。その丸き様を「午睡」と表現したのか。割れゆく天のもと、完璧な形で眠っているもの。

車行く喜雨の路面の舌めく音

情景はリアルだが、最後の下五において一気に、そのリアルさが反転する。路面は、その発する音から長大な舌と化して、喜雨という喜びの涎を溢れさせつつ、過ぎ行くタイヤを舐めている。タイヤが路面を舐めるなら、これは普通の感覚だ。路面がタイヤを舐めるなら、車の主導権は既に無い。車が何処に向かうかは、舌と化した路面が決める。車は異界の喉へ、胃へと送り込まれるのだろうか。

2022年11月の「くねくね」より。

踊の輪次第に速しつひに無し

季語の「踊」は盆踊の事だから、これは祖霊を迎える頃の、地域共同体の踊だ。その踊りの輪が次第に速くなってゆく。「つひに」下五の末尾に至るまで、有り得ないほど速くなる。時間を早回しするようにか。生者は死へと向かう時間の中で生きている。この下五の結末は、遂に生が死へと、しかも共同体ごと参入する有様か。或いは時間を遡るとも考えられる。その場合でも、結果は現世から見れば似たようなものだ。つまり共同体ごと未生の段階へ、前世の死後の状態にまで至る事になる。生者と死者の区別が無くなる踊だ。これを、最初から死者しか居なかった踊と見れば、生者の立場からは、少しは安心するのだろうか。いずれ死ぬことに変わりはないが。

仏壇の梨むいて夜の汁だまり

下五で一息に現実の表皮をめくり上げるような句を挙げてきたが、これもまた下五が惨たらしく悲しい。汁は梨のそれであることはわかるが、単にそれだけではない。仏壇の死者に捧げた供物を降ろし、生きている作者が食う。それは生きるために食うのだ。死と生の間に有って、生の方向を向くために梨を剥いて食う。あたりは夜。秋であるから長夜だ。長夜に輪廻し、無(ナシ)を向いて、生きる為に死者から恵まれた残滓の汁が溜まる。

此処でもう一度、アルゴンの説明を思い返す。「アルゴンは大気中最多の希ガス、他の元素との化合はほぼ無し」。今挙げた句群を思うなら、アルゴンへの希みも、むべなるかな。

この「アルゴンになりたい」と希む在り方こそが皮肉にも、関悦史をして俳壇に必要たらしめているのは重々承知だが、もう少し人間らしいことを願っても良いだろうと、常々思っていた。逆に、と言うべきか、「ですから」と言うべきか、アルゴンになりたいと希む者にしか作れない句もあるべし、とも。そして冒頭に挙げた「鋏」の句は、そういう句、静かで軽やかで容赦ない詩だ。

アルゴンから見て人間がどのように映るのかは分からないが、もしかしたら、人間の虚しい足掻きは、「鋏」の句に描かれたような状況として見えるのかもしれない。と言うのも、翻車魚ウエブ2023年1月1日号から次の句を見出したからだ。「時の顔」と名付けられた一連の作品の中にある。

地球儀のくべられてゐる焚火かな

これを「地球儀」ではなく「地球」と置くなら、安易な環境破壊批判だ。しかし、地球儀は地球では無い。あくまでも人間の立場から把握された惑星像の模型に過ぎない。その模型が、もはや無用なものとして暖を取るために燃やされている。地球儀がいくら燃やされたところで、地球は人間の意志とは無関係に存続するだろう。一方で、人間は今や「地球儀」という周知の惑星像を燃やさねば、暖を取る事が出来ない。戸外の、それほどの寒さは、地球の意志による。この状況の描写を、アルゴンから見た皮肉、と私は読んでしまう。

「鋏」の句においても、「ですから」に込められた皮肉を嗅ぐ事が出来よう。それを「非人間的」と断じるのは容易い。だが、一方で、そのような、人間を離れた立場からでしか、本当に正確な状況は把握できないと関悦史が思っているならば(彼のことだからそう思っているだろうが)、その心情は悲痛である。

3

次に同じく「時の顔」から挙げる。

漱石忌暗渠に富める東京の

漱石は東京で生まれ育ち、松山や熊本や英国に暮らしたのは明治二十八年から明治三十五年までの八年間だけだ。子供の頃はあちこち里子に出され、長じては絶えず人間関係に苦労し、神経衰弱を患い、明治四十年には東京帝大の教職も捨て、朝日新聞社に入って数々の名作を書き、五十歳にならぬ内に胃潰瘍にて逝去。東京の生んだ文豪であり、紙幣の顔にもなったが、その生涯は幸せとは言い難い。

掲句の倒置法を外すと、「暗渠に富める東京の漱石忌」となる。「暗渠なる人工の暗黒の水路に富む東京、における漱石忌」、という意味だ。松山の漱石でも、熊本の漱石でも、帝大教職の鞭を取るほど英語に堪能で、英国に留学した漱石でもない。漱石の幼時の地獄と、長じてよりの神経衰弱と胃潰瘍という地獄と、漱石を文豪たらしめた小説群を育んだ東京である(私は掲句の暗渠を、関悦史の幼時と、その肉体に今なお引き摺る苦痛と重ねて読んでしまう)。

東京という現実の、地獄の記憶の物質化が、暗渠だ。この「暗渠に富める」を「暗渠ゆえに富める」と解釈する事も可能だ。その場合、人工物である暗渠は、漱石が書いた昏い小説の数々と重なる。漱石は現実の地獄を、人工物である小説に映したからだ。掲句は、漱石の苦悩を、現実の人工物により象徴している。「漱石忌」の内実を、見事に把握した句だ。

去年の大晦日、三十年間溜めに溜めた『鷹』誌を整理していた。思い掛けず、関悦史へのインタビュー記事を見つけた。何気なく開くと、眼に飛び込んできたのだ。『鷹』平成29年9月号の「俳人を作ったもの 第11回《関悦史氏に聞く》 異界としての現世 聞き手・髙柳克弘」。

これは紙媒体のみで、ネットでは読めない。関悦史が赤裸々に来し方を語ったのは、この記事だけではなかろうか。興味ある方は何とか探し出して読んで頂きたい。私が突然この稿を書こうと思い立った動機である。

それにしても、自らの体験に寡黙な関悦史から、ここまで聞き出せたのは、やはり髙柳君の人柄に依るか。このインタビュー記事はエッセンスだけを抽出している筈で、そこに至るまでの前振りとして相当量の世間話があっただろう。私も一度、髙柳君にインタビューを受けた事があるから、彼の聞き手としての巧みさは知っている。

関悦史としても、一度は活字として残しておきたい、そうすることによって、抱えて来た痛みが和らぐかもしれない、そんな思いがあったのだろう。

記事の構成は、関悦史の幼年期から始まっている。二才の時に両親が離婚、それから親戚の間を順繰りに、引き取られては手放され、幼稚園に入る年に漸く祖母の家に落ち着く。

「人の悪意や状況の変化にものすごく過敏だったので、親戚の人達から見ると、おどおどしていて、明らかにおかしいという状態だったようです。とにかく何かあると泣いていましたね。だから幼稚園にあがるのも少し遅れたんです。」

そういうトラウマは一生抜けないものだ。

小学校で転倒時に頸椎がずれ、中学校で頭蓋骨の奥に肉腫が出来る。それら二つの後遺症が癒えずに、自律神経が目茶苦茶になり、睡眠障害もあいまって、普通の生活が出来ない。

「具合が悪くて何もできない中で、意識だけがあるという時、それを凌ぐために俳句を作っていました。」

そうして出来た連作が「マクデブルクの館」、第一回芝不器男新人賞に応募し、城戸朱理奨励賞を受賞した作品だ。その連作から、特に血族の句を挙げる。

姉ノ橫死ノ刹那ノ視野ノシャンデリア
生涯不犯ノ伯父モ行方知レズトヤ
地下ニ亡父ニ磨キコマレシ《鐵ノ處女》
曾祖父ノ不可思議ナルメモ舊約ヨリ
婚約ノ兄梟ノ頭部シテ
兄病ンデ無聊ニ神トナルコトモ
燭臺持チ女装ノ兄ノ時化ノ入水
首モゲテ陶製ノ母鳩ニ喰ハレ
ヲリモセヌモロモロノ死兒沈ミユク
遠ツ祖(オヤ)ハ牛ノ頭ヲモツトモイフ

遠くは高祖から近くは兄姉に至るまで、凡そ惨たらしく且つ神話の暗さを以て詠われぬ血族はない。現実の血族が余りにもよそよそしく遠いが故に、逆に関悦史にとっては迫り来る神話として映るのか。

「牛の頭を持つ遠つ祖」から想起されるのは、祇園精舎の守護神である牛頭天王、日本ではスサノヲと同一視される神だ。荒ぶる神、高天原から追放された流浪の神である。また、ギリシア神話に目を向ければ、迷宮の主であるミノタウロスを思い出す。(迷宮とは、苦難の旅、近づき得ないもの、黄泉がえりを象徴するという。)その血脈が、気の遠くなる年月をのたうち回った果てに、百句に表わされる暗冥を演ずる。それら陰惨な血族を総括する結論が次の句である。

死ンデナホ性トイフ修羅止マザリキ
魂トイフノモ寄生蟲デアラウ

ここでは魂は、人とは別種の霊の如しだ。血族の継続という営み、死後なお続く生殖の修羅の中に繰り返し降りては飛び去る。霊は時に分裂し、時に互いに融合して、次から次へと宿主を乗り換える。これは輪廻の仕組みから見れば自明だが、見ようによっては肉体への寄生虫と見えぬ事もない。

不眠ノ皆ガ毛深キ甁ニ靈ヲ插ス

肉体は霊の器、というから、「毛深キ甁」は生ける肉体だろう。「毛深キ」なる形容は、人間の持つ獣性を思わせる。誰の肉体か。「不眠ノ皆」が全て関悦史の鏡像の如き血族なら、この瓶=肉は関悦史か。瓶に挿された霊の束が思考し、それが「思うが故に我ある」処の関悦史だ。一旦でも死に安んじる事が出来ない霊の状態を「不眠」と表しているか。今挙げて来た句群は、幼き関悦史が、血族の中に「沈ミユク」己を、凝視していたしるしでもある。「ヲリモセヌモロモロノ死兒」、あたかも居ないかのように扱われる死児の為すように、凝視していたのだ(「モロモロノ」を、関悦史がその時々の仮居で、その時々に死んだ数、と私は読んでしまう)。

生マレテハ毀レテ肉ガ歌ヲ詠ム

生まれては死ぬ、のではない。繰り返し生まれては、繰り返し無機物のように毀れる。死児よりもなお、人間でない。その肉が歌を詠む。独り詠んで「マクデブルクの館」を建てたのだ。

内界ニ洋館浮イテ眠ラレズ
膿胞ノ如ク館ノ美シキ

「マクデブルクの館」は、この二句から始まる。不眠の関悦史の内界に建つ洋館であり、膿胞は彼の癒し難い幼少時である。その膿胞を美しいと観ずる為の、悲痛な努力の証しとして、この百句はあると言っても良い。

此処で一つの非凡な句を挙げる。この一句こそが「マクデブルクの館」の核として、百句全体を神秘へと引き揚げるものだ。

「名指サレタ婦人ハ紀元前カラ難所デアツタ」

紀元前から二千年以上も難所であった婦人、恐らくは今もなお難所であり、難所である事が漸く名指しされた婦人とは誰だろうか。難所とは、常人の到達し難い場所を指す。そのように喩えられる婦人で、しかも、紀元前から、と言われれば、私の脳裏に浮かぶのは聖母マリアだ。つまり難所とは、マリアの奇跡を指す、と仮定しよう。無原罪の宿りである。

先の掲句の前後二句は、

八重咲キノ婦人ヲ名指シ探偵ハ
犯人ヲ染ミ出ス蜜ト蘂無量

この連作は、探偵が、八重咲の夥しい花弁の迷宮から(「八重」とは「無量」と同じ意味か)、犯人を追いつめる顛末であり、犯人であるマリアからは(仮にマリアと呼ぼう)、あたかも地母神のように、そして南米の黒いマリアのように蜜と蘂(即ち生殖の要素)が無量に染み出す。しかし、何の犯人だろうか。

黒いマリアは地母神と聖母マリアの融合だという。残虐と慈愛を同時に併せ持つ存在が地母神であるなら、この犯行は、斯くの如き血族をも含む「人類」を産み出した事とも言えるだろうか。或いは、「人類」という惨たらしい種の裡に突如、無原罪の子を孕んだという犯行か。

更に後に続く一句、

大團圓 魂紛レミンナ緞帳

そして降りる緞帳の、恐らくは模様や襞に紛れる魂とは、もはや誰の魂でもあり、誰か個人の魂でもない、人類という、「原罪を背負う種族」の魂だ。緞帳を構成する色とりどりの糸として寄生虫を思わせるように絡み合うか。

先のインタビューからの本人談。

「私にはちょっとグノーシス主義的なところがある。この世は神が作ったにもかかわらずなぜ悪があるのか、この世を作った神は間抜けな出来損ないではないか、そこから抜け出していくには知識が要る、という思想です。」

「名指サレタ婦人ハ紀元前カラ難所デアツタ」

この句がカッコ書きなのは、台詞であることを示すのだが、これは誰の台詞なのか。百句を順に読んでいけば、探偵の所作を語っていると分かる。探偵とは何だろう。館の外からやって来て、惨劇を俯瞰する役目を担う者。「マクデブルクの半球」の実験に示される真空の、その外界、大気とアルゴンの充ちている処から来るマレビトである探偵。マレビトの始まりは、故事に則り、虚ろ舟で来る、と仮定しよう。探偵が最初に登場する句は、

探偵ニ廢船ノ蟲呟キアフ

三度、取り上げる。

「名指サレタ婦人ハ紀元前カラ難所デアツタ」

先に、なぜカッコ書きなのか、と疑問を呈した。館に登場する誰の台詞でもない。探偵の所作を語っているのだから、探偵の台詞でもない。考えられるのは、これはナレーションだという事だ。無声映画の字幕を思っても良い。館の惨劇を、探偵よりもなお外側から鳥瞰している。

これを作者の台詞と断じてしまえば、その読みは浅い。他の句、客観的に詠っている(この劇の台本を書いた作者の目線から詠っている)句には、一句を除いてカッコ書きはないからだ。(その一句、「君トナラトモニ殺セル靑イ鳥」は、明らかに登場人物の台詞だろう。)

探偵を含む登場人物でもなく、台本作者の関悦史でもない、誰かの台詞。これを関悦史の人生の外側にいて鳥瞰しているモノの台詞と読むか。即ち、先のインタビューで関悦史が語った「グノーシス主義」から推理して、「デミウルゴス」、造物主である「工匠」の台詞と読むか。それとも関悦史が希望する次の生の台詞、アルゴンの台詞と読むか。

その台詞の背後に、マリアの奇跡、無原罪の宿りを、二歳児の如き無言の裡に、欲しているのは誰か。血族の惨たらしさに曝され、島から島へ廃船で漂流する如き孤独に晒されて来た者こそが、そのような奇跡に焦がれる。奇跡の顕現の為には、一旦、この生を諦めねばならぬのか。だが、いつまで?

4

関悦史が、その境遇に対して選択してきた在り方、怒りも怨みも撒き散らさずに吞み込んで、意志力を駆使して冷静に分析していこうとする態度、それは彼の巧緻な評論に良く表われている。怒りや怨みを言い募る行為は、どんな理由付けで装おうとも、彼にとっては忌むべきものなのだろう。彼のような境遇の者が、そんなことをすれば、とても生きてゆけないからだ。だからと言って、アルゴンとはまた極端な。

再びインタビューから本人談を引用する。

「はっきりいうと、自殺は物心ついた時からずっと考えていますよ。それが薄れたのは、介護をしている最中と、終わってから。人の世話で奔走していると、それどころではなくなってしまう。自分のことにしか関わっていないと、死にたくなるんでしょう。」

自分の事にしか関わっていないと死にたくなる、これは一般にその通りだろう、と、虚弱な体質にも拘わらず世話好きな関悦史の顔を思い浮かべつつ、そう思う。本人が人の事を考える性質だから、勢い周囲も関悦史を気に掛けるようになる。当たり前の反応だ。

だが、祖母の介護には相当の覚悟が要ったようだ。

「介護でこちらへ戻る時には、親戚にいじめ殺されるのではないかという恐れがあったので、相当葛藤しました。」とある。けれども、その介護には「私以外には誰にも任せられない『のっぴきならなさ』がありました。」

記事を読んでいて、一番こたえたのは、この箇所だ。私はこの部分を、論中に引用すべきかどうか、ひどく迷った。あまりに生々しく、そして身につまされる。

この時期に再び、このインタビュー記事を読む機会に恵まれた。それを私は、天啓と受け取る。なぜなら、「平気だ、大丈夫」と笑う者ほど危ういのは、経験則からわかる。

私の考え過ぎなら、笑い話で良い。しかし、万が一の事があれば、私は今まで何度か仕損じた如く、またしても臍を噛むことになろう。だから、この正月休み、私は焦って書いている。

何を書いているかと言えば、関悦史の驚くべき鬼才の論証、その鬼才は生きてあるべし、今まで天下の奇書を上梓してきた如く、これからも書くべし、という願いを書いているのだ。

再びインタビューから本人談を。

「死や暴力の要素は創作の中に相当入っていますよね。正木ゆう子さんが、物を見るのではなく巻き込まれていると評してくれましたが、「巻き込まれ型」の特質で、自分が直接経験していなくても、見たり聞いたりしただけで耐えがたいということが作品になったりしますから。」

関悦史は震災詠を筆頭に、多くの社会性俳句を詠んでいる。一方で、自分の悲痛さは慎ましくユーモアを以て詠む。これは彼の含羞によるものだろうが、結果として自利よりも利他を優先した事となる。裏を返せば、彼は自らの不遇に対しては、いつも諦観を選択してきた。先ほど含羞と書いたが、内実は含羞などという生易しいものではない。もっと悲愴なものだ。幼少時より盥回しにされてきたもの特有の選択であって、その選択については、私は一寸怒りたい気持ちもある。だが、その選択の連続が彼をして、代替不可能な作家たらしめたのも、また事実だ。

以前、週刊俳句に関悦史の第二句集「花咲く機械状独身者たちの活造り」について長論を書いたが、その際に挙げた句群から再び取り上げたい。私の解釈が足りなかったように思うからだ。

旗の来て人巻き殺す秋の暮

この旗に、先の大戦における全体主義を観るのは、一次的な解釈だろう。古来からの錦の御旗に限った事ではない。正義という概念が、そもそも「人巻き殺す」暗黒を併せ持つ。人の頭の数だけ正義がある事は、今や自明である。万人いれば万人万色の錦の御旗を掲げる昨今、その御旗はしばしば劣等感を覆い隠すために用いられる。SNSを使えば、本名も住所も顔も所属も、何処にも晒さずして、人を自殺にまで追い込める時代だ。

季語は「春の暮」と「秋の暮」だけで充分だ、と聞いたのは民話のように遠い昔。今、記憶を探ってゆくと、小澤實さんの言葉だったと思う。だんだん思い出してゆくと、二人で飲んだ帰り道、私が、三橋敏雄の「あやまちはくりかへします秋の暮」について聞いた時だった。俳句の本質を言い当てたようで、ひどく感心したことを覚えている。二つとも諦観を思わせる季語だ。そして関悦史に常に寄り添い、彼の凝視を支える語は、諦観の中でも特に「秋の暮」ではないか。

見えぬ業火と生きんとするか法師蟬

いわき市を訪れた際の句だから、「見えぬ業火」は原発事故後の放射能汚染を指すのだが、今読むと、もっと普遍的な意味を持つように思われる。原発事故はるか以前から、人は誰しも業火を背負って生きてきた。運命という業火だ。そして業(カルマン)、運命を決定する「潜在的形成力」を断滅せよ、と説いたのは仏陀であった。だから、下五に置かれた「つくづくと法師を告げる」蟬は動かない。法師蝉は業火の輪廻を鳥瞰して響くのだ。

関悦史が「巻き込まれ型」とは確かにその通りだが、巻き込まれてしまってから、彼一流の凝視が始まるのかもしれない。「マクデブルクの館」という真空の地獄から発する凝視だ。

5

翻車魚ウエブ2021年4月「浮く」より挙げる。

「親類の老女大往生 三句」という前書きで
奥の間に死顔を見て春炬燵
わが一部連れ死んで汝うららかな
魂がひとつ麗に置きかはる

明るい死だ。大往生だから明るいのだ。自死では、こうはいかない。作者が、こういう死を静かに羨み憧れる、と私は見てしまう。不思議なのは、二句目だ。自分の一部が老女に連れられて逝く。連れられて行った一部は、老女と共に麗なのか。連れられて行けなかった残部が昏く現世にとどまっている。

関悦史は「他界の眼」というエッセイで次のように述べている(「俳句という他界」邑書林、2017年刊、195p)。

「私の個人的な来し方を語ることになるが、私が俳句や評論を発表するようになったのは、主に、一人で祖母の介護にあたり、死なれた二〇〇四年以降のことである。
 この時を境に私は、気がついたら、生と死の領域が逆転したような感覚を持つようになっていた。われわれが感知できるのは生の世界だけであり、これを全てと感じる方が普通であろうが、むしろ死(未生以前・死後)の方が本来の状態であり、生の方は植物でいえば開花期にあたる特殊な一時期に過ぎないという感覚が強くなったのである。それ以後、作家論や句集評の類も、そうした他界的な明るみ、個人的生死のスケールを超える或る公平さを手放さないようにと意識しながら進めることで、覚束ないながら、何とかしのげるようになった。」

此処で「他界的な明るみ」という言葉が用いられる。先に挙げた大往生の三句は、その感覚を表現したものだろう。一方で、関悦史にとって「開花期にあたる」筈の生の時期は(少なくとも今までの関悦史の生の時期は)、マクデブルクの館の如き暗色の花であった。その花が、「魂がひとつ麗に置きかはる」と詠まざるを得ない心情は、胸に刺さる。先に挙げた「踊の輪次第に速しつひに無し」も、この心情を踏まえれば、「未生以前・死後」の長さと比べた時の、生=開花期の驚くべき短さを詠っているとも読める。

エッセイ中に「個人的生死のスケールを超える或る公平さ」とあるが、その立場は、先のインタビューで語られた「自分が直接経験していなくても、見たり聞いたりしただけで耐えがたいということが作品になったりします」なる言と矛盾する。

例えば、第二句集中の「花嫁」の章、「スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』による十三句」に表わされる句群。「個人的生死のスケールを超える或る公平さ」をかなぐり捨てて詠わなければ、関悦史は耐えがたかったのだ。

砲撃の村中をクリスマスツリー燃ゆ
ブーツの脚々切断され塹壕に立ち氷る
流氷と流れ来(く)つかみあふ兵の凍死体
髪に看護帽に人体ぶち割れべとつく汚物

此処には死が横溢するが、その死のどれにも「他界的な明るみ」など微塵もない。圧倒的な死の前で、未生も死後も認知できない一回性の生が、のたうち回るのみだ。大量の、唐突な惨死を以て、死後の明るみをも滅ぼそうとする、それが戦争の悪意だ。

ウクライナの惨状が、映像で日本にまで伝えられる現在だからこそ、改めてこれらの句群は我々に、戦争の現実を迫る。(戦争という遁れ難く癒し難い本能が、まさかこの論の冒頭に置いた「鋏」なのか。)

この「花嫁」の句群発表当時、関悦史は孤独の読書を通じての経験を、(一般の共感を得ることを恐らく諦めつつも)生々しく詠わずにはいられなかった。遠く離れた異国で戦死する花嫁たちへ、関悦史が唯一示し得る「のっぴきならなさ」であった。

その中で、ただ一句、看護婦が花嫁たらんとした一瞬が、「花嫁」の章の冒頭に置かれている。僅かな「他界的な明るみ」を、此処にどうしても置きたかったのか。

大尉死ねり看護婦の乳房見せてもらひ

6

先に挙げた矛盾する二つの立場の間で、揺れ動かされる事を厭わず、関悦史が書き続けるためには、もしかすると自らを、一介のひとがたである依代、と見切っていなければならないか。

再び「時の顔」から二句挙げる。

人形を捨つれば覚えなき氷湖

人形を捨てる事により、自分が氷湖のほとりに立っているのに気づくのだ。氷湖であるから、人形は湖面を滑るのみで沈まず、氷によって湖に拒絶されている。

ところで、なぜ「覚えなき」事になったのだろう。人形を捨てたからだ。人形を捨てるまでは覚えがあったのか。それとも夢遊病のように、何かに憑依されるかのように導かれ、氷湖に辿り着いたのか。

いずれにせよ、人形を捨てる前と捨てた後で、記憶は一変している。記憶の領域が人形を境として分断されている。それでもなお双方の領域に、人形を捨てたという記憶は重なって在る。捨てた、のだから、その人形が自分に属していたのも記憶している。

人形を「ひとがた」と読む事も出来る。「ひとがた」であれば、捨てた人形は、自身の境涯又は他者の境涯を背負った依代、障りを移したモノだ。自身の境涯であるなら、一種の人為的ドッペルゲンガーとも言えようか。では、人形と一緒に捨てられた記憶は何か。氷湖という鏡のように凍った広がりへ、記憶が捨てられた。鏡に映っていた境涯も共にか。

事によると、人形は、関悦史自身の現実の肉体なのか。それならば、氷湖を「覚えなき」と見ているモノは何なのだろう。アルゴンなのか。関悦史の、またの世の生なのだろうか。

壁に誰が顔浮き出づる時雨かな

顔は、誰のものでもあり誰のものでも無いだろう。壁は外にあるのだろうか。家の内部だとすれば、雨漏りしているのだ。此処は家の内部と見たい。その方が凄惨さは増す。

以前、週刊俳句に書いた「鏡像を探る」と題した関悦史論において、翻車魚ウエブ2020年11月「氾濫」より次の句を取り上げた。

廃アパートに幼児吾ぞ死ぬ小春かな

この廃アパートの部屋の壁に浮き出す顔か。ならば、壁に浮き出る顔は、関悦史自身の、未生以前か死後の顔か。壁は記憶の裡の、どの壁でもあり、どの壁でもない。「時雨」という冬の通り雨が、外界も記憶も心情も徐々に寂びれさせてゆく中に、時間では寂れ得ない或る顔が浮き出る。或いは、壁に浮き出る顔は、関悦史を育てた祖母の顔なのか。

ここで「廃アパート」の句に置かれた季語がなぜ小春なのかを考える。かつてこの句の鑑賞に私はこう書いた。「しかも小春である。冬の寒さの中のほんの数日、温かい日差しが恵みのように降る日に、その恵みも間に合わず、自分は死んでいる。その日から一体、何十年経ったか。そう読む事が出来る者は、読むが良い。」

改めて考えると、その解釈では足りない気がする。例えば、下五が「寒波かな」であれば、容赦ない現実だろう。「大暑かな」であれば尚更、「秋暑かな」であっても大して変わらない。「時雨」は無論、惨い。では、秋の涼しさや春の麗らかさを置けばどうだろう。幼児の死は、世間の穏やかな日常に忽ち紛れてしまう。それは幼児にとっては、寒波や大暑よりも惨い忘却の季節だ。

小春とは、冬の始まりの後、更なる寒波との間に、いっとき訪れる冬の空白部分と言えよう。春を思わせるが、現実の春ではない。冬という意志が与える猶予の時間だ。その時間の中に、死児は匿われる。誰の死でもあり誰の死でもないように。誰とも化合しないように。「大気中最多の希ガス、他の元素との化合はほぼ無し」であるアルゴンのようにか。ならば、この死児を凝視する視線は。

今、挙げてきた句群、いずれも外部のリアルな景に託して、己が深部を凝視している。言葉の奇体な接続はないから、一読、情景は明瞭に見える。それでいて、類型化されていない個人の独自の苦悩を読み込んでゆけるのは、今まで展開した解釈の通りだ。

俳句は文学であるか否かという論争はずっと続いているが、今挙げた句群を以て文学ではないと言うなら、文学である俳句など無くなってしまう。はっきりとした句景の奥、幽かに立ちあがるものが文学で、いずれは死すべき人間が、明るい諦観の裡に死を凝視しつつ、生きのびてゆく匂いだ。その景と匂いの依って立つ処が、関悦史の場合、「時の顔」中の、次の句だろう。

眼球凍り時間の外が見えてゐる

これを「死体の眼球」と読めば、中七下五は成立しない。死体は時間の経過の裡に有るから、時間の外を見ることは出来ない。此処は凝視者の眼球と読むべきだろう。凍る、とは凝ることでもある。「外を見てゐたる」ではなく「外が見えてゐる」のだから、凝視者の意志に拘わらず、否応無く見えてしまうのだ。「見える」という状況の裡に固定されたまま、凍ってしまう。

その眼差しが或る時には、不意に立ちあがる鋏を見る。その時は冷夏であった。なぜ夏は冷えたのか。あるいは凝視者の眼球の発する冷気が、アルゴンの如く大気中に遍満した結果なのか。ところで、霊とは時間の外にある。だから関悦史よ、君の眼前に浮き出す親しい顔に護られつつ、書き続ける生を抱きしめたまえ。

(了)