2023-03-19

竹岡一郎 琵琶の音の赴く先〔前篇〕髙鸞石「琵琶法」を読む

琵琶の音の赴く先
髙鸞石「琵琶法」を読む

竹岡一郎


この連作「琵琶法」は、作者のこれまでの連作とは趣を変え、抑制の利いた句群となっている。その抑制を「法」と詠んだか。作者の奥底に怨念はまだまだ存している筈で、その怨念を敢えて脇に置いている感、怨念を客観的に描写していない憾みはあるが、これもまた一つの過程であろう。今までとは違った姿勢、渦の中で猛るのではなく、渦から一歩引いて観ようとしている姿勢は伝わる。


諦めよ
これだけ滝があるならば  「琵琶法一」
(以下、作者は全て髙鸞石)

鯉の滝登りをまず思う。登っても登っても滝があるから龍になるのは諦めよ、と読んでしまえば諦観の句だが、逆に、滝を「浄めの場」と考えれば、これだけの滝に打たれてなお穢れを維持することは諦めよ、とも読める。穢れが維持できなければ必然的に浄められてしまう訳で、滝を登るのか滝に打たれるのかで、先の展開が真反対になる。

なぜ多行にしたかも考えなくてはならない。「諦めよ」と、次の行にある滝の有り様とは、断絶していると読んでみる。つまり、一旦は「諦めよ」と、自分か他者かに諭しておいて、そしてふと目を上げる。縦にか、横にか、連なる滝を見る。諦めよ、と言いながらも、これだけ滝があるなら何とかなるかもしれん、と作者が思うなら、これは諦観を蹴り飛ばそうとする句か。

壊す神が桜のなかを上下する  「琵琶法一」

桜を国花と読めば、壊す神は国家転覆の破壊神だ。だが、古来、日本人は桜に、「死」をも見て来た。その咲きざまの絶巓と散り様の潔さに対してか。となると、「壊す神」は、桜の本質の顕現なのか。

桜と「壊す神」が違うものだとすれば、桜という「死の中」を上下する「壊す神」は、そもそも何を壊すのだろう。何も壊さずとも桜自体が死を含むのであれば、「壊す神」は死自体を壊そうとするのだろうか。破壊を伴う再生の神とも読める。

桜をどう観るか、また、桜と神の関係をどう捉えるかにより、神の解釈が幾つにも分かれるが、更に、掲句においては神自身も上下する。神もまた高められ低められ、天に近づき地に落ちかかるという反復運動を繰り返すのだ。

「桜のなか」とは桜の木の中なのだろうか。ならば、神は桜を支えようとしているのか、それとも桜の芯から壊そうとしているのか。咲き誇る桜の花の中と取るなら、神の繰り返す上昇下降は、夢幻の美しさを具える。

煮え立つ
蜘蛛工
事の
黒い煙
を吸い   「琵琶法一」

繫げて読むなら、「煮え立つ蜘蛛工事の黒い煙を吸い」となる。現実的な景だ。何かの工事によって煮え立つように苦しんでいる一匹の蜘蛛。この蜘蛛を作者と読む事も出来よう。

だが、多行の区切りを得ると、蜘蛛は被害者ではなく、「蜘蛛工」という一種の職人になる。黒い煙を吸いながら、煮え立つ如く事をこなしてゆく蜘蛛工。果たして蜘蛛は、或いは蜘蛛工は、煙にやられる立場か、煙を作る立場か。

「煮え立つ」「蜘蛛工」「事の」「黒い煙」「を吸い」をそれぞれ断絶した言葉、と読む事も出来る。その場合、掲句はコラージュの技法、本来は関連性の無い写真を貼り合わせ、虚空に浮遊させて、新たな関係性を誘う技法となる。「蜘蛛工」のイメージは、手足が八本もあるような職人を思わせる。いかにも有能な職人だ。その職人の手足は、それぞれ断絶した言葉へと伸びて、己を中心に、言葉の新たな関係性を創り出そうとしているのだろうか。

いま、一句の中に、同時に異なる意味が立ち上がる例を挙げて来た。解釈を丁寧に行なえば、複眼の視点が浮かび上がって来る。複眼の利点とは、様々な立場、様々な観点が同時に示されることだ。いうなれば、地上における鳥瞰である。

虫ども複眼でとらえているか糞と教会   「毒存在紀」
(「教会」に「church」とルビ)

これは作者が髙田獄舎と名乗っていた頃の連作にある句だが、この時点で既に、複眼の視点への信条は現れている。なお、ここでわざわざルビを振っているのは、「キリスト教の教会」と特定する為だろう。「church」には、キリスト教の教会や集会所の意の他に、「キリスト教徒の共同体」の意もある事を付け加えておく。

腐るミサイルにて長糞の巨人   「琵琶法一」
(「長糞」に「ながぐそ」、「巨人」に「ガルガンチュア」とルビ)

「汝の意志するところを為せ」とは、ラブレーの「ガルガンチュアとパンタグリュエル」中の「テレームの僧院」における唯一の規律だが、西洋文明がそれを忠実に実行した結果、どうなったかというと、現在の世界となった。核ミサイルは何万発あるのか知らないが、腐食した物も沢山あるだろう。それを喰って長い一本糞を垂れる巨人。その糞は一国を横断するかもしれず、場合によっては地球を一周するだろう。

「テレーム」は、元々ギリシャ語訳聖書にある「テレーマ」(神の御心、人間がそれによって動かされるところの意志)から来た言葉だが、転じて「意志」となった。「神の御心」を正義の御旗として十字軍、大航海時代と、ヨーロッパが為してきた大略奪と大虐殺は遂に、腐食に怯え発射を待ち焦がれるミサイル群へと結実した。掲句の「腐るミサイル」を象徴として読み替えれば、「正義の常なる末路」となろうか。

この巨人は人類の総数の具現化なのか、それとも教会や王権の恣意なる利権なのか、或いは常に餓えている魂の集合体か。現代においてガルガンチュアの飽食を相続しているのは何か。この長糞は終わる事の無い汚染なのか、それとも戦争絶滅の奇跡なのか。

掲句は「巨人の長糞」ではなく、「長糞の巨人」であるから、長糞自体が巨人であるとも読める。糞が世界の状況ではなく、巨人自身であるなら、それは即ち人間全体、更に絞り込めば何よりも作者自身に糞の要素があると告白しているに等しい。作者が意識的にその結論に達したのであれば、それは含羞を含んだ自己省察だ。無意識に書いたとしても、いずれ意識には浮かび上がってこよう。

そして自己肯定と自己否定との間の振幅の激しさが、詩人の特性であり、その絶望と希望は、詩を書き続けたければ受け入れるしかない。この自己肯定と自己否定の並列も、己自身に向けられた複眼の視点の結果だからだ。「日に三たび己を顧みる」という。その実行者に強靭さを与える言葉だ。

ラブレーの描くガルガンチュアは、無数の餓鬼が集まって巨体を構成しているようにも見える。ガルガンチュアが死ねば、その屍は無数の餓鬼へと戻って世界中に散らばるだろうか。その時には、餓鬼の頭の数だけの正義の御旗が、虫の大群の羽音のように唸るだろう。屍も糞も似たようなものなら、掲句の長糞からは無数の餓鬼が「虫ども」の如く湧き、世界を喰らい尽くそうとするだろうか。

「虫ども」が観ている「糞」と「教会」の二つが各々指向するものは、現在の結果として、重なるか否か。更に、長糞を滋養として再び世界は芽吹くかもしれないが、その中に現行の人類は居られるか否か。

東洋には、唯一絶対神の概念は無い。「神の御心」なる言葉の代わりに、一つの言葉がある。「業力不滅」という。業力は何処までも飛ぶ矢のようなものだ。例え火星に移住しようが、異界に神隠しされようが、自殺してあの世に逃れようが、業力は必ず到達し、その力を顕わす迄は消える事が無い。


火山の歯車に雨とは常に雨裁    「琵琶法二」
(「雨裁」に「あまさばき」とルビ)

気になるのは「雨」が二回出て来ることだ。「雨とは常に裁き」ならわかる。なぜ裁きの前にもう一度雨をつける必要があるのだろうと考える。「雨裁」とは「雨が雨を裁く」のではないか。

「火山の歯車」に、噴火のシステムを思う。実際に真っ赤な歯車が超現実的に回っている様を思い浮かべても良いが、むしろ此の歯車は火山の、目には見えない業か。

火山の潜在的形成力に雨が降る。チッチタ、チッチタ、と音を立てて蒸気と跳ね、白く煙る。天からの雨を、蒸気と化した雨が裁く。または火山の歯車に当たった雨を、天からの雨が裁き続ける。

「あまさばき」というルビに、「天裁き」という言葉が隠れている。天が裁くのか、天を裁こうとするのか。対極にある二つの姿勢が、ルビの中に並列して隠されている。

蒸気は再び雲に吸われては、雨粒として落下するだろう。天と火口との二点を果てしなく往復する雨の在り方を「雨裁」と名付けたか。雨の永久運動を支える仕組みの一つとして「歯車」を読むなら、この歯車が止まる事は無い。業力の不滅を、作者は果てしない「裁き」と感じたか。

大蛇棲む墨の中にも秋来たる  「琵琶法四」

墨に五彩あり、と言う。黒は全ての色を含む。全ての色の潜在的形成力、即ち業を含むのだ。その業、五彩の本質を、「大蛇」と表現したか。

その墨にも夏を経て秋が来る。実りと寂しさの秋だ。墨の勢いと神気が秋の中で熟れ、醸される。これが他の季でないのは、墨の本質が練熟し、大蛇の如く躍り出る機を、「秋」と表現するのが一番ふさわしいからだろう。

火の長とは寒雁の望むもの   「琵琶法三」
(「長」に「かしら」とルビ)

「火の長」に、荒れ野に立ちあがる炎を想う。荒れ野は広く凍てついていれば良い。寒雁とはシベリアから飛来して日本で冬を越す雁だから、荒れ野をシベリアと観ても良いと思う。

火は、シベリアでは恐ろしく貴重なものだろうから、「火の長」は荒野を統べる長(おさ)かとも思う。部族や個人ではなく、「火の長」と呼ばれる一種のスピリット、霊的な本質だと思いたい。なぜなら、寒雁がそれを「望む」からだ。雁は暖まりたいのだろうか。それも勿論あろう。だが、それよりも遙かな眺望もある。雁の「志」とでもいうべきものだ。

この「望む」という語、「求める」意の他に、「遥かに見やる」意もある。後者と取った場合、雁の眼の奥にか、翼の記憶にか、「火の長」があり、それを雁は、日本の穏やかな水面に於いて、遠景を見やる如く想っている。

峠の蕾開くは塩の思念によりて  「琵琶法四」

塩の名を冠した峠は、全国にある。いわゆる「塩の道」だ。海辺で製した塩を、海の無い地域へと運ぶ。その峠を越えれば、塩が目的地へと届く。「峠」に、塩の貴重さと塩運ぶ道程の険しさを思う。

「塩の思念」とは、塩を製する者、塩を仲介する者、塩を運ぶ者、塩を待ち望む者、それら全ての者達の思念だろう。人間の思念が染みついた峠に、開く蕾。「花開く」ではない、「蕾開く」と詠むのは、蕾は花の、ようやくの始まりだからだ。いつでも始まったばかりの人間の希望とも観える。

生きる為、肉体が力得る為、解毒の為に、塩が如何に重要か。合成される塩化ナトリウムは、塩ではない。塩とは、海の塩や、古代の海の遺産である岩塩を指すのだ。海のミネラルが入っているものを塩という。血がしょっぱいのは塩による。人間も動物も塩によって動いている。

血は魂である。血を保つとは魂を保つ事、血を支配するとは魂を支配する事だ。そして塩は、魂である血を養うものだ。「塩の思念」とは、人間が塩を希求する思念以前に、塩自体が持つ思念かも知れぬ。元々は「海の思念」とも言える。その思念によって開く蕾の色は、塩の白か、それとも血の赤か、それとも岩塩の如く混沌とした「谷神」の色か。


わが影に雪降る未婚の夏の廃湖  「琵琶法三」

この夏もまた未婚であったと読んでみる。未婚という状況が、夏に雪降る如しなのだろうか。寂しい詩情がある。

そもそも「廃湖」とは何だろう。例えば、廃車、廃校、廃坑、廃港などと云う。或いは廃人と云う。廃山、廃河、廃森とは云わない。尤も、廃鉱とは云う。その半分は人工物だからだろう。生き物ならば、廃馬、乳廃牛と云い、廃犬届なる物もある。人間が露骨に利用できるものの末路に「廃」の字が使われるらしい。

狐や蛇や猫に対しては使わない。人間が制御し得ない独特の力を持つものに、「廃」は当てはまらない。翻って人間を見れば、廃人とは社会的に利用価値が無くなった者を指すのか。「廃」が頭につくものとは、人間社会が必要とし強制する役割から、ようやく解放されたものとも取れる。

そこで「廃湖」である。今挙げた「廃」の意味から考えると、人造湖だったのか。灌漑か飲用か観光の目的で造られた湖が廃棄されている。せっかく造った湖をわざわざ廃棄されるまで汚染するとは考えられないので、廃棄は単に干上がった結果と読む。

となると、句中の「夏」が活きて来る。劫暑だったのか。ダム湖が干上がる例は良くある。もっと浅い湖なら、ひとたまりもない。あるいは護岸に不備があって、水が流失したのか。かつて湖だった広い窪地で、罅割れたコンクリートが人造の残骸として転がっているかもしれぬ、と読もう。

「未婚」は意味としては、「わが影」或いは作者自身に掛かるのだろうが、文法としては「廃湖」に掛かるように詠われている。「未婚」とは〈公認された位置付けとしての配偶者〉を一度も持たない状態だ。「未婚の廃湖」とは、人間に一度も使われぬまま、人間社会から遺棄され解放された人造湖の意味か。

「わが影に雪降る」と「未婚の夏の廃湖」、この二つの景が、鏡像の如く向かい合うと読めば、「未婚の廃湖」は「わが影」に対応し、「夏」に「雪降る」が対応する。

「夏」と「雪」の如く、互いが互いを補完するなら、「わが影」の濃さに反比例して「未婚の廃湖」は明るい。水涸れるほど陽が降り注ぐ湖の跡か。

では、「雪降る未婚の夏の廃湖」と一括りに読めば、どうなるか。廃湖は人間のみならず季節の摂理からも解放された結果、夏にも拘わらず、廃湖にのみ雪が降る。「わが影に」とあるから、この場合、「廃湖」は「わが影」の中にある。

影とは、この世に物体がある証だ。影を失くした者はまもなく死ぬ、と聞く。既にこの世から離れかかっているから影が薄くなり消える。ならば、廃湖は存在を続けるために、作者の影の中に棲むと決めたのだろうか。

廃湖に選ばれた作者の影は、暗黒のように濃いだろう。影の中に、そして廃湖に、夏を拒み否むように雪が降る。雪片は小さく幽かに冷たく降り、僅かな光をも逃さずに取り込み、白々と反射する。かつて水であった雪は、湖を再び湛えようとして降るのか。

迷路の水盤乳房うつれば行き止まり  「琵琶法三」

乳房は「映る」のだろうか、それとも「移る」のだろうか。「映る」のなら、水盤の上に乳房がある。「移る」のなら、水盤の水中に乳房がある。水盤を自然の鏡と見れば、こちらの世界の乳房と鏡中の乳房は入れ替わり可能とも読める。

いずれにせよ迷路の行き止まりには水盤がある。しかし、水盤に乳房が「うつる」までは、そこが行き止まりか否かは、分からない。乳房を肉欲の対象と読むなら、この迷路はミノタウロスのそれの如く、或いは膣道の如く暗黒である。その暗黒は全ての人にとってと同じく、作者自身から生じているとも、作者自身を生じているとも観える。

「行き止まり」である袋小路は、「乳房うつる水盤」によって溺れるためにあるのか。だが、乳房が肉欲の意を遙かに遡って、赤子にとっての安らぎの意を含むと見る事も出来る。柔らかく温かく、乳という名の「血と同じ成分」を噴き出して、飲むを誘う。乳は母の魂だ。迷路は母性に果てるとも言える。地母神は屍を抱きとめ、分解して土の養いとし、実りをもたらす。

道が行き止まる時、その道は終わりではない。辻や橋と同じく、行き止まりの先は別の世に繋がっている。「乳房のうつる水盤」を標識として行き止まる道の先は、膣道の果ての如く子宮であり、子宮回帰の更に先へ進めば、未生の領域へと踏み込む。時間の空白である領域だ。

不要な時間いくつもあれば駆ける木々  「琵琶法四」

宮沢賢治の「月夜のでんしんばしら」を思わせる。「不要な時間」は木々の数だけあるように見える。一方で、「いくつも」の「も」には、「不要な時間」が、あとから幾らでも湧いてくるような印象がある。木々もまた湧いて出るのか。

木々を駆けさせるだけの「不要な時間」は、恐らく普段の景に潜む永遠で、我々の日常においては先ず絶対に駆けない筈の木々が、駆けられるほど長い時間だ。この「不要」とは「空白」に近い意味ではないか。

あくまで人間にとっては「不要」であるに過ぎず、木々にとっては大切な時間かも知れない。木々の中に在る時間とも、木々がその日常に於いて感じている時間とも読めようか。人間の時間の区切りを捨てて、木々の時間に寄り添うなら、我々の目にはいつまでも止まっているとしか見えない木々が、実は駆けているかもしれぬ。


草原の能は円もて徐徐に雪  「琵琶法四」

美しい景の見える句だ。草原のようなところで能が舞えるかと言われれば、それは能のスピリットがそのようなものなのだと答えるしかない。ここでの「能」は、その踊りの姿勢を示すものかもしれない。極度の緊張感の裡に、腰は常に水平を保ち、摺足で移動する。そして鳥瞰すれば、その舞いは円を描いている。この円とは天穹の似姿でもあろう。「円」の字に「まどか」なる形容をも思う。

「徐徐に雪」がひどく美しい。「徐徐に」は雪の降り初めであると同時に、舞う者の足の運びでもある。その舞いが雪を誘うのか。その踊りの本質(それを能と呼ぼうか)が、そもそも雪を蔵していて、天に雪を与え、天はまた雪を返すのか。

凍る
鹿の荒祈
なら記憶にある  「琵琶法一」
(「荒祈」に「あらいのり」とルビ)

「荒祈」とは作者の造語だろうが、荒く躍動する祭、或いは荒々しい祈りを思わせる。これだけではどんな祈りなのか分からない。ここで具体的な像は「鹿」である。鹿のような祈りが荒々しいと読むなら、発情し、或いは戦う鹿の像が浮かぶ。

しかし、一行目に「凍る」とある。寒さの中で凍ったように動かない鹿だろうか。その鹿自体が「荒祈」なのか、或いはその動かない鹿の中に、寒さを降伏する炎のように「荒祈」があるのだろうか。此処で「凍る」と「鹿の荒祈」が断絶していると読むなら、凍るのは現在の状況、「鹿の荒祈」は胸中の景とも読める。

三行目を見ると「なら記憶にある」、つまり、他の祈りは記憶にない、または否定する、という意志に読める。「鹿の荒祈」以外の祈りは認めないという態度は、わからないでもない。

祈りとは、本来、凍るが如き只中で生死を賭けて荒々しいものだからだ。寒中の滝行を思えば納得できるだろう。神仏よ、わが絶望と希望を聴け!と血を吐く想いで為されるのが祈りだ。

(経験則から観れば、「見捨てる」のは常に人間の側であり、神仏の側ではない。それは器の違いによる。)

冬の鏡に問うなら
山の相こそ     「琵琶法二」
(「相」に「すがた」とルビ)

鏡に問うなら、とある。鏡に問うのは自分の姿である。鏡には山が映る。冬の山景だろう。「冬の鏡」とあるからだ。枯れた、くすんだ、或いは雪に白く凍てる山だ。厳しい山である。

単に「姿」ではなく、「相」の語を用いているから、山の内なる本質が窺えるような姿、と読む。その姿を己が姿として問う。「こそ」に、己が在るべき姿として山の本質を選び取った、という意志が籠められている。

「山の相」は、同時に己を取り巻く世界でもある。世界を見る時、人は己が姿を見るからだ。世界は冬山の厳しい姿であれ、我が姿もそのようにあるべきか、と鏡に問うている。求道の良い姿勢である。

しかし非日の空白を生む崩れた橋  「琵琶法四」
(「非日」に「ひじつ」とルビ)

「非日」はやはり作者の造語だろう。二つの意味が推測される。一に、太陽ではない。二に、一日という時間の区切りではない。更に「空白」と相まった時の印象は、太陽も時間も無い、白い空っぽである。それを未生とか死とか断ずれば判ったような気にもなるが、作者の感じているのは恐らく違うものだろう。

「非日」を生むのは「崩れた橋」だという。渡るに用を成さない橋だ。橋とは、異界か彼の世を繋ぐものだ。それが崩れるとは、単に彼岸に渡れぬというだけではなく、此岸もまた行きどころ無きが如し印象を与える。バランスを保つための通路が崩れるとは、そういうことだ。

「非日の空白を生む」と「崩れた橋」の間に、因果関係は無いのかも知れない。何かが「非日の空白」を生み、一方では橋が崩れている、と。そう読めば、「非日の空白」に具体的に響き合う物が、「崩れた橋」ということになる。「非日の空白」を喩えるなら「崩れた橋」であるとも。

「しかし」に悲痛な感がある。この世の日常、太陽が空にある時間帯、区切られた一日、「非日」とは対極にあるだろう立ち位置に於いて、色々と為すべき事はある。「しかし」、ふと見ると橋は崩れている。「非日の空白」という、奇妙な、今は如何ともし難い、ものとも感覚ともつかぬ何かが生まれている現実を見せつけられる作者だ。


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