ラベル 髙鸞石 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 髙鸞石 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2023-03-19

竹岡一郎 琵琶の音の赴く先〔前篇〕髙鸞石「琵琶法」を読む

琵琶の音の赴く先
髙鸞石「琵琶法」を読む

竹岡一郎


この連作「琵琶法」は、作者のこれまでの連作とは趣を変え、抑制の利いた句群となっている。その抑制を「法」と詠んだか。作者の奥底に怨念はまだまだ存している筈で、その怨念を敢えて脇に置いている感、怨念を客観的に描写していない憾みはあるが、これもまた一つの過程であろう。今までとは違った姿勢、渦の中で猛るのではなく、渦から一歩引いて観ようとしている姿勢は伝わる。


諦めよ
これだけ滝があるならば  「琵琶法一」
(以下、作者は全て髙鸞石)

鯉の滝登りをまず思う。登っても登っても滝があるから龍になるのは諦めよ、と読んでしまえば諦観の句だが、逆に、滝を「浄めの場」と考えれば、これだけの滝に打たれてなお穢れを維持することは諦めよ、とも読める。穢れが維持できなければ必然的に浄められてしまう訳で、滝を登るのか滝に打たれるのかで、先の展開が真反対になる。

なぜ多行にしたかも考えなくてはならない。「諦めよ」と、次の行にある滝の有り様とは、断絶していると読んでみる。つまり、一旦は「諦めよ」と、自分か他者かに諭しておいて、そしてふと目を上げる。縦にか、横にか、連なる滝を見る。諦めよ、と言いながらも、これだけ滝があるなら何とかなるかもしれん、と作者が思うなら、これは諦観を蹴り飛ばそうとする句か。

壊す神が桜のなかを上下する  「琵琶法一」

桜を国花と読めば、壊す神は国家転覆の破壊神だ。だが、古来、日本人は桜に、「死」をも見て来た。その咲きざまの絶巓と散り様の潔さに対してか。となると、「壊す神」は、桜の本質の顕現なのか。

桜と「壊す神」が違うものだとすれば、桜という「死の中」を上下する「壊す神」は、そもそも何を壊すのだろう。何も壊さずとも桜自体が死を含むのであれば、「壊す神」は死自体を壊そうとするのだろうか。破壊を伴う再生の神とも読める。

桜をどう観るか、また、桜と神の関係をどう捉えるかにより、神の解釈が幾つにも分かれるが、更に、掲句においては神自身も上下する。神もまた高められ低められ、天に近づき地に落ちかかるという反復運動を繰り返すのだ。

「桜のなか」とは桜の木の中なのだろうか。ならば、神は桜を支えようとしているのか、それとも桜の芯から壊そうとしているのか。咲き誇る桜の花の中と取るなら、神の繰り返す上昇下降は、夢幻の美しさを具える。

煮え立つ
蜘蛛工
事の
黒い煙
を吸い   「琵琶法一」

繫げて読むなら、「煮え立つ蜘蛛工事の黒い煙を吸い」となる。現実的な景だ。何かの工事によって煮え立つように苦しんでいる一匹の蜘蛛。この蜘蛛を作者と読む事も出来よう。

だが、多行の区切りを得ると、蜘蛛は被害者ではなく、「蜘蛛工」という一種の職人になる。黒い煙を吸いながら、煮え立つ如く事をこなしてゆく蜘蛛工。果たして蜘蛛は、或いは蜘蛛工は、煙にやられる立場か、煙を作る立場か。

「煮え立つ」「蜘蛛工」「事の」「黒い煙」「を吸い」をそれぞれ断絶した言葉、と読む事も出来る。その場合、掲句はコラージュの技法、本来は関連性の無い写真を貼り合わせ、虚空に浮遊させて、新たな関係性を誘う技法となる。「蜘蛛工」のイメージは、手足が八本もあるような職人を思わせる。いかにも有能な職人だ。その職人の手足は、それぞれ断絶した言葉へと伸びて、己を中心に、言葉の新たな関係性を創り出そうとしているのだろうか。

いま、一句の中に、同時に異なる意味が立ち上がる例を挙げて来た。解釈を丁寧に行なえば、複眼の視点が浮かび上がって来る。複眼の利点とは、様々な立場、様々な観点が同時に示されることだ。いうなれば、地上における鳥瞰である。

虫ども複眼でとらえているか糞と教会   「毒存在紀」
(「教会」に「church」とルビ)

これは作者が髙田獄舎と名乗っていた頃の連作にある句だが、この時点で既に、複眼の視点への信条は現れている。なお、ここでわざわざルビを振っているのは、「キリスト教の教会」と特定する為だろう。「church」には、キリスト教の教会や集会所の意の他に、「キリスト教徒の共同体」の意もある事を付け加えておく。

腐るミサイルにて長糞の巨人   「琵琶法一」
(「長糞」に「ながぐそ」、「巨人」に「ガルガンチュア」とルビ)

「汝の意志するところを為せ」とは、ラブレーの「ガルガンチュアとパンタグリュエル」中の「テレームの僧院」における唯一の規律だが、西洋文明がそれを忠実に実行した結果、どうなったかというと、現在の世界となった。核ミサイルは何万発あるのか知らないが、腐食した物も沢山あるだろう。それを喰って長い一本糞を垂れる巨人。その糞は一国を横断するかもしれず、場合によっては地球を一周するだろう。

「テレーム」は、元々ギリシャ語訳聖書にある「テレーマ」(神の御心、人間がそれによって動かされるところの意志)から来た言葉だが、転じて「意志」となった。「神の御心」を正義の御旗として十字軍、大航海時代と、ヨーロッパが為してきた大略奪と大虐殺は遂に、腐食に怯え発射を待ち焦がれるミサイル群へと結実した。掲句の「腐るミサイル」を象徴として読み替えれば、「正義の常なる末路」となろうか。

この巨人は人類の総数の具現化なのか、それとも教会や王権の恣意なる利権なのか、或いは常に餓えている魂の集合体か。現代においてガルガンチュアの飽食を相続しているのは何か。この長糞は終わる事の無い汚染なのか、それとも戦争絶滅の奇跡なのか。

掲句は「巨人の長糞」ではなく、「長糞の巨人」であるから、長糞自体が巨人であるとも読める。糞が世界の状況ではなく、巨人自身であるなら、それは即ち人間全体、更に絞り込めば何よりも作者自身に糞の要素があると告白しているに等しい。作者が意識的にその結論に達したのであれば、それは含羞を含んだ自己省察だ。無意識に書いたとしても、いずれ意識には浮かび上がってこよう。

そして自己肯定と自己否定との間の振幅の激しさが、詩人の特性であり、その絶望と希望は、詩を書き続けたければ受け入れるしかない。この自己肯定と自己否定の並列も、己自身に向けられた複眼の視点の結果だからだ。「日に三たび己を顧みる」という。その実行者に強靭さを与える言葉だ。

ラブレーの描くガルガンチュアは、無数の餓鬼が集まって巨体を構成しているようにも見える。ガルガンチュアが死ねば、その屍は無数の餓鬼へと戻って世界中に散らばるだろうか。その時には、餓鬼の頭の数だけの正義の御旗が、虫の大群の羽音のように唸るだろう。屍も糞も似たようなものなら、掲句の長糞からは無数の餓鬼が「虫ども」の如く湧き、世界を喰らい尽くそうとするだろうか。

「虫ども」が観ている「糞」と「教会」の二つが各々指向するものは、現在の結果として、重なるか否か。更に、長糞を滋養として再び世界は芽吹くかもしれないが、その中に現行の人類は居られるか否か。

東洋には、唯一絶対神の概念は無い。「神の御心」なる言葉の代わりに、一つの言葉がある。「業力不滅」という。業力は何処までも飛ぶ矢のようなものだ。例え火星に移住しようが、異界に神隠しされようが、自殺してあの世に逃れようが、業力は必ず到達し、その力を顕わす迄は消える事が無い。


火山の歯車に雨とは常に雨裁    「琵琶法二」
(「雨裁」に「あまさばき」とルビ)

気になるのは「雨」が二回出て来ることだ。「雨とは常に裁き」ならわかる。なぜ裁きの前にもう一度雨をつける必要があるのだろうと考える。「雨裁」とは「雨が雨を裁く」のではないか。

「火山の歯車」に、噴火のシステムを思う。実際に真っ赤な歯車が超現実的に回っている様を思い浮かべても良いが、むしろ此の歯車は火山の、目には見えない業か。

火山の潜在的形成力に雨が降る。チッチタ、チッチタ、と音を立てて蒸気と跳ね、白く煙る。天からの雨を、蒸気と化した雨が裁く。または火山の歯車に当たった雨を、天からの雨が裁き続ける。

「あまさばき」というルビに、「天裁き」という言葉が隠れている。天が裁くのか、天を裁こうとするのか。対極にある二つの姿勢が、ルビの中に並列して隠されている。

蒸気は再び雲に吸われては、雨粒として落下するだろう。天と火口との二点を果てしなく往復する雨の在り方を「雨裁」と名付けたか。雨の永久運動を支える仕組みの一つとして「歯車」を読むなら、この歯車が止まる事は無い。業力の不滅を、作者は果てしない「裁き」と感じたか。

大蛇棲む墨の中にも秋来たる  「琵琶法四」

墨に五彩あり、と言う。黒は全ての色を含む。全ての色の潜在的形成力、即ち業を含むのだ。その業、五彩の本質を、「大蛇」と表現したか。

その墨にも夏を経て秋が来る。実りと寂しさの秋だ。墨の勢いと神気が秋の中で熟れ、醸される。これが他の季でないのは、墨の本質が練熟し、大蛇の如く躍り出る機を、「秋」と表現するのが一番ふさわしいからだろう。

火の長とは寒雁の望むもの   「琵琶法三」
(「長」に「かしら」とルビ)

「火の長」に、荒れ野に立ちあがる炎を想う。荒れ野は広く凍てついていれば良い。寒雁とはシベリアから飛来して日本で冬を越す雁だから、荒れ野をシベリアと観ても良いと思う。

火は、シベリアでは恐ろしく貴重なものだろうから、「火の長」は荒野を統べる長(おさ)かとも思う。部族や個人ではなく、「火の長」と呼ばれる一種のスピリット、霊的な本質だと思いたい。なぜなら、寒雁がそれを「望む」からだ。雁は暖まりたいのだろうか。それも勿論あろう。だが、それよりも遙かな眺望もある。雁の「志」とでもいうべきものだ。

この「望む」という語、「求める」意の他に、「遥かに見やる」意もある。後者と取った場合、雁の眼の奥にか、翼の記憶にか、「火の長」があり、それを雁は、日本の穏やかな水面に於いて、遠景を見やる如く想っている。

峠の蕾開くは塩の思念によりて  「琵琶法四」

塩の名を冠した峠は、全国にある。いわゆる「塩の道」だ。海辺で製した塩を、海の無い地域へと運ぶ。その峠を越えれば、塩が目的地へと届く。「峠」に、塩の貴重さと塩運ぶ道程の険しさを思う。

「塩の思念」とは、塩を製する者、塩を仲介する者、塩を運ぶ者、塩を待ち望む者、それら全ての者達の思念だろう。人間の思念が染みついた峠に、開く蕾。「花開く」ではない、「蕾開く」と詠むのは、蕾は花の、ようやくの始まりだからだ。いつでも始まったばかりの人間の希望とも観える。

生きる為、肉体が力得る為、解毒の為に、塩が如何に重要か。合成される塩化ナトリウムは、塩ではない。塩とは、海の塩や、古代の海の遺産である岩塩を指すのだ。海のミネラルが入っているものを塩という。血がしょっぱいのは塩による。人間も動物も塩によって動いている。

血は魂である。血を保つとは魂を保つ事、血を支配するとは魂を支配する事だ。そして塩は、魂である血を養うものだ。「塩の思念」とは、人間が塩を希求する思念以前に、塩自体が持つ思念かも知れぬ。元々は「海の思念」とも言える。その思念によって開く蕾の色は、塩の白か、それとも血の赤か、それとも岩塩の如く混沌とした「谷神」の色か。


わが影に雪降る未婚の夏の廃湖  「琵琶法三」

この夏もまた未婚であったと読んでみる。未婚という状況が、夏に雪降る如しなのだろうか。寂しい詩情がある。

そもそも「廃湖」とは何だろう。例えば、廃車、廃校、廃坑、廃港などと云う。或いは廃人と云う。廃山、廃河、廃森とは云わない。尤も、廃鉱とは云う。その半分は人工物だからだろう。生き物ならば、廃馬、乳廃牛と云い、廃犬届なる物もある。人間が露骨に利用できるものの末路に「廃」の字が使われるらしい。

狐や蛇や猫に対しては使わない。人間が制御し得ない独特の力を持つものに、「廃」は当てはまらない。翻って人間を見れば、廃人とは社会的に利用価値が無くなった者を指すのか。「廃」が頭につくものとは、人間社会が必要とし強制する役割から、ようやく解放されたものとも取れる。

そこで「廃湖」である。今挙げた「廃」の意味から考えると、人造湖だったのか。灌漑か飲用か観光の目的で造られた湖が廃棄されている。せっかく造った湖をわざわざ廃棄されるまで汚染するとは考えられないので、廃棄は単に干上がった結果と読む。

となると、句中の「夏」が活きて来る。劫暑だったのか。ダム湖が干上がる例は良くある。もっと浅い湖なら、ひとたまりもない。あるいは護岸に不備があって、水が流失したのか。かつて湖だった広い窪地で、罅割れたコンクリートが人造の残骸として転がっているかもしれぬ、と読もう。

「未婚」は意味としては、「わが影」或いは作者自身に掛かるのだろうが、文法としては「廃湖」に掛かるように詠われている。「未婚」とは〈公認された位置付けとしての配偶者〉を一度も持たない状態だ。「未婚の廃湖」とは、人間に一度も使われぬまま、人間社会から遺棄され解放された人造湖の意味か。

「わが影に雪降る」と「未婚の夏の廃湖」、この二つの景が、鏡像の如く向かい合うと読めば、「未婚の廃湖」は「わが影」に対応し、「夏」に「雪降る」が対応する。

「夏」と「雪」の如く、互いが互いを補完するなら、「わが影」の濃さに反比例して「未婚の廃湖」は明るい。水涸れるほど陽が降り注ぐ湖の跡か。

では、「雪降る未婚の夏の廃湖」と一括りに読めば、どうなるか。廃湖は人間のみならず季節の摂理からも解放された結果、夏にも拘わらず、廃湖にのみ雪が降る。「わが影に」とあるから、この場合、「廃湖」は「わが影」の中にある。

影とは、この世に物体がある証だ。影を失くした者はまもなく死ぬ、と聞く。既にこの世から離れかかっているから影が薄くなり消える。ならば、廃湖は存在を続けるために、作者の影の中に棲むと決めたのだろうか。

廃湖に選ばれた作者の影は、暗黒のように濃いだろう。影の中に、そして廃湖に、夏を拒み否むように雪が降る。雪片は小さく幽かに冷たく降り、僅かな光をも逃さずに取り込み、白々と反射する。かつて水であった雪は、湖を再び湛えようとして降るのか。

迷路の水盤乳房うつれば行き止まり  「琵琶法三」

乳房は「映る」のだろうか、それとも「移る」のだろうか。「映る」のなら、水盤の上に乳房がある。「移る」のなら、水盤の水中に乳房がある。水盤を自然の鏡と見れば、こちらの世界の乳房と鏡中の乳房は入れ替わり可能とも読める。

いずれにせよ迷路の行き止まりには水盤がある。しかし、水盤に乳房が「うつる」までは、そこが行き止まりか否かは、分からない。乳房を肉欲の対象と読むなら、この迷路はミノタウロスのそれの如く、或いは膣道の如く暗黒である。その暗黒は全ての人にとってと同じく、作者自身から生じているとも、作者自身を生じているとも観える。

「行き止まり」である袋小路は、「乳房うつる水盤」によって溺れるためにあるのか。だが、乳房が肉欲の意を遙かに遡って、赤子にとっての安らぎの意を含むと見る事も出来る。柔らかく温かく、乳という名の「血と同じ成分」を噴き出して、飲むを誘う。乳は母の魂だ。迷路は母性に果てるとも言える。地母神は屍を抱きとめ、分解して土の養いとし、実りをもたらす。

道が行き止まる時、その道は終わりではない。辻や橋と同じく、行き止まりの先は別の世に繋がっている。「乳房のうつる水盤」を標識として行き止まる道の先は、膣道の果ての如く子宮であり、子宮回帰の更に先へ進めば、未生の領域へと踏み込む。時間の空白である領域だ。

不要な時間いくつもあれば駆ける木々  「琵琶法四」

宮沢賢治の「月夜のでんしんばしら」を思わせる。「不要な時間」は木々の数だけあるように見える。一方で、「いくつも」の「も」には、「不要な時間」が、あとから幾らでも湧いてくるような印象がある。木々もまた湧いて出るのか。

木々を駆けさせるだけの「不要な時間」は、恐らく普段の景に潜む永遠で、我々の日常においては先ず絶対に駆けない筈の木々が、駆けられるほど長い時間だ。この「不要」とは「空白」に近い意味ではないか。

あくまで人間にとっては「不要」であるに過ぎず、木々にとっては大切な時間かも知れない。木々の中に在る時間とも、木々がその日常に於いて感じている時間とも読めようか。人間の時間の区切りを捨てて、木々の時間に寄り添うなら、我々の目にはいつまでも止まっているとしか見えない木々が、実は駆けているかもしれぬ。


草原の能は円もて徐徐に雪  「琵琶法四」

美しい景の見える句だ。草原のようなところで能が舞えるかと言われれば、それは能のスピリットがそのようなものなのだと答えるしかない。ここでの「能」は、その踊りの姿勢を示すものかもしれない。極度の緊張感の裡に、腰は常に水平を保ち、摺足で移動する。そして鳥瞰すれば、その舞いは円を描いている。この円とは天穹の似姿でもあろう。「円」の字に「まどか」なる形容をも思う。

「徐徐に雪」がひどく美しい。「徐徐に」は雪の降り初めであると同時に、舞う者の足の運びでもある。その舞いが雪を誘うのか。その踊りの本質(それを能と呼ぼうか)が、そもそも雪を蔵していて、天に雪を与え、天はまた雪を返すのか。

凍る
鹿の荒祈
なら記憶にある  「琵琶法一」
(「荒祈」に「あらいのり」とルビ)

「荒祈」とは作者の造語だろうが、荒く躍動する祭、或いは荒々しい祈りを思わせる。これだけではどんな祈りなのか分からない。ここで具体的な像は「鹿」である。鹿のような祈りが荒々しいと読むなら、発情し、或いは戦う鹿の像が浮かぶ。

しかし、一行目に「凍る」とある。寒さの中で凍ったように動かない鹿だろうか。その鹿自体が「荒祈」なのか、或いはその動かない鹿の中に、寒さを降伏する炎のように「荒祈」があるのだろうか。此処で「凍る」と「鹿の荒祈」が断絶していると読むなら、凍るのは現在の状況、「鹿の荒祈」は胸中の景とも読める。

三行目を見ると「なら記憶にある」、つまり、他の祈りは記憶にない、または否定する、という意志に読める。「鹿の荒祈」以外の祈りは認めないという態度は、わからないでもない。

祈りとは、本来、凍るが如き只中で生死を賭けて荒々しいものだからだ。寒中の滝行を思えば納得できるだろう。神仏よ、わが絶望と希望を聴け!と血を吐く想いで為されるのが祈りだ。

(経験則から観れば、「見捨てる」のは常に人間の側であり、神仏の側ではない。それは器の違いによる。)

冬の鏡に問うなら
山の相こそ     「琵琶法二」
(「相」に「すがた」とルビ)

鏡に問うなら、とある。鏡に問うのは自分の姿である。鏡には山が映る。冬の山景だろう。「冬の鏡」とあるからだ。枯れた、くすんだ、或いは雪に白く凍てる山だ。厳しい山である。

単に「姿」ではなく、「相」の語を用いているから、山の内なる本質が窺えるような姿、と読む。その姿を己が姿として問う。「こそ」に、己が在るべき姿として山の本質を選び取った、という意志が籠められている。

「山の相」は、同時に己を取り巻く世界でもある。世界を見る時、人は己が姿を見るからだ。世界は冬山の厳しい姿であれ、我が姿もそのようにあるべきか、と鏡に問うている。求道の良い姿勢である。

しかし非日の空白を生む崩れた橋  「琵琶法四」
(「非日」に「ひじつ」とルビ)

「非日」はやはり作者の造語だろう。二つの意味が推測される。一に、太陽ではない。二に、一日という時間の区切りではない。更に「空白」と相まった時の印象は、太陽も時間も無い、白い空っぽである。それを未生とか死とか断ずれば判ったような気にもなるが、作者の感じているのは恐らく違うものだろう。

「非日」を生むのは「崩れた橋」だという。渡るに用を成さない橋だ。橋とは、異界か彼の世を繋ぐものだ。それが崩れるとは、単に彼岸に渡れぬというだけではなく、此岸もまた行きどころ無きが如し印象を与える。バランスを保つための通路が崩れるとは、そういうことだ。

「非日の空白を生む」と「崩れた橋」の間に、因果関係は無いのかも知れない。何かが「非日の空白」を生み、一方では橋が崩れている、と。そう読めば、「非日の空白」に具体的に響き合う物が、「崩れた橋」ということになる。「非日の空白」を喩えるなら「崩れた橋」であるとも。

「しかし」に悲痛な感がある。この世の日常、太陽が空にある時間帯、区切られた一日、「非日」とは対極にあるだろう立ち位置に於いて、色々と為すべき事はある。「しかし」、ふと見ると橋は崩れている。「非日の空白」という、奇妙な、今は如何ともし難い、ものとも感覚ともつかぬ何かが生まれている現実を見せつけられる作者だ。


2022-06-05

竹岡一郎 桃売りババアの正体

桃売りババアの正体

竹岡一郎


凍死の山寂然(しん)と桃売りババア有難う  髙鸞石

この一句を読み下して、先ず感じるのは「凍死の山」と「桃売りババア有難う」との断絶だ。前半の峻厳さと、後半の揶揄するような印象との落差は激しい。一句中のこの断絶、落差は、恐らく意図的に詠われたものだ。

まず「凍死の山」である。凍死が出るくらいだから、或る程度の標高があり、遭難の起こりやすい、厳しい山だろう。その山が「しんと」している。まるで死そのもののように、しんとしているのだが、「寂然」と書いて「しん」とルビを振っている。

「寂然」の意味を調べるなら、一つには「ひっそりとして寂しいさま」、一つには「煩悩を去って心が静かなさま」とある。「寂」という語が、そもそも「寂静」「寂然不動」と、仏道の言葉を思わせる。

「寂然不動」は禅語だが、もとは易経の、占断する時の心構えだ。わたくしを去り、自然に任せて、卦を立てる状態をいう。「寂静」とは涅槃の意、と辞書にはあるが、一切を観照して静かに平らかに澄んだ、悟りの状態であろう。

内に凍死を抱え、凍死をありのままに観て動じない山の心を、「寂然」と呼び、その具体的な有様、音無く鎮まっている様子を「しん」というルビに託した、と読む。

対して「桃売りババア」である。柿でも林檎でもなく、なぜ桃かという事だ。句の最初に来る語は「凍死」、冬の季語だ。「凍死の山」といえば、雪に閉ざされた山を思う。対して桃は秋の季語だ。今は冷蔵庫があるから冬でも桃はある、と言うのは無しだ。大体、現代でも、冬に桃など余程珍しい。ましてや「桃売りババア」には、行商人の姿が重なるというのに。

では、この句の季節は秋なのか。違う。もし秋だというなら、「桃売りババア有難う」が句の最初に来なければ、秋のイメージは立たない。語順を変えて「桃売りババア有難う凍死の山寂然と」とすれば、途端に、凍死は過去にあった事として古びてしまう。「凍死」と「桃」を共に、今あるものとするためには、先ず、凍死の起こる厳しい山が雪に輝き、同時に「桃売りババア」がいなければならない。

ここで作者の立つ位置は、明確には示されていない。作者は山から離れているのか、それとも既に麓や中腹のいずれかに居るのか。だが、山が死を蔵するものなら、作者と山の距離は、些細な問題だ。なぜなら、人間はいつか必ず死ぬ。

では、この厳寒の最中に売られる桃、「凍死」の硬さに対峙する柔らかさを具えた桃とは、一体何か。作者は生の側にいて、山は死の側に動かざるものだが、作者と山の間にいる「桃売りババア」とは何者か。

生と死の境にあるものは何だ。黄泉比良坂だ。生と死の境には、桃の木が立つ。死の国の追手、イザナミの配下たちを、イザナギは桃を投げつけ撃退する。ならば、山はイザナミの領域である。掲句の舞台に沿って、更に付け加えるなら、人を凍死させる妖は雪女、若く美しい女の姿をしている。

死を退ける桃は、「西王母が桃」を連想させる。蟠桃(ばんとう)、三千年に一度実をつけるという桃、西遊記の孫悟空が喰い散らかした桃だ。

即ち、この厳寒に婆が売る桃は、唯の桃ではない。季を超え、時を超え、死の国の追手を退け、不老不死を得させる神々の力、有の通力の具現だ。凍死の山が、自然の摂理を静かに観照するものならば、婆が売る桃は、自然の摂理に刃向かうものだ。

婆を、死の山と生の作者との間に立つものと見るなら、そんな婆に、我々は見覚えがないか。三途の川のほとりに立つ奪衣婆だ。衣を奪うとは象徴であり、実際は、死者から生前の財や地位や名誉を全て剥ぎ取る。

とすれば、この婆は、死に抗する桃を売りながらも、当人は老い、奪衣婆の性質、死後の無一物を悟らせる性質をも持つ事となる。

桃売りは、なぜ爺ではないのか。爺に無くて婆にあるもの、それは「妹の力」、神降ろしの器だ。婆の肉体自体が、とことん熟し切った「妹の力」、神懸かる器なのだ。

不死を売る婆という、この熟れ尽くした巫に対し、作者は(少なくとも作者の生きていたい肉体は)、「有難う」と言わざるを得ない。人間としては当然の言葉だろう。古来から、人間は老いを恐れ、死を恐れるものだ。

ここでなぜ「ありがとう」と平仮名で書かず、「有難う」と漢字で書くか。この桃が、現し世に有ること難い物だからだ。

だが、それならば「桃売り婆」で良いではないか。なぜ「ババア」と、強い印象を与えるカタカナで記したか。しかも末尾の「ア」には罵りの感嘆符が隠れている、とも読める。

ババア! と、作者は罵りたいのか。或いは、このババアが。と、是が非でも嘲笑せねばならぬ、との衝動に駆られるのか。

なぜなら、この婆が、作者と死との間に立ちはだかるからだ。三途の川のほとりに立つ婆の如く、死によって俗世の価値全てが奪い去られる恐怖を暗に示し、しかも熟し切った「妹の力」を以て、不死の通力を売りつけようとするからだ。

桃の代価は何であろうか。金銭如きでないことは明らかだ。しかもその通力は、神々の通力、有の通力であるから、業の報いを断滅する訳ではなく、ただ先延ばしするのみだ。いつまで先延ばしされ得るのか。

「一切は壊法(えほう)なり。慎んで精進すべし」と、仏陀は、その生の最期に教えた。かくのごとく、神々さえも、実は壊法の内にあり、その通力は有限である。不死の通力が尽き、先延ばしが果てた後には、どんな報いが待っているのか。

遥かな山は、しんと寂然と不動であり、死は、雪女の如く美しく誘うかもしれぬ。イザナミの如く、地の根源に抱くかもしれぬ。或いは死の山の何処かに、「寂」という語の如く、全てを観照し生死を超える悟りが眠るかもしれぬ。

ならば、山と作者との間に立ちはだかる婆、山への道程を妨げるようにさえ思える婆に対し、作者は、死すべき定めの人の子として、生者の誇りを籠めて、ババア、と言いたいのか。そこをどけ、とばかりに。

それとも、やはり死を厭う人間の常として、「有難う」と礼なし、屈せざるを得ないのか。もはや生と死の間に引き裂かれている作者には、自分の本当の望みが分からない。その葛藤の苦悶が、ようよう声となれば、「ババア」という悪態となる。

この「ババア」、特に末尾の「ア」一字を付け加えざるを得ない動機を読み解けば、この悪態にこそ、作者の煩悶が生々しく顕われる。生と死の間に迷う煩悶、いつか必ず死ぬ人間の煩悶だ。「ババア」の一語が、掲句に人間の懊悩を、体温を、生じさせる。(逆に言えば、何が、作家から体温を奪い、凍死させるか。)

厄介なことに、「寂然(しん)と」は、山に掛かる形容とばかり見えていたが、一句を良く見直すと、「寂然(しん)と」は、ババアにも掛かり得るではないか。

このババアが、あの美しく白く、死を蔵する山の権化なのか。山の神、地祇、地霊であり、山姥であり、一旦その身を翻せば、雪女であり、イザナミでもあるのか。

では、山とババアの如く、「凍死」と「桃」も、同じ事象の別の側面なのか。最初に句を読み下した時、気付くべきであった。母音を抽出すれば瞭然だ。

「凍死の山」は、ouioaa
「桃売りババア」は、oouiaaa
まるで少し歪んだ鏡像のように響き合うではないか。

或いは既に、自分は凍死していて、桃の不死の夢の中に居るのか。

以上、この緊密な句を解析してみた。俳句を読むとは、本来こういう作業だ。俳句は最短の文学だから、一字に有り余る意味を籠める。この一行の広大な世界の意味を、隅々まで読み解くべく、知力を尽くして試みる。それが評者としての良心だ。軽く読み流してはいけない。


※令和5年9月8日筆者補足
この句の顛末については以下のブログを参照して頂きたい
選考結果については私も加藤知子さんの見解に同意である
≫続・知青の丘「ババアに思う」

2021-04-04

錯乱の地霊よ 髙鸞石「痴霊記」を読む 竹岡一郎

錯乱の地霊よ
髙鸞石痴霊記」を読む

竹岡一郎


髙鸞石の十か月がかりの連作「痴霊記」全六章、百八句が完結したので、読んでみる。高田獄舎の夭折後、その遺志を継いだ鸞石の、最初の長編連作である。句数は百八煩悩に掛けたのだろうか。

炎天下の豹の気絶を警戒せよ  髙鸞石(以下同)

炎天下は、光と影の対比がくっきりしている。炎天が獰猛なのは、対比を際立たせるからか。炎天下のような模様を持つ獰猛な獣といえば、虎か豹だろうが、豹を選んだのは虎に比べて細くしなやかな肢体によるのだろう。その様な肢体で以って、炎天下を行きたいという願望でもある。

しかし、ここで豹は気絶する。炎天の昂ぶりにか、自身の中の昂ぶりにか。炎天そのものが豹の中に在り、自らの昂ぶり極まって気絶すると見た。警戒は、読者に対して促されている。豹は突然目覚めるからだ。

六階隅に鼠倒れ鼠を翠の箱へ
 ※「翠」に「みどり」とルビ

言わんとすることは何となく想像出来る。六階という少なくとも六つの階層から六道を思い、どんなに登り詰めても六階止まりの悲しさを思い、鼠なのに「横たわる」ではなく人のように「倒れ」と書く。倒れた鼠と箱に入れられる鼠は果たして同一の鼠か、それとも倒れた鼠が別の鼠を箱に入れるのか。なぜ透けるように美しく見える「翠」という字を使うのか。

単に六階という閉鎖空間の隅の死鼠を悼んでいると読んだ方が良いかもしれぬ。六階で死んだ鼠は、誰かが手を出さねば自然には帰らない。「翠」という語に、死鼠の永劫回帰を託しているのかもしれぬ。

集中には「朝の川岸鮭曲がり死に曲がり死に」の句がある。遡上し、生殖を終えた鮭が、岸に打ち揚げられているさまだ。朝の光の中、岸を歩めば点々と鮭の骸が目に入る。その胴も鰭も曲がっている。鼻も曲がっているのは雄だ。遡上の時からの白黴に覆われた個体もあるだろう。水底に沈む骸は、微生物の栄養となり、川を肥やす。打ち揚げられている骸は、動物たちが食べ、或いは鴉が啄み、空へと引き上げられるかも知れない。

「曲がり死に曲がり死に」とは、「曲がり死に/曲がり死に」と読むなら、「次々と現れる鮭の骸」の意に取れようが、「曲がり/死に曲がり/死に」とも読める。先ず曲がり、次に死に向いて更に曲がり、そして死ぬ。雄ならば、体型が変化し、その一端として鼻も曲がり、次に遡上という過酷さの中、生の方向が死へ向けて大きく曲がり、最後に放精を終えて死ぬ。鮭の晩年の過程を、中七下五に凝縮して詠ったか。

丘を呪う 湖心に黒い鹿が震え

この湖がどこか、例えば諏訪湖か。そう思うのは、諏訪の神はその地に封じられ、神集いの出雲にも帰る事が出来ないからだ。他の地域、例えば作者の住む北海道の湖かも知れない。いずれにせよ地霊の想いが濃く沈む湖だろう。「丘を呪う」とあるからだ。統治を丘に宣るものを呪う、と考えれば、丘は陵であるのかもしれない。

「呪う」の後の一字空けから、湖も鹿も、呪う主体でないのなら、呪いの主体は作者だ。鹿が呪いの濃さによって黒いとすれば、作者の呪いが鹿として見えるか、或いは鹿が呪いを纏っている。鹿は呪いの重圧に震えるのか、呪い自体が震えているのか。

呪いの深さは、湖の水深でもある。湖心は湖芯でもあるなら、水面に立つ鹿の孤影は、湖底の最深部、湖の芯にも映り、湖中の波に「震え」ている。いや、水面の鹿は、湖底に立つ鹿の映像であるがゆえに、波に「震え」ているのかもしれない。

集中には「牡鹿に触れわが眉も濡れ雨の銀山」の句もある。メランコリックな句だが、怒りや煩悶を表す部分である眉さえ「も」濡れるという描写、過酷な労働と富と銀の輝きと砒素の渦巻く坑道、その山に嘆きのように降る雨とあいまって、戦う角を掲げる牡鹿の、言い換えれば地霊の、遣る瀬無さを表していると読んだ。作者は牡鹿あるいは牡鹿の形をした何かに「触れ」て、その思いに共鳴する。

湖水を蛾金雀枝をその砦とし

湖水を蛾が滑るように飛ぶ。時折は水面に口吻を伸ばし、喉を潤すのか。寄る辺なく、夜を好んで飛ぶ蛾の為に、金雀枝には月明かりが欲しい。湖面へ枝垂れて、金雀枝は咲く。月光を受ければ、黄の小さな花群は、無数の灯のようだ。

月の他に明かりは無いから、灯を恋うる蛾は仕方なく、湖面を取って返しては、金雀枝の偽りの灯に酔う。その細い緑の枝、小さな葉蔭を、己が儚い砦とする。群れ灯る蝶型の花の間で、蛾は依然独り、蛾のままだ。

落下する蜘蛛暁の手話は停止

手指が蜘蛛の肢の如く動き、蜘蛛が手指の如く動くのか。蜘蛛の肢の動きを、蜘蛛が作者に語り掛ける手話と見たなら、この場合の手話は、蜘蛛の声無き意志表明だ。

「停止」とあるので、蜘蛛は暁に到って遂に語り掛けるのを止めたのか。同時に空中に漂う事をも止め、落下する。この場合、「落下」とは意志疎通を諦めた結果にも見える。蜘蛛は虚しい会話に絶望し、諦観する。蜘蛛は作者の心の動きでもある。

森を泳ぐコピー機火を噴き猿をはじき

「本の森」の喩えを思えば、図書館に暴走して複写しまくるコピー機と読んでも良いのだが、ここは文字通り森と取り、コピー機が樹々の間を遊泳しながら火を噴き、次々と襲い掛かる猿たちを弾き飛ばしていると読みたい。滅茶苦茶な句だが、元気だ。現実に、こういう事があれば良い。

戦後の映画の時代から、怪獣とは、最初、人里離れた処に目覚め、徐々に都市へと近づいてゆくものだ。この過激なコピー機は、いずれ大都会を目指すのか。写す情報の軽重を問わず複写した膨大な紙で、街中を覆い尽くし、火を噴けば紙だもの、良く燃えるだろう。街も紙のように燃えるだろうが、もともと紙は樹々であったから、焼け跡には再び森が茂るだろう。

暗夜の貝類裂く薔薇の部屋破裂間近

解釈が難しい句は、現実に起こっていると読む方が却って判り易い。だから現実の行為として、貝類を裂く処から始めよう。「類」とあるから、様々な貝を裂くのだと取る。蛤から始めようか。牡蠣、帆立貝、ムール貝、馬手貝、鮑、真珠を零す阿古屋貝、貝を捕食するツメタ貝。栄螺や法螺貝は殻を叩き割って、螺旋の身を引きずり出す。大きなシャコ貝の殻に挟まれ、腕を折られ掛けながらも、漸く貝柱を引き裂いて。

どれだけ貝類を裂いても、その血は大方が透明で、赤い色が無ければ命を取った気がしない。だから薔薇が必要だ。その花びらは滴るような真紅に決まっている。貝の血の量だけ薔薇は必要だから、部屋には薔薇があふれ、暗夜行路に似た殺戮が明けない限り、薔薇は殖え続ける。

「裂く薔薇」とも読めるから、薔薇も加担してくれるのか。貝が尽きるのが先か、増殖する薔薇に圧し潰されるのが先か。しかし明けない夜はない。この部屋自体が巨大な赤貝の殻で、薔薇の花弁は赤貝の数多の膜かもしれぬが、今更どうでも良い。暗夜が破裂するように部屋が破裂すれば、貝の血と薔薇の花弁は融け合って四散し、それが夜明け、もう間近だ。

解剖図の真中鏡を置き忘れ

解剖図は机の上に広げられているのだろう。「置き忘れ」るくらいの大きさの鏡なら、小さければ手鏡、大きくとも片手で持てる程度の置き鏡か。忘れられる前に、鏡は何を映していたのか。順当に考えれば、顔だ。作者の顔だろうか。鏡は映せば魂が移るのだ。

鏡は、今は恐らく天井を映している。鏡に有る天井の映像の裏には、さっきまで映していた顔の残像がある。顔の残留の下に解剖図がある。

「真中」とあるから、鏡が覆っているのは心臓の部分だろう。次に鏡を覗く者は、解剖図の心臓として、己が顔を見ることになる。この解剖図が人体のそれであれば、解剖図とは人体の俯瞰図でもある。その真中、心臓部分に有る鏡を覗く者は、或いは自らの魂を俯瞰するだろうか。

静かな造血汚れた役場に蘭を飾り

体の中で血が造られてゆく、その無音の自律の、生を押し進める働きを感じながら、蘭を飾る。蘭は飾る手の主の体内を反映して、造られたばかりの血のように赤くあれ。

「汚れた役場」からは、田舎の寂しい古い役場が思われる。置き棄てられたような役場に、一つ処でも華やかに、と飾られた蘭は、逆に役場の寂しさを際立たせてしまうようだ。その寂しさが蘭に映るなら、蘭の反映する造血の営みにも、寂しさは映るのか。

壊れた機関車空中にあり触れられず

これも寂しい句だ。機関車だからノスタルジックで、珍しく見られるばかりだ。ここで「触れられず」の解釈は三通りある。一つには実際に空中に浮かんでいるが、高すぎる処に有るか、または禁忌の為に触れる事が出来ない。次に、目には見えるが、映像か機関車の幽霊なので、肉体では触れる事が出来ない。三つ目に、誰も気づかない、または気にも止めないから、触れられない。

この機関車は地には属さず、空中に隔離されている。本来なら煙を吐き轟音を立てて突き進むべきだが、これは壊れている。触れられないから、修理も出来ない。毀し尽くして破棄する事も出来ない。機関車の何もかもが、いつまでも、宙ぶらりんのままだ。

滅びよモネ 少年時代の蛇口とともに

本来は明るい筈の少年時代が、作者にとっては呪われた時代であったと窺える。「滅びよモネ」とあるからだ。モネと言えば、睡蓮の絵を思い浮かべる。たおやかな、明るくまどろむ絵だ。そんな少年時代は無かった、と読む。

蛇口とは、どんな場所にあっても、大抵は壁際に位置付けられるから、寂しい。洗面所でも、台所でも、風呂場でも、便所でも、ビルの植え込みの橫でも、プールの脇であっても、およそ寂しくない蛇口というものが、この世にあるだろうか。

しかし、モネに敬意を表して、最も陽光降り注ぐ蛇口を、少年時代の枠組みの中で想像してみよう。例えば、校庭の蛇口を考える。少年とは、否応なく学校へ行くものだからだ。群れる少年たちが勢いよく手足を洗い、喉を潤す蛇口は、たとえ陽光降り注ごうとも、校庭の隅に佇む事を運命づけられた器物だ。

一方、或る少年にとっては、校庭の隅が定位置だ。校庭の真中は、彼に与えられる場所ではない。校庭の真中に位置付けられた同胞達が蛇口を必要とせぬ時に限り、その少年が蛇口と共に佇むのであれば、「滅びよ」という呪いは、モネと蛇口に対してのみ向けられるのではない。一般の少年時代にも、自らの少年時代を踏まえて立たざるを得ない作者自身に対しても、発せられている。

モネと言えば睡蓮、睡蓮と言えば水、蛇口と言えば水を出す器具、であるから、モネの睡蓮の絵に、己が少年時代の蛇口を取り付けて捻れば、睡蓮を養う水は流れ出してしまう。その行為がモネに対する呪いだとしても、流れ出る水はモネの虹色に輝いて、作者を溺れさせるかもしれぬ。それを密かに望む作者か、とまで想像するのは、「滅びよモネ」が本当に呪いなのか、という疑問があるからだ。

この言葉の裏は「よみがえれモネ」ではないか。己が少年時代の如何に暗くとも、捧げられた蛇口はモネの絵の陽光に輝いていて欲しい。そんな願いが、背後に無いとは言えぬ。そう思わせるほどのモネの色彩である、と美術館のモネの「睡蓮」の前に立ち尽くした昔があった。

逆立ちし未来無き我が眼にイコンは濡れ

天とされているものが、実は地に属するものかもしれない。それを正しく見ようとして、天を地として捉えるために逆立ちしているのか。時間を見ているなら、過去と見えているものが、実は未来かもしれぬ。

「未来無き我が眼」は、未来に絶望している、と取る事も可能だが、「逆立ちし」と組み合わせると、未来を根本から捉え直そうとしている、とも読める。絶望するだけなら、わざわざ逆立ちする必要はなく、蹲って膝を抱えているだけで良い筈だ。困難な体勢を取ることにより、未来の正体を探っているのか。

時間の流れは一方向ではない。過去は未来を含むのであって、永遠の現在に在っては、過去を現在に摂するという意味において、先ず過去が無く、従って未来もない。

イコンは壁画もあるが、板絵が一般的だろう。背景が金色であるイコンを思う。イコンの意味であるが、正教会では「遠距離恋愛の時における恋人の写真」とされている。だから逆立ちした作者は、真理の、ロゴスの写真を、遥かな恋人として見ている。イコンは作者の為に、作者の嘆きに共鳴して濡れる。イコンに何が描かれていようとも、真実濡れる者は、聖書唯一の特異点であるイエス、そして二人のマリアだろう。

傲慢花嫁熊肉は糧牡蠣も糧
 ※「傲慢」に「たかぶり」と、「糧」に「かて」とルビ

元気な花嫁だ。「傲慢」と書いて「たかぶり」と読ませる処に、「傲慢」に対する作者の理想が表れている。この作者の言う「傲慢」とは、現世の夾雑物で虚しく身を飾り立てた挙句の傲慢ではなく(世の傲慢とは、そんな怯懦な守りばかりだが)、魂から迸る昂ぶりが、結果的に、周囲に「傲慢」と見なされてしまう、そんな類だ。そんな花嫁は良いなあ、と思っている句である。

牡蠣は、花嫁自ら海に潜って得たものかもしれぬ。熊肉も、花嫁自ら仕留めた熊かもしれぬ。そう読む事で、牡蠣を喰らい、熊を喰らう花嫁の、昂り上気する花のかんばせが見えるようだ。かく在る傲慢は、ひどく美しい。

この句に先立って「海亀の屏風少女にひらかせよ」がある。海亀をどう取るかだが、海神の使いと取った。開けば、屏風からは波音が聞こえ、しぶきが散り、しずしずと屏風を出る海亀は、託宣に至るか。その奇瑞が起こるか否かは、屏風を開く者に依る。指名された少女は、神降りる者、「妹の力」を持つ者であろう。この少女が成長し、前掲の花嫁となれば良い。

青いうみうし捕らえ豪雨の磯となり

うみうしは手網で捕っているのか、それとも素手か。海の色、天の色のうみうしなら、如何に感触悪しくとも、素手で掬うのが敬する事となろう。足滑らせば身をざっくりと切る磯の上だ。天からは豪雨、海からは波、この上、満潮にでもなれば目も当てられない。恐らく、なるだろうよ。

なぜなら、青いうみうしを捕ることが禁忌に触れたから、豪雨の磯となっている。それでも、うみうしは放さずにおくが良い。雨に総身殴られ、波と磯岩の牙なす群れに狙われていても、集中して、絶妙の力加減とバランスで持っていないと、うみうしは落ちるか、潰れ滴るよ。如何に感触悪しくとも、諦めずに、自分だけの詩情を放すな。

焼経を双子眺める盲いても
 ※「焼経」に「やけぎょう」と、「盲」に「めし」とルビ

焼経と言えば、奈良時代の「紺紙銀字華厳経」、東大寺の二月堂焼経が思われる。紺色の紙の下部が焼け、焦げた部分は炎の橙色と化して、しかし千年を越えてなお銀泥は黒変せず、経文の字は輝いている。

仏像は飛鳥、経文は奈良、仏画は平安、と骨董屋は言う。その時代のものが最高、という意味だ。掲句においても、奈良時代の鋭く整った字を思い浮かべる。

博物館や骨董屋などの安定した空間で眺めている、とは読みたくない。炎上する堂内の真っ只中に、経文はある。盲いてもなお眺めるのは、炎が瞼の裏にまで照り付け、経文は自らを焼く熱を使役し、その字体の鋭さを以って、教えを説くからだ。

双子はいつ盲いたのか。経の焼ける以前から盲いていたのか、経の焼けるさまを眺める内に、その報いで盲いたのか。以前より盲いていたのなら、経の発する炎熱は恩恵であろう。報いで盲いたとしても、やはり眺め続けられるのならば、双子にとっては恩恵だろう。

夫婦でも親子でも兄弟姉妹でも無く、双子である。同じ胎内に育ち、同じ時に生まれ、同じ背格好、同じ顔である双子の、その魂は異なる。経文の炎に照らされて、互いを鏡像と見るのか。

密教に入我我入という行法がある。仏と我と互いに映し合う事により一体化する観想だ。互いが鏡の如く向き合い、永遠の現在の中、無限に互いの影像が現われ干渉し合い入り合う。行者が仏となり仏が行者となる。

華厳の炎は、鏡として聳えるだろう。炎は瞬時刻々、自在に姿を変える。永遠の現在の中で、双子は炎に、互いの肉体を映し、互いの魂を映し、互いの相似する姿を、遂には仏と観るかもしれぬ。互いの姿のみを観るため、外界の夾雑物を一切入れぬよう、敢えて盲いるのも、また恩恵だろうか。



髙鸞石「痴霊記」

2020-11-22

追記(未成年閲覧非推奨) 髙鸞石

追記(未成年閲覧非推奨)


髙鸞石


さて、

落選展に応募したみなさん。松尾さんの作品を読めば読むほど、大人どもの作品の腐臭が鼻につく。
特に5.8.12.19番の作品はコロナウイルスの次に人類にとって害悪であるとすら思う。小学生からやり直してほしい。

まず、こいつ。

5. 片岡義順  舞うて舞うて舞うて川まで枯一葉

うんざりするようなタイトルで、しかも

コロナ禍へ食えぬ趣向や花に雪
撃ったのは向日葵らしいゴッホの死


と中身も面白くない。同じタイトルで何年も応募している方のようだが、いい加減そのつまらないタイトルを捨てることをおすすめする。捨てられないほど良いタイトルでもないだろう。それから、自作掲載ページのコメント欄で長々と〈自句自戒〉しているはうんざりした。精進潔斎して自分を見つめ直してほしい。

7. 西生ゆかり 体と遠足

交はらぬ玩具の線路雪催
百日紅漫画の恋が叶はない
桜餅日記に書かなかつた海
遠足のきちんとずれてゐる手足


上手いことを言っているし、それなりの美しさはあるが、飛び抜けて優れたものは見当たらない。

ぶらんこの下の地面が剥けてゐる
熱帯魚の後ろに海が描いてある


よくわかるが、よくわかるがゆえに、意外さも驚きもない。こういう発見の句はそれほど光っていない。精進潔斎して自分を見つめ直してほしい。

8. 島村福助 春のウイルス


ウイルスの天敵と成れ鯉幟
幻の開会式も暑苦し
春休みクレヨンで描くコロナちやん
春節を福が倒れてゆくニュース


世間のニュースと自分のニュースを俳句にして並べたところで、それは自己満足以外の何物でもない。このような陳腐なものを読ませられる角川俳句の担当者たちには同情を禁じ得ない。精進潔斎せよ。

11. 高梨 章 透明水彩


プラトンの唇にふれたる螢かな
ここに住むひとりのひとの皿と薔薇

これは悪くないが、

じやがいもをひとつ取つてくれないか
月いでて月のひかりに箸二本
三人のうちのひとりが蒲団敷く
夏の海すうつとあがる軽い鳥


といった句からは、表現の仕方にもその材料にも何一つ新鮮なものを感じないのは私だけだろうか。私が角川俳句の編集者ならこの作品の原稿を折り畳んでゲロ袋にする。作者は精進潔斎せよ。

12.中田 剛 捨てる神


豆を撒く得体の知れぬウイルスで


ハァ?

霙降るなかを漬物石さがす
アメリカザリガニ釣るに蛙の足もぎし
亀鳴くや老いてはじめて分かること


と、他の作品も、描きたいことを明確に示すことができているものの凡庸。老いてはじめて分かることもあるだろうが、俳句に関しては手遅れである。精進潔斎する必要すらない。

19. 矢口 晃 帰る家

牛乳の白の賑やか冬の朝
次々と聖夜へ上がるエレベーター
画用紙のたつぷり白し夏始
バス停のひまはり園児より高し
シャワー浴び徹頭徹尾草食系


徹頭徹尾ホームラン級の駄作で構成された連作である。こんなものを書いて、万が一それで受賞できたとて、本人にとっても、俳句界にとっても、何が面白いのかと思う。作品をより洗練させ、個性を獲得するためにも精進潔斎を進める。

16. 松本てふこ シャンパンタワー

旅いつも尿意と共に暮れかぬる
虚子の忌の屁の確かなる臭ひかな 
   

空回りはしていない、が、こういう、小出しにされた下品さは、(まぁ俳句のセンセイ方にはそれなりにウケるのだろうが)本当の意味で「下品」であると思う。

とはいえ、こういう下品なもの以外は

ささやかに果肉蔵せし酢橘かな
初不動弊社の社名長きこと
月光に手相広げて地図のやう


など、大したことがないから困ったものだ。もともと過大評価されてきた人だが、この人の実力はここまでかと思う。作者には1年間の精進潔斎が必要である。


17. 丸田洋渡 銀の音楽

たんぽぽや今もみずみずしい戦禍
一枚の蝶かと思うヨットかな


全体的に無駄は少ないが、自己のイメージに酔っぱらっているから、例えば上の句の「みずみずしい」とか2句目の「かな」が飾りになってしまっている。そういう空虚な飾りを大量に読まされると単純に飽きてしまう。

この人はネットで発表している作品の方が面白い。
たとえば短詩系ブログ「帚」に掲載された連作「儀後」の

光には光語があり長い吐瀉
儀のなかの奇術しかるべきときに鷲


など。こちらの作品のほうが見るべきところがある。もっともこういう作風だと角川俳句賞など受賞できないだろうが。

選考委員のケツにキスしながらほどよくウケる俳句を書き続けるか、それとも自主自律の道を歩むか、はっきりしないから、結局落選作のようなぼんやりしたものしか書けないのだと思う。はやく決断してほしいものだが。精進潔斎して覚悟を決めてほしい。

まとめ

掲載された落選作全体を俯瞰すると、詠む対象が「安逸安穏の世界と、その世界でのゆるやかな、しかし教育程度には知的な生活」に収斂していっているように感じる。そしてなにより、「個」というものが溶けて流れてしまっていて、読ませる力に欠ける。「時代」と切り結ぶ勢いはもちろんない。そういうものしか詠めないのなら、それを詠んで、岸本尚毅あたりを感心させて賞なりなんなりを獲得すればよいと思う。しかしそういう作品に、俳句の世界の外にいる他者を本当に感動させるほど強度はない。絶対に、ない。

松尾和希さんへ 髙鸞石

松尾和希さんへ


髙鸞石


はじめまして。わたくしのなまえは、こうらんせき(髙鸞石)といいます。

まつおさんが、かどかわはいくしょうに、おうぼしたはいくを、よみました。いっぱいはいくをかいて、がんばりましたね。すごいとおもいます。
わたくしは、まつおさんのはいくが、とてもすきです。とてもすきなので、まつおさんのはいくをよんだかんそうを、かきました。

まいにち、がっこうのべんきょうが、たいへんだとおもいますが、ひまなときに、よんでください。

【まつおさんのはいく】

かぶとむしぶんぶんとぶとぶかぶとむし

おもしろいはいくですね。「ぶ」の字がいっぱいで、かぶとむしがいっぱいいるふうけいがわたくしのあたまにうかびました。「かぶとむし」がさいしょとさいごにあるのもいいですね。かぶとむしは、かっこよくぶんぶんととぶからこそ、かぶとむしですよね。

ふゆりんごいるかみたいにジャンプする

りんごをとろうとしてジャンプしたのですか? 「いるかみたいに」がおもしろいとおもいました。背をのけぞらせておもいっきりジャンプしたのでしょうね。

はるのひのくるみみたいなとりがいる

これも「くるみみたいな」かおもしろかったです。とりのからだのもようが、くるみみたいだったのですか? それとも、からだをまるめたとりなのかな?いずれにしても、すばらしいはっけんだとおもいます。

ふくらんだままでねているこいのぼり

すごいはっけんでびっくりしました。こいのぼりなおいてあるのをみて、「ねている」といったところが、まつおさんらしいですね。こいのぼりが、ほんとうのこいみたいに、いきているようにかんじました。

はすのはにみずがたまっておもしろい

きれいなはいくですね。「おもしろい」がよいです。「おもしろい」ことをそのまま「おもしろい」といえるまつおさんのかんかくは、すばらしいとおもいます。

てんめつがはやいのがげんじぼたるだよ

ほたるをよくかんさつしてますね。「だよ」がよいとおもいました。このはいくをよむと、まつおさんにはなしかけられているようなかんじがして、したしみのわくはいくです。

ピザはんぶんきってまだまだピザのこる

おなかいっぱいピザをめしあがったのでしょうね。「まだまだ」ということばから、ピザの、たべてもたべてもなくならないほどの大きさがたしかにつたわってきます。「ピザ」ということばを二かいつかっていることからは、このピザはいつなくなるんだろう、と、ピザを見つめているまつおさんのまなざしがつたわってきます。

サンタからもらったちきゅうぎこわれたよ

どうして、また、どのようにちきゅうぎがこわれたのでしょうか。いろいろなことをかんがえさせてくれる、すごいはいくだとおもいました。「ちきゅうぎがこわれたよ」ということばから、わたしは、いま、せかいでおこっているさまざまなもんだいのことをおもいました。

【さいごに】
まつおさんのはいくをよんで、わたくしは、げんきをいっぱいもらいました。ぜひ、これからも、このせかいの、とりや、むしや、けもの、やま、うみ、かわ、いし、はっぱ、ビルやひこうきなど、いろいろなものをみて、はいくをたくさんかいて、たくさんのひとをげんきにしてあげてください。わたくしもまつおさんにまけないようにがんばりたいとおもいます。

    はいくかいから、ほされたにんげん
        こうらんせき(髙鸞石)より

 

≫追記著者の意向により、未成年の閲覧は非推奨とさせていただきます――小誌運営】