2022-06-05

竹岡一郎 桃売りババアの正体

桃売りババアの正体

竹岡一郎


凍死の山寂然(しん)と桃売りババア有難う  髙鸞石

この一句を読み下して、先ず感じるのは「凍死の山」と「桃売りババア有難う」との断絶だ。前半の峻厳さと、後半の揶揄するような印象との落差は激しい。一句中のこの断絶、落差は、恐らく意図的に詠われたものだ。

まず「凍死の山」である。凍死が出るくらいだから、或る程度の標高があり、遭難の起こりやすい、厳しい山だろう。その山が「しんと」している。まるで死そのもののように、しんとしているのだが、「寂然」と書いて「しん」とルビを振っている。

「寂然」の意味を調べるなら、一つには「ひっそりとして寂しいさま」、一つには「煩悩を去って心が静かなさま」とある。「寂」という語が、そもそも「寂静」「寂然不動」と、仏道の言葉を思わせる。

「寂然不動」は禅語だが、もとは易経の、占断する時の心構えだ。わたくしを去り、自然に任せて、卦を立てる状態をいう。「寂静」とは涅槃の意、と辞書にはあるが、一切を観照して静かに平らかに澄んだ、悟りの状態であろう。

内に凍死を抱え、凍死をありのままに観て動じない山の心を、「寂然」と呼び、その具体的な有様、音無く鎮まっている様子を「しん」というルビに託した、と読む。

対して「桃売りババア」である。柿でも林檎でもなく、なぜ桃かという事だ。句の最初に来る語は「凍死」、冬の季語だ。「凍死の山」といえば、雪に閉ざされた山を思う。対して桃は秋の季語だ。今は冷蔵庫があるから冬でも桃はある、と言うのは無しだ。大体、現代でも、冬に桃など余程珍しい。ましてや「桃売りババア」には、行商人の姿が重なるというのに。

では、この句の季節は秋なのか。違う。もし秋だというなら、「桃売りババア有難う」が句の最初に来なければ、秋のイメージは立たない。語順を変えて「桃売りババア有難う凍死の山寂然と」とすれば、途端に、凍死は過去にあった事として古びてしまう。「凍死」と「桃」を共に、今あるものとするためには、先ず、凍死の起こる厳しい山が雪に輝き、同時に「桃売りババア」がいなければならない。

ここで作者の立つ位置は、明確には示されていない。作者は山から離れているのか、それとも既に麓や中腹のいずれかに居るのか。だが、山が死を蔵するものなら、作者と山の距離は、些細な問題だ。なぜなら、人間はいつか必ず死ぬ。

では、この厳寒の最中に売られる桃、「凍死」の硬さに対峙する柔らかさを具えた桃とは、一体何か。作者は生の側にいて、山は死の側に動かざるものだが、作者と山の間にいる「桃売りババア」とは何者か。

生と死の境にあるものは何だ。黄泉比良坂だ。生と死の境には、桃の木が立つ。死の国の追手、イザナミの配下たちを、イザナギは桃を投げつけ撃退する。ならば、山はイザナミの領域である。掲句の舞台に沿って、更に付け加えるなら、人を凍死させる妖は雪女、若く美しい女の姿をしている。

死を退ける桃は、「西王母が桃」を連想させる。蟠桃(ばんとう)、三千年に一度実をつけるという桃、西遊記の孫悟空が喰い散らかした桃だ。

即ち、この厳寒に婆が売る桃は、唯の桃ではない。季を超え、時を超え、死の国の追手を退け、不老不死を得させる神々の力、有の通力の具現だ。凍死の山が、自然の摂理を静かに観照するものならば、婆が売る桃は、自然の摂理に刃向かうものだ。

婆を、死の山と生の作者との間に立つものと見るなら、そんな婆に、我々は見覚えがないか。三途の川のほとりに立つ奪衣婆だ。衣を奪うとは象徴であり、実際は、死者から生前の財や地位や名誉を全て剥ぎ取る。

とすれば、この婆は、死に抗する桃を売りながらも、当人は老い、奪衣婆の性質、死後の無一物を悟らせる性質をも持つ事となる。

桃売りは、なぜ爺ではないのか。爺に無くて婆にあるもの、それは「妹の力」、神降ろしの器だ。婆の肉体自体が、とことん熟し切った「妹の力」、神懸かる器なのだ。

不死を売る婆という、この熟れ尽くした巫に対し、作者は(少なくとも作者の生きていたい肉体は)、「有難う」と言わざるを得ない。人間としては当然の言葉だろう。古来から、人間は老いを恐れ、死を恐れるものだ。

ここでなぜ「ありがとう」と平仮名で書かず、「有難う」と漢字で書くか。この桃が、現し世に有ること難い物だからだ。

だが、それならば「桃売り婆」で良いではないか。なぜ「ババア」と、強い印象を与えるカタカナで記したか。しかも末尾の「ア」には罵りの感嘆符が隠れている、とも読める。

ババア! と、作者は罵りたいのか。或いは、このババアが。と、是が非でも嘲笑せねばならぬ、との衝動に駆られるのか。

なぜなら、この婆が、作者と死との間に立ちはだかるからだ。三途の川のほとりに立つ婆の如く、死によって俗世の価値全てが奪い去られる恐怖を暗に示し、しかも熟し切った「妹の力」を以て、不死の通力を売りつけようとするからだ。

桃の代価は何であろうか。金銭如きでないことは明らかだ。しかもその通力は、神々の通力、有の通力であるから、業の報いを断滅する訳ではなく、ただ先延ばしするのみだ。いつまで先延ばしされ得るのか。

「一切は壊法(えほう)なり。慎んで精進すべし」と、仏陀は、その生の最期に教えた。かくのごとく、神々さえも、実は壊法の内にあり、その通力は有限である。不死の通力が尽き、先延ばしが果てた後には、どんな報いが待っているのか。

遥かな山は、しんと寂然と不動であり、死は、雪女の如く美しく誘うかもしれぬ。イザナミの如く、地の根源に抱くかもしれぬ。或いは死の山の何処かに、「寂」という語の如く、全てを観照し生死を超える悟りが眠るかもしれぬ。

ならば、山と作者との間に立ちはだかる婆、山への道程を妨げるようにさえ思える婆に対し、作者は、死すべき定めの人の子として、生者の誇りを籠めて、ババア、と言いたいのか。そこをどけ、とばかりに。

それとも、やはり死を厭う人間の常として、「有難う」と礼なし、屈せざるを得ないのか。もはや生と死の間に引き裂かれている作者には、自分の本当の望みが分からない。その葛藤の苦悶が、ようよう声となれば、「ババア」という悪態となる。

この「ババア」、特に末尾の「ア」一字を付け加えざるを得ない動機を読み解けば、この悪態にこそ、作者の煩悶が生々しく顕われる。生と死の間に迷う煩悶、いつか必ず死ぬ人間の煩悶だ。「ババア」の一語が、掲句に人間の懊悩を、体温を、生じさせる。(逆に言えば、何が、作家から体温を奪い、凍死させるか。)

厄介なことに、「寂然(しん)と」は、山に掛かる形容とばかり見えていたが、一句を良く見直すと、「寂然(しん)と」は、ババアにも掛かり得るではないか。

このババアが、あの美しく白く、死を蔵する山の権化なのか。山の神、地祇、地霊であり、山姥であり、一旦その身を翻せば、雪女であり、イザナミでもあるのか。

では、山とババアの如く、「凍死」と「桃」も、同じ事象の別の側面なのか。最初に句を読み下した時、気付くべきであった。母音を抽出すれば瞭然だ。

「凍死の山」は、ouioaa
「桃売りババア」は、oouiaaa
まるで少し歪んだ鏡像のように響き合うではないか。

或いは既に、自分は凍死していて、桃の不死の夢の中に居るのか。

以上、この緊密な句を解析してみた。俳句を読むとは、本来こういう作業だ。俳句は最短の文学だから、一字に有り余る意味を籠める。この一行の広大な世界の意味を、隅々まで読み解くべく、知力を尽くして試みる。それが評者としての良心だ。軽く読み流してはいけない。


※令和5年9月8日筆者補足
この句の顛末については以下のブログを参照して頂きたい
選考結果については私も加藤知子さんの見解に同意である
≫続・知青の丘「ババアに思う」

1 comments:

なお さんのコメント...

高さんはラブレー派だそうですが、こうやって神話化しちゃうとラブレーとは正反対の権威化になっちゃうのでは?