2020-11-22

追記(未成年閲覧非推奨) 髙鸞石

追記(未成年閲覧非推奨)


髙鸞石


さて、

落選展に応募したみなさん。松尾さんの作品を読めば読むほど、大人どもの作品の腐臭が鼻につく。
特に5.8.12.19番の作品はコロナウイルスの次に人類にとって害悪であるとすら思う。小学生からやり直してほしい。

まず、こいつ。

5. 片岡義順  舞うて舞うて舞うて川まで枯一葉

うんざりするようなタイトルで、しかも

コロナ禍へ食えぬ趣向や花に雪
撃ったのは向日葵らしいゴッホの死


と中身も面白くない。同じタイトルで何年も応募している方のようだが、いい加減そのつまらないタイトルを捨てることをおすすめする。捨てられないほど良いタイトルでもないだろう。それから、自作掲載ページのコメント欄で長々と〈自句自戒〉しているはうんざりした。精進潔斎して自分を見つめ直してほしい。

7. 西生ゆかり 体と遠足

交はらぬ玩具の線路雪催
百日紅漫画の恋が叶はない
桜餅日記に書かなかつた海
遠足のきちんとずれてゐる手足


上手いことを言っているし、それなりの美しさはあるが、飛び抜けて優れたものは見当たらない。

ぶらんこの下の地面が剥けてゐる
熱帯魚の後ろに海が描いてある


よくわかるが、よくわかるがゆえに、意外さも驚きもない。こういう発見の句はそれほど光っていない。精進潔斎して自分を見つめ直してほしい。

8. 島村福助 春のウイルス


ウイルスの天敵と成れ鯉幟
幻の開会式も暑苦し
春休みクレヨンで描くコロナちやん
春節を福が倒れてゆくニュース


世間のニュースと自分のニュースを俳句にして並べたところで、それは自己満足以外の何物でもない。このような陳腐なものを読ませられる角川俳句の担当者たちには同情を禁じ得ない。精進潔斎せよ。

11. 高梨 章 透明水彩


プラトンの唇にふれたる螢かな
ここに住むひとりのひとの皿と薔薇

これは悪くないが、

じやがいもをひとつ取つてくれないか
月いでて月のひかりに箸二本
三人のうちのひとりが蒲団敷く
夏の海すうつとあがる軽い鳥


といった句からは、表現の仕方にもその材料にも何一つ新鮮なものを感じないのは私だけだろうか。私が角川俳句の編集者ならこの作品の原稿を折り畳んでゲロ袋にする。作者は精進潔斎せよ。

12.中田 剛 捨てる神


豆を撒く得体の知れぬウイルスで


ハァ?

霙降るなかを漬物石さがす
アメリカザリガニ釣るに蛙の足もぎし
亀鳴くや老いてはじめて分かること


と、他の作品も、描きたいことを明確に示すことができているものの凡庸。老いてはじめて分かることもあるだろうが、俳句に関しては手遅れである。精進潔斎する必要すらない。

19. 矢口 晃 帰る家

牛乳の白の賑やか冬の朝
次々と聖夜へ上がるエレベーター
画用紙のたつぷり白し夏始
バス停のひまはり園児より高し
シャワー浴び徹頭徹尾草食系


徹頭徹尾ホームラン級の駄作で構成された連作である。こんなものを書いて、万が一それで受賞できたとて、本人にとっても、俳句界にとっても、何が面白いのかと思う。作品をより洗練させ、個性を獲得するためにも精進潔斎を進める。

16. 松本てふこ シャンパンタワー

旅いつも尿意と共に暮れかぬる
虚子の忌の屁の確かなる臭ひかな 
   

空回りはしていない、が、こういう、小出しにされた下品さは、(まぁ俳句のセンセイ方にはそれなりにウケるのだろうが)本当の意味で「下品」であると思う。

とはいえ、こういう下品なもの以外は

ささやかに果肉蔵せし酢橘かな
初不動弊社の社名長きこと
月光に手相広げて地図のやう


など、大したことがないから困ったものだ。もともと過大評価されてきた人だが、この人の実力はここまでかと思う。作者には1年間の精進潔斎が必要である。


17. 丸田洋渡 銀の音楽

たんぽぽや今もみずみずしい戦禍
一枚の蝶かと思うヨットかな


全体的に無駄は少ないが、自己のイメージに酔っぱらっているから、例えば上の句の「みずみずしい」とか2句目の「かな」が飾りになってしまっている。そういう空虚な飾りを大量に読まされると単純に飽きてしまう。

この人はネットで発表している作品の方が面白い。
たとえば短詩系ブログ「帚」に掲載された連作「儀後」の

光には光語があり長い吐瀉
儀のなかの奇術しかるべきときに鷲


など。こちらの作品のほうが見るべきところがある。もっともこういう作風だと角川俳句賞など受賞できないだろうが。

選考委員のケツにキスしながらほどよくウケる俳句を書き続けるか、それとも自主自律の道を歩むか、はっきりしないから、結局落選作のようなぼんやりしたものしか書けないのだと思う。はやく決断してほしいものだが。精進潔斎して覚悟を決めてほしい。

まとめ

掲載された落選作全体を俯瞰すると、詠む対象が「安逸安穏の世界と、その世界でのゆるやかな、しかし教育程度には知的な生活」に収斂していっているように感じる。そしてなにより、「個」というものが溶けて流れてしまっていて、読ませる力に欠ける。「時代」と切り結ぶ勢いはもちろんない。そういうものしか詠めないのなら、それを詠んで、岸本尚毅あたりを感心させて賞なりなんなりを獲得すればよいと思う。しかしそういう作品に、俳句の世界の外にいる他者を本当に感動させるほど強度はない。絶対に、ない。

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