2021-04-04

錯乱の地霊よ 髙鸞石「痴霊記」を読む 竹岡一郎

錯乱の地霊よ
髙鸞石痴霊記」を読む

竹岡一郎


髙鸞石の十か月がかりの連作「痴霊記」全六章、百八句が完結したので、読んでみる。高田獄舎の夭折後、その遺志を継いだ鸞石の、最初の長編連作である。句数は百八煩悩に掛けたのだろうか。

炎天下の豹の気絶を警戒せよ  髙鸞石(以下同)

炎天下は、光と影の対比がくっきりしている。炎天が獰猛なのは、対比を際立たせるからか。炎天下のような模様を持つ獰猛な獣といえば、虎か豹だろうが、豹を選んだのは虎に比べて細くしなやかな肢体によるのだろう。その様な肢体で以って、炎天下を行きたいという願望でもある。

しかし、ここで豹は気絶する。炎天の昂ぶりにか、自身の中の昂ぶりにか。炎天そのものが豹の中に在り、自らの昂ぶり極まって気絶すると見た。警戒は、読者に対して促されている。豹は突然目覚めるからだ。

六階隅に鼠倒れ鼠を翠の箱へ
 ※「翠」に「みどり」とルビ

言わんとすることは何となく想像出来る。六階という少なくとも六つの階層から六道を思い、どんなに登り詰めても六階止まりの悲しさを思い、鼠なのに「横たわる」ではなく人のように「倒れ」と書く。倒れた鼠と箱に入れられる鼠は果たして同一の鼠か、それとも倒れた鼠が別の鼠を箱に入れるのか。なぜ透けるように美しく見える「翠」という字を使うのか。

単に六階という閉鎖空間の隅の死鼠を悼んでいると読んだ方が良いかもしれぬ。六階で死んだ鼠は、誰かが手を出さねば自然には帰らない。「翠」という語に、死鼠の永劫回帰を託しているのかもしれぬ。

集中には「朝の川岸鮭曲がり死に曲がり死に」の句がある。遡上し、生殖を終えた鮭が、岸に打ち揚げられているさまだ。朝の光の中、岸を歩めば点々と鮭の骸が目に入る。その胴も鰭も曲がっている。鼻も曲がっているのは雄だ。遡上の時からの白黴に覆われた個体もあるだろう。水底に沈む骸は、微生物の栄養となり、川を肥やす。打ち揚げられている骸は、動物たちが食べ、或いは鴉が啄み、空へと引き上げられるかも知れない。

「曲がり死に曲がり死に」とは、「曲がり死に/曲がり死に」と読むなら、「次々と現れる鮭の骸」の意に取れようが、「曲がり/死に曲がり/死に」とも読める。先ず曲がり、次に死に向いて更に曲がり、そして死ぬ。雄ならば、体型が変化し、その一端として鼻も曲がり、次に遡上という過酷さの中、生の方向が死へ向けて大きく曲がり、最後に放精を終えて死ぬ。鮭の晩年の過程を、中七下五に凝縮して詠ったか。

丘を呪う 湖心に黒い鹿が震え

この湖がどこか、例えば諏訪湖か。そう思うのは、諏訪の神はその地に封じられ、神集いの出雲にも帰る事が出来ないからだ。他の地域、例えば作者の住む北海道の湖かも知れない。いずれにせよ地霊の想いが濃く沈む湖だろう。「丘を呪う」とあるからだ。統治を丘に宣るものを呪う、と考えれば、丘は陵であるのかもしれない。

「呪う」の後の一字空けから、湖も鹿も、呪う主体でないのなら、呪いの主体は作者だ。鹿が呪いの濃さによって黒いとすれば、作者の呪いが鹿として見えるか、或いは鹿が呪いを纏っている。鹿は呪いの重圧に震えるのか、呪い自体が震えているのか。

呪いの深さは、湖の水深でもある。湖心は湖芯でもあるなら、水面に立つ鹿の孤影は、湖底の最深部、湖の芯にも映り、湖中の波に「震え」ている。いや、水面の鹿は、湖底に立つ鹿の映像であるがゆえに、波に「震え」ているのかもしれない。

集中には「牡鹿に触れわが眉も濡れ雨の銀山」の句もある。メランコリックな句だが、怒りや煩悶を表す部分である眉さえ「も」濡れるという描写、過酷な労働と富と銀の輝きと砒素の渦巻く坑道、その山に嘆きのように降る雨とあいまって、戦う角を掲げる牡鹿の、言い換えれば地霊の、遣る瀬無さを表していると読んだ。作者は牡鹿あるいは牡鹿の形をした何かに「触れ」て、その思いに共鳴する。

湖水を蛾金雀枝をその砦とし

湖水を蛾が滑るように飛ぶ。時折は水面に口吻を伸ばし、喉を潤すのか。寄る辺なく、夜を好んで飛ぶ蛾の為に、金雀枝には月明かりが欲しい。湖面へ枝垂れて、金雀枝は咲く。月光を受ければ、黄の小さな花群は、無数の灯のようだ。

月の他に明かりは無いから、灯を恋うる蛾は仕方なく、湖面を取って返しては、金雀枝の偽りの灯に酔う。その細い緑の枝、小さな葉蔭を、己が儚い砦とする。群れ灯る蝶型の花の間で、蛾は依然独り、蛾のままだ。

落下する蜘蛛暁の手話は停止

手指が蜘蛛の肢の如く動き、蜘蛛が手指の如く動くのか。蜘蛛の肢の動きを、蜘蛛が作者に語り掛ける手話と見たなら、この場合の手話は、蜘蛛の声無き意志表明だ。

「停止」とあるので、蜘蛛は暁に到って遂に語り掛けるのを止めたのか。同時に空中に漂う事をも止め、落下する。この場合、「落下」とは意志疎通を諦めた結果にも見える。蜘蛛は虚しい会話に絶望し、諦観する。蜘蛛は作者の心の動きでもある。

森を泳ぐコピー機火を噴き猿をはじき

「本の森」の喩えを思えば、図書館に暴走して複写しまくるコピー機と読んでも良いのだが、ここは文字通り森と取り、コピー機が樹々の間を遊泳しながら火を噴き、次々と襲い掛かる猿たちを弾き飛ばしていると読みたい。滅茶苦茶な句だが、元気だ。現実に、こういう事があれば良い。

戦後の映画の時代から、怪獣とは、最初、人里離れた処に目覚め、徐々に都市へと近づいてゆくものだ。この過激なコピー機は、いずれ大都会を目指すのか。写す情報の軽重を問わず複写した膨大な紙で、街中を覆い尽くし、火を噴けば紙だもの、良く燃えるだろう。街も紙のように燃えるだろうが、もともと紙は樹々であったから、焼け跡には再び森が茂るだろう。

暗夜の貝類裂く薔薇の部屋破裂間近

解釈が難しい句は、現実に起こっていると読む方が却って判り易い。だから現実の行為として、貝類を裂く処から始めよう。「類」とあるから、様々な貝を裂くのだと取る。蛤から始めようか。牡蠣、帆立貝、ムール貝、馬手貝、鮑、真珠を零す阿古屋貝、貝を捕食するツメタ貝。栄螺や法螺貝は殻を叩き割って、螺旋の身を引きずり出す。大きなシャコ貝の殻に挟まれ、腕を折られ掛けながらも、漸く貝柱を引き裂いて。

どれだけ貝類を裂いても、その血は大方が透明で、赤い色が無ければ命を取った気がしない。だから薔薇が必要だ。その花びらは滴るような真紅に決まっている。貝の血の量だけ薔薇は必要だから、部屋には薔薇があふれ、暗夜行路に似た殺戮が明けない限り、薔薇は殖え続ける。

「裂く薔薇」とも読めるから、薔薇も加担してくれるのか。貝が尽きるのが先か、増殖する薔薇に圧し潰されるのが先か。しかし明けない夜はない。この部屋自体が巨大な赤貝の殻で、薔薇の花弁は赤貝の数多の膜かもしれぬが、今更どうでも良い。暗夜が破裂するように部屋が破裂すれば、貝の血と薔薇の花弁は融け合って四散し、それが夜明け、もう間近だ。

解剖図の真中鏡を置き忘れ

解剖図は机の上に広げられているのだろう。「置き忘れ」るくらいの大きさの鏡なら、小さければ手鏡、大きくとも片手で持てる程度の置き鏡か。忘れられる前に、鏡は何を映していたのか。順当に考えれば、顔だ。作者の顔だろうか。鏡は映せば魂が移るのだ。

鏡は、今は恐らく天井を映している。鏡に有る天井の映像の裏には、さっきまで映していた顔の残像がある。顔の残留の下に解剖図がある。

「真中」とあるから、鏡が覆っているのは心臓の部分だろう。次に鏡を覗く者は、解剖図の心臓として、己が顔を見ることになる。この解剖図が人体のそれであれば、解剖図とは人体の俯瞰図でもある。その真中、心臓部分に有る鏡を覗く者は、或いは自らの魂を俯瞰するだろうか。

静かな造血汚れた役場に蘭を飾り

体の中で血が造られてゆく、その無音の自律の、生を押し進める働きを感じながら、蘭を飾る。蘭は飾る手の主の体内を反映して、造られたばかりの血のように赤くあれ。

「汚れた役場」からは、田舎の寂しい古い役場が思われる。置き棄てられたような役場に、一つ処でも華やかに、と飾られた蘭は、逆に役場の寂しさを際立たせてしまうようだ。その寂しさが蘭に映るなら、蘭の反映する造血の営みにも、寂しさは映るのか。

壊れた機関車空中にあり触れられず

これも寂しい句だ。機関車だからノスタルジックで、珍しく見られるばかりだ。ここで「触れられず」の解釈は三通りある。一つには実際に空中に浮かんでいるが、高すぎる処に有るか、または禁忌の為に触れる事が出来ない。次に、目には見えるが、映像か機関車の幽霊なので、肉体では触れる事が出来ない。三つ目に、誰も気づかない、または気にも止めないから、触れられない。

この機関車は地には属さず、空中に隔離されている。本来なら煙を吐き轟音を立てて突き進むべきだが、これは壊れている。触れられないから、修理も出来ない。毀し尽くして破棄する事も出来ない。機関車の何もかもが、いつまでも、宙ぶらりんのままだ。

滅びよモネ 少年時代の蛇口とともに

本来は明るい筈の少年時代が、作者にとっては呪われた時代であったと窺える。「滅びよモネ」とあるからだ。モネと言えば、睡蓮の絵を思い浮かべる。たおやかな、明るくまどろむ絵だ。そんな少年時代は無かった、と読む。

蛇口とは、どんな場所にあっても、大抵は壁際に位置付けられるから、寂しい。洗面所でも、台所でも、風呂場でも、便所でも、ビルの植え込みの橫でも、プールの脇であっても、およそ寂しくない蛇口というものが、この世にあるだろうか。

しかし、モネに敬意を表して、最も陽光降り注ぐ蛇口を、少年時代の枠組みの中で想像してみよう。例えば、校庭の蛇口を考える。少年とは、否応なく学校へ行くものだからだ。群れる少年たちが勢いよく手足を洗い、喉を潤す蛇口は、たとえ陽光降り注ごうとも、校庭の隅に佇む事を運命づけられた器物だ。

一方、或る少年にとっては、校庭の隅が定位置だ。校庭の真中は、彼に与えられる場所ではない。校庭の真中に位置付けられた同胞達が蛇口を必要とせぬ時に限り、その少年が蛇口と共に佇むのであれば、「滅びよ」という呪いは、モネと蛇口に対してのみ向けられるのではない。一般の少年時代にも、自らの少年時代を踏まえて立たざるを得ない作者自身に対しても、発せられている。

モネと言えば睡蓮、睡蓮と言えば水、蛇口と言えば水を出す器具、であるから、モネの睡蓮の絵に、己が少年時代の蛇口を取り付けて捻れば、睡蓮を養う水は流れ出してしまう。その行為がモネに対する呪いだとしても、流れ出る水はモネの虹色に輝いて、作者を溺れさせるかもしれぬ。それを密かに望む作者か、とまで想像するのは、「滅びよモネ」が本当に呪いなのか、という疑問があるからだ。

この言葉の裏は「よみがえれモネ」ではないか。己が少年時代の如何に暗くとも、捧げられた蛇口はモネの絵の陽光に輝いていて欲しい。そんな願いが、背後に無いとは言えぬ。そう思わせるほどのモネの色彩である、と美術館のモネの「睡蓮」の前に立ち尽くした昔があった。

逆立ちし未来無き我が眼にイコンは濡れ

天とされているものが、実は地に属するものかもしれない。それを正しく見ようとして、天を地として捉えるために逆立ちしているのか。時間を見ているなら、過去と見えているものが、実は未来かもしれぬ。

「未来無き我が眼」は、未来に絶望している、と取る事も可能だが、「逆立ちし」と組み合わせると、未来を根本から捉え直そうとしている、とも読める。絶望するだけなら、わざわざ逆立ちする必要はなく、蹲って膝を抱えているだけで良い筈だ。困難な体勢を取ることにより、未来の正体を探っているのか。

時間の流れは一方向ではない。過去は未来を含むのであって、永遠の現在に在っては、過去を現在に摂するという意味において、先ず過去が無く、従って未来もない。

イコンは壁画もあるが、板絵が一般的だろう。背景が金色であるイコンを思う。イコンの意味であるが、正教会では「遠距離恋愛の時における恋人の写真」とされている。だから逆立ちした作者は、真理の、ロゴスの写真を、遥かな恋人として見ている。イコンは作者の為に、作者の嘆きに共鳴して濡れる。イコンに何が描かれていようとも、真実濡れる者は、聖書唯一の特異点であるイエス、そして二人のマリアだろう。

傲慢花嫁熊肉は糧牡蠣も糧
 ※「傲慢」に「たかぶり」と、「糧」に「かて」とルビ

元気な花嫁だ。「傲慢」と書いて「たかぶり」と読ませる処に、「傲慢」に対する作者の理想が表れている。この作者の言う「傲慢」とは、現世の夾雑物で虚しく身を飾り立てた挙句の傲慢ではなく(世の傲慢とは、そんな怯懦な守りばかりだが)、魂から迸る昂ぶりが、結果的に、周囲に「傲慢」と見なされてしまう、そんな類だ。そんな花嫁は良いなあ、と思っている句である。

牡蠣は、花嫁自ら海に潜って得たものかもしれぬ。熊肉も、花嫁自ら仕留めた熊かもしれぬ。そう読む事で、牡蠣を喰らい、熊を喰らう花嫁の、昂り上気する花のかんばせが見えるようだ。かく在る傲慢は、ひどく美しい。

この句に先立って「海亀の屏風少女にひらかせよ」がある。海亀をどう取るかだが、海神の使いと取った。開けば、屏風からは波音が聞こえ、しぶきが散り、しずしずと屏風を出る海亀は、託宣に至るか。その奇瑞が起こるか否かは、屏風を開く者に依る。指名された少女は、神降りる者、「妹の力」を持つ者であろう。この少女が成長し、前掲の花嫁となれば良い。

青いうみうし捕らえ豪雨の磯となり

うみうしは手網で捕っているのか、それとも素手か。海の色、天の色のうみうしなら、如何に感触悪しくとも、素手で掬うのが敬する事となろう。足滑らせば身をざっくりと切る磯の上だ。天からは豪雨、海からは波、この上、満潮にでもなれば目も当てられない。恐らく、なるだろうよ。

なぜなら、青いうみうしを捕ることが禁忌に触れたから、豪雨の磯となっている。それでも、うみうしは放さずにおくが良い。雨に総身殴られ、波と磯岩の牙なす群れに狙われていても、集中して、絶妙の力加減とバランスで持っていないと、うみうしは落ちるか、潰れ滴るよ。如何に感触悪しくとも、諦めずに、自分だけの詩情を放すな。

焼経を双子眺める盲いても
 ※「焼経」に「やけぎょう」と、「盲」に「めし」とルビ

焼経と言えば、奈良時代の「紺紙銀字華厳経」、東大寺の二月堂焼経が思われる。紺色の紙の下部が焼け、焦げた部分は炎の橙色と化して、しかし千年を越えてなお銀泥は黒変せず、経文の字は輝いている。

仏像は飛鳥、経文は奈良、仏画は平安、と骨董屋は言う。その時代のものが最高、という意味だ。掲句においても、奈良時代の鋭く整った字を思い浮かべる。

博物館や骨董屋などの安定した空間で眺めている、とは読みたくない。炎上する堂内の真っ只中に、経文はある。盲いてもなお眺めるのは、炎が瞼の裏にまで照り付け、経文は自らを焼く熱を使役し、その字体の鋭さを以って、教えを説くからだ。

双子はいつ盲いたのか。経の焼ける以前から盲いていたのか、経の焼けるさまを眺める内に、その報いで盲いたのか。以前より盲いていたのなら、経の発する炎熱は恩恵であろう。報いで盲いたとしても、やはり眺め続けられるのならば、双子にとっては恩恵だろう。

夫婦でも親子でも兄弟姉妹でも無く、双子である。同じ胎内に育ち、同じ時に生まれ、同じ背格好、同じ顔である双子の、その魂は異なる。経文の炎に照らされて、互いを鏡像と見るのか。

密教に入我我入という行法がある。仏と我と互いに映し合う事により一体化する観想だ。互いが鏡の如く向き合い、永遠の現在の中、無限に互いの影像が現われ干渉し合い入り合う。行者が仏となり仏が行者となる。

華厳の炎は、鏡として聳えるだろう。炎は瞬時刻々、自在に姿を変える。永遠の現在の中で、双子は炎に、互いの肉体を映し、互いの魂を映し、互いの相似する姿を、遂には仏と観るかもしれぬ。互いの姿のみを観るため、外界の夾雑物を一切入れぬよう、敢えて盲いるのも、また恩恵だろうか。



髙鸞石「痴霊記」

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