2022-07-24

竹岡一郎【句集を読む】これが光、これが春 北大路翼句集「見えない傷」を読む

【句集を読む】
これが光、これが春
北大路翼句集『見えない傷』を読む

竹岡一郎


北大路翼の根城「砂の城」が、今年十月末に閉まると聞きました。遂に一度も行かないまま無くなるのは如何にも残念ですが、行った事のない小さな九龍城は、こうして思い出に美しく組み込まれ始めるわけで、私にとっては、それで良いんでしょう。

北大路翼といえば、句集に載っている彼の写真を見るばかりで、会うどころか動画を見た事さえありませんが、俳人は書いた句が全てで、その句が他ならぬ私個人の胸に刺さるかどうか、それだけです。

「見えない傷」を読んだ時から、この句集について書きたいなあ、と思いつつ二年間、書けませんでした。けれども、いい加減面倒になった、というか、書かないで我慢している事に飽きました。

尤も、遥か昔に二度、北大路については書きました。一度目は「びーぐる」に書いた「天使の涎」論を俳句新空間に転載したもの、二度目は筑紫磐井さんから「なぜ天使の涎を論じたか、書いて」と言われて、やはり俳句新空間に序論を書きました。あの二つは書いていて楽しかった。あの楽しさをもう一度、と言うわけです。

先に「俳人は書いた句が全て」と言いましたが、あとがき読んで感心した箇所があります。

それでも日本を愛してゐる。僕はこの国で生まれこの国で死ぬしかない。

単純ですが強い言葉です。こういう風に、すっと生き方を言う。思考と言葉は表裏一体ですから、生来の思考が直線で力強いんでしょう。それが俳句となると、次のような判り易く強い句となる。

Tシャツの柄に育ちの悪さかな  北大路翼(以下同)

手袋にやさしい闇が五つある

只素直に上手い。久保田万太郎は俳句の天才という説あり、山頭火も天才説ありますが、こういう句は、こちらが無理矢理励ますまでもなく、無茶に覚悟を迫る必要もなく、ごく当たり前に天才かな、と思います。勿論、この感想も私の願望に過ぎません。昔、「天使の涎」序論末尾に書きました「出来れば天才と化して欲しい北大路翼」とは、「後世に天才として記憶されて欲しい北大路翼」の意味です。

そう言うと、「こんな俗情と消費文化に凭れた、軽薄な、一寸病んでる振りを売り物にした、無教養な人間にだけ受けが良い句しか作れない奴を天才、とは聞いて呆れる」という罵詈雑言が聞こえてきそうですが、そしてそれは実際、何度か聞いた戯言ですが、「では、文学とも詩とも高尚且つ難解な哲学とも全く無縁な非ゲージツ的な日常を送る人々が読んで、泣いたり笑ったり出来るような句が、あなたに作れますか、今まで一句でも作れた試しがありますか」と問いたい。

文学、詩、哲学、芸術に良く通じている人間にしか分からない句は、どれだけ理屈捏ねまわそうが結局、枠内の句です。そして死に直面した時、その枠は何の意味も持たなくなる。死は単純で強力なものだからです。

北大路は恐らく、枠中の枠、いわゆるホトトギス系の伝統俳句の技術は、ほぼ習得している。彼がそういう芸を或る程度極めている事は、「鷹」という伝統俳句結社でやって来た私には良く観える。私が讃嘆するのは、彼がそういう芸を伏流として秘めながら、なお枠の外の言葉で詠える事です。

私はいっとき北大路の句を全否定したかった。それはそうでしょう。全否定する方が遥かに楽だし、安心できる。伝統俳句をやるにせよ、或いは他ジャンルの詩を取り込みつつ新しさを目指すにせよ、北大路のような、俗情がそのままの状態で死と対峙するような句は、自らのゲージツ的保身のために軽蔑し無視するに越した事は無い。「軽薄なエンタメ、消費文化に媚びてる、教養ある自分には読むに耐えない」とカッコよく大上段から切ってしまえば、私の中では解決する。その結果、分水嶺に立つ私は、一番大事な処を逃すわけです。しかも厄介な事に、何十年も後、死に際して初めて失敗に気づくだろう。

それで私は、北大路の分類不可能な処を取り敢えず、「天才」と定義してみたわけです。俳句にとっては「天災」かもしれないが。わかりやすい言葉で、どう生きてどう死ぬのか、我武者羅に、駄句を恐れずに絶えず探ってゆく、三振続いた果てに突然、場外ホームランを打つ北大路の在り方が、天才あるいは天災であれば良いなと願いつつ。

私が分水嶺に立っている時、無性に論評書きたくなる作家です。この男の産む獣たちを、丁寧に腑分けし、美味しく頂いて、のっぴきならない処を踏み越える。それが私のささやかな道楽でしょうか。では、参ります。

 狭き門より入れ

歩くのが遅い日傘を追ひ抜けず

「追ひ抜けず」といいますが、実際は追い抜きたくないのでしょう。歩いていて、ふと前方の姿に目がとまった。涼し気にも艶やかな後ろ姿で、時々ゆっくり左右を見たり仰いだり立ち止まったりもして、その度に日傘が少し回る。回るのは日傘の定番ですから句には敢えて書かないが、回ってるでしょう。とにかく歩くのが遅い。追い抜こうと思えばすぐにでも追い抜けるが、どうもその景を見ていたい。本当は暑いので、さっさと目的地に着きたいが、日傘のたゆたう様を眺めるのもまた涼しさ、と追い抜かない。いや、「追ひ抜けず」とあるから、実は既に日傘の魔に嵌まっている。熱中症で倒れる前に、その魔から遁れられますか。

ワンピース濡らして金魚持ち帰る

夜店の金魚すくいをした後でしょうか。水槽の水がワンピースの裾に跳ねて、金魚を貰って帰る。このワンピースは白でしょう。色物だと、濡れたところが染みのようになって、よろしくない。白なら陰翳となります。背が高いほど、ワンピースの裾の陰影と金魚が良く映えますから、この女性は成人と読みました。金魚を提げるのが少し嬉しくて、子供っぽく照れ笑いしている様が見えるようです。ワンピースの裾がひらひら翻るのと、金魚の尾びれの揺れが、良く響き合う。金魚のように夜店の間を泳いでゆくひとです。

手花火やころころ変はる好きな色

「女心と秋の空」と言います。「男心と秋の空」とも言います。男心の方が本来の言い方という説もありますが、いずれにせよ、恋心の移ろいやすさを指します。掲句は、秋の空どころではない早さ。手花火の色は一瞬一瞬変わる。同様に、心も一瞬一瞬変わる。恋心に限った事ではない。それが変わらないように思うのは、単に体裁で誤魔化しているだけです。心は一瞬もとどまらない。一度座禅でも組んでみれば直ぐに判る事です。美しい手花火に喩えたのは、自他の心のめまぐるしい移ろいを、作者が裁かずに受け入れているからでしょう。

僕は君を君は蟹を一生懸命に

君は蟹を一生懸命、どうしているんでしょうか。啄木みたいに泣きぬれて戯れている訳は無いですね。喰っているんでしょう。蟹を喰う時は無言になる。それほど一生懸命に喰うという事です。対して、僕は君を一生懸命にどうしているのか。恋しているのか、口説いているのか、何も言えずに只見つめているのか。君は知らんぷりです。僕よりも蟹の方に夢中。衣食足りて礼節を知るではないが、食足りて恋を考えるか。いや、そんな傲慢な事は申しません。蟹に満足した、その暁には、少し僕の方にも目をやって欲しい。そう願うばかりです。尤も、同集に「汝も我も蟹の匂ひの手で月夜」ともありますから、何とか振り向いてもらえたんでしょうか。

この作者、性愛の句はとにかく上手い。何でもない動作一つで、二人の関係を様々に思わせる句があります。

素裸にシャツかけてやり煙草吸ふ

腰に手を回し合ひたるまま昼寝

頬に欲し君の素足の冷たさを

この三句目など、作者の性癖を告白しています。一寸どころか随分被虐趣味なのかもしれないが、正直なのは結構です。「欲し」であり、「あり」ではありませんから、作者の憧れを詠ったんでしょう。

「素足」と「冷たさ」と、どちらを季語と取るかで、夏か冬か、季節が真反対になりますが、夏と取る方が相手の姿が見えます。夏にも拘らず素足が冷たいのは、体温が低いという事、ならば色白の肌ではないか、素足は痩せているのではないかと想像します。そして邪鬼を踏む天部を思わせる。自分を邪鬼だと自覚して、好きな女を天部と想うなら、その気持ちは切ない。

捨てるまで大事にさるる桜貝

恋人も知らない水着の柄がある

この二句の主人公は良く似ています。男はあまり桜貝など大事にしないでしょうから、主人公は女性でしょう。私は何十年でも大事にしまっておきますが。「捨てるまで」とあるから、ある日、ふっと飽きるんでしょう。それでためらいもなく、ポイと捨てる。或いは思い出を捨てるかのように捨てるのかもしれない。例えば、恋人と海に行った思い出。

「恋人も知らない」とは、今の恋人が出来てから、わざわざ買ったんでしょうか。それとも前の恋人の時に買ったんでしょうか。どちらの読みも出来るでしょう。この柄は、主人公の心の襞を暗示しています。心の襞が幾つもあるように、水着の柄も幾つもあるのかも知れない。箪笥の奥に仕舞われて、麗しい迷宮の心を形作っているのかも知れません。

合歓の花雨が引つ搔き傷のごと

合歓とは、中国で同衾の意。夜に葉が合わさる様から、この漢字が当てられます。和名の「ねむ」は葉が抱き合うように眠るから。桃色の雄蕊があまた突き出て、ふわふわと、夕に開いて夜を咲く花は甘く香り、その香に細かな夜雨が降る。昏い恋を思わせて、見方によっては痛ましい景です。「引っ搔き傷」とは、合歓がそう感じているのでしょうか。雨に降られるのは、花にとっては痛手です。それを引っ搔き傷と観るのは、合歓の強がりに寄り添うのでしょうか。

汚れ方違ふ枕が二つ春

これは同衾の枕でしょう。原石鼎の「秋風や模様のちがふ皿二つ」を踏まえています。石鼎の句が秋らしい諦めを詠うなら、掲句は春の生々しさを詠う。「汚れ」が、石鼎句の「模様」に相当します。石鼎句の模様は、なにしろ皿ですから、どうしたって変化しないが、枕の汚れはこれから幾らでも変化します。同じ汚れ方になるかもしれないし、心がすれ違うように益々違った挙句、片方が突然洗われて、まっさらになってしまうかもしれない。その汚れの行方が、二人の恋の行方です。

春夕焼け泣いてしらけるおままごと

「泣いて」とありますが、おままごとの相手が泣いたんでしょう。泣かれた結果、「おままごと」という子供の遊びに、現実の面倒事が入ってきてしまう、それで白ける。白けるとは言っても、「春夕焼け」の季語のせいか、或る余裕を持って、泣く子を見てはいる筈です。尤も、泣いた子自身がおままごとに白けた、と読む事も出来ます。子供の遊びは、夕暮れを以て終わります。丁度キリが良いから、はい解散、となるんでしょうか。

もう一つ、おままごとのような生活、という読み方もあります。泣かれた事で、または泣いた事で、ままごとのような日常から現実の惨たらしさに覚めた、そして白けた。この場合、「おままごと」は暗喩ですが、そう読む方が、句としては深みが出ますか。

布団から出れないほどのうれし泣き

掲句における「泣く」という行為が激しく見えるのは、「布団から出られぬほどの」という形容に依ります。「号泣」を目に見えるように、具体的に表現した。主語が提示されず匂わされてもいない場合、俳句では主語は作者自身と読むでしょう。だから、この場合、主人公は北大路自身と読みます。成人過ぎた男子です。

末尾が「泣き」で終わる言葉を調べてみました。噓泣き、焦がれ泣き、しゃくり泣き、忍び泣き等々ありますが、「号泣」という状態に相応しいのは、「うれし泣き」か「くやし泣き」でしょう。

掲句は、「うれし」が離れ技です。仮にこれが「くやし」だったら、どうしようも無い。予め断っておきますが、この「どうしようも無い」は、実際の「泣く」という行為に対してではなく、「泣く」という言葉として公に表現された時の反応です。

実際の行為は密やかに誰にも知られないようにする事は出来る。しかし、活字として公に定着された時、それに対して、どう反応してしまうかという問題です。

うれし泣きなら、傍らの者は、笑い飛ばす事も揶揄する事も、幸運にも涙腺が正常に機能するなら一緒に泣いてやる事もできる。微笑ましく、作者の幾許かの謙遜と卑下をも匂わせる句となる。

一方で、えんえん悔し泣きしているなら、黙って顔を背けるしかない。傍で見ている者にとっては責苦の如し、と言ったら、酷いですか。だが、そんな号泣を見せつけられて、金持ちに札束でツラ張られてる気分になる者もいます。

酷さついでに言えば、掲句の良さは、「泣く」という行為を傍観できる点にあります。うれし泣きする者に反応しなくとも良いし、ましてや共感を要求される訳でもない。

「泣く」という言葉の難しさは、そういう処です。これが笑う或いは嗤う、ならば読者に共感を要求させる作用はない。「泣く」という言葉のみに、恐らくは今の社会特有の慣習として、そういう作用が生ずる。ですから「泣く」という言葉を文章中に、ましてや短い詩形式である俳句中に用いる時には、細心の配慮が必要です。この句の良さは、そうした配慮の結果でしょう。

もう一つ思うのは、「うれし」は笑いに親和性がある。決して泣く事に親しい言葉ではない。嬉しさが一定の範囲を超えた時に「うれし泣き」という現象が起きる。「うれし泣き」とは、極端に嬉しいという感情が、落涙という、普通は悲しみに属する生理現象と化す事です。或る矛盾した状態が、「布団から出れないほど」激しく起こる。これは珍しい。

なぜこの句に惹かれたか、長々と説明してみましたが、泣くという現象は、私にとって、実は不可解です。ずいぶん昔、或る人に「心が死んでいるから泣かないのだ」と教えられました。改めて成程。それなら掲句が、私の欠損部分を補うかのような幻を見せてくれるから、惹かれるんでしょうか。

 死亡遊戯

刃物みな淑気に満ちて台所

元旦から尖っている句です。台所には確かに複数の刃物があり、何の為にあるかと言えば、死をおいしく調理するためです。調理の初めに刃物がある。一年の初めに淑気があるように。淑気とは、めでたいなごやかな気です。人間は食足りて初めてなごやかになる。食は他の生を取り込む事です。当然、他の死を伴う。

ビアガーデン飛べると思つたことがある

ビアガーデンは大抵、屋上にあります。飛び降りもまた屋上に親しい。屋上の喧騒の中で、浴びるほど酒飲んで、挙句に天を見上げると、どうも本来の居場所がそこにある気がする。死ねると思った訳ではない、あくまでも飛べると思っただけです。飛んで地上から解放されると思っただけ。

死にたい訳ではない、とは言訳で、柵乗り越えて飛べば、潰れて死ぬに決まってる。それくらいは判ってる。飛び降りたって、警官が来るまでの酒の肴になるだけだが、それでも酔眼に暮れてゆく空、やがて幽かに星瞬く天を見上げていると、どうしても飛んで帰れる気がしてくる。ここではない、一体どこに帰りたいんでしょう。

凍死者の髭の痛さや吾にも髭

凍死者の髭は針のように凍って尖る。眼前に凍死者がいるわけではない。眼前にあるのは、寒い朝か、晩の鏡に映る自分です。髭を剃るのも面倒で、撫でる手に痛い髭の感触に、ふと凍死する自分を思うのです。冬山に行く必要などありません。霜降りる朝、公園や駅の入口で凍死している浮浪者は何度か見かけました。飯食わずに酒だけ飲んで外で寝れば良いだけです。髭は死後も伸びるという。身体各部が死んだ後、髭だけがまだ生の方向へ伸びてゆきます。

桜桃忌橋の上から煙草捨つ

太宰治は服毒未遂や首吊り未遂、自殺や心中を何度も試みて、それでも死にきれずに最後に入水心中。橋から入水のように捨てられる煙草は、火がついたままでしょうから、夜なら水面に至るまではその軌跡が赤く見えます。それを生のあっけない記憶と見るか、自分のつまらん希望と見るか。

風鈴と同じ柱で首吊らむ

風鈴は揺れる度に涼しさを奏でますが、その音への腹いせに、並んで首吊りたいのか、涼しさ台無しにして。それとも同じ柱で吊れば、少しは自分の死も涼しく見えるか、と無茶な希望を抱くのか。

入水前ちよつと冷てえなと思ふ

冷たい、は冬の季語ですが、無理に冬と限定する事もないでしょう。なぜなら、俺が死ぬ時が冬だ。世間で春だろうが秋だろうが、俺が死ぬから一寸ばかり冬なんだ。

虫鳴くや生きろといふ語鬱陶し

勉強しろ、ちゃんとしろ、仕事しろ、金稼げ、生きろ。ニュアンスは似ています。とにかく上から目線で、そういう命令するな。そのうち、グローバル企業とお上の為に死ね、とか言うんじゃないだろね。そう言われたら、何が何でも嫌がらせでも生きます。虫は好きなだけ鳴いたら、勝手に突然くたばる。鳴いてる間は黙って聞いてくれ。それが出来ないんなら、お節介せずに、どこかに行ってくれ。

昔から網戸についてゐた死骸

秋の蚊を打ちて手ごたへなき命

なんとなく踏まれて蟻の最期の日

冬の蛾の粉になるまで踏まれたる

生きるのがいやで光つてゐる蛍

虫籠は死んだら次の虫が来る

虫の死を詠うの、好きですね。読んでいると、まるで責務みたいに詠っている印象さえ生じる。そうやって納得させたいんでしょう、自分を。俺の死も虫の死も変わらない、って。目の前の網戸に自分の骸が引っ掛かっていても誰も目にとめない。打ち潰されたり、何となく踏まれたり、その上、形無くなるまで踏みひしがれても、誰も気にしない死なんだ。

つまるところは、みんなそうです。いくら頑張って立派になって褒められて媚びられたって、死ぬときは虫けらみたいに死ぬ。だから、虫の死骸を片付けるように、自分の死も人の死も箒で掃いて、もう思い出も行き先も何もかも嫌、生きるのも嫌で煙草に火をつけて、人間の振りしてる蛍も居るでしょう。そうして空っぽの虫籠見つめて、北大路翼がまた新たに生まれてくるのを、いつまでも待っている人もいる。

この句集のあとがきにこうあります。

政治を批判する人たちも、今の政治の汚さはわれわれ「人間」の汚さの集合体である事を理解すべきだ。他人の所為にしないで己の醜さを認めなくてはならない。

このあとがきの一文と、今挙げた虫の死の句群が、どうも繋がっているような気がします。北大路は或る意味、謙虚で、或る意味、苛立っている。そして或る意味、客観視しようとしている。政治または世間または糾弾したい他者と、自分とは、実は鏡像関係にあると、鳥瞰しようとしている。翻って、自分に正義があると信じている人は、果たして自分の鏡像を認識できているでしょうか。北大路は少なくとも、自分に正義があるなどとは露ほども思っていないでしょう。

前から気になっている事を言います。自分に正義があると思っている人は、いや、すみません、正確に言おうとすると、逡巡しつつ、おずおずと言わざるを得ないし、それでもなお言わない方が万事平穏に済むのかもしれないが、出来るだけ正確な印象を言いましょう。

人が正義を掲げた瞬間、もしかしたら文学から最も遠ざかる危険が芽吹くのではないか。糾弾とか断罪こそが、人と場合によっては、最も文学を堕落させる毒と化すのではないか。なぜなら、正義を謳う時、人は自らの業から目を背けがちだからです。もっと言えば、意識下では、正義を掲げる事に依り、自らの業から遁れようとしている。自分の視界に煙幕を張っている。煙幕が晴れた時、糾弾したく断罪したい対象が消え失せた時、否応なく自分の業と向き合うでしょう。そして業力から遁れられる人はいません。

そしてもう一つ。文学とは、言葉に依って成立するものです。言葉とは、何処まで行っても事象の或る側面しか捉える事が出来ません。絵画や音楽に比べれば、視覚や聴覚に直接訴え掛ける事が出来ないために、圧倒的に不完全である、それが文学の宿命です。

言葉とは、そもそも世界への認識を分断させる宿命を持つのではないか。これは、俳句という最短の詩を作る人なら、誰でも日々経験している事ではないでしょうか。自分の感じた事をこの短さでは正確に表現できないという憾み。しかしどれだけ長々と書いたところで恐らく同じでしょう。事象の周りをぐるぐる回っているその軌跡が何重にもなるだけです。

そのような、あまりにも不完全なもので世界を詠おうとする時、せめて世界の悪を自分の悪のように受け止めて、自分の鏡像を見るように捉えようとする事。これは中々難しいのですが、そういう志は必要ではないか。いや、悪というのは不正確、というか、此の世限定の短期的な見方です。世界の業を自分の業のように受け止める、と言うべきです。生き変わり死に変わる度に変化する立場を鳥瞰するという事。

正義を想いつつ文学をやるためには、少なくとも、シャーマン、巫のような立場が必要なのではないか。憑依される立場、もっと踏み込むなら、憑依される立場を超えて憑依する立場が。

どうも話がずれますね。この虫の死の句群において、北大路は虫に憑依している。その憑依する在り方が、北大路なりの正義ではないかと感じたのです。それを何とか説明したかったのですが、あんまり上手く言えてませんね。

日直が捨てる月曜日の金魚

日曜に死んだんでしょうか、それとも土曜の午後に。金魚は夏の季語ですから、一日二日、夏日の当たる温い水に浮かんでいた死骸は、割と傷んでいます。水も濁っていて捨てなきゃいけない。面倒です。この日直は貧乏くじ引きましたね。しかし、死とはこんな風に臭くてぬるぬるしていて面倒なものだと、子供のうちに知る機会を得た。それは結構な事です。

日曜終わって、また月曜から学校かよ、面倒だなあ、おまけに日直だから早く行かなきゃいけない、それで教室着いたら金魚の後始末かよ。月曜の朝の鬱陶しさ倍増ですね。まあ、人生とはそんなもので、それを子供のうちに知ったのは実に結構。大人になっても覚えておけよ。金魚の気持ち? そんなもの知りません。ひとの寂しさは百年でも我慢できる。ましてや金魚ですよ。

それならなぜ、句の末尾、最後に印象に残る言葉が、「日直」で終わらずに「金魚」で終わるんでしょう。「日直」で終わる作り方だって出来た筈です。でも、「季語は作者自身である」なら、捨てられる金魚の気持ちは、作者が一番身に沁みている。或いは死んだ金魚に憑依したいんでしょうか。

振り返るたび消えかけの花火あり

場所は何処かを考えます。何度も振り返るのだから、見晴らしの良い場所でしょう。公園や河原でも良いが、花火の地点から振り返る自分までの距離が長いほど、何度も振り返る事が出来ます。そう考えると、やはり海辺でしょう。浜で花火をやっている。自分は海から遠ざかってゆく。掲句の景は裏を返せば、自分が前を向いて歩いている間に、背後で新たな花火に火がつけられるという事。

それなら花火の始まりが見えても良い筈なのに、なぜか自分が振り返る時には、花火はいつも消えかけている。これは寂しい。見るのを許されるのは花火の儚さだけ、と諭されるかのよう。死ぬ前の走馬燈を見せられているかのよう。

花火をしているのは、仲間ですか。自分は疲れてしまって帰ろうとしているのですか。ここは仲間が花火をしていると読みましょう。その方が寂しさが増す。歩いて行く先は夜、振り返っても夜で、仲間はだんだん遠ざかる。花火は消えかかっても、決して消えはしない。いっそ消えてしまえば、まだ諦めもつくけれど、永遠に花火は消えかかり、夜道も海から遠ざかるほど、果てがなくなって来ます。

終電の次の電車は雪の中

終電の次の電車とは、回送電車か、それとも朝になるまで彼方で待機している電車か。いずれにせよ乗れない電車で、それをホームに立って何となく待っている。待っているとは書いてない。けれども、待っているんでしょう。そうでなければ「次の電車」と書く必要がない。

では、待っているとしましょう。何の為に。乗るためですね。開かないかもしれない扉、止まらないかもしれない電車を待って、雪を眺めている。終電の次の電車は、死へ向かうか、少なくとも「きさらぎ駅」へと向かう電車だよ。乗ってはいけない電車に乗りたいのは、飛び込もうにも時刻表に無い電車は来るかどうかも分からないし、凍死も何となく気が進まないから。駅員に追い出されるまでの猶予を、雪の中の電車に恋して、死までの猶予のように待っています。

満月に骨蹴飛ばして帰り道

何の骨か、が先ず問題ですが、何の骨でも良い、作者が何の骨と観たのかという事です。人間の骨だと仮定しましょう、それが一番凄絶だから。で、作者が蹴飛ばしても良い骨と言えば、たった一つしかない。作者自身の骨。満月に煌々と照らされている道は、何処かからの「帰り道」ですが、作者自身の骨を蹴飛ばしているとすれば、これは二つしかない。生から死への帰り道か、死から生への帰り道か、どちらかです。または作者が首を巡らす方向によって、どちらへでも変ずるか。

どの花を撮つても墓の写り込む

供花を撮った訳でもないでしょう。花の背後にえんえん墓地が広がっている、と読むのが、先ず無難な読みです。

俳句で「花」といえば、桜ですが、これは桜だろうか。桜と見れば、墓が重なるのは或る種の理で、「桜の下には死体が埋まっている」ではないが、桜とくれば死を含んでいる、と日本人は観ます。

墓は作者の心にあるものでしょうか。桜を撮れば、何処の桜でも自動的に墓が写るなら、それは写真が作者の心を映しているからです。

野遊びの景色となつて戻り来ず

死出の道なんでしょう。こんな風なら良いという、作者の儚い希望ですか。「景色となつて」いるのですから、消えてはいない。生きている側から見えなくなったわけではない。こちら側、生きている側からは、ずっと見えているけれども、「戻り来ず」です。

もしも作者が景色となった側なら、その景色は作者側からは見えないから詠う事も出来ない。という事は、戻り来ない者は、作者ではない誰か、恐らく作者に近しい誰かでしょう。もうこの世には居ないが、作者には、春の麗しい景の中、野遊びをしている様が、いつまでも見えている、見ていたい、見えていて欲しい、そんな悲しい句です。

冬晴れやこんもりと祖母焼き上がる

大阪人である私には、この句が最初不可解でした。これが火葬場の台車の景だとすれば、骨は台車一面に散らばっているから、「こんもり」という形容は出て来ません。骨壺に入れた景なら、僅かな骨がガシャガシャ入っているだけだから、同じく「こんもり」とはいかない。

ところが、関東では大きな骨壺に骨を全部入れ、最後に骨粉までも刷毛と塵取りで掃き取り、壺に収めると聞いて、疑問が氷解しました。壺の中にうずたかく積まれた骨の上、更に骨粉が被せられていたら、確かに「こんもり」となるでしょう。関西では主要な骨を入れたら、残りの骨、全体の四分の三くらいは火葬場に置いて帰るので、とても「こんもり」とはいかない。

そして疑問は解決したのですが、なお私の脳裏には実景とは異なる景が広がっています。晴れた冷たい空の下、地平の真ん中に祖母の骨だけが、「こんもりと」小山のように焼き上がっている景です。

句中には「積み上がる」とは書かれていない。あくまでも「焼き上がる」です。焼き立てほやほや、という事が強調されている。冬晴れの下でまだ湯気を立てているかのようです。死の、生々しい物質化。尤も、この「こんもりと」は一寸可愛い。生前の祖母を想像させるような形容ですが、それでも焼き上がっているのは、やはり骨です。

火葬場とか骨壺とかは無い。参拝者も居ない。祖母のまだ熱い骨の小山と、北大路だけが、冬晴れの下に対峙している。空の無情な冷たさが、そんな非現実的な景を思わせます。

中七、先ず「こんもりと」が来て、次に「祖母」が来ます。「祖母こんもりと」と詠われた場合との違いは、死の無情の強調でしょう。先ず「こんもりと」した物質がある、次にそれが祖母だと認識される。その密かな驚き。

闇鍋や遺骨を英語に訳せない

Ashes(灰)、remains(残存)、cremains(火葬した骨)、辞書を調べてみますと、英語でも一応あるんですよ。しかしそういうニュアンスではない、霊的な意味が入ってない、と言いたいのか。遺骨とは単なる物質ではない。何か、と問われれば、魄(はく)を蔵するものです。魂魄の魄です。魂が上昇するものと見れば、この魄とは地下へと降りるもの。生前の業を色々含みつつ地下を目指すもの。

だからこそ、闇鍋を配したわけです。色んなものが暗闇で、ぐつぐつ煮えている。地獄のように、あるいは中有の暗冥のように。そこを遺骨のある処、遺骨が内に含む業の行き着く先と感じたのなら、鋭い直感です。鋭すぎて、一読しただけでは意味が取れない。しかし、妙に心に残る。残るから考えてみる。そこでハッとなる。平明に、しかし訳わからん、けれどもなぜか引っ掛かる、こういう句は貴重です。

血液が蒼くなるまで冬眠す

蒼い血と言えば、烏賊、蛸、海老、蟹などでしょうか。鉄の代わりに銅が入っている血です。作者は冬眠において、進化を逆行している。人間やめるどころか、その血は深海の色に、蒼空の色に、そこまで眠りに落ちたいのだけれども。

蒲団から進化の途中のやうに出る

死と眠りは似ています。「昼寝覚」とは一旦死んで蘇る意味だと、初学のとき教わりました。ならば、この蒲団の句も、昼寝覚ではないけれど、やはり死から甦る句でしょうか。

だらだらのそのそ出てくる様を詠ったのでしょうが、やはり中七が曲者で、胎児は胎内で生物の進化の過程を全部なぞるそうです。となると、蒲団が子宮で、出てくる作者は早産どころか、人間になり切ってないのに、この世に出てくるのでしょうか。

革命の如き寝糞や冬に入る

句集「天使の涎」中の句です。糞の句と問われれば、私は真っ先に思い浮かべます。驚きと絶望と一種突き抜けた解放感と言いましょうか、その心情を現実の寝糞に投影し、革命と喩えたのが見事です。

しかも周囲の状況は「冬に入る」。えらいこっちゃ、なのは自分の排泄物だけで、それ以外はしんと寒々とし始める。これからもっと寒くなるかもしれないのに、掛布団も敷布団も台無し。明日は何処に寝ればいいの。革命だあっ! と叫びたい気持ちはわかる。案外こんなところから、人は革命へと突き進むのかもしれない。

これがもし「糞の如き革命」なら、単なる悪罵に過ぎません。判り易く他の例を出せば、「糞の如き世界」なら、飽きるほど聞いた悪罵、成人する前に判っていて当然の事実、平凡極まる喩えに過ぎません。
しかし、これが「世界の如き糞」なら、そんな糞をするのは一体どんな生き物だろう。鯤という大魚がおりますが、まず鯤よりも大きい生物、かの鯤だってその糞の一部に過ぎぬほど大きな生物でしょう。

北大路のこの寝糞は、先ず心情に拘わらず否定しようのない物質として在り、次に否応ない自己確認の素材として在ります。人間が排泄の後、自分の糞を見るのは、生物としての自己確認の欲求だと言いますから。通常は概念でしかない革命が、可視化され、湯気を立て、嗅ぐ事さえできる。自己確認としての、革命の物質化。理想論を一瞬で粉砕する、これが北大路のリアリズムです。

尾籠な話をもう少し続けますと、日本には糞から生まれた神がいます。イザナミが火の神を産んで女陰を焼かれ、苦しみの余り嘔吐し、糞尿を垂れ流して亡くなりますが、嘔吐物からは鉱山の神、尿からは灌漑用水や温泉の神、糞からはハニヤスビコ、ハニヤスヒメという神が生れます。土の神、肥料の神、五穀を生育させる神です。

死に瀕した神の糞から、食べ物を育てる神が生れる。マイナスのものがそのままプラスのものへと繋がってゆく。この円環が生ずるためには、大きな許容性が必要です。拒絶や糾弾や断罪からは決して生じない円環。

善は善のまま、悪は悪のまま変わる事が無く、永遠に対立しあう、というのが、ユダヤ・キリスト教的な二元対立ですが、その立場から見れば、この円環はまさに革命です。これが「革命の如き寝糞」に隠された意味。「寝」、つまり眠りという無意識の、疑似的な死の領域から、あふれ出す円環。そしてこの円環は、「ふるさと」と呼ばれるものの持つ円環へと繋がるのではないか。

 提灯行列

軒下で犯され猫に産まれ来る

「軒下で犯され」と「猫に産まれ来る」の間には長い空白があります。犯されるのは猫、産まれ来るのも猫、この間に母猫の妊娠があります。もう一つの読み方は、前世は軒下で犯され、次の世には猫に産まれ来る。この場合の問題は、前世に軒下で犯された時、猫だったのか、それとも他の生き物、例えば人間だったのかという事。

先に指摘した「長い空白」とは、妊娠から出産までの此の世の数カ月でしょうか、それとも前生と今生にまたがる空白期間でしょうか。

葱畑同じ高さに絶望す

葱は同じ高さで生えています。みんな同じ高さで同じ目線で世界を見ていて、茫洋と何処までも並んで立っている状況に絶望したら、もう故郷とは振り捨ててゆくものでしかない。

蟬を捕る約束だけが甦る

それでも友達はいて、でも友達の名前も顔も声も忘れた。蟬捕りの約束だけをいつまでも覚えている。行けなかったから。約束は果たされなかったから。果たせなかった約束は、約束した人とは関係なく、いつまでも、何十年でも残るものです。そんな約束だけが、たとえ蟬捕りみたいな詰まらないものでも、本当かもしれません。全うしなかった約束だけが本当。

夏至の雨は泣いてる男の子の匂ひ

男の子って独特な匂いがするんですね。金魚みたいな、と言うか、何処か生臭く饐えた匂い。その匂いが、泣くとますます強まるんだ。涙だって、体内の毒の排出だから。男の子の中の濁った匂いが漂う。それが夏至の雨でもある。夏至だから、恵みの夜は一年で一番短い。昼も雨が降ってるなら、雲があるだけマシか。泣いてる男の子は、私にも遙か昔の自覚がありますが、汚らしいんですよ。面倒なのは男の子も自分の汚らしさを良くわかっている事で。その男の子の惨めさを同じ匂いで誤魔化してくれる雨は、やっぱり優しいのかも。

ぶらんこを見て欲しくつて雨の日も

ぶらんこを思い切り漕いでいる時は、なぜか得意な気分になれる。風を切っているのが好きです。この得意な気分を見て欲しいから、子供の頃は雨の日も乗ってた。馬鹿な子だね、と怒られるだけだったけど。自転車でもあれば風を切って出て行けるが、それも出来ない時には、ぶらんこはいい。体に夢を見させてくれる。地面から離れているからか。いつでも揺れてるからか。その中途半端な状態が良いのかも。

ふらここの錆の匂ひを故郷とす

ふらここの鎖は錆びていて、握りしめていると錆の匂いが付く。それは血の匂い。体の中を流れている故郷の、惨たらしい匂い。その匂いを我が物として諦めた時に、大人になる。

ふらここがぽつんと見えてあと畑

田舎であればあるほど、畑ばっかりであればあるほど、故郷は鎖に閉じられていて、その鎖の惨たらしさ、それをふらここを漕ぐ事で打ち破る、そんなわけないか。因習は何にも変わらない、うっとりと井戸の底のような温さの中、ぽつんと、ふらここをいつまでも漕いでいる、ギイギイギイギイ同じところを行き来しているだけの鎖の軋む音、それが春の悲鳴なんだよ。

今、ぶらんこの句を三句挙げました。一句目は「ぶらんこ」、二句目以降は「ふらここ」です。この名称の違いは何だろうと考えてみましたが、子供は「ふらここ」なんて古典的な名称は使いません。「ぶらんこ」と呼びます。主人公が子供、つまり過去の自分である場合は「ぶらんこ」、主人公が既に大人、今の自分である場合は「ふらここ」と区別しているのではないでしょうか。

雪道はどこかに売られてゆくやうで

時刻は夜でしょう。その方が雪の仄明るさが寂しい。ふるさとから無理矢理に引き剝がされる感覚。ふるさと、なんて凍え切った際の幻覚みたいなもので、実は無いんですけどね。雪道の寂しさは、自分が何かと交換されて流離する感覚に似ているんでしょうか。「全ての仕事は売春である」とゴダールは言いました。戦前は人買いが普通にありましたが、自分が物として扱われる実感、というのは今でも普通にあるのではないですか。何らかの値段をつけられて、寒くうすら白い雪道を運ばれてゆく感覚。故郷なんてものは最初から無かったという諦観。

旅に出るやうに焚火を離れけり

この句の場合、ふるさとは焚火の如しなんでしょうか。この寒さの中で、熱く明るく有難い。そういうふるさとが北大路には、もしかしたら在るんでしょうか。それならそれで良いんですけどね。中島みゆきの「エレーン」や「異国」を想えと言うつもりもありません。気を取り直して解釈するなら、一般的な流離の感覚を、一種力強く詠っている。末尾の「けり」に強さが現れています。そういう意味では、人口に膾炙しやすい句ではないですか。

この句と付き合わせて読むと、ぶらんこに乗ること自体が一種の流離なんだなと思います。大人はあちこちに流離する事が出来る。子供はぶらんこに乗るしかない。大人だって流離には体力気力要りますから、どちらも足りない時には、ふらここに乗るしかない。

家系図を匿してゐたる月明り

月明りは隠されてる家系図を照らそうとしているのか。それとも、陽光から家系図を隠しているのが、月明りなのか。例えば、月明かりの元でしか見たらいけないというような。どうも後者のような気がします。というのも「匿(かくま)う」の漢字を使って「匿(かく)して」と読ませているから。月は黄泉の光だから、そんな光に匿われている家系図には、祟りか障りか、どうせ危ないものが記されている、または危うさを解く鍵がある。

村祭り水死の人を神様に

漁に出て水死人を見つけると、必ず曳くか舟に上げるかして、陸に戻さなければならない。この水死人をエビスと呼びます。揚げられた水死体は辻などに葬る。そうすると豊漁をもたらすと言い、実際に豊漁の例が数え切れぬほどある。掲句では、そのエビスも神として接待を受けるのでしょう。

ヒルコという神があります。生れてすぐ虚ろ舟に乗せられ流された。後に立派な神となり、その神がエビスだと言います。日売子(ヒルコ)、日売女(ヒルメ)、双子の神あるいは夫婦神にして太陽神を思います。

この村、恐らく漁村でしょうが、ここで祀られる水死人が何を意味するか。先ず海の彼方からやって来る死、次に豊漁をもたらすもの、流され隠された神、本来、太陽であり海であるもの。この村祭りは、記紀によって整理される以前の神へと繋がってゆきます。

山開き事故をなかつたことにする

山開きは一般の登山客の入山を許す日で、今ではイベント化してる向きもあるが、本来は神事です。となると、掲句の読み方も二つに分かれます。一つは山開きのめでたさの為に、事故を隠すという意味。そして、もう一つの意味を、これから展開します。

山は本来、異界です。山伏や僧侶など異能を持つ者しか立ち入れない。無理に入れば天狗にさらわれる。山人が住み、山姥やヤマワロや一本タダラが棲み、平地の法律は山には通じない。いわば治外法権ですから、昔は、お上に追われる者は山に入ったと言います。

山における事故はなぜ起こるのか。山という異界に、平地に住む者が立ち入った結果です。その事故を山開きによって無かった事にするとは、平地と山との間の軋みを一旦、白紙に戻すという事。これがもう一つの隠された意味です。

今、海という異界、山という異界と、平地に住む者との関係を示しました。ここで展開した解釈は、掲句を拡大し過ぎと言われるかもしれない。ですが、水死人を祀るという事、山開きにより事故を白紙に戻すという事は、本来、こういう意味を持ちます。作者が意図しなかった意味が掲句に滲み出るとすれば、それは作者が使った言葉自体が、表面的な意味を超えて、言霊の領域に突き刺さるという事です。それは作者の無意識が、記紀以前の地祇と接触している事を意味します。

作者は「アウトロー俳句」と自ら謳っています。これは表面的には、作者の見栄、傾(かぶ)くポーズから始まった言葉かも知れない。しかし、アウトローとは何でしょう。それは客人(マレビト)、共同体の外からやって来る者、平地の法律の外にある者、本来は異界に住む者であり、それゆえにしばしば怖れられ、憎まれ、疎まれ、否定され、投石され、果ては人身御供にされたりもする。

同時に外部にあるものですから、あらゆるものを許容する。内部からはみ出した者が外部へ、山へ、海へと遁れる時には受け入れる。拒絶とは、枠によって生ずるものです。枠の外にある者とは、枠によって拒絶された者です。

今まで作者の句を読んできて感じる事は、その一種異様な柔らかさです。選択される言葉は、平易にして柔らかい、そして期せずして枠をすり抜けてしまうような作用がある。ですが、決して社会運動にはならない。当然です。社会という共同体の外にあるものだから。

クリスマス光の暴力だと思ふ

都会がふるさとである者も沢山いるでしょう。都会の最大のイベントはクリスマスではないですか。山開きも村祭もエビス信仰の風習も無い都会では、クリスマスとは一種の神事です。但し、キリストの生誕を祝う神事ではありません。西洋の資本主義社会に生きる人間の為の、悦楽の神事です。それを「光の暴力だ」と言う。都会に生きている作者にも、神事とは全く思えない暴力的な行事。これはふるさとの行事ではない、破壊的な行事だ、という認識の上に「光の暴力」という言葉が置かれます。

街路樹にイルミネーションが巻き付けられますね。夜も煌々と灯っている。あまつさえ点滅する。自分の全身にああいうものが巻かれて一晩中チカチカチカチカ点滅していると考えてください。眠れますか。あれは樹々に対する拷問だ、なんて、少年少女にはとても言えませんが、大人は知っておいても良いと思います。

病人が散らばつてゐる春の闇

「散らばってゐる」のですから、まるで物みたいに、人形みたいにある。「病人」ですから横たわっているか、少なくともあまり動けない。場所は闇です。あたりの様子も良くわからない。夏や秋や冬よりは過ごしやすいが、逆に言えば、春の闇は、その柔らかさによって全てを絡め取る闇です。これを病院と読めば、一気に状況は整理されてしまう。実際は病院の景を読んだのかもしれません。しかし、「散らばってゐる」という状況と「闇」という場所で、まるでこの世のものではない景のような気がしてきます。

私が読んだ状況は、村のようなところを俯瞰している。各々の屋根の下、或いは辻や畑などに人形のように人々が置かれている。俯瞰しているから「散らばっている」という形容が出てくる。何となく過ごせてしまうような心地良く柔らかい闇の中で、病んでみな孤独に散らばっている。今の私たちの住んでいる場所、ひいては「ふるさと」が病んでいる様の隠喩と読んでしまうのは、深読みのし過ぎでしょうか。

深読みついでに、もう一つ踏み込んで、「季語とは作者自身である」という定義を流用するなら、「春の闇」とは北大路です。病んだ者達を、春の闇の如く抱きとめたい、と北大路が思うなら、良いなあ。

老いてみな皇居の躑躅の蜜になる

不思議な句です。そして解釈が難しい。多少の皮肉は混じっているでしょう。「皇居という、現代日本の、不条理に守られている空間に対する批判を、優しい皮肉で書き表した」。昨今の知識人なら、こうでも書きますか。

皇居とそれが象徴するものを、大好きな人も大嫌いな人もどうでも良い人も居るでしょうが、それら全部含めて「老いてみな」です。何になるかと言うと、「蜜」。これをどう解釈するか。植込みの土じゃないんですね。躑躅の幹や枝や葉でもない。躑躅の花でもない。躑躅の蜜です。吸うと甘いあれです。子供が良く吸ってます。大人はあんまり吸わない。子供っぽい人なら吸うかもしれませんが。

蜜というのは、いわば花の上澄み、花の核です。そして実は躑躅の蜜には毒があるものもある。専門家でも見分けるのは難しいそうです。子供の頃、平気で吸ってましたが。

掲句に戻って整理すると、こうなります。皇居が好きな人も嫌いな人もどうでも良い人も老いてみな、皇居を麗しく彩る躑躅の核心部分であり上澄みであり、蜂を引き寄せる香りと甘さと、偶には毒をも有する蜜となる。

日本という国の核心である皇室が良いとか悪いとか、作者は一言も言ってません。ただ、国の中心部分の場所である皇居と国民との関係を、こういうものではないかと喩えている。この句は、作者なりの、恥じらう愛国の表明ではないか。そして作者自身は意識していないだろうが、日本に対する作者の霊的な感覚も露出している。句集あとがきの一文を思い出します。《それでも日本を愛してゐる。僕はこの国で生まれこの国で死ぬしかない。

八月をぜんぶなかつたことにする

八月と言えば、夏休み、海、ひと夏の恋。でも、何か色々上手く行かなかったんですかね。それとも上手く行ったばかりに、後で面倒な事になったんでしょうか、或いは冷めたんでしょうか。男にも女にも共通する思いでしょう。全部無かった事にはならんでしょうが、取り敢えず無かった事にして納得する。遥か昔から、そういうものです。

と、解釈して収まる訳はないので、なぜ八月なのかという事です。長期休暇に身も心も開放的で、海も水着も眩しいからじゃないですか。違います。日本人にとっては違います。俳句の初心者が敗戦を詠う時の定番は何でしょう。「八月や六日九日十五日」。

二つの原爆投下日と敗戦日。これ全部無かった事に出来ますか。アメリカ人なら出来ますが、日本人には出来ません。それは現今の日本人にとっては呪いと言って良い。チェ・ゲバラは1959年7月に広島を訪れた時、「君たち日本人は、こんなことをされて腹が立たないのか」と言ったそうです。「欲しがりません勝つまでは」の挙句が「過ちは繰り返しませぬから」です。これが呪いでなければ何なのか。たとえ次に戦勝国となろうが、解く術はありません。それを「ぜんぶなかつたことにする」。ここを作者が全部ひらがなで、たどたどしくも見えるように書いているのは、意味がある。

作者だって分かってる。どう理屈つけようが無かった事には出来ないと。八月にはお盆もあります。先祖のお祭りです。先祖が帰って来る。英霊も帰って来るでしょう。空襲犠牲者も帰って来る。沖縄戦線の非戦闘員もいるでしょう。大陸の、東南アジアの、太平洋の島々の、日本人ではない現地の戦災犠牲者もいるでしょう。

戦死した先祖も、空襲で死んだ先祖も、先祖と戦ったアメリカ人も、大陸や東南アジアや太平洋の島々の御霊も、その怨み悔しさ悲しさ寂しさを全部無かった事にするためには、時間を巻き戻すしかない。その無茶さを分かった上で、北大路は「ぜんぶなかつたことにする」と呟いている。だから、彼の視線の先には恐らく、「十二月八日をなかったことにする」という言葉が浮かんでいるはずです。

しかし、その言葉はあまりにも直截で、彼には気恥ずかしくて言えない。だから、夏のアバンチュールにかこつけて、八月です。池田澄子の「忘れちゃえ赤紙神風草むす屍」に通ずるものがある。そういう意味では、掲句は読み手にとってリトマス試験紙でもあります。

我が訃報咥へて蜥蜴隠れけり

北大路は、どうも自分が生きている気がしないんでしょう。いつも何か引っ掛かる不安がある。もしかしたら自分は既に死んでいるのだが、それを単に忘れているだけじゃないか。死んだという客観的な証拠が無いから、まだ生きているだけで。

他の人の死だってそうですね。訃報が来て初めて、既に死んでいた事が判る。それ迄は生きていると思い込んで、暑中見舞いに「御自愛下さい」とか書いちゃって投函したりもします。先の大戦でも同じ事は聞きました。訃報はいつまでも来ないけれども、実はとうに戦死していたとか。訃報が来たから死んだと思っていたら、突然帰還してきたとか。

訃報という情報が来ない限り、生きている事になるんなら、この蜥蜴は、よほど北大路に死んで欲しくないんでしょう。後生大事に訃報を咥えたまま、百年でも草葉の陰に隠れているつもりかもしれません。

これはニホントカゲでしょうが、幼体は尾が瑠璃色をしているので、瑠璃蜥蜴とも呼びます。幼体であれば、長く隠れられます。北大路が老衰で死ぬまで、瑠璃色の尻尾を草に沈めて、隠れていれば良いです。「昼寝してしづかに繋ぐ命かな」という句も同集にあります。随分神妙な句です。他者を写生した句にせよ、夏バテの自分を詠った句にせよ、これを読んだ蜥蜴は昼寝にでも入るように、ますます草深く潜るでしょう。

晩年はしづかな雪になりたくて

世の中の騒音を全て吸い取り、白く仄かに光を含む、冷たく儚いものになりたいと思うのですか。時刻は書かれていませんが、夜の雰囲気があります。「晩年」の、「晩」の一字がそう思わせるのでしょう。末尾が「て」で終わっている、ということは、まだ続きがあると期待します。「なりたくて、けれども」と続くのか、「なりたくて、そして」と続くのか、作者にもまだ見えていない先があります。運命というものは大抵、予測した方向には転がらないものです。

誰も気付かない内に、水のように溶け、蒸気のように空に昇りたいと思うのでしょうが、北大路には、無理。そういう者には、そもそもこの論評で取り上げてきたような句は書けません。この句は期せずして、北大路の晩年から一番遠いものを詠っている。憧れとはそういうものでしょう。

ここでふっと、同集にある「焼芋屋全部が根性だとしたら」という句を思い出して、妙に納得します。この「だとしたら」が不可解だった。だとしたら、何なのか。静かな雪なんかになれねえよ、と続くんでしょうか。焼芋という、ぶっとい根の塊は、雪の真ん中で食うとき一番美味いでしょう。

だから北大路に俳人としての責務を唯一望むとすれば、どんなに少なくとも後三十年は、何があろうと、生きて書き続ける事。自傷と恥辱に塗れて、それらを恐ろしく簡潔に書いてしまう彼が、老人となった暁に、一体どんな句を書くのか。その未見の句に、私は非常な期待を抱きます。

汚くて安くて花が見える店

この花を、町の公園の花壇と見るか、それとも俳句で言う処の花、つまり桜と見るかで、印象は随分変わって来ます。借景に桜を置くなら、これは随分と贅沢な句となります。「花の下にて春死なん」を思わせますが、汚くて安い店は、日々を何とか生きている事の象徴でもありましょう。となると、この句は「花の下にて春生きん」の意にも取れます。単純な句に見えますが、実は読み手によって読み幅が大きく動く。それは北大路翼の句全般に言える事です。

眼帯をとれば光やこれが春

片目では見えなかったものが、両目では見える、それを光と言っている。只の光なら片目でも見える筈ですから、これは光という語に託して別のものを詠っている。下五に出てきます。「これが春」と。

だが、この「春」という語も象徴でしょう。片目では見えなかった春、春という語に託されたなにものか、翼にとって光であり春であるもの。それが何であるかは、わかりません。きっと翼自身にも、はっきりとはわからないでしょう。

眼帯は拘束であり、傷を隠す物であり、防御でもあり、視界を塞ぐものでもあります。句集の題が「見えない傷」です。隠された傷、が一次的な意味でしょうが、この句を読むと、傷の為に見えない、とも取れる。または眼帯の為に見えない、と読むなら、見えないのは傷か、それとも景色か。眼帯の下には傷がある。眼帯を取ると、傷は生々しく露わになるのでしょうか。それとも塞がってはいるが傷として残っている、または傷跡として硬く再生した皮膚がきらめくのでしょうか。

いずれにせよ、眼帯と引き換えに、光が、春が現れる。これは美しい句です。復活、或いは新生の句でしょうか。何度も何度も傷は生じ、眼帯が付けられては取られるでしょうが、その度に光は、春は新たに現れます。傷だって、希望かも知れない。或いは突破口か。

( 了 )

0 comments: