2021-02-28

【句集を読む】冥途のちょっと前 鴇田智哉『エレメンツ』を読む 竹岡一郎

【句集を読む】
冥途のちょっと前
鴇田智哉エレメンツ』を読む

竹岡一郎


きのふをととひと次第に玉になる  鴇田智哉(以下同)

玉になるのが何かは示されていない。「次第に玉になる」という、日単位の緩やかな変化が示されているだけだ。玉は美しいものの象徴であり、神霊の依代ともなる。玉をそのまま魂と読み換える事も可能だろう。それなら、霊的な美しいモノ全般という事になる。

一昨日昨日ではなく、昨日一昨日と記されている。つまり時間を逆行している。時間に順行しているなら、これは現世の事だ。時間を逆行できるなら、これは四次元の事象か。

滝壺の風のひろがりつづけたり

風はいつか止むものだが、ここでは絶える事のない風を描いた。滝壺には絶えず滝が落ち、逆巻く水は絶えず風を産む。風は滝壺の周辺に絶えず広がり続け、滝壺を取り巻く空気の流れとせめぎ合っている。永久機関とまでは言えないが、余程の破壊が加わらなければ、滝は風を生み続け、生まれた風は広がり続けるだろう。

火が紙にくひ込んでゐる麦の秋

弱い火が紙の周囲から、ゆっくりと侵蝕する様を描いている。日常馴染み深い情景を改めて凝視している。麦の熟れ行く様と取り合わせることにより、焼かれる紙が黄色から茶色になってゆく変化を見せる。紙は火によって熟れてゆくようにも思える。

壜にさすすすき電気のとほる家

芒の銀の穂は光を反射し、光を吸って、それ自体が灯るようにも見える。空っぽの壜は寂しいものだが、芒を壜に差すことにより、芒の穂の仄かな明るさが壜を照らすようだ。その差す行為を電気が通るように思い、そして屋内には電気が通っている。時刻は、芒の最も映える夕暮れであれ。壜に芒の穂の灯る如く、家にも灯のともる頃だ。眼前の壜の景色と、外から見た家の景色は、入れ子構造のように見えよう。

しやつくりと親指ばかりうごく家

しゃっくりをする度に親指が動くのか。このまま止まらなければ、親指の奇妙な動きは横隔膜の痙攣と共鳴し続ける訳で、反復の一寸した悪夢だ。これも家の句である。閉ざされた空間に反復される小さな奇妙な動きには、微かな怖ろしさがある。進もうとして進まない、予兆だけの動きは怖ろしい。クエイ兄弟監督の「ストリート・オブ・クロコダイル」という人形アニメを観たことがある。閉鎖空間における人形達の、様々な奇怪な反復行動が悪夢であった。

凩にほつそりと傘ひねらるる

この「凩に」を「凩や」とすれば、傘をひねっているのは人の手であろう。捻るとは即ち傘を閉じて巻いているのだ。しかし、掲句では「凩に」とあるから、手と同時に凩もまた、傘をひねっている。ここで描写されるのは、傘というよりは、むしろ凩という、目には見えないものだ。閉じられ巻かれようとしている傘を、凩は更に捻ろうとしている。そう見えるほど鋭く渦巻く風だ。雨は止んだばかりで、傘は雨に冷えている。その傘を尚も、枯れ木の如く冷やそうとする木枯らしである。

ぶらんこをからだの骨としてつかふ

ぶらんことの一体感を表わしている。ぶらんこを漕ぐのは、腕の動作だけではない。両脚も腹筋も背筋も、体幹の筋肉をも使うだろう。その結果、各部の骨も使う。骨の延長のように、ぶらんこの板や両の鎖や鎖を支える横棒さえもが動く。掲句は、漕ぐ時の体感を描写している。ぶらんこを体の一部の如く扱っている自在感だ。

抽斗をひけばひくほどゆがむ部屋

部屋が歪むわけはないと言ってしまえば、それまでだが、作者は「ゆがむ」と感じた。クローゼットや本棚を開けても、部屋は歪まないだろうと思われる。抽斗でなければならない訳は、家庭にある一般の抽斗の状態にあろう。

抽斗は、色々な細々とした物を入れておくところだ。余程の潔癖症でもない限り、抽斗をきっちり整頓して何が入っているか管理している者はいないだろう。何かを放り込み、取り出す必要がなければ次第に奥に押しやられ、何年も、時には何十年も忘れ去られる、そんなものが詰まっているのが抽斗だ。

私など、亡父の書斎の抽斗を整理してみようと、幾つかを引き出してみたが、あまりの混沌に手の付けようがない。九十年前の日付の葉書が出て来るに及んで、整理を諦めた。

  抽斗の古き香りや居待月  小川軽舟

この句は、俳句日記「掌をかざす」に収められていて、次の日記文がついている。「九月十一日(木) 三十年ほど使っているライティング・デスクは横浜の家に置いてある。結婚指輪は二十年間ずっとその抽斗にある。」

軽舟句は、「居待月」という、坐して月の出を待つ心を置く事により、抽斗を優しく描いている。香り立つ過去の時間を蔵するものとしての抽斗だ。月を眺めるように、記憶を見ているのだろうか。

対して鴇田句であるが、抽斗は引けば引くほど、奥に仕舞われている物が晒されるのだ。それは過去の事柄、記憶、時間が晒される事でもある。部屋には現在の時間が満ちている。抽斗には、奥の方に行けば行くほど、忘却された過去が詰まっている。

では、抽斗を引けば引くほど歪むのは、時間だ。現在の時間が満ちている部屋を、過去の時間が侵蝕する。掲句では抽斗が単数か、複数なのかは示されていない。複数の抽斗を引くなら、抽斗の数だけ、様々な時間の振幅が、一つの部屋に展開することになる。その過剰なる時間の重なりを思うと、部屋の歪みは如何ばかりか。

部屋であれ、家であれ、土地であれ、或る空間を十全に観照しようとするなら、堆積した時間の認識が必要だろう。歴史、とは一寸違う。歴史に記されずとも、重要な時間があるからだ。単に「時間」というよりは、「記憶としての時間」という方が適切かも知れない。

部屋ならリフォームされ、家なら更地にされ、土地なら埋め立てられるか削られ、たとえ如何なる手を加えられても、記憶は残る。そういう記憶、それは念と言っても良いが、それらの堆積が、空間に影響を与えることはある。その影響を「ゆがみ」と捉え、卑近な例として抽斗を挙げたのか。

ひばり野の上擦りながら巻き戻る

雲雀が揚がっては空の真中でひとしきり囀り、また落ちては揚がり、囀り出す。永遠のように錯覚される春の昼を形作る声だ。雲雀の姿は見えない。その声によって雲雀と知るのみだ。

天地を往復する雲雀の見えない動作は、ゼンマイ仕掛けのようにも想像できる。「巻き戻る」という表現は、雲雀の声の抑揚を思わせると同時に、雲雀の上下の軌跡をも想像させる。いつか日は暮れ、雲雀は休むだろうが、眼前の野の様は、麗らかに寂しく、永遠の現在に留め置かれたように錯覚されるから、時間もまた「巻き戻る」。

問題は「上擦る」だ。広辞苑で意味を引くと、1.表面がなめらかで良く滑る。2.落ち着かない、うわついた調子になる。3.上気する。とりのぼせる。4.興奮から声の調子が高くなる。とある。これらの意味全て、雲雀の声の響きを表しているではないか。

句中で「上擦る」のは、雲雀野であって、雲雀ではない。そして、雲雀野が「上擦る」と書くことが、むしろ的確であると思う。雲雀野は雲雀によってこそ生じ、その特性を保たれる。雲雀が「上擦る」時、野全体が雲雀の声に醸され、揚げられて、「上擦る」。目には見え難い雲雀の、その声こそが雲雀野の本質なのだから、掲句では雲雀野が、雲雀の声そのものであるかのように描かれる。視覚と聴覚を重ねて一体化していると言うべきか。

今まで見てきたように、鴇田句を解くには、一語、一字の背後に隠され構成されている幾つかの事象を読み取らなければならない。それらを読み解いてゆけば、意外と繊細な描写がなされている事に気づく。透ける部分の描写、とでも言おうか。言葉ではどうもうまく表現できない処、五感から零れ落ちてしまうような、五感の隙間を縫うような認識を、読者に体感させようとしている気がする。

「余白の美」という言葉がある。日本画に良く使われる「絵の匂い」という言葉もある。では、鴇田の句が、そういう処に有るかというと、それも違う。いわば透明な硬い構築があって、その構築を読み透かして行かなければならない。透明なものを更に読み透かすというのも、矛盾した言い方だが。

すぢかひのつめたさ空の組み上がる

空を、見えない構造物として、何か透明なものの筋交いの構成によって組み上がっていると見たのだ。「筋交い」で且つ「冷たい」のだから、堅牢な構成である。

そのように空を感じたきっかけは、都会の空には必ず見えている電線の、斜交いの線かもしれぬ。或いは、空を斜めに交わる筋雲かもしれぬ。もしかしたら、二羽の鳥の、空に斜めに交わる一瞬の軌跡かもしれぬ。目に見えるものは、目に見えないもののことわり、因果律を暗示しているものだ。「つめたさ」の季語から、冬青空だとわかる。「天地不仁」を思うなら、冬青空の張りつめた硬さを、無情の堅牢さとも観るだろう。

いうれいは給水塔をみて育つ

「給水塔マニア」なる人々が存在する。給水塔の写真集さえ出ている。あれがなぜ、あんなに良いのか説明がつかないが、私も給水塔が大好きだ。特に夕暮れの野に立つそれなど、心に迫る。あれほど大きいのに、人が棲む事も無く、何かを生産するわけでも無く、ただ水を溜める用でしかないという、寂しさゆえだろうか。

一方で、幽霊は成仏しない限り、育たない筈だ。水子は七つくらいの齢まで育つという話も聞くが、実際の状況を見た事が無いから分からない。私が見る幽霊は、生前の執着にいつまでも捉われ、その執念が姿を形作っているさまだ。

肉体があっても、幽霊と同じ状態に陥っている者達はいる。憎むにせよ怨むにせよ呪うにせよ、度を越えてそれを続ける者は幽霊であって、その執着こそが、自らを鎖す獄舎と化す。だが私には、その執念が、恋としか見えぬ。怨霊であればあるほど、ひたむきなのだ。子供の頃、「ああ無情」を読んで涙したのは、ジャベール警部の自死の景であった。

掲句では、肉体無きにせよ有りにせよ、幽霊と称される者が或る地点にいつまでも立ち続け、朝も昼も夜も無い、時間の滞留の中で、給水塔を見続けている。幽霊は陰の気に属するから、同じく陰の気である水を溜めている塔に惹かれるのか。

幽世に属する者だけあって、句には季が無いが、現世にある私には、晩夏の野に立つのが最も相応しいように思われる。春の麗らかさでも秋の寂しさでも冬の寒さでもなく、夏の栄光果てゆく只中に立つ幽霊は、殊に愛おしい。

執念という杭に繋がれている限り、幽霊が育つ事は無い筈だが、果てしなく給水塔を見続けている幽霊を、作者もまた見続けて、或る時点で「育つ」と書かざるを得ないなら、その言葉を幽霊への祈り、幽霊への愛の表明と読む。この句は集中の白眉である。幽霊の名句と言って良いが、その所以は、作者の愛にあるか。

しらぎれる吹いきゃらもんを飛ばらもん

「らとみくす」という章の一句。全く意味がない。只リズムだけがある。リズムと二字の漢字から想像すれば、何か白っぽいものが切れ切れになりながら吹き飛ばされているのか。自らも風を吹いているのか。中七のリズムには、きらきらと捩じれるような感がある。

実体が無く、エネルギーの流れだけがある。五感の隙間から流れてしまうようなものを、何とか言語化しようとしたのか。言葉と思考は表裏一体の筈だが、これは思考というよりは念の残滓、或いは未だ念とは呼べぬほどの胎芽が流れているようだ。

「掘った芋いじるな」と米国人に言えば、腕時計で時刻を示してくれるかも知れない。だから、世界のどこかで掲句を、意味があるように聞く者が居ないとは言えぬ。「吹い」とか「飛ば」の箇所を、訛ってるなあ、と思うかもしれぬ。

さらも屋の奥の方から和金がでるわ

同じく「らとみくす」中の句だが、これはまだ意味が通じる。何かの店の奥から和金が出るのだ。和金は水槽か鉢に入れられて出るのか。空中を泳いでくるなら良い。和金は金魚の原点と言われる種類だから、良く産土になじんでいるだろう。だから、「さらも屋」も古びた日本家屋である事が相応しい。

「さらも屋」が何の店かは知らぬが、此の世の理の外にあるモノを売っている事を期待する。平屋で、間口が狭く、奥の暗い店なら、なお良い。そんな奥からこちらへ、空中を音無く向かってくる、しかも人の頭ほどもある和金なら最高だ。

目ン玉ぁびんちょだっぺゃ照ってっぺ

「匚」という章の一句。作者の故郷である上総松丘の方言で書かれていると、あとがきにある。

先に「しらぎれる」の句を、誰かが意味あるものとして聞くかもしれぬ、と夢想したのは、この句ゆえだ。標準語に訳すなら「左右の目玉の大きさが違う、照っている」となる。

「しらぎれる」の句よりも、呪文の形を成しているように聞こえるのは、土俗の共同体という地盤に支えられた響きだからか。目の大きさの左右違う者が、かっと日の照る空を仰ぎながら、これを繰り返しているのか。あるいは目玉自体がそもそも照り渡っているのか。

ふりかかるたびに濃くなる蛇のいろ

何度も蛇が降るのだから、森の中を歩いているのか。頭上の枝から蛇は降りかかってくる。その度に頭を振るか、腕で払い除けるかして、進んでゆく。

森から出ようとしているのか、奥へと進んでゆくのかは分からないが、たとえ出ようとしていても、結果的には奥へと進んでいるのだろう。降りかかる蛇の色が段々濃くなっているからだ。

次々と蛇の色が濃くなるのは、光の弱まっているためか。枝々の茂りが密になり、陽が遮られつつあるのか、それとも暮れ始めているのか。蛇の色は、森自体の濃度かも知れない。森が、進みゆく作者を取り込もうとしているのかもしれない。

蛇の色は何処まで濃くなるのか。句中では、進行する予兆だけで終わる。敢えてその先を想像するなら、いつか蛇の色は極まり、漆黒と化すだろう。その漆黒は、森の濃度の極まった結果か、それとも遂に夜が来たせいなのか。分かっているのは、森を抜けるのが叶わなくなった事だ。

葛からの不在の屋敷からの道

上五で一度、切れが入ると読んだ。「葛からの道」でもあり、「不在の屋敷からの道」でもある。どちらからの道とも取れるのは、葛と屋敷の両者が分かち難く結び付いているからで、要は全面葛に覆われている屋敷なのだ。どこが戸で、どこが窓か判らぬほど、葛に侵蝕されているだろう。家の入口らしき処から伸びる道にも、葛は繁茂していて、まるで葛の葉の塊から道が生じているようにも見える。だから「葛からの道」でもある。

空家あるいは廃屋ならば、そう書けば良い。「不在の屋敷」と書けば、まだ家には主人が在り、家は主人の帰りを待っているようではないか。実際、そうなのだろう。法的に所有者が居て、家に住む機会がある限り、空家でも、ましてや廃屋でもない。たまたま外出しているだけかもしれぬ。それが数年、数十年単位であったとしても。

ここでもう一つの読みを挙げれば、不在なのは主人ではなく、屋敷である可能性だ。全面葛に覆われていて、ぼんやりと家らしき形はしている。家と庭の区別がつかない。多分、家はあるのだろうとは思っていた。だが、実際は僅かな壁や柱や天井板や梁が残るばかり。葛がその蔓と葉を駆使して、家らしき外形を保っているのであった。

「屋敷」というからには或る程度の広さがあろう。梁や柱が複雑に組まれているなら、小さな家よりも外形は保ちやすいかもしれない。

つるつるの函に風船詰めになる

函に「風船詰め」になるのが何なのかは、記されていない。そもそも「風船詰め」とは何だ。間に緩衝材として風船が入っているのか、それとも詰められるものが、まるで風船を押しへしゃげて詰めたような状態になっているのか。

俳句は特に示されていなければ、一人称として読むから、作者自身が「風船詰め」になるのか。函に押し込められて、いつ周囲の風船が破裂するか分からない状態か、それとも作者自身が風船の如く破裂する寸前か。

いや、まさか人間が、そんな状況に陥る事はあるまいと思いながらも、この場合、作者の一人称と読んでも想像可能な、ぎりぎりの範囲内なので、はらはらする。その破裂の予兆を一杯に孕んだまま、「なる」と放り出されるように終わる。

「つるつるの」という形容は函に掛かるが、これも風船の表面を思わせる。函自体、風船のように破裂寸前なのか。

まさか人間がそんな状況に陥る事は、と先ほど書いたが、どうも似た状況を日常味わっていた気もする、と考えて、一つあった。朝の殺人的な満員電車は、丁度こんな感じであった。

なかにゐる水母のなかのずれてくる

水母の中がずれるとは、透明な水母の内部に透けて見える内臓がずれるのか。水母の気持ちになれば痛そうな句だ。

問題は上五の「なかにゐる」で、水母は何かの中に居るのか。倒置と読むなら、水母の中のずれてくる中に居る別の何か、となる。

この句は、水母の内部に居る何か、または水母を孕んでいる何かを、同時に詠っているのだが、その何かが居るのか、居ないのか、居るとすれば水母の内なのか、外なのか。わかっているのは、水母の中がずれてくる事だけだ。

句は「ずれてくる」という予兆に終わる。そもそも最初から最後まで、脳も心臓も無く体の九割が水である水母と、予兆だけしかない。その後、どうなるのか、ずれる事による無音のわずかな破局が生じるのか、その破局がどこまで波及するのか、或いは「ずれ」はそこで止まり、何も変わらないのか。どう捉えるかは、読み手の意識下の願望に因る。

こんな風に、或る不安な予兆だけが記されている句を、論の中で幾つか挙げてきた。そんな小説を書く者が、かつて居たと思い出す。内田百閒だ。百閒の「冥途」「旅順入城式」「東京日記」、いずれも不安な予兆だけが積み重なってゆく。

百閒を読んだ時、本当の恐怖小説を初めて読んだ気がした。恐怖の真骨頂は、未知が未知の状態のまま蜿蜒と続く事にある。

そう思いながら、もう一度句集全体を読み直してみると、これ、実は恐怖小説ならぬ恐怖句集の側面も持つ事に気づく。恐怖の優れた描写とは、存在の不確かさを示す事だからだ。


鴇田智哉『エレメンツ』2020年11月/素粒社

1 comments:

荒木かず枝 さんのコメント...

頭でなく身体的に共鳴する楽しさを味わった。