【句集を読む】
ありあまる椅子
安里琉太『式日』を読む
竹岡一郎
桜湯のかなたに波の白むかな 安里琉太(以下同)
春の蚊のそよそよと吹きすぼめられ
魚族のうすあさぎなる涅槃かな
それぞれに淡き服着て春の海
「式日」を読むと、柔らかな美しい句が多い。今挙げた句群には、揺れ動く存在の印象がある。「揺れ動く存在」と書いたが、本当に揺れ動くのは存在なのか、存在に対する認識なのか。そんな問いを喚起させる句を、主に挙げてゆきたい。
ずつと雨ずつと変はらぬ蔦の窓
雨の向こうにある建物の窓を見ている、と読んだ。自身が居る部屋の窓とも読めるが、その場合、蔦は窓枠からはみ出ている部分が見えるだけで、その存在は少ない。「蔦の窓」という措辞が生きるのは、やはり一面の蔦の中に窓がある景だろう。
「ずつと」と二度繰り返しているのだが、一度目の「ずつと」は雨の不変さを示し、二度目の「ずつと」は「蔦の窓」の不変な状態を示す。雨と「蔦の窓」は、互いの状態の不変さを支え合っているようだ。
「青蔦」なら夏だが、ただ「蔦」といえば秋である。紅葉見事ゆえに秋の季語であるから、掲句の雨は秋霖、秋入梅(あきついり)である。(これが「青蔦」なら、梅雨の景だろう。繁茂と熱気へと向かう景か、凋落と冷えへと向かう景かで、印象は全く違ってくる。)
壁一面の真っ赤な蔦が雨にけぶり、その真中に窓があると読める。雨が続いている限り、蔦の赤は瑞々しく、蔦に彩られた窓も変わらない。だが、現実には、たとえいつまで雨が続こうとも、いずれ蔦は葉を落とす。壁は剥き出しとなり、窓を彩るものは無い。掲句において、「ずつと変わらぬ」は、いずれ幻となるものへの認識だ。
雨は全てのものをけぶらせる。蔦も窓も雨にけぶり、その輪郭は微妙にぼやけている。「ずつと」有るもの、不変の存在として見えているものは、実は幻として不変であるに過ぎぬ。あの蔦紅葉に彩られた窓は、実は記憶の中の褪せない景に過ぎぬかもしれぬ。「ずつと」と、その不変性を強調するほど、幻に近づいてゆくという矛盾。
うそ寒のかなへびけぶりやすきかな
この句も、かなへびが幻と変ずる如く描かれている。「うそ寒」が利いている。かなへびは間もなく冬眠に入り、姿を消すだろう。冬眠を思うかなへびの思念が、かなへび自身の姿をけぶらせるのか。
悴みて水源はときじくの碧
作者は悴んでいるのだから、水源は深山に在って、空気は冷たく張りつめているのか。その空気は冷たいだけではない。恐らく永遠を思わせる香を含んでいる。香、と挙げたのは、「ときじく」なる言葉が置かれているからだ。
「ときじく」は「時じ」の連用形。「じ」は否定を表し、「時じ」は時間に支配されない、永遠の、の意。日本神話に出て来る「非時香菓」(ときじくのかくのこのみ)が連想される。常緑の樹に実る、その香は時間に失せるという事が無い。現在では橘の類とされるが、神話に沿うなら、緑とこしなの樹に実り、永遠に香り続けるものだ。
掲句に果実は出てこないが、代わりに「碧」という語が出て来る。これは水源の色であると同時に、水に映る常緑樹の影をも思わせる。水源は、永遠の香りをも漂わせるだろう。その空気の中に立つ、有限の、悴んでいる人間。
うすらひにうつそみの実の猩猩緋
「うつそみの」は枕詞。「人」「命」「世」等に掛かる。「うつせみの」の古形。漢字を当てるなら、「現人の」「空蝉の」。この世の、やがては滅びる儚いものの意と取れる。
実は、何の実とも示されていない。儚い定めの実と読み取れるばかりだ。薄氷の季に猩々緋の色であるなら、遅い実南天か、早い苺か。
猩々緋の羅紗は、信長や秀吉などの武将が好んで陣羽織に仕立てた為、盛んな権勢の象徴として見なされるようになる。戦場では目立つと同時に畏怖を感じさせただろう。菊池寛の短編「形」は、猩々緋の陣羽織を愛用して恐れられていた武士が、その陣羽織なく出陣した為、敵に侮られ落命する話。
ここで掲句を見るなら、現世(うつそみ)の権(かり)の表面的な勢力を猩々緋に託し、うすらいにうつそみの儚さを喩えたと読める。上五中七のリズムは如何にも儚げに流れゆく。下五の「猩々」でリズムが早くなり、最後に「緋」と、突出するように果てる。
このリズムの果て方を見るに、どうも現世の儚さをただ説いただけには見えぬ。その儚さにあらん限り抵抗するように、最後の「緋」の突出があるからだ。実の行方は如何と思うのは、この「緋」によるか。やがて地に半ば埋もれ、うすらいの溶けた水を吸い、実は新たに芽吹くかもしれぬ。
くらがりにあらあらしきは雛あられ
「あらあらしき」が妙に納得いくのは、一つには雛あられの形状がごつごつしていて色とりどりという処か。雛自体は詠われていないが、あられがあるなら、当然あられを供える雛はあるだろう。くらがりにあるのはあられだけではなく、雛人形も、という事になる。くらがり、あらあらしき、と剣呑さを微妙に含んだ語と、雛との取り合わせは、単に不気味というだけではなく、南北朝の争い、特に吉野の昏さを想起してしまう。
春昼を祀りて殊に猫の神
この猫の神が何なのか、エジプトの猫の女神、バステトを思っても良いが、やはり日本の猫神と読みたい。招き猫の事かとも思うが、あれは縁起物であり、何かの拍子に眷属に昇格するかもしれぬが、神ではない。
猫を祀る神社を調べてみると、宮城県田代島の猫神社、鹿児島市の猫神神社、山形県高畠町の猫の宮などがある。食料、出産、鼠除け、養蚕等に効験ありとされるが、いずれも飼われていた猫を神として祀ったものだ。由来を読めば、いずれも悲しいそれらの猫神を詠むなら、もっと穏やかな季語で良い。
泉鏡花の「春昼・春昼後刻」を思い出させるような、不安と夢幻と狂おしさを密かに蔵した「春昼」である必要はない。掲句から醸し出される微妙な暗さ(それはO音の連なりにもよる)を考えて、初めから神である猫をどこかで読んだ筈、と考えを巡らす。
柳田國男の「遠野物語」(大和書房、1972年刊)中の「遠野物語拾遺」第一七六に、「青笹村の猫川の主は猫だそうな。洪水の時に、この川の水が高みへ打ち上がって、大変な害をすることがあるのは、元来猫は好んで高あがりをするものであるからだといわれている。」とある。
もう一つ思い出すのは、松谷みよ子の「日本の伝説 4」(講談社、昭和45年刊)中にある、「猫岳のねこ」という話。旅人が阿蘇の猫岳(根子岳)に迷い込み、或る屋敷で接待を受ける。実は山猫の首領の棲家であった。年取った女が「私は昔、あなたに飼われていた猫だ。ここに居ると猫にされる」と、旅人を逃がす。女たちが追ってきて、長柄杓で湯を掛けてくる。旅人は町まで遁れるが、『あとになってしらべてみると、耳の下と、すねのところにねこの毛がはえていた。それは、ながびしゃくでかけられた湯のしぶきがかかったところであった。』
猫は二面性を持つ。愛くるしくなつくものでも、魔性を秘めたものでもある。春の昼は明るいように見えて、実は朦朧と暗い。暗いのは、生物の狂おしい繁殖を蔵しているからだ。猫たちも恋し、戦い、騒ぎ、或いは懐妊、出産する。春の昼ほど、猫神を祀るに相応しい時はないように思われてくる。
「春昼を」の「を」が良い。「春昼に」「春昼の」「春昼や」では、景に奥行きが出ない。「を」と置くことにより、春昼の深みが立ち現れる。
猫の子が枕の中を知りたがる
猫の子は好奇心旺盛で、色んなものを嗅いだり引っかいたりする。殊に爪研ぎに定められた物の運命は悲惨だ。一通り匂いを嗅いで興味が無ければ離れてゆくから、掲句ではその先のアクションがあったのだ。猫の子が枕を嗅ぎ回った挙句、爪を立て始めたと読んでみる。枕は人間の頭の匂いが沁みつくから、その匂いが気に入ったのかもしれぬ。
猫の子としては、別に枕の中を知りたいわけではないだろうが、あまりにしつこくやっているので、人間からはそう見える。かように猫と人間の認識は違う。
しかし、猫は人間の知り得ないものも嗅ぎ分けるだろうから、案外、枕の中に我々が一生認識できない何かが潜んでいて、猫だけはそれが気になって仕方ないのかもしれぬ。枕に頭の匂いが沁みるなら、眠っている時の夢や無意識も沁みつくだろう。猫の子はそれが気になるのか。
ぼうたんの闌けたるに蚊のつどふなり
蚊は卵を産む前の雌だけが血を吸うそうで、雄は葉や花や果物の汁を吸うと聞いた。掲句でも、蚊は牡丹の花の汁を吸うために集まっているのだろう。牡丹の花は或る程度経つと、花弁がけだるく広がり初め、やがてバラバラと一気に落ちる。「闌けたる」のだから、もう散る前の牡丹だと分かる。
牡丹の色が知りたいところだが、これは紅、のぞむなら深紅と取りたい。蚊はなべて血を吸う、との先入観から、掲句の牡丹には血の色が欲しいからだ。
くわいじうはひぐれをたふれせんぷうき
今でもそうなのかはテレビを見ないから分からないが、高度成長期の頃、子供たちの日暮の中では、いつも怪獣が倒され、東京タワーは毎日折られては翌日直っていた。クーラーはまだまだ贅沢品で、子供たちは扇風機に向かって「アー」と声を放っていた。高度成長期には未生の作者は、まるで平安の筆跡を見るように、当時を想像し、夢幻の雰囲気を平仮名の連なりに託す。これも「ひぐれを」の「を」が、夕暮れの奥行きを見せている。
風鈴やたくさんの手と喉仏
これを昼と取るか夜と取るかだが、真昼の景と取ると、切実さが増すように思う。沢山の手は風鈴へと伸ばされているのか。「たくさんの」は喉仏にも掛かると読む。その方が惨たらしさが増す。
この喉仏は生きている喉の皮膚の下にあるのだろうか、それとも骨として露出しているのだろうか。火葬の時、仏の形をして白く綺麗に残るから喉仏というのだ。
風鈴が、まるで仏事のお輪のように鳴る。その音に取り合わされる沢山の手と、沢山の喉仏を見ると、掲句は戦争の八月を詠ったようにしか思えなくなる。
霧深く我にしたがふ霧のあり
濃霧の中で自分に従う霧を、敏感に察知したのか。この霧は作者を慕って、ついてきているのだろうか。どこまでも行っても、立ち止まっても霧の中なのは、自分が認識すると世界が生れるように、自分が認識することにより霧が生れるからだろうか。この場には、自分しか外界を認識する者がいないのだ。霧を従えるとは言えども、孤独の句である。
かりがねに冷ゆる深山の鑿鉋
山奥にある作業場の景だろう。これから冬に向けて閉ざすのか。問題は「に」で、これは解釈を二つに分けるための仕掛けだろう。
「かりがねに冷ゆる・深山の鑿鉋」と読めば、雁の声が、深山の鑿鉋を冷やすのだ。「かりがねに・冷ゆる深山の鑿鉋」と読めば、深山あるいは深山の鑿鉋が予め冷えていて、かりがねと取り合わされる。例えば「かりがねや」と上五で切ってしまえば、こういう認識の揺らぎは生まれない。
葡萄枯る地の金色の荒々し
冬の陽光が厳しい気候と相俟って、地を容赦なく隈なく照らしている表現だろう。「枯る」であるから、実際には葡萄は実っていないのだが、「葡萄」「金色」の語が一句中にあると、葡萄の豊かな実が日に輝いている様を思う。冬日が荒々しく金色に輝かせる地に、今は無き葡萄の実りを重ねている、と読んだ。
海鼠嚙む風蝕の日を高く吊り
この句は危うい。風蝕とは、「風が砂を岩石面に吹きつけて、岩石を磨りへらし破壊すること。」(広辞苑)とあるが、太陽が風蝕される事は無いから、これは「風蝕の日において」という意味だろうか。「日々」なら兎も角、風蝕は一日にて成るものではない。
「高く吊り」とあるが、何を吊るのかわからない。句中に出ているもので、高く吊られそうなものは、太陽以外にない。となると、やはり「日」とは太陽の事だろうか。太陽を「吊られている」と観たのか、作者自身が「太陽を吊る」と観じたのか。
上五の「海鼠嚙む」は作者の行為だろう。嚙むほどに味わいの出る海鼠と、風に蝕まれたかの如く力なき冬の太陽との親和性を描いたのだろうか。「高く吊り」を作者の所業と読むなら、荒涼とした景と自分との一体感を現わそうとしたとも取れる。
怒濤岩を嚙む我を神かと朧の夜 虚子
この虚子の句は、西洋の神を想定するなら万能感の幻想だが、恐らくそうではない。当時の日本人の感覚に沿うなら、鎮魂帰神の概念を、高揚感を以て表したものだと思う。この場合、「神」に対する認識は、西洋の神と人との間における隔絶とも、無神論の傲慢さとも、全く異なっている。虚子の句を思えば、「高く吊り」に窺える高揚感は、或る程度納得できようか。
掲句はギリギリの処で何とか情景を醸している。失敗とも成功ともつかぬ奇妙な句だ。これ以上のぼかし方をすれば、失敗するだろう。奇跡的に神秘の雰囲気が出た句である。それ故にか、妙に忘れ難い。
樹が枯れてゐる真つ白な家の上
実景は家の向こうに葉の落ちた樹があり、その樹の一部が、家の屋根の上に見えているのだろう。だが、家の横でも傍でも向こうでも無く、「上」である。
句の最後、「上」という只一字のために、一瞬、樹と家の屋根は同じ場所で、それぞれ高低を占めているように見える。樹と家は、同じ位置に重なって立つように見えるのだ。樹が家を突き通して、屋根の上に伸びている筈はないのだが。この句は、遠近の認識を問うているか。
あるいは、「樹が枯れてゐる」と「真つ白な家の上」は取り合わせで、別の景なのかもしれぬ。その場合、本当に示したいのは「真つ白な家の上」にある「何か」だろう。その何かとは何なのか、全く手掛かりがない。樹でないのなら、空か、虚ろであろう。そして「真つ白な」という形容は「空白」を想起させるから、家の上の何かとは、意外と虚ろを示しているかもしれぬ。
「真つ白な」の形容に、家は冬自体を象徴するかのようだ。樹が枯れるのは冬の結果である。家を冬の象徴と取るなら、樹の枯れは家の白さと繋がっている。
春は虚の蟻地獄なりすこし掘る
上五の「は」は「とは」の意と読み、春を「虚の蟻地獄」と見立てたと読んだ。暖かな虚ろの中で繰り広げられる鳥獣虫魚の繁殖の苦しさを思えば、なるほど春の世界は、虚という名の蟻地獄か。虚ろの最下部に待ち受けるのは、数多の生殖を終えた後の死か。
ところが、下五では「すこし掘る」と続くのだ。ここで蟻地獄は現実に有るもので、作者がそれを掘るとも読める。では「虚」は、あの俵のような虫、蟻地獄がどこにも見当たらないという事、「主のいない蟻地獄」を示しているのか。
ここで上五中七をまた喩えと読むなら、春とは果てしなく零れゆく逆円錐の擂鉢で、零れ切った後にも、何も待ち受けぬ虚ろが広がるのみという事になる。
句中にはっきりと見られるのは、「すこし掘る」という、作者の行為だけである。だが、蟻地獄という存在自体が虚であるなら、「すこし掘る」行為さえも虚であり、実は無いのかもしれぬ。
鴨去つて春のがらんとしてゐたり
この句も春の虚を現わしている。鴨の群が一斉に発ち、羽搏きの騒がしさがひとしきり空間に満ちた後、「がらんと」した空間に変ずる。その空間自体を春と観じたのだ。
空腹が蝶を無残に見せてゐる
この空腹は誰の空腹なのか。作者か蝶かのいずれかだが、作者が空腹なために蝶が無残に見えるのは無理があるし、第一、詩的に美しくない。これは蝶の空腹と読みたい。
餓えている蝶が無残に見えるのは、作者が蝶ならば分かるだろうが、蝶が空腹かどうか、どうして人間にわかるのか。一つは、作者が荘子の夢の如く、蝶と変じたから、蝶の空腹が分かる。もう一つは、蝶のありさまを虚ろと感じ、空腹と観た。
蝶を虚ろと観るのは、作者の抱く虚ろが蝶に投影されたから、「無残」なる言葉が置かれる。作者が己の虚ろを無残と感じているからだ。となれば、蝶は作者の心情の具現化と見える。蝶が人の魂に喩えられる事を思えば、蝶は作者の魂か。先に挙げた荘子の「胡蝶の夢」を現実に味わったのか。
流れつくものに海市の組み上がる
「流れつくもの」だから、波打際に、作者の足下にあるのだろう。
海月、海藻、流木、石、空瓶、文明の諸々のゴミ。一方で、海市は遙かな沖に立つ。「流れつくもの」と「海市」を関係づけているものは「に」である。微妙にずらした助詞の使い方によって、現実にはあり得ない関係性を作る技法だ。
海市は陸地の山や都市の鏡像が浮かび上がるものであって、海岸に漂着した物の集積など、海市となるには小さすぎる。これは足下の漂着物の集積を見下ろした時に、その集積の有様が都市に似ていると思ったのだろう。一方で、沖はるかな海市が、都市の鏡像である事は、周知の事実だ。
作者の認識においては、漂着物の集積の鏡像を、海市であると観ても良いと思ったのだ。何故なら、漂着物は自然物と文明の廃棄物によって組み上がり、海市もまた現実の都市や山の組み合わさった鏡像であるからだ。漂着物と海市は、どちらも文明の産物を大いに含むという点においては同じである。その大きさと、触れ得るか否かに於いて、違うだけだ。
〈波打際という地上にある作者の眼〉と〈作者が認識する海市〉との関係は、〈漂着物〉と〈現実に見える海市〉の関係に相応する。ここで作者もまた流れ着くものであり、作者自身の眼差し、ひいては作者の鏡像が、海市の構築物の一つであるという読みも出来る。波打際と沖の間に、認識を歪ませる巨大な鏡が立つようにも読める。
箱庭のつまびらかなる木陰かな
「つまびらかなる」は箱庭に掛かるだろうから、細かいところまで丁寧に精巧に作ってある箱庭が木陰にある、と読める。
ところが、「箱庭の」で一旦切れると読むと、「つまびらかなる」は木陰に掛かり、箱庭の中の木陰がつまびらか、つまり、箱庭の中の地面に、葉や枝の影が細かいところまで映っている、とも取れる。
更には箱庭の中に映っている木陰は、箱庭の中にある木の影か、それとも箱庭の外にある木の影か、と読みが分かれて来る。
木陰は果たして箱庭の中だけのものなのか、箱庭を含んだ辺り全体を覆っているのか、その木陰の正体は、と考えている内に、読み手はいつの間にか、自分が箱庭の外に居るのか、内に居るのか、わからなくなる。
川音や次第に見えて蜘蛛の糸
川音は恒久に続くものだ。人間にとっては永遠に等しくも感じられる音に耳を預けていると、今迄は見えなかった蜘蛛の糸が「次第に見えて」きた。永遠の音の中に身を置き続けて、初めて見えて来る蜘蛛の糸は、恐ろしい。蜘蛛の糸は儚く日を照り返して、視界をよぎっている。
をみならの白き日傘の遠忌かな
遠忌とは、五十回忌や百回忌など遠い忌の事だが、一般には五十回忌で位牌を片付け、以後、先祖累代の位牌となる。掲句は、宗祖の忌か、貴族の忌だろう。
「をみなら」は、全国から集まって来る善女だろう。晴天の下、みな白日傘を掲げ、寺へと向かう。白日傘が陽を照り返し、行く道も、向かう門も、寺の屋根瓦も、何もかもが眩しい。
遙か昔から続く忌へと赴く女たちも、その道程も、日の熱気にかげろうようだ。「遠忌」の「遠」が道のりの遠さを暗示するようにも思え、女たちは一回忌から現在の遠忌に到るまでの遙かな時間の道のりを行くのだろうか。そんな錯覚も生ずる。
雨の日の爪きよからに扇かな
扇を使う手の爪だけがクローズアップされている。美しい、透き通るような爪だろう。雨の日の薄暗い湿気の中で、殊に目の洗われるような清浄さだ。雨粒を爪の形に伸ばしたように見えているのかもしれぬ。そういう爪を持ち、扇を使う姿態の、全体に濡れたような透明さが思われる。
雨粒を涼しく濡らす雨なりけり
地上に落ちた雨粒は、地に属した瞬間に、空から降る途中の雨とは違う性質を持つかのようだ。地にまだ属していない雨は、地に属した雨よりも「涼し」いのだろう。逆に言えば、地に属した雨は最早、本来の涼しさを失っているという事だ。
きらきらと日焼の雨を帰りけり
上五と日焼の組み合わせに、きらきらした青春の健康な肌色を思う。「きらきらと」が下五の「帰りけり」に掛かるなら、まさに若人が「きらきらと」元気に帰ってゆくのだろう。
しかし、「きらきら」と「日焼」が雨の形容とも読める。となると、この雨は日照雨、晴れの中で降り、雨粒は日の光にきらきらと輝きつつ注ぐ。陽光の中、きらきらと降る雨が、若者の日焼けした肌を彩る。
まなざしのあふれるまくなぎのまひる
まくなぎは、めまといとも呼ばれるように、まとわりつかれると視界に不快だ。まくなぎには、「目くばせ、またたき」の意もある。句中のまくなぎは虫の群だろうが、上五に「まなざし」とあるから、目くばせする瞬きの群のようにも思えて来る。
「あふれる」は上五の「まなざし」にも掛かり、「まくなぎ」にも掛かるように見える。「あふれる」を橋として「まなざし」と「まくなぎ」は同じものに思えてくるのだ。
「まひる」であるから何もかもはっきりと見えている筈だが、その明瞭な視界の中であふれているのが、眼差しなのか虫の群なのか、何が瞬きながら目くばせしているのか、既に明瞭な認識が出来ない。
a音の連なり、殊に句中に三度続く「ま」は、渦を巻くようにも聴こえる。平仮名表記は、眩暈のような認識のずれの果てに、事物の輪郭が溶け、リズムだけになりゆく観を与える。
蟻に降るあらゆるもののたそがれて
この句も二つの読みが可能だ。一つは、上五で切る場合。あらゆるものは黄昏れてから、(もしかしたら黄昏れた結果として)蟻に降る。
この場合、蟻に降るものは、夜のとばりが徐々に下りるが如く、蟻に降る。あらゆるものは蟻にではなく、黄昏という時間に寄り添って降る。
もう一つは、上五で切らず、下五の前で一呼吸置く。蟻に降るあらゆるものに、黄昏がやって来る。降るもの達は、蟻と共に黄昏を迎える。
ここで「あらゆるもの」(それは世界と言って良い)は、黄昏という時間に沿っているのか、それとも蟻という生き物に沿っているのか、どちらの認識に立てばよいのか、という問いが湧く。世界は私の認識に沿って存在するのか、それとも時間軸に沿って私とは関係なく存在するのか。
蝶に似し茸や此処も風が吹く
「蝶に似し茸」とは、その通りの意味だ。その茸が生えている処にも風が吹いている。それだけのことだが、中七の「や」には詠嘆の感があり、「此処も」の「も」には軽い驚きがある。茸が生えているくらいだから、風のあまり通らない薄暗い処だろう。こんなところにも風が吹く、という驚きだ。この茸が蝶と化して飛んでいってしまうかもしれぬという思いも見える。茸の形態が、風を呼ぶのか。
ひとり寝てしばらく海のきりぎりす
きりぎりすは浜か、浜に隣り合った叢で鳴いているのだろう。「しばらく」とあるから、独り寝の眠りに入るまでの茫洋とした中に、波音ときりぎりすの声が分かち難く入り交じる。
「海の」というが、きりぎりすが海に居る訳はない。だが、眼を閉じた暗闇の中で、波音ときりぎりす、今宵の海と陸をそれぞれ代表する音が入り交じることにより、眠りの入口で海と陸が溶け合う。自分が海に居るのか陸に居るのかも判らない、その心地よい寂しさの源を、「海のきりぎりす」に託した。海の中で鳴くきりぎりすは、作者の心かもしれぬ。
陶枕の雲の冷えともつかぬもの
陶枕に雲が描かれているのだろうか。陶枕の冷ややかな感触を、描かれている雲の温度と感じたか。家の内には陶枕があり、戸外の空には夜に冷えた雲が浮かぶ。窓から空を見上げると、頭下の陶枕の冷えは、空の雲の冷えでもあるように思われてくる。
さて、自分は何処に寝ているのか、屋内か、それとも空の真中に雲を枕に寝ているのだろうか。
月の暈ひらきつくしし通草かな
月の暈は「ひらきつくしし」だから、月を霞ませて空にぼんやりと大きく広がっているのだろう。通草は熟すと大きく開く。とろりとした灰色がかった白の中に、点々と小さな黒い種が浮かぶ。「ひらきつくしし」は通草の状態をも思わせる。
ここで月の暈と、通草の開いた実が重なる。月の暈が空の暗さと溶け合うさまは、通草の暗い白の果肉かもしれず、通草の熟した実から滴る甘い汁は、実は月の光かもしれぬ。
彫櫛の花喰ふ蛇も野分かな
彫櫛(えりぐし)に花が彫られている事は判る。問題は蛇で、この蛇は花と同じく文様として櫛に彫られているのか、それとも櫛とは別に蛇は居て(櫛の文様の世界の外側に居て)、櫛に彫られた花を喰っているのか。
下五まで読むと、野分が出て来る。野分を行く人の髪に、花喰う蛇の文様が彫られた櫛があると読めば、日常の句である。〈櫛の紋様である花〉を喰う蛇が、櫛の外側に居るとすれば、かなり異様な句となる。中七の最後の「も」がそのまま野分に繋がると読めば、蛇は実は野分である、蛇は野分と化すとも、野分は蛇と化すとも読める。
蛇の正体はついに判然としない。文様の蛇なのか、現実の蛇なのか、それとも霊的な蛇が野分より変じ、再び野分と化して去るのか。
ゆふべより蛇をやしなふ水の秋
くちなはの来し方に日の枯れてゐる
餓ゑつくす蛇の眠りはみずのやう
蛇の句を挙げてみた。三句並べると、蛇は水によって生きているかに思えて来る。
一句目では、下五の「水の秋」で切れるなら、作者が蛇を養っているのだが、下五が上五中七と繋がるように読むなら、「水」または「水の秋」が蛇を養っている。
二句目では、枯れた太陽を蛇のはるか後方に置いて、太陽も、太陽が照らすものも、悉く枯れているような印象を抱かせる。蛇だけが自在にこちらへ来るのは、太陽の潤いさえも蛇が吸ったのか。
三句目では蛇は餓え尽し眠っているが、その眠りは水と類似している。蛇と水に親和性があるのは、両者の動きに依るのだろう。蛇も水も共に、その動きは自在だ。餓えが極限に達した蛇は、その眠りから水と化しても良く、水と化してもその動きは、今までの蛇にも増して自在だろう。蛇は本来、水なのか、水が変じて蛇となるのか、そんな想像さえも浮かぶ。
一月をうちあげられしうつぼかな
このうつぼは、一月という時節の霊性を背負って打ち揚げられていると思う。長く一の字に横たわっているのだろう。一月は神が関わるので荒々しさをも含む月だ。うつぼは、海の神の荒々しさと霊性を一身に体現して、陸へ来たのだろうか。
上五の「を」が利いている。これが「一月に」や「一月の」では単なる説明だ。「一月を」で、一月という時間が、まるで空間として認識されるかのような奥行きが出る。
大虚子の寒の見舞の字のそよろ
「そよろ」には二つの意があって、一つには「しずしず」、もう一つは「かすかな音」。虚子の間近に坐して、紙に筆を滑らす虚子の姿勢を写生した如く読める。虚子の嗜んだ能の足さばきのように進む筆先と、筆が紙に触れる音を同時に表現している。
大寒や見舞に行けば死んでをり 虚子
大寒の埃の如く人死ぬる 同
この二句を踏まえているだろう。虚子の句には、知り合いの死に対するとき山の如く動かず、凝っと観ている様を思う。二句目など、老子の「藁の犬」の喩えそのままだ。
掲句は虚子の内面、ほぼ動かざる水面の、微かな波のような思いを「そよろ」と捉えている。「大虚子」と、恬淡に言う処も良い。
虚子が稀代の大器である事に議論の余地も無かろうが、「好き」と言う人と同じくらい「嫌い」と言う人もいる。好きと言い嫌いと言うも、一つの感情の方向の違いに過ぎず(愛の反対は憎悪ではなく、無関心であるから)、どちらも虚子に揺さぶられている事に変わりはない。
「俳句はこの戦争に何の影響も受けませんでした」と言い切る虚子は、或る意味、善悪の彼岸にある。その虚子のおそるべき「大」を認めつつ、なおその筆先を「そよろ」と観た。
ひいふつとゆふまぐれくる氷かな
「ひい」は矢の飛ぶ音、「ふつ」は的に当たった音。この「ひいふつと」は平家物語によく登場する。諸本により「ひいふつ」また「ひやうふつ」「ひやうはた」等、擬音語に相違がある。掲句では、一番涼し気で、きりりとした擬音を用いたのだろう。
掲句は夕時であるから、那須与市が舟上の扇を射た話を敷いていると見た。夕べの沖より平家の舟が、紅に金の日を描いた扇を掲げ来る。那須与一が扇の要を射切って、扇は空に舞い上がる。
掲句であるが、これが「ひい」だけであれば、つるべ落としよりももっと早く、矢のごとく陽が沈むさまであろうが、「ふつ」と的に当たった音が来る。となれば、夕日にひらひらと舞い落ちる扇を思う。
夕空は天心の方から藍色となり、茜色が地平へと沈みゆくにつれ、藍は広がり降りて来る。その様を、金の日を捺した紅の扇が舞い落ちるように見たのか。
冬の夕闇の寒さを「氷」と手触りが出るように表現したのか。或いはいきなりの日没の、何かの射貫かれたような容赦ない感触、更に射貫かれた何かが落ちゆくような感触を「氷」と、硬い透明な物に喩えたのか。
氷は最初から情景の中に存在していて、夕間暮れという時間が氷に到達した、その瞬間の触感、氷が日没と共に本来の冷たさを取り戻す瞬間を、「ひいふつ」と示したか。
あるいは那須与市から離れて読むなら、矢が何かを射た、その感触のごとく夕間暮れが来る、とも取れる。夕間暮れ、とは夕暮れになって目の前が暗くなることであるから、何かに射貫かれたかのように、たったいま矢の当たった感触の如くに、言い換えるなら、作者が死に参入するが如く、夕の暗さが来るとも読める。
掲句の場合、「ひいふつと」なる擬音において、中心となり締めとなるのは、経過としての「ひい」ではなく、結果としての「ふつ」である。
先に那須与一の扇を挙げたが、平家物語で探すなら、鵺の射られた描写でも、兵の射殺された描写でも良い。その場合、「ふつ」には死が(即死しないなら生命の終わりの始まりが)、描写されている事になる。
氷とは何だろう。単に氷と言えば、氷柱や厚氷や氷面鏡などの諸々の氷の季語を一括りに代表する季語だ。気温の低下によってもたらされる、水の凝結した状態全てを表す。
ここでもう一度、「ひいふつ」なる擬音について考えると、「ひい」は矢の飛ぶ音、「ふつ」は矢が目標に当たった音。となれば、那須与一と扇のような例を除けば、大概、矢は奪命のために放たれ到達する。「ひいふつ」は、死をもたらした瞬間の音とも解釈できる。
自在に動く水が凝結し氷となる、それは生が死となる様にも喩えられるか。「ひいふつと」なる擬音により、この世からかの世へと移行する時間としての夕暮れを表したのか。
花の句を挙げてみる。死のイメージというよりは、かの世とこの世の間に漂うイメージ。「花」はそんなイメージを作者から引き出すようだ。
こもりくの田に遊ぶ狆花まみれ
「こもりく」は枕詞で「初瀬」に掛かり、四方に山の迫った閉ざされた土地と云う意味。初瀬に「身が果つ」(死ぬ)の意ありという。こもりくはまた、「したびの国」(黄泉)の枕詞でもある。
だが、田んぼで花まみれになって遊ぶ狆は平穏で優しい。この田も花も狆も、かの世に属するものだから、平穏で優しく描かれるのか。もしそうならば、その描写は、かの世に対する作者の願望、夢であろう。
「狆」は和製漢字と聞く。猫のように小さいことから犬と猫の中間にあるけものという意味らしい。となれば、狆自体が犬と猫の間を彷徨う獣なのだ。
花を焚くけむりが西へ秋の声
「西へ」行くのだから、煙は西方浄土を目指すのだろう。煙のたなびきを「秋の声」と観じ、花を焚く音を「秋の声」と聴いたのか。秋だから、この花は桜では無かろう。華やかなものが焚かれる寂しさが、「秋の声」に通じるのか。これが供花なら、淋しい安らぎを思わせる。
貼りつきし花びらの朱に蛭乾く
蛭は餓え切っていたのだろう。地面か石かに貼りついた花弁の、その朱を血と観ずるほど飢えて、朱に縋ったまま渇えて乾いた。花弁は蛭を載せたまま、共に乾くだろう。両者ともに紙の如く乾き切れば、やがて花と蛭の区別もつかぬ。
蜘蛛の囲に花の連なる涅槃かな
涅槃会が寺で行われていて、庭の隅に蜘蛛の巣が掛かっている。その巣に落花が引っかかっていると読めば、一応の写生句だが、実はもっと深く、涅槃へ至る行為を探っていると読める。
蜘蛛の囲に掛かるのは、蜘蛛にしてみれば、食い物である虫が一番有難い。掲句では花、恐らくは桜である。めでたさと死を同時に内蔵するこの花に蜘蛛が養われようとするなら、それが厳しくも涅槃へ至る景と見えよう。
「連なる」と詠めば、或る規則性を以て花が並んでいるようにも見える。蜘蛛の囲全体を、一つの曼荼羅と観る事もできる。蜘蛛が巣の中心に、空腹に耐えて鎮まっているなら、蜘蛛は仏になろうと試みているのだろうか。
花浴びの音うれしさよ甘茶仏
「花浴びの音」というが、降る花は音を立てぬ。掲句にある音は、誕生仏に甘茶を掛ける際の微かな水音だ。それを「花浴びの音」と聴き換えた。
この聴き換えにより、甘茶と花は、仏を讃えるものとして通じ合い、互いに変化する。花は甘茶であり、甘茶は花である。先に挙げた蜘蛛の句と合わせて読むと、感慨深い。
掲句は三つ切れ、つまり、「花浴びの音・うれしさよ・甘茶仏」と、それぞれ切れるのだろうか。嬉しさがどこに属するのか、この嬉しさを感じているのが、誰または何なのかが判らない。「音のうれしき」でも「音うれしけれ」でもない。「うれしさよ」という感情だけが、どこにも属さずに浮遊する仕掛けだろうか。
花びらを凍てのぼりゆく夢はじめ
この花を桜とすれば寒桜だが、桜と読んでも、何の花とも知れぬ花弁と読んでも差し支えないだろう。桜ならクローズアップされた景だ。
花弁がゆっくりと凍ってゆく、その経過の美しさを、「夢はじめ」と観じた。自身が眠りに落ち、夢が始まる有様を、花弁の凍りゆくように感じたのか。
眠りとは一旦かの世に入る事だ。この世とかの世のあわいに居て、花弁が凍りはじめるのを見ている。花弁のような瞼の裏の、静かな眼を思う。
「凍て」を名詞ではなく動詞と読む事も出来る。その場合、「凍てのぼりゆく」を、凍がのぼりゆくのではなく、作者が凍てながら花弁をのぼりゆく、と解釈する事も出来る。
湯瘦して蓮見のこゑの中に立つ
湯につかり過ぎ、湯あたりして痩せたのだ。痩せるほどだから、さぞ毒も抜けただろう。軽くなった、少し重心の定まらない身で、蓮を見に行く。早朝である。蓮見の人々の、俗世の声の中で、それらの声から、自分が少し離れているような思いで、蓮を観ている。人々は「こゑ」と認識されていて、その姿は描かれていない。作者の眼には蓮の花、極楽の仏の花だけが映っているからだ。
永き日の椅子ありあまる中にをり
上五の季語の、寂しい暖かな、だが昏さを内蔵した長い時の中、作者は椅子に囲まれている。「ありあまる」のだから、何処に座っても良いわけだ。「をり」とあるだけで、立っているのか座っているのかは判らない。座っていると読む方が安心する向きもあるだろうし、立っていると読んで希望を見出すも可能だ。
一つの「椅子」が、一つの事柄に対する一つの認識であるなら、「ありあまる椅子」とは、数多の異なる認識である。
外界の存在も、外界の事物と内面の事柄も、自在に揺れ動き、置き換えられ、融け合い、映し合う。言葉は蛇のごとく水のごとく自在に流れ、それぞれの事物の固有の領域を超え、数ある視差を渡り行き、多くの視点を同時に得ようとする。
そういう認識の仕方を表現してきた作者に、ここで良し、と座る椅子、腰を落ち着ける陣営は無いと思いたい。私は「立っている」と読みたい。ひとり立っている事こそが、詩人の特権だからだ。
ありあまる椅子の存在を認識しつつも、(椅子への着席によって得られる)どんなイデオロギーにもカテゴリーにも属さず、佇んでいてくれればと思う。吹かれ散らぬ海市のように、矛盾した存在として。その姿勢が未来には、この世かの世を包含する曼荼羅のような句群として、結実すれば良い。
安里琉太『式日』2020年2月/左右社
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