鏡像を探る
翻車魚ウェブにおける関悦史
竹岡一郎
最後に関悦史論を書いたのは2017年、彼の第二句集に対する論評だった。この六月に、久し振りに、その関悦史論を読み返してみた。私は作品至上主義者だから、俳人は書いた句が全て、と思っている。改めて読んでみて、私の選に間違いは無かった、と確信したが、肝心の論評の方は、今見るとあまり良い出来ではなかった。
その後、関悦史の句をチェックしていなかった。ネットで調べてみた。「翻車魚ウェブ」というブログで、2019年以降の彼の近作を見る事が出来た。胸に刺さる句を幾つか見出したので書く。今書いておかねば、間に合わない気がした。
問題集に倦みて冷房裡にぐねぐね
地にあれば猫を欲しぬ蛸壺は
あらゆるフライはタルタルソースの台座に過ぎぬ鱈に海老
いや、これらは胸に刺さる句ではない。こういう螺子を外した面白さは、やはり上手いなあ、と取り上げてみた。情景がはっきり見えるのは俳句の基本で、そういう句は妙に忘れ難い。これらは彼のサービス精神であって、読んだ私は和む。
亡き猫の来て頭突きせる春の夢
星合や死にて箪笥に潜みつつ
介護手すり祖母死後わが手に冷えぐらつく
寒夜の地震祖母亡き箪笥扉あきぬ
凍る書に取りまかれゆく寝床かな
この寂しさ、死者と隣り合わせに日々を過ごしている彼の危うさもまた変わらず、そんな中でやはり読書、人声ではない言葉だけが彼を支えているのだろう。だが、これらもまた違う。胸に刺さるのは、次からだ。後半になるほど、私には刺さる句となる。徐々に挙げてゆく。
線路は聖なる魚の涼しさ人飛び込む
線路を敢えて魚に例えるなら、全長が途方もなく長い魚、町々を縫って泳ぐ魚、そして何よりも骨だけの魚。それを「聖なる」と形容し、涼しいと感じる、その危うさ。
または線路を川と見て、そこに泳ぐ幻の魚を「涼しさ」と感じて憧れるのか。粘っこく暑苦しく煩い人間たちの犇めくホームに疲れ果てて。
人が飛び込む。町々に人をつなぐ線路を、死を運ぶ魚と見て、その魚を「聖なる」と、肉体を超えさせるものと誤認して惹かれるように。または線路という流れに泳ぐ死霊たちを「聖なる魚」と見て、自分もそうなりたいと思って。
近所の線路は良く人が飛び込んで、血溜まりに砂をかけていたりしたものだが、血は砂に直ぐ染み渡り、あらわになる。砂以外に散っている物、もはや人ではない、ぐちゃぐちゃな塊も、線路を染める。
「人」とある。「我」ではなく。「我」と書かなかった事に取り敢えず胸撫でおろすが、「人」から「我」までの距離はどのくらい遠いと感じているか。
黒靴は食へぬと囲む海月かな
海月が囲む場所は海上だろう。では、浮かんでいる黒靴の主は何処にいるのか。食えるものとして海月が食ったのか。「海月」と書くなら、対称として空には月が出ているか。月光に霊魂の如く仄光る海月は、本当に海月か。
絶家の墓石は山積みに捨つ秋野へ延ぶ
死者の側から読むと、胸に刺さる句だ。もはや跡を継ぐ者がいない、当然墓参りをする者もいない、そんな墓石に一杯に詰まっている者達は、行き処のない無縁仏だ。それらが山積みに捨てられている。そうして秋の野を埋めてゆく。どうしても秋の野だろう。なぜなら、今はまだ寂しいだけの秋野には、冬が控えている。無縁の霊には極寒が控えているものだ。
棄てられた墓石は回収され砕かれ、コンクリートに混ぜられて、ビルの素材となるから、林立するビルには一定の割合で墓石が入っている、と聞いた。無縁の魂が、生者の棲家の素材となる。
観音なき千手のたうつ春の闇
本体の観音という救済者がいない千手は、目的も無ければ意志も無い通力の群だ。観音が本来居る筈の中心は、今や周囲と同じ春の闇で、春らしく欲望の温さが詰まっている。故に千手の通力は暴走する。欲望を叶えようとする千手を、闇に抗して統御する者がいないからだ。
廃アパートに幼児吾ぞ死ぬ小春かな
これを置き棄てられた幼児のように死ぬ未来と解するか、或いは、既に幼いころ置き棄てられて死んでいた過去と解するか。だが、過去と取りたい。「廃アパート」とあるからだ。今は人を拒むアパートに死んでいる幼児、それが自分だというなら、とっくの昔に死んでいた自分の振りをして今生きている自分は何だ。
今から四句挙げる。順にひもといてゆく。
夏雨は非在の母として降りぬ
母は不在になったのではなく、最初から非在であるが故に、その一粒一粒が涼しく作者を濡らす。その涼しさとて幻想だ。母が非在なら、此処にいる自分もまた非在だからだ。非在だと諦めがつくなら、雨に涼しい顔をして、何とか明日を迎えられる。
雷に覚め大雨に老い胎児に帰る
夏の大雨はしばしば雷を伴う。雷に、この世に引き戻される。老いが、子供返りをする事なら、雨の轟音のひとときの間に老い尽くして、人生を巻き戻したい。巻き戻し尽くして、未生ぎりぎりのところまで、生物の進化の歴史を逆に辿るところまで帰り尽くせば、或いは人類としての罪を巻き戻せるだろうか。原罪を無かった事に出来るだろうか。
空蝉の代はりに話す私かな
そして「私」は空っぽなのだ。なにものかが既に羽化した後に、遺された抜け殻に過ぎない。せめて空蝉の代わりを演じて、何か言葉を使って「話す」という行為をしているだけ、希薄な体の内外に空気を出し入れしているだけだ。
象(かたち)あることを悲しめ冬あかつき
「象(かたち)あること」と言う。なぜ「形」と、または「容」と書かなかったか。この「象」を読んでみる。一つにかたち、ありさま、一つに易に現れたかたち、即ち運命、一つに道理の意がある。この「象」は、何よりも作者自身の「象」だろう。人間は自分に基づいて世界を認識するからだ。作者自身の形、有様、運命、そして自らがある処の道理を悲しめ、と自ら言い聞かせている。冬の闇に凍てて、「象」を忘れて眠っていたのに、容赦ない暁に曝される。
今挙げた四句の延長に、もう一度、「廃アパート」の句を置こう。私はこの句を、胸に突き刺さるが故に、繰り返し挙げたいのだ。
廃アパートに幼児吾ぞ死ぬ小春かな
しかも小春である。冬の寒さの中のほんの数日、温かい日差しが恵みのように降る日に、その恵みも間に合わず、自分は死んでいる。その日から一体、何十年経ったか。そう読む事が出来る者は、読むが良い。
立入禁止のテープを潜り、鍵のかかっていない薄い扉を開け、腐りかけ膨らんだ畳を沈ませながら踏んで、染みの浮き出た壁、その壁に僅かな影を落として置き棄てられた家具と、汚れた玩具を二、三、侍らせて死んでいる子供を見るが良い。
窓からの小春の日差しの中に身を置き、死んでいる幼い自分を見ている作者の背後に、立つが良い。
私は立つ。転がっている幼児の瞬かぬ目を見ている作者の眼も、また瞬かず、作者の丸まった背を見ている私もまた、まばたきしない。
鏡と鏡砕けあひたり水涸れたり
一切の事象は、己の鏡像なのだ。己が恋焦がれ愛する対象、己が怒り憎み怨む対象、それらは己の内面であり、己の運命を決定する因子だから、対象をよく観察すれば己の正体が解り、己の運命が解る。これは全ての人に当てはまる事だ。
鏡像は左右が入れ替わっているから、自分とは違うように見えるだけだ。それは相手にとってもそうだ。人はみな合わせ鏡の如く立つ。相手の運命に自らの運命を映し、自らの運命が相手の運命を映す。
鏡と鏡がぶつかり、砕け合い、砕かれ合う。もし鏡一枚のみが、鏡それ自身を何処までも映す事が出来たなら、鏡は己が鑑となったかもしれない。
だが、砕けた鏡は沢山の破片となり、その一つ一つの破片がまた互いを映す。凍ては増し、水は涸れ、乾きは渇きとなって、破片たちはもはや自分らが何を映し、何を欲しているか、分からない。小さくなればなるほど、その時々の衝動を反映させているだけだ。
自らの海溝に沈む怨恨と悔恨を隅々まで照らし見、それらがどこから生じたか解析する。その作業無くして、どうして外界を如実に観る事が出来よう。これもまた、全ての人に対して言える事だ。そして先に掲げた「廃アパート」の句は、自らの海溝を照らす一歩ではないか。
この先に、あと一歩、あと少し、それからもう一歩。生きてさえいれば、一歩は踏み出せる。関悦史の第一句集の帯文として、安井浩司はこう書いた。「何が倒れ、何が血みどろになっているのか、それを見届けるのが作者の念願でもあろう。」
更に一歩踏み込んで、私は問おう。外界ではなく関悦史の内界の何が、絶家の墓石の如く倒れ、線路の如く血みどろになっているのか。本当は何が、久しく血みどろのまま置き棄てられてきたのか。そして関悦史がこれからも夥しく書くだろう句群の、その僅かなりともが、彼の内なる地獄を破る願文となれ。そう願うのだ。
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