【週俳2月5月の俳句を読む】
いいんじゃない
竹内宗一郎
たった十七音前後なのに、その内容はというと、重~いテーマのものがあるかと思えば、軽やかなテーマのものもあり、いや、テーマなんか無いんじゃないかというような内容でリズムや言葉を楽しむ作品もあって、印象も様々。そこに俳句の広さ、深さ、魅力があるのではないでしょうか。人々が決まり事だと思い込んでいる規則的なこともあるにはあるけれど、そんなことに捉われない、いろんな作品があっていいんじゃないかと思っています。そして各人の好みに応じて作品を読めばいいのです。それは、自分の意思で、好きな分野の好きな著者の書籍を読んだり、好きな分野の好きなアーチストの音楽を聴くのと一緒だと思うのです。
箸乾く餅の貧しく付きしまま 工藤 吹
乾いた箸に残っている餅。そんなところに注目するところが如何にも俳人らしい(褒めて言ってます)。しかも「貧しく」の形容が適確。一見「貧乏俳句」かと思わせてそうではない。この貧しさは経済的な貧しさではなく、まさに見た目の形容。この言葉の選択がこの句の魅力。時間の経過を逆に遡っていって餅を食べていた時のことなども思い起こさせてくれる。面白い句だ。
春雪や触れたることのなき手摺 阪西敦子
春雪の「春」の語感がもたらす明るい感じ。しかし、足もとが滑りやすくなっている。これまでまったく意識したことのなかった手摺に頼らざるを得ないような状況になったのだろうと想像した。俳句はものに語らせると言うが、余計なことを言わないことが様々なことを想像させて味わい深い句になっているのだと思う。
早春の犬の白さや吹かれけり 同
「や」「けり」である。しかも上五の「や」ではないから、中七下五にいわゆる「抱え字」もない。うれしくなる。俳句には勝手に多くの俳人が違法と思い込んでいることがある。でも文学に、いや世の中に絶対なんかない。かつて「天為」誌に有馬朗人主宰が切れ字の併用について書かれていた。「や」「けり」の併用は蕪村、芭蕉にもある。一方、「や」「かな」については全く無いと。何故そうなのかは思い出せないが、この句は「や」「けり」。早春の犬の白さ、そこで一旦切れることで、季節と色彩を強く印象づけ、さらに「吹かれ」でそんな季節の風を読者に思わせ、覆いかぶさるように「けり」で更にイメージを強くすることで余韻を残す。実に巧みである。
おぼつかなくて虻の複眼にばらける 福田若之
「おぼつかなくて」が面白い。虻の複眼を出してきたところも着想非凡だが、さらに「ばらける」で、見事に決まった。上五が「おぼつなくて」だから、はっきりしない、あやふやである、心もとない、ぼんやりとしている、気がかりだ、不審である…等々、色んなふうに読めるのだが、昆虫の複眼各各に映っている頼りなげな私、みたいな感じがあって、とても愉快なのである。
しやぼん玉割れてあくびの涙ほど 山口優夢
上手い、と唸った。一瞬のシーンを切り取る、その視線にも切り取り方にもセンスが感じられるが、それを如何に表現するかで更に佳句となるかどうかが決定する。「あくびの涙ほど」には参った。この喩えは、なかなか出てこない。脱帽だ。
タンバリン抱きカラオケのおぼろなり 同
ナマな俗。コロナ禍の現状からすると、少しノスタルジックな感じがしてしまう。感染症が気になってなかなかカラオケなど行かなくなってしまったから。筆者自身は、この句から平成のサラリーマンの悲哀など感じてしまう。これは自分自身の経験から。「おぼろなり」がいいですね。
服を着て佇てり〈準備中〉の檻の前 山田耕司
「桐生が岡動物園にて」というタイトルの十句の中の一句。他の作品は、園内の動物が詠み込まれていて、各々工夫があって面白いのだが、この作品はその中にあって少し異質。まず檻が〈準備中〉であるということのリアリティ。そして詠み込まれている動物が服を着て佇んでいる「人間」だというところが二重の仕掛けのようで魅力的。檻のむこうとこちら、どっちがどっちで一体私たちは何なのだろう。
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