2023-05-28

竹岡一郎 天上火という始点 櫻井天上火を読む

天上火という始点
櫻井天上火を読む

竹岡一郎


令和四年の第六回芝不器男俳句新人賞の一次通過作品、去年は色々あったせいで、とても全部読む気力が無かったが、一年経った今、漸く思い立って全部読んでみた。田中泥炭が本賞受賞した事は、安定した詠み振りから、今読んでも特に異論は無いが、芝不器男という作家の早熟性を踏まえた時、最も果敢に挑んでいる応募者として、櫻井天上火に瞠目した。抜きん出ていると思う。幾ら論じても論じ足りない気がする。

1

眼奥の昏きを隔ち羽音くる   櫻井天上火
(以下、無記名は全て作者・天上火)

眼球の奥にあるものは網膜だが、網膜はスクリーンであって皮膚の外の現実を脳内の幻想に変える役割を果たす。昏いのは網膜だろうか。光を展開させるもの自体は、必然として昏くなければならない。その「昏きを隔ち」来る羽音は、音だから観えないのは当然として、光の塊だから却って観えないのではなかろうか。ならば、この羽音も炎天の如く昏い。

羽音を認識するのは、耳の鼓膜と鼓膜の背後の蝸牛だろうが、その鼓膜という壁と蝸牛から、現実を幻想に変える網膜までの距離は如何ほどか。音として聞く認識と、色として見る認識の、その間の距離は如何に。

海百合の頸吊の木のえくれえる

海百合という棘皮動物は、結構這いもし舞いもし、一番近い形状と言えば羽箒だ。「頸吊の木」というからには、それにぶら下がっているものがある筈だが、この句からはそんな雰囲気は無く、むしろ海百合自体が頸吊という状況を模しているように思える。

えくれえる、とは稲妻なのだろうか。エクレール・オ・ショコラ、いわゆるエクレアは、割れ目が稲妻、焼く音が稲妻、一瞬で食べられてしまうから稲妻、等々、諸説あるが、掲句の場合、「えくれえる」は海百合に属する、又は頸吊の木に属する。そして頸吊の木は海百合に属するから、やはり海百合の形状、そして動き、そして縊死を孕んだ海百合の心、それらが稲妻の如く速く、ギザギザに割れ、轟き光り、そして垂涎の的であるというのか。

この句の中心に位置して他の語を統べるのは、海百合でも「えくれえる」でもなく、「頸吊」だと思う。他の全ての語が「頸吊」という語に奉仕していると見れば、絞首刑の体から滴り落ちる精液がマンドラゴラを生むように、海百合が生えて辺りは忽ち海底と化すようではないか。

リズムが良い。この場合のリズムとは、単に音のリズムだけではなく、景のリズムでもある。

切株やあるくぎんなんぎんのよる   加藤郁乎

とりめのぶうめらんこりい子供屋のコリドン  同

を思わせる。但し、加藤郁乎の句よりもずっと暗い。海百合に象徴されるように海底の闇であり、海底における縊死を一瞬、何処から来るともなき稲妻が照らす。

接続に無があれば飛ぶ垂直の鳥

「垂直の鳥」は本来飛ぶはずではなかったのだ。切岸が飛ばないように「垂直の鳥」も飛ばない。その鳥の飛ぶ奇蹟が生じたのは、接続に無があったから、無が生じたというべきか、最初から接続しそうで接続できないという焦燥があるからか。ジャコメッテイの「吊り下げられた球」(1931年製作)という彫刻を思い出す。球は吊り下げられている。球には溝がある。球の下にはバナナ状の物がある。真横から見ると、太陽の直ぐ下に半月があるように見える。球の溝である凹面と、その下にあるバナナ状の稜線である凸面は、どんなに球が揺れ動いても、接触しそうで、しない。無という接続がある。

掲句に戻ろう。その無の跳躍板(スプリングボード)として、或る暴力があり、鳥は地上に垂直に墜ちる代わりに垂直に天を目指す。鳥の方向性を真反対にする力、重力を真逆にする力、暴力に対抗する鳥の「暴力の核」、鳥は地表に砕かれも押しつぶされもしない。代わりに接続にある無を求めて、または無になり替わろうとして、巨大なモノリスあるいは光の柱を模するごとく飛ぶ。

80年代、学生の頃に何十回となく読んだ本を思い出す。ジャコメッティの書いた本だ。《どんな場合でも、私が一番感動するのは、鬱勃とした暴力(ヴィオランス)が感じられる彫刻だ。彫刻の中にある暴力が、感動させるのだ。
その形態はまるで人物の形態そのものが、常にその人物のありようを凌駕しているかのように、まことに鬱勃たる暴力を内に秘めているのだ。しかしまた、彼は、何よりもまず、いわば暴力の核なのだ。他の点からいっても多分そうなのだ。彼が実存しうるという事実そのものから彼が実存し、砕かれも、押しつぶされもしていない、という事実そのものから、そうなのだということを私は是認出来ると思う、彼を倒れずに支えている力が必ずあると私には思われる。》(「ジャコメッティ 私の現実」130p-131p 矢内原伊作・宇佐美英治 編訳、みすず書房、1976年)

本から目を挙げて窓の外を見ると、雨は切岸のように、景色は無へと成長するように、そして鳥はいつも垂直に飛ぶ。鳥を倒れずに支えている力が、鳥を垂直に飛ばす。だが、ここで「暴力の核」と呼ばれるものは実際には、暴力とは似て非なるものだ。

それは人体に喩えるなら、下腹部にあるエネルギーの車輪、地を具現するもの、もっと言うなら神性の荒々しさを思わせるもの、或いはモーハ、暗黒と呼ばれるもの、つまりは何が何でも存在しようとする万物の意志、「接続の無」に抗し、重力に抗するもの、だがそもそも無も有も絶えず入れ替わる概念に過ぎず、鳥はその空性(くうせい)を翼に沁み込ませているから、空(そら)を目指す。

夜汽車よお前は眠りから想像まで貝を運ぶ

眠りは無意識の奔流であり、想像は意識して見る非在の奔流であろう。夜汽車であるから、もはや殆ど走っていないもの、夜汽車なる存在自体が今では既に、ほぼ眠りに突入し想像を走る。だから、「眠りから想像まで」のフレーズは夜汽車を滑らせる線路の本質を表していると読んだ。「眠り」という駅があり「想像」という駅がある、わけでは無かろう。夜汽車の窓を過ぎるあらゆる表象が駅である。

或いはこの「想像」とは、殆どの人にとって生きている間は想像しか出来ない死後かもしれぬ。眠りとは一旦死ぬ事だからだ。ならば、夜汽車が崩れ落ちるまで貝は恒久に運ばれてゆく。硬く己を閉ざしたもの、柔らかい内臓自体に充足し沈黙するもの、作者が独りなら貝も独りであろう。夜汽車よ、と親し気に呼びかける声は、独りから発する声でなければならないからだ。

眠りも想像も果てがあるようで果てが無い。それらに果てが無いなら、貝が口を開く事も無いだろう。電車または汽車に乗る夢は、死への誘いである。夜汽車なら尚の事、長夜という果てしない輪廻をひた走る。

海のなかへ電車がはいるまでねむる  阿部青鞋

貝のほか飛ぶもののなき時間かな  同

貝が死ぬもうしばらくの音楽よ  同

を思った。それらを踏まえているのかも知れない。

光線消失火に向う老犬が非時の躍動へ帰る

老犬には時間があまり無いのだ。だからこそ「火に向う」。老犬の目には火がきらめいているだろう。非時(ときじく)の躍動とは不老不死の永遠の躍動であって、老犬とは対極にある状況だが、だからこそ老犬の背後には、ときじくの躍動がある。対極のものは引かれ合うからだ。

ここで老犬が火を纏い不死となるとも思えるが、肝心なのは「光線消失」で、光線は此処ではないどこかに行ったのだ。老犬は光線を取り込んだ、とも見える。あたりは暗黒だ。光線が無いのだから、当然、向かっていた火さえも無い。だが、「失火」なる語、「過失から火を出す事」も句中に隠されている。火は、此の世の理(ことわり)の過失の結果か、老犬の眼奥にある。それが、ときじくの躍動だと言うならば、もはや老犬自体が、ときじくの具現化で、老犬は老犬自身に帰るが、同時に、ときじくそれ自体でもある。

なぜ他の動物ではなく犬なのか。これが猟犬ならば火を恐れない。だから、老犬は優れた猟犬であったと思われる。焚火は老犬にとって懐かしい記憶であろう。

移気の空木の不死の少女性

空木、卯の花とも言う。日本人には馴染み深い。枝の内が中空なので空木という。内が中空の木は神に関わる木だ。虚ろ舟を思わせるからだろうか。その中空に何か宿るのだろう。

「不死の少女性」とは絶妙な表現で、神は移り気であり少女は「妹の力」を宿す巫女であり、少女が移り気なのは神性の表出とも見える。掲句の四つの名詞は互いに補佐し合い連環して、日本の神の性質を言い留めている。

2

始点にして真円pommeがhommeを曳く

pommeは林檎(仏、女性名詞)、hommeは男または人間(仏、男性名詞)、林檎はアダムとイヴの原罪の始まりを思えば、その役割は明らかだ。それが創世記における人類の始点であるのはわかる。「始点にして真円」なる状態が「pommeがhommeを曳く」と読めば、罪を知って初めて真円となるのか。始点以前が真円であるなら、罪を知らざる時が真円であった筈だが、掲句はそうではないと言うのか。

「明日世界が滅びるとしても林檎の木を植える」とは宗教改革者ルターの言葉だ。この場合、林檎とはカトリックの立場から見た罪を表すものだろうが、新教にとっては革命だ。林檎という女性性が鈍重なる男性性または鈍重なる肉体を曳いて、世界を知るという罪も死を知るという悲しみも得て、初めて真円が始まる、と読む事も出来よう。

但し、ここでhommeを原初の人アダムと解釈するなら、事は厄介となる。その身体が星気(アストラル)体ないしは光体で出来ていたアダムと取るならば、《彼の内部には、上位の諸潜勢力が、たとえ下降時に屈折し弱まっても依然よどみなく流入しており、このためすべての世界の生命を小宇宙として映し出している。彼に課せられた仕事は、瞑想と精神活動の総力をあげて、まだ流謫の状態におかれたままの「落下した火花」を自分の内部より掬い上げ、すべて適切な場所に置きなおすことにあった。》《ところが、アダムは使命を果たさなかった。この不首尾については、ここでもまた多様な象徴で描き出されている。たとえば、時期尚早にすぎた男女の結合といった象徴、あるいは楽園の植物の蹂躙、木からの実の切断といったような、すでに昔のカバラ主義者たちも用いていた象徴である。》《アダムの堕罪は、神智学的次元で器の破壊が描き出す過程を、もう一度人類的な次元で繰り返す。》(ゲルショム・ショーレム「カバラとその象徴的表現」159p、小岸昭・岡部仁訳、法政大学出版局、1985年)

更に「タルムード」の「アガダ―」によれば、《宇宙全体を満たすアダムの巨大な大きさは、堕罪後はじめて、いぜんとして巨大ではあるが、人間の大きさに縮小されたのだという。元来は宇宙の大きさをもっていたこの地上の存在の像には、ふたつの表象が確認される。そのひとつの表象においてアダムは、宇宙神話の巨大な原存在のように現われ、いまひとつの表象においてこの寸法はむしろ、アダムのうちに圧縮された、宇宙全体のもつ力の包括的な表現として現われている。》(同前、224p)

以上の長い引用を以て読み解くなら、掲句の「始点にして真円」とはアダムの堕罪以前の姿であろう。pommeは、《物質的な悪魔化した自然界の奈落への転落》(同前、159p)の象徴としての林檎であり、転落という状況を林檎という物質に置き換えたものだ。hommeは「土から出来た人間」或いはゴーレムであり、しかし《アダムは地と神の「永遠の象徴」として、「彼らの愛の封印および記念碑」として現われるのである。》(同前、227p)

ならば、「真円」とは、堕罪以前以後に拘わらずアダムの本質、そしてアダムの運命の軌跡という事になる。末尾「曳く」とは、アダムから始まる人類の流謫である。その流謫の軌跡自体が、結果として、真円を描くとするならば。(アダム以前の存在である)アダム・カドモンからアダムへ、更に現在の矮小な人類に至るまで繰り返し描かれる真円、それを東洋に当てはめれば「輪廻の輪」となろう。「苦の本際を知らず長夜に輪廻する」。輪であるから果てが無い。果てしなく流謫する。

舞台の真円軌道には歪みが答えよう

先に挙げた「真円」の象徴を以て解釈するなら、この舞台とは現人類以前の始点から現在に至るまでの過程であり、軌道とは流謫の有り様であり、「歪み」を真円の歪みと取るならば、この歪みの結果は楕円である。或いは林檎と取るか。

膣の楕円に沈めば月桂樹〔ローリエ〕が勃つ

月桂樹をダフネと取るなら、アポロンの求愛を拒んで樹木に身を変えた娘であり、また桂冠詩人の名誉を思うなら太陽に愛される詩人だ。「勃つ」とは勃起と見る。冒頭に「膣」とあるから、詩と性愛とその拒絶された落胆と、またしても真円の歪みの結果として、楕円。

手淫の上昇を帰して観音は・・・・・・開く!

或る時代、或る地方の者達にとっては、郷愁を誘う句だ。観音開き、又は御開帳といえば、ストリップの用語で踊り子が大股開いて陰門を見せる事。「さあ、御開帳!」という掛け声が昔は入った。「観音様の御開帳!」とも言った。

円形舞台の踊り子を囲んで、観客は己が股間に、寂しく熱い手をやる。拍手は無く、代りに息を呑む音が渦巻く。(掲句中の「・・・・・・」を、息を呑む沈黙と読んだ。)踊り子はその登場の初めから既に観音であった。御開帳に至って踊り子は谷神または玄牝の権現となる。

円形舞台の周囲には敬虔なる信徒達が瞬きもせず、息もつかず、一様に仰向いて犇めく。踊り子は、彼らの欲望の息と液の「上昇を帰して」、舞台の真円の核に展き、たおやかに神秘を啓く。

これは昭和の、まだバブル期に入る前の物語、中学校の通学路の横にストリップ劇場が堂々と建っていた頃、裏口はなぜか開いていて詰襟のまま客に紛れる事も出来た時代の、優しい逸話だ。それ以外、掲句に聖性を見出す読みがあるだろうか。

古遊戯や廻る花天のrivière

rivièreは仏語の川、特に「他の川に注ぐ川」という。「古遊戯」は古い遊戯だろう。「廻る花天」と相俟って、大正浪漫の香りもする。「廻る」は「まわる」と読むのか、「めぐる」と読むのか。「めぐる」と読む方が良いような気がする。「廻」の偏は、歩いて回る意を示すからだ。そして「廻」の意にあるように、もとへ還る。

花天を「満天の花」と読めば桜だが、「花天月地」なる語が隠されていると読むなら、花咲き乱れ月の光が地を照らす春の宵となる。ならば「廻る」の語に、月の運行が隠されていると読む事も出来よう。廻るのが月であれ、人あるいは作者であれ、(または前出の句の踊り子であれ)、もとへ還るのならば、それは古遊戯へと還るのか。これを懐かしい遊戯と取らずに、原初の遊戯と取るか。川が流れている。主流へと注ぐ川だ。「月地」を昏く煌めいているのか。或いは満天の桜に、細い川が、幻のように映っているのか。

「めぐるかてんのリヴィエール」とは、めくるめくリズムだ。イメージの惑乱の句であり、その繚乱こそが古遊戯であると言うかの如し。そしてこの繚乱の描く古遊戯の軌跡は、たぶん「真円」を「廻る」。

蜜蜂telepathこおりの星は鎖骨あたり

蜂に限らず群れを成す昆虫は、群れとしての統一した意志があり、群れ全体で一つの個体だ、という説を読んだことがある。

蜜蜂という種の在り方をtelepath(精神感応)と表現するなら、我々の体もまた60兆の細胞が互いに精神感応して動いている事になる。実際、細胞はそれぞれ記憶を持つという。

前半の「蜜蜂telepath」は後半の「こおりの星は鎖骨あたり」の状況と符合していると読んだ。だから、鎖骨あたりに「こおりの星」があり、体の各部位の星々は蜜蜂の如く精神感応し合っている、という読みも可能だが、鎖骨という或る意味エロティックな部位に注目するなら、眼前の女性の鎖骨を思いたい。

女体に浮き出る骨で、最も艶然たるは鎖骨であろう。男体ならば、艶然たるは指の骨か。蜂の中でも愛らしい蜜蜂は春の季語だから、春の愛らしい鎖骨に「こおりの星」がある。「こおりの星」は彼女の心であり、作者を冷たく見下ろす星だ。彼女は一言も発しないが、その星の心が作者の胸中に響く。即ちtelepathである。

落ちる(風鈴の闇に手足や寝るをんな)襤褸

括弧内の句だけでも充分に美しい。寝ている女はその白い手足が闇に浮かび上がっている。夜風に軒の風鈴が鳴る。縁側のある家の、その縁側の奥の闇に白い手足が伸びている。だが、それを見る視線までをも詠いたい、その欲望が掲句の如く成ったのだと思う。

「落ちる」と「襤褸」の間に風鈴の句があるから、括弧内の艶なる景を裡に抱えて、落ちる襤褸がある。「襤褸」とは、寝ている女と比較した時の表現で、襤褸は作者の自画像と見る。落下する久米の仙人を思ったりもする。括弧内の景と比べて如何にも滑稽で情けない。そこまで詠わねば納得できない作者はどうも正直すぎる。

3

赦されざる(氷片にspermaは南中する)赦しを!

sperma(種子、精液)が命中ではなく、南中と書くところが謙虚でよろしいと思う。南中、即ち天体が真南に来る事を考え、この天体が太陽ならば時刻は正午だ。種子または精液は、天を巡って子午線を通過する、その瞬間、天地の間の遥かな距離を超えて、氷片との決定的な関係が生じるのではないか。この場合、氷片は地上にあり、南中するspermaを観測しているのか。

前掲句の「こおりの星」がちらつくのだが、星もまた或る時点で南中する。spermaは星なのだろうか。となると、spermaの白という色の冷たさと、地上の氷片が親和する。

括弧の前後、「赦されざる」と「赦しを!」の状況の変化について考える。「赦」という漢字を使っているから、出来事の背後には罪がある。括弧内の出来事が起きたから、「赦されざる赦し」を乞うているのか。spermaに罪があるようにも思えるが、括弧を除ければ、つまり枠あるいは障壁を取り払えば、「赦されざる氷片」に「spermaは南中する赦しを!」となり、氷片にも罪があると読める。氷片とspermaとの間の遥かな距離を思う時、恋とは良いものだ。

陵墓の虚空に南中の繭[コクーン]を置こう

陵墓とは高貴な者の墓、その虚空は墓の内部と読んだ。虚空とは、陵墓の意志が充填している陵墓上空かも知れない。そこに南中の繭はある。

虚空とコクーンで韻を踏んでいるなら、虚空は繭の謂かもしれぬ。繭の内部では肉体が一旦分解し再構成されようとしている。繭の中は生と死の間に在る。南中、地上から見た時のその天体の絶頂の位置、繭は生死の間の絶巓にある。陵墓の意志である死者の魂は、絶巓の繭中にある。

「置こう」とあるから、その絶巓に陵墓からの黄泉がえりを企図するのは、作者だ。禁忌の咒を使おうとするのか。

王権をふたなりの鹿走り過ぎ

一角獣の偽史にふたなりを末裔する

神の使いのように、アンドロギュノス(両性具有)である鹿が、完全なる性の奇蹟として地上を過ぎる。王に王権を与えるためか。キリスト教の神は完全だという。掲句の「王権」には王権神授説を思う。神に与えられた権利だから完全にして神聖だという説。「走り過ぎる」のだから、いっときの栄光として神授はあるに過ぎぬか。

一角獣にモローの絵「一角獣」を思う。島にくつろぐ一角獣達と貴婦人達、一人はほぼ全裸だ。一角獣は処女にのみ懐く。問題は「偽史」であるが、一角獣に象徴されるものが常に偽史を形作って来たと読むなら、その偽史が「ふたなりを末裔する」、両性具有の血統を相続し続けることになる。偽史とは必ずしも偽ではない。例えば王権から、偽と断じられた史実の事だ。貴いものは封じられるのが、此の世の常である。

小説家であり魔術に傾倒したぺラダンは、レオナルド・ダ・ビンチを最も好み、ヨーロッパの退廃を芸術で防ぐべく薔薇十字展を開催、しかしモローは遂に出品しなかった。

レオナルドの微笑をうつろぶねに流す

レオナルドの微笑と言えば、それはレオナルドが希求した微笑を思い、そしてモナリザの微笑はアンドロギュノスの微笑に通じる。完全なるものの微笑か。

プラトンの「饗宴」におけるアンドロギュノスは、月から来た男と女の性を両備する者、二つの頭と腕と脚が各々四本ずつ、男性器と女性器を備え球状の体で回転しつつ移動する人間で、ゼウスに真っ二つに裂かれるまでは完全だった。それ以来、人間は半身である。今の人間の不完全な在り方を、神に裂かれた結果と観るなら、完全を夢見た微笑は虚ろ舟に乗せるしかないか。

赤はグラネロを垂れて牡牛座のAとなり

牡牛座のAとは、Aldebaran(アルデバラン)だろう。牡牛座の目の位置に輝く赤い星だ。掲句の冒頭の「赤」は、ゆくゆく星になるのだと分かる。問題はグラネロで、これが分からない。ネットで引いてもサッカー選手の名が出て来るだけだ。しかし、どうも人名らしいとは思う。赤と牡牛座とグラネロ、この三つに動かない絆があるように感じる。遠い昔に何処かで読んだ記憶がある。

魍魎たちを掻き分けて記憶を探り、唐突に思い出す。「眼球譚」だ。バタイユがロード・オーシュ(便所神)という変名で書いた小説。調べてみた。眼球譚の或る一章、「闘牛士の眼」に登場する闘牛士の名がグラネロ。久しぶりに眼球譚を読み返す。

主人公のシモーヌは闘牛を観戦しながら、牛のなまの睾丸を自らの陰門に押し込む。闘牛士グラネロは牡牛の角に右眼を貫かれる。「恐怖に打たれた闘技場のどよめきはシモーヌのオルガスムスの瞬間と重なり、石の座席から腰を浮かすと、そのまま彼女は仰向けにぶっ倒れてしまった、鼻血を垂らし、目くるめく日光に体をさらけ出したまま。直ちに人々が駈け込み、グラネロの死体を担ぎ出した。死体の右の眼は頭蓋からダラリと垂れ下がっていた。」
(「マダム・エドワルダ」161p-162p、生田耕作訳・角川文庫、昭和51年)

眼球譚においては、玉子、眼球、睾丸が連環し、それらの球体を入れるものとして陰門と肛門が示される。これを前提に掲句を解釈するなら、牡牛座のAは単にアルデバランだけではない。anus(肛門)であり、amour(愛、恋)である。

アルデバランは牡牛座の右眼に位置し、グラネロの死体から垂れ下がるのも右眼である。

赤はグラネロを垂れて牡牛座のAとなり

最初から解析しよう。赤は牛を昂らせるもの、闘牛士の武器、絶命するグラネロの目からの血、ぶっ倒れるシモーヌの鼻血、それら全てが「グラネロを垂れて」、この「を垂れて」には二つの見方がある。一つには「赤」がグラネロの屍の上を垂れる、もう一つは「赤」がグラネロを吊り下げる。グラネロのためには後者と取りたい。

「赤」はグラネロを吊り下げつつ、どこまで昇ってゆくのか。牡牛座のアルデバランまでだ。そこまで行けば、グラネロの屍、特にその垂れ下がる右眼は、牡牛座のアルデバランと重なり融合する。殺されるべき牡牛と殺すべき闘牛士、実際には殺された闘牛士と殺した牡牛が、星座として融合する。

シモーヌの鼻血と陰門と肛門に彩られて、牡牛座の右眼=グラネロの右眼は、種子を生む睾丸という器官、卵という受胎の結実の要素を兼ね備える。それらは星々の栄光を得る。

こういう物語がキリスト教の生んだ暗黒の伝統として、絶えず現れる。カミュの戯曲「カリギュラ」中の、カリギュラの台詞を思い出す。
おれは天を海にぶちこみ、美と醜を混ぜあわし、苦しみの中から笑いを湧き起させてやる。」「おれはこの時代に平等という贈物をしてやる。そしてすべてがまったいらになったとき、初めて不可能が地上に存在し、月がおれの手にはいる、そのときこそ、おそらく、このおれ自身というものが変り、世界もおれと一緒に変る、そうなって初めて、人間たちは死なずにすみ、幸せになるのだ。」(カミュ「カリギュラ 誤解」34p、渡辺守章・鬼頭哲人訳、新潮文庫、昭和46年)

高校生の頃、この台詞をどれほど思い返したか。だが、今となっては、これが胸底の地獄から立ち昇る瘴気であったと理解できる。だからこそ、己が地獄は隅々まで観照されなければならない。瞼を閉じてはならぬ。

目玉の忌惑星を閉じその反復の詩

前句と関連付けたいところだが、ひとまずアルデバランも睾丸も忘れよう。目である玉の滅びた日、と読む。惑星を一つの目である玉と見なして、その惑星の忌とも読める。「閉じて」とあるからだ。惑星の生涯が、瞼のように閉じた日。だが、「その反復の詩」とある。閉じてはまた開く、その反復と読める。目が閉じてはまた開く如しだ。

私は解釈を暴走させて、シュレディンガーの猫の代わりに惑星を箱の中に置こう。観るとは認識する事である。観測者によって存在は確定する。存在と非在の間の反復、それを詩と観るのか。詩は、観測者の瞼の開閉により、存在と非在の間を反復するか。

だが、「目玉の忌」とある。「惑星を閉じ」とある。「その反復の詩」の「その」が、「忌」と「閉じ」以降を指すのなら、目玉も惑星も既に無く、つまり観測無しに、更に惑星という拠り所なくして、詩は虚空に存在し得る可能性がある、と掲句は言うのか。(或る忌の後に初めて存在を始める詩があるということか。)

外在する(遠雷、ヴードゥーの蜂は這い回る〈色〉)自我

先ず「外在する自我」と読む。まるで他の意志のように在る自我だ。それが遠雷の轟くように、或いは光り疾駆するように輝くように在る。「外在する」と「自我」の間に、まるで内臓のように括弧内の語群がある。

ヴードゥーの蜂とは「ヴードゥー・ワスプ」、コマユバチだろう。コマユバチはシャクガの幼虫である芋虫に卵を産み付ける。産み付けられた卵は体内で孵化し、芋虫の内部を食い荒らしながら成長し、やがて外に出て蛹となる。その蛹を芋虫が守る。蛹に近づくものたちを防ぎ、狂ったように暴れる。芋虫の体内にまだ残っているコマユバチの幼虫たちが、芋虫を操り、同胞の蛹を守らせるのだという。

掲句、「這い回る」はコマユバチに掛かるが、実際には芋虫にも掛かる筈だ。芋虫は既に半ばゾンビであり、自らの意志は既に無い。〈色〉を、芋虫の意志の如く彩るもの、即ち芋虫内部のコマユバチの意志と読む。ここで遠雷と〈色〉が繋がる。遠雷に象徴されるコマユバチの意志であり、同時に芋虫にとっては自分の中に内在する何か、〈色〉としか言いようのないものだ。この〈色〉は遠雷の輝く色でもあろう。

「ヴードゥー」という語をわざわざ使ったのは、ヴードゥーのゾンビとは、ある種の薬と呪術で、人間を人形の如く操った結果だからだ。

この句は皮肉でもあろう。本当に自分の意志か、と問うている。しかし、いわゆる洗脳や情報操作を指しているのではない。遠雷、とあるからだ。遥かに轟くもの、天に疾駆し光るもの、その意志を自分の意志の如く誤認して動いているのではないか。

沛艾のイコンや閉鎖病棟に蟲の遊泳

沛艾(はいがい)、荒馬が暴れるようであるイコンは、聖性の暴虐を表していると読む。イコンの金色は、その沛艾を抑え隠匿し制御するための色だったのか。

このイコン、もはや調えられた金は剥げ、その下から暴虐なる原色が沸騰してるのではないか。イエス、またはイエスに続く聖人たちの像、イコンの意義である「遠距離恋愛者が持つ恋人の写真」から、恋というエネルギーそのものが決壊している。その決壊の前では、調えられた教義は押し流されてしまう。それがあからさまになれば世の理は滅びるから、恋の兇暴なる聖性は、この世から閉じられる。それが、掲句の「閉鎖病棟」たる所以と読んだ。

蟲は、人が社会的動物である事から解放された慶びに遊泳するのか。蟲はみな、果てはイコンに泳ぎ着く。この蟲を、例えば精神における精虫と読んでみる。恋に最も近しい蟲だ。「閉鎖病棟」を、秘蹟を行なうために閉じられた教会の役割を果たすものと観る。蟲の逡巡し褶曲する道程の果てに、聖性は蟲を受け入れ、分裂し融合し増殖する。

4

半球体の眠りを脱ぎ言葉の椅子に棲む

不具に書く自意識に書く星月夜

この「半球体」と「不具」は同じ状況を指していると読む。アンドロギュノスではない現人類の形状だ。言葉だけが「眠りを脱ぎ」、自意識の迷宮を巡るか。

半球体、ゼウスに裂かれた不完全な体、アンドロギュノスから見れば不具の状態から目覚め、横たわる状況から抜け出て、椅子に終の棲家の如く座す。

人は書く時、横たわりはしない、立ちはしない、羽ある如く飛びはしない。「寝そべって書く事もある」と反論されるかもしれぬが、これは執筆時の肉体の状況ではなく、書く時の精神の姿勢について述べている。人は書く時、精神における椅子に座すと決まっている。椅子とは、書く者にとっての家である。

「自意識に書く」とある。「自意識で書く」ではない。同じく「不具に書く」である。「不具」と「自意識」は同義とも取れる。自意識の上に、自意識とは別の領域から降る如く、言葉が書かれる。自意識という闇の混沌の上に星々が置かれるように。だから「星月夜」である。

天上火忌を滑りだし桃に満ち

アンドロギュノスを具体的に想像するなら、ちょうど桃に二つの頭、八本の肢が生え、一つの成り余りたる突起、一つの成り足らざる穴を具えたようなものだ。桃が不死を与え不浄を払うのは中国の伝承だが、日本にも黄泉比良坂の桃がある。

「天上火忌」とは如何にも自意識過剰だが、宮沢賢治の「さそりの火」を思えば、罪の意識をも備えているかもしれない。己が死を滑りだして、これは不死に満ちると読むか。いや、むしろ両性具有に帰ると読みたい。だが、胎児の発達を思うなら、それは未だ無性の段階であろう。桃として未だ子宮にある。未生ではあるが、既に肉化している。

「桃に満ち」とある。「忌を滑りだす」何かが満ちるのだが、これも二つの読み方が出来よう。一つには「桃の内部に満ち」、もう一つは「沢山の桃に満ち」、これは更に二つの見解に分かれる。「沢山の桃が外部に満ち」と「沢山の桃が内部に満ち」だ。

蟲泳ぐ天上火忌を言語とし

この蟲が何であるか、それは幾つかの想像が出来よう。魂、自我を侵蝕するもの、或いは単にspermaか。今まで挙げて来た句群が浮かび、何が蟲であるかは各人の想像に任せれば良い。

重要なのは、「天上火忌を言語とし」だ。作者の忌日を言語とし、又は作者の死後を言語とし、という意味に取れるが、これは作者の死を以て新たな言語が生れると読んでも良い。一見、大変な自信のように見えるが、内実はもっと深刻かもしれぬ。

即ち、自分の死後、自分がもはや聞く事も読む事も詠う事も出来なくなった以降、新たな言語が生れるという事だ。その言語を以て泳ぐ蟲を、作者は見聞きする事も感じる事もできぬ。そう取れば、次に挙げる句が、或る諦観または絶望を以て読めないか。

天上も花鳥に捨てよ人語解

「天上」とあるのであって、「天上火」ではない。「天上火」が燃える、その虚空の事だ。その空間も「花鳥に捨てよ」、花鳥へと墜落せよ、と読める。

「天上も」であって「天上を」ではない。そのほか諸々を捨てて遂に「天上も」である。「天上」以前のものは既に捨てる前提にある。それらは「花鳥に」捨てるのかどうか分からない。もっとつまらない状況の中に捨てるのかも知れぬ。

「花鳥」と聞いて俳人の私が思うのは「花鳥諷詠」、私がこの三十年、身を置いてきた伝統俳句だ。「人語解」、人の言葉を以て解する事が出来るものと読む。此処まで読めば、作者が本当に希んでいる詩、その希みに引き裂かれる魂が観えて来る。

人語の解語の不可能なもの、恐らくは伝統俳句の枠からは、はみ出る、否、伝統だろうか前衛だろうがその枠を超えるもの、否、それ以前に文学の、否、言語文化の枠を超えるもの、そこに在る詩、否、そこにあるものこそがそのまま詩であり、この否づくしを密教の言葉で仮に表せば「言説不可得(ごんせつふかとく)」となり、或いは聖書の概念を用いれば「発音不可能な名」となろうか。

それを仮に「天上」と呼ぼう。その天上に燃える詩を「天上火」と呼ぼう。これは傲慢さではなく、慢心でもない。これは「詩人としての無一物」から希求しているのだ。宝生如来であれば「無一物すなわち無尽蔵」だが、残念なことには如来ではなく凡夫だ。未だ真の「天上火」ではない者が、生きている内には叶わない希みの如く「天上火」を希求している、その状況を「天上火忌」と呼ぼう。

カミュのカリギュラとは全く逆の試行で、「初めて不可能が地上に存在し、月がおれの手にはいる、」その試行を仮に「廻る花天のrivière」とでも呼ぼうか。

5

青薔薇、盃の閏にさかしまは止まってゐる

青い薔薇は前千年紀までは「不可能」の代名詞とされてきた。2004年に日本のサントリーが土壌バクテリアによる遺伝子操作で、青い薔薇の開発に成功。1990年から着手して14年の試行錯誤の末だ。この開発の逸話を読んで思ったのは、遺伝子は環境の干渉により変化するという事だ。(青い薔薇の場合は、土壌細菌が自らの遺伝子を薔薇の細胞に運ぶことにより変異した。)自然界においても、恐ろしい数の附合が一気に重なれば、突然変異は可能という事になる。

次に「盃の閏にさかしまは止まってゐる」を解析する。先ず、「盃」。なぜ「杯」でないのか。「盃」という漢字を分解する。「不」は花の萼または莟の象形。莟のように膨らんだ形。それが皿に載っている。

次に「閏」。閏年などに見られるように、日や時間の余ったもの。「閏」という漢字は、門の中に王が入っている。王が引き籠もって政をしない意だ。余った日には、王は何も決定しないからだ。

次に「さかしま」。大きく言えば、この世の理に逆らうもの。さかしま、を名詞と取るなら、掲句では「さかしま」という状況が、「止まってゐる」。止まったまま、居る。「さかしま」が物の如く存在しているとも読める。

物である「さかしま」を色々に考える。理と逆行する状況が物としか見えないほど濃密にある。或いは肉体の如くか。

ユイスマンスの「さかしま」を読む。澁澤龍彦訳の光風社版には「美と退廃の人工楽園」なる副題がついている。「人工楽園」は、青い薔薇を思わせる。「さかしま」中、掲句から湧くイメージに反応するのは、モローの描いた「サロメ」に関する記述。

彼女はいわば不滅の「淫蕩」の象徴的な女神、不朽の「ヒステリイ」の女神、呪われた「美」の女神となったのである。その肉を堅くし筋肉を強張らせたカタレプシーによって、彼女はすべての女たちの中から特に選ばれたのである。古代のヘレネのように、近づく者、見る者、触れる者すべてに毒を与える、無頓着な、無関心な、無責任な、怪物のような「女獣」なのである。》(J・K・ユイスマンス「さかしま」79p、澁澤龍彦訳、光風社出版、昭和59年)

ワイルドの「サロメ」を思う。銀の皿に載せられ、サロメの接吻に供せられるヨハネの生首は、その頸の切り口から血が流失し切って、青ざめた美しい顔は巨きな青薔薇の莟のよう。

「盃」において、「不」はヨハネの首、皿は銀の大皿。ヘロデ王は門の彼方に引き籠もる如く、ヨハネの斬首を阻止できない。「何にても求むるままに与えん」とサロメに約束したのだから。預言者の斬首は、王の執政する時ではない「閏」に属する。

余計な時間に起こった事、この世の理の外で起こった事だ。青い薔薇でさえ「不可能」の象徴であった。ましてや淫蕩なる踊り手が、その手に聖性を抱き接吻することなど、この世の政にあってはならない。

サロメは口づけにより青薔薇と、即ちヨハネと化しただろうか。殺した者と殺された者は、淫蕩と聖性、斥け合う力により、逆に図らずも、「さかしま」として融け合っただろうか。その「さかしま」のまま止まって、「ゐる」ために、ワイルドの筆に於いてサロメは衛兵の槍に刺され、ヨハネと死を共有するのだろうか。

イメージが暴走した。掲句に戻ると、「青薔薇」と「盃」の間にある「、」には「即ち」の意があると読んだ。青薔薇とは即ち「盃の閏にさかしまは止まってゐる」状況であると。「閏」、「さかしま」、「止まってゐる」この三つの語だけで、不安定且つ不安なイメージは惹起されるだろう。「盃」が酒を酌む物であるから、陶酔のイメージは薫るだろう。

今挙げたサロメは、掲句に触発された私的なイメージだ。人の頭の数だけ異なった読みがあるだろう。そのような読みをせざるを得ない句は、「不可能を地上に存在させる」一助となろう。

酷暑日の石を葡萄にする造語

酷暑日の石は、手で持つのも素足で踏むのも躊躇うほど熱いのだ。それを瑞々しい果汁の塊である葡萄にする造語。その造語はもちろん「人語解」の外に在るものだろう。

酷暑日の石の本質は、葡萄の本質の対極にある。対極にあるものを融合し一つにする造語と読むか。対極の、その両岸を瞬時に入れ換える造語と読むか。いずれにせよ夢、「天上火忌」以後に幻視する瑞々しい奇蹟だろう。だが、夢を詠わぬものは詩人ではない。(ここで、創世記の楽園に実る禁断の果実は葡萄である、という説も思い起こす。林檎よりはずっと柔らかく、汁に満ちている。)

花鳥書の棲む両岸や炎、我が

花鳥書は活きているから、「棲む」と書く。川という存在は、その両岸の存在に依って確立するのだ。両岸が無ければ川ではない。炎は両岸には無いと見る。炎は希求であり、花鳥書に満足していれば、ただ両岸に棲めば良いだけだ。だから、この炎は両岸ではない何処か、両岸に挟まれたところ、川面の上に立つと読もう。水に接触すれば炎は消えるから、炎は水面ぎりぎりの虚空に立つ。そして流れてゆく、海へ、真円へ。

「我が炎」ではない。「炎、我が」だ。炎で在る事の先に、さらに在るもの、「わが何か」、それを詩の成就と呼ぼうか、或いは単に奇蹟と。そして「炎、我が」を「炎、われが」と、己自身を炬火たらしめようとする宣言とも読もう。

優曇華の忘れを不二の辻に置く

優曇華には二つの意味があり、一つには草蜉蝣の卵、一つには三千年に一度咲く樹、この花咲く時、転輪聖王が世に現れるという。優曇華の花と言えば滅多にない幸運、この世に人身を得て仏法に巡り合う難しさを喩えて、「優曇華の花、盲亀浮木」と言う。

不二は二度と無いもの、富士山、不死。辻は辻占する処から転じて未来の分岐点、あるいは橋や袋小路と同じく異界へ通じる道。

珍しいもの尽くしで解釈するなら、滅多に無い物が幸か不幸か忘れられていて、それを未来と世界の分岐点である不死の場所に置く、となろうか。そして忘れられたモノとは、等しく不死の性格を持つ。

しかし、これは「優曇華の忘れ」を「忘れられた優曇華」と解釈した場合。では、文字通り、「優曇華の忘却」と解釈した場合はどうだろう。優曇華に自我があり、その自我が何かを忘れたと読める。三千年に一度の何かを忘れたのだろうか。

ただ、実際の語の連なりとしては、「優曇華」「忘れ」が連関する意味を持たぬままに取り敢えず接続されているとも読める。「優曇華」と「忘れ」が同義であるかのように。

ここで唐突に、優曇華の花を草蜉蝣の卵とも読むなら、現実主義者はそれ見た事かと言うだろうか。三千年に一度咲く花など無く、不二の辻など無い、只の道の分かれに生えた草蜉蝣の卵に、白昼夢を見ただけだと。しかし奇蹟とは常にそういうものだ。「忘れ」るも何も、眼が無ければ奇蹟は最初から最後まで見えぬ。

いまわの火に鶴は延びフォーマルハウトを成る

もうこれ限り、または最期の火に、鶴は延び、魚座の口にあたる「フォーマルハウト」なる星を成る、と読めるが、問題は「を」である。

助詞の「に」と「を」の違いは、「に」は許可、放任、「を」は強制という違いがあるが、掲句の場合、「フォーマルハウトを成る」、鶴はフォーマルハウト上に、又はフォーマルハウトと重なり、或いは融合して、自らをフォーマルハウトとして成就させる、という意味に取れる。

フォーマルハウトという天体は、一つの明るい星の廻りに塵、ガスが楕円上に掛かっている。(本当は真円かもしれぬが、地球から見ると楕円にしか見えぬのであろう。楕円の写真しか見出せなかった。先に挙げた句群の、「真円」と「楕円」を思い出すが、この両者は単に観測する地点の違いかもしれない、と今更ながら気付く。)

天体望遠鏡の写真では、フォーマルハウトは一つの目のようにも見える。星が小さな瞳で、周りの楕円が上下の瞼だ。その形状と輝きが、「いまわの火」に「鶴」が延びた結果だという。またしても眼、しかも閉じない眼、真円と楕円、フォーマルハウトという球体。先に「目玉の忌惑星を閉じその反復の詩」を挙げたが、そのヴィジョンとの関連を思う。

ここで鶴が「成る」のは単に、フォーマルハウトという星とその周囲に輝く楕円の形状、ではない。フォーマルハウトの霊的本質とでも言うべきものになる。それを言い表すための「を」だ。

なぜ「鶴」かと言えば、鶴の形状はこれ以上無いというほど伸びている。それが「いまわの火」に更に延びる。(この「火」を鶴の生命または希求と読むか、鶴が死を羽搏き越えた動きと読むか。)

今、「伸びる」と「延びる」の字を交互に使った。「伸びる」とは形の増大である。「延びる」とは、継ぎ足す意、時を遅くする意、そして限界を突破する意だ。だから、「いまわの火」に「延び」る鶴は、生の限界を突破してフォーマルハウトの本質へ到達する。

6

天使は斥力を凝視するひたすらのくれなゐ

天使とは完全な者であろう。完全な故に唯一神に従い、唯一神の命令を忠実に実行する。天使に自我は無いから、自意識も無い。「不具に書く自意識に書く星月夜」にある作者の状況とは対極にあろう。

だが、「斥力」。完全な者の筈の天使が凝視しなければならないのであれば、この力は天使自身の中に存在するのか。そうであれば、天使自身をその内部から斥ける力だ。この力は人間を眺めやる内に徐々に育まれたか。

桃の核がやがて剣と化せば、桃は月から来たアンドロギュノスのように真っ二つに裂けるだろう。同じく、この斥ける力が膨らめば、天使は真っ二つに裂け、地上に落ちる。本来は血を持たず肉を持たず粘性も匂いも持たぬ筈の天使が、その真っ二つの断面に初めて麗しく、血という色と粘りと匂いを得る。血は魂である。天使は斥力により魂を得る。己が完全性を自ら斥け、重力による墜落により、己が血を種子のように地に撒くのか。

「凝視するひたすらのくれなゐ」を次のように読もう。「ひたすらの」を橋として、「くれなゐ」と「凝視」は通じ合う。二つの語は裏と表かもしれぬ。凝視は血を呼び、凝視とは閉じない眼、瞼という暗黒を拒む有り様、望むは暁光、そして朝焼けはひたすらの紅である。

この「ひたすらのくれなゐ」を魂である血と読むか、天の血である朝焼けと読むか。なぜ夕焼けと読まないかと言えば、夕暮れは万物が眠りに入る前であり、瞼の閉じる時刻である。瞼を開き続ける行為である「凝視」の語が馴染むのは、夕焼けよりも朝焼けだと感じるからだ。

「天使」に「天」の字が含まれている事から、天の血である朝焼けと読もう。更にその中に斥力があるとすれば、それはどんな形で顕現するか。

暁の明星を思う。太陽に抗して最後まで輝き続ける星か、それとも暗黒からいち早く抜け、暗黒を照らす先駆けとなる星か。

イザヤ書14.12「黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。」この「明けの明星」は堕天使ルシファーを指すという。神への愛と情熱に燃え上がる天使とも、智の天使とも言われたが、墜落したという。

但し、イザヤ書の「明けの明星よ」が誰を指すかは諸説あり、元々はバビロンの王を指すという説も読んだ。ルシファー、ラテン語で《光を帯びた者》の意である此の呼称が、堕天使と結び付けられるまでには、多くの変遷があったようだ。

元々ヘブライ語の聖書をギリシャ語に訳した際、語意には既に揺らぎが生じているだろうが、堕天使の名称として確立するまでには更に多くの詩人たち、正確には「詩人の揺らぎを持つ者たち」の思考が導入されて来た筈だ。

一方で、黙示録2・28 「わたしはまた、彼に明けの明星を与える。」黙示録22・16「わたしイエスは、使をつかわして、諸教会のために、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星である。

結果として、この暁の明星は、(現在の認識では、)一方で堕天使を指し、一方では人でありながらも神の子であるイエスを指す。それが謎である。暁の明星の定義が、正反対だ。

しかし、聖書が次々と他言語に翻訳される度に、元々の語義が増殖してゆくのは頷ける。「天使」の語しかり、「明けの明星」の語しかりだ。先に「詩人の揺らぎ」と書いたが、この「揺らぎ」を(薔薇に混ざる青色の遺伝子のように)多義性、融合性、増殖性と言い換えても良い。アジアの思考で言えば、本地垂迹のようなものだ。

その増殖を誤謬だとは、私は思わない。言葉というものが、人間の観る世界の鏡像であるなら、それは思考を増殖させて世界を隅々まで理解しようと欲する人間の知的欲求を具えるだろう。その結果、「暁の明星」なる呼称が遂に、対極にある両者を同時に表すもの(両者の間の斥け合う力をも含むもの)、として意味されても不思議ではない。

これは「饗宴」を通して観た場合、引き裂かれたアンドロギュノスの在り方と希求に関わるのだろうか。カバラを通して観た場合、光体のアダムと肉体の現人類に関わるものだろうか。

斥力とは、暁の明星の白い輝きか。掲句に沿って言えば、斥力とは、己を言葉のように引き裂く詩人の懊悩なのか。

斥力を凝視する天使とは、もはや凝視以前の天使、つまり神の栄光をひたすらに仰ぐ天使ではないと思われる。

この天使を理解するためには、むしろリルケの「ドゥイノの悲歌」における天使を想起した方が良いと思う。

すべての天使は怖ろしい。けれど、ああ、わたしは、
おんみら天使よ、ほとんどわれらの命をも絶(た)つべきおんみら「魂の鳥たち」よ、
おんみらにむかって歌う、おんみらについて知るゆえに。》(リルケ「ドゥイノの悲歌」15p、手塚富雄訳、岩波文庫、1957年)

けれどいま、もしもあの大天使、危険な存在が、星々のかなたから
ほんの一足われらにむかって歩みよるならば、たかくたかく
鼓動(こどう)して、われらの心はわれら自身を打ち滅ぼすであろう。天使よ、おんみらは何びとなのか?
(同前、15p)

この訳者である手塚富雄は、「第一の悲歌」註解において、リルケの天使について次のように述べる。

地上の無常性と無関係な楽園の住者たちではなく、地上的諸性格をもちながら、それを永遠的なものたらしめることのできるものであり、くだいていえば、「死」に触れつつ「永生」であり、「永恒的(えいごうてき)」であって「はかなさ」にも住むようなものであろう。》《もう一度別の言葉でいえば、「現実」または「生」をそのまま「高次の現実、高次の生」に化するもの、もしくはその高次の現実そのものが、天使なのである。詩人や芸術家は、もっとも熱烈にそういう現実を求める。真にそれを求めるものだけが、それとの隔絶を身にしみて知るのである。》(同前、87p)

これは掲句を解釈する上では大変分かり易い。もう一度解釈をやり直そう。

天使は斥力を凝視するひたすらのくれなゐ

「高次の現実そのもの」は斥力を凝視する。《「死」に触れつつ「永生」であり、「永恒的」であって「はかなさ」にも住むようなもの》、《「現実」または「生」をそのまま「高次の現実、高次の生」に化するもの》、これは詩人が求める詩そのものではないか。

では、《至高の詩》、《人語解を超える詩》、《「天上火忌」以後に来る詩》は斥力を凝視する、と読もう。

斥力を、詩人の内部に常に在って詩人自身を引き裂く力、更にアンドロギュノスが引き裂かれて現人類と化す力、アダムが現人類へと移行する巨大な運命の真円の力、更に暁の明星の中に同時存在する墜落(または堕落)と上昇(または復活)の力と読もう。

「ひたすらのくれなゐ」を、暁の明星を取り巻く状況としての朝焼けと読み、更に「天使」である「高次の現実そのもの」が内蔵する血、「高次の現実」から隔絶されるが故にそれを希求する詩人の血、即ち「天上火」の血と読もう。更に「天上火忌」という忌日そのものが、その忌以降に実現される詩の暗喩であるとも読もう。

そして、「凝視する」と「ひたすらの」は同義の状況とも読める。「凝視する」は天使の行為であり、「ひたすらの」は「くれなゐ」の状況であるから、ここで「天使」と「くれなゐ」が重なり合う。「くれなゐ」は血であり、魂であり、暁の明星を取り巻く朝焼けでもある。

ここにもう一つの読みが生じる。「ひたすらのくれなゐ」が、凝視の結果であるとすれば。凝視を継続する眼の充血であるならば。至高の詩を凝視し希求する詩人の眼は充血をやめぬだろう。ならば、至高の詩、或いは高次の現実そのもの、或いは天使は、詩人の凝視する行為の本質を示している事になる。

天使は斥力を凝視するひたすらのくれなゐ

これを作者の名付け難い希求のイメージと読む。書き表し難いもの、一生を賭け、恐らくは己が忌日以降も賭けて希求するもの、それを詩と呼んで良いのかどうか。もしかしたら詩を超えるものかもしれぬ。

(了)



引用句一覧
(句末尾の番号は芝不器男俳句新人賞の選考に当たって付けられたもの)
眼奥の昏きを隔ち羽音くる 2
海百合の頸吊の木のえくれえる 5
接続に無があれば飛ぶ垂直の鳥 12
夜汽車よお前は眠りから想像まで貝を運ぶ 55
光線消失火に向う老犬が非時の躍動へ帰る 66
移気の空木の不死の少女性 21
始点にして真円pommeがhommeを曳く 41
舞台の真円軌道には歪みが答えよう 58
手淫の上昇を帰して観音は・・・・・・開く! 44
膣の楕円に沈めば月桂樹〔ローリエ〕が勃つ 54
古遊戯や廻る花天のrivière  26
蜜蜂telepathこおりの星は鎖骨あたり 49
落ちる(風鈴の闇に手足や寝るをんな)襤褸 85
赦されざる(氷片にspermaは南中する)赦しを! 71
陵墓の虚空に南中の繭[コクーン]を置こう  46
王権をふたなりの鹿走り過ぎ 20
一角獣の偽史にふたなりを末裔する 50
レオナルドの微笑をうつろぶねに流す 78
赤はグラネロを垂れて牡牛座のAとなり 43
目玉の忌惑星を閉じその反復の詩 59
外在する(遠雷、ヴードゥーの蜂は這い回る〈色〉)自我 62
沛艾のイコンや閉鎖病棟に蟲の遊泳 65
半球体の眠りを脱ぎ言葉の椅子に棲む 76
不具に書く自意識に書く星月夜  86
天上火忌を滑りだし桃に満ち 30
蟲泳ぐ天上火忌を言語とし 35
天上も花鳥に捨てよ人語解 39
青薔薇、盃の閏にさかしまは止まってゐる 47
酷暑日の石を葡萄にする造語 23
花鳥書の棲む両岸や炎、我が 100
優曇華の忘れを不二の辻に置く 3
いまわの火に鶴は延びフォーマルハウトを成る 69
天使は斥力を凝視するひたすらのくれなゐ 79

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