樹の灰、名の灰
斎藤秀雄を読む
竹岡一郎
1. 樹の灰
樹の灰の樹のおもかげを蛇滑る 斎藤秀雄(以下同)
斎藤秀雄のツイッターからこの句を見出した時、心を打たれた。灰となった樹は蘇ることはないが、灰にはまだ樹のおもかげがある。僅かな風にも崩れ始めるようなおもかげだ。灰を踏んだり蹴散らしたりせず、静かに「滑る」事が出来る生き物は、手足の無い蛇以外無いだろう。如何に静かに素早く移動しようとも、蛇に体重が無いわけではないから、おもかげはやはり崩れてしまう。それでも、灰の形状に沿って蛇が滑るのは、樹のおもかげをせめて己が腹にとどめたいからだろうか。
景は明瞭に立つ。だが、眼前に立っている景だけではない。景の背後に、簡単には解き明かせない深さがある。それは即ち動機の深さだろう。
作者は色々な雑誌に投稿して採られた句を、自身のツイッターに載せている。有季定型の、明快な句だ。次に挙げる。
傘の色ぶつかり春の雨の町
糸遊へ盗賊の椅子運ばるる
崩れゆくビルの欠片にそれぞれ蝶
祈る手は葉書に蝶の橋は沖へ
夕風の遊び葛切かがやかす
花冷えの踏切といふ嬉しい場所
むらさきの谷は未明の夏落葉
末黒野をうつむく声のもつれたる
札幌へゆく白靴をおろしけり
照らされて水の重さの代田かな
一読、美しい句群だ。俳句は、特に強い動機が無くとも技術が優れていれば立つ、という見本のような句だ。「むらさきの」「札幌へ」の句など、その際たるもので見事だと思う。同人誌「We」では、一般に前衛と呼ばれるような句を発表している作者が、このレベルの伝統俳句も作れるのは、技術力や情感を嗅ぐ能力もあろうが、つまり器が広いという事だ。作者がその気になれば、何だって作れるだろう。しかし、冒頭に挙げた「樹の灰」の句は、今挙げた句群とは、動機の深さにおいて、明らかに違う。
俳句は文学であるか否か、という論争は決着する事は無かろうし、その決着に興味も無い。しかし、作者の記憶と感情が、深い動機に押し上げられ、優れた技術により明確な形を成す句、作者のドッペルゲンガー、第二の自我、複体とでもいうべきものが、句として立ち上がるかに見える句、それは文学であると言って良いと思う。では、文学とは、人間の自我を抽出したものであるか。
というのも、文学を読む時、読者は作品と幾度となく対話するのだ。文字を使うのは人間だけである以上、文字で記された作品を読む事により、対話したい欲求に駆られ、そして対話するのは、その作品が「人間の形を取っている」と見えるからではないか。
読んで気持ち良いもの、取り敢えず上手いこと言っているもの、言語の遊戯を追求するもの、精神の娯楽を目的としたものは沢山ある。だが、何度も繰り返し読んで対話したいと思う作品は、また別だ。俳句のように極端に短い詩型なら尚更である。
「樹の灰」の句は、私が珍しく対話したいと思う句だ。対話に沈潜する為に、多方面からの考察を成したい、その為に、この句に始まり展開し収斂する長論を試みても良いと思った。
2. 「猿とモルタル」「パルマコン」
作者は、詩歌SNSの「poecri」に連作「猿とモルタル」「パルマコン」を発表している。先に挙げた一連の句群とは、ずいぶん違う印象がある。「猿とモルタル」から、次に挙げる。
凧の群れゐるあたりまで地の腫るる
「あたりまで」とあるから、凧はまだ空には昇っていない。空で群れているなら「群れゐる下」と書くだろう。従って、凧の群は未だ地表にあると読む。凧揚げ大会でもあるのだろうか。
凧揚げの人々が群れている様を「地の腫るる」と皮肉な物言いをしたのかとも思ったが、「まで」とあるから、何処かの地点から人々の群れているところまで連続して地は腫れていると考える。
凧揚げは普通、広い河川敷で行うだろう。そのあたりまで地が腫れていることになる。河川敷に終着するのは、人間の(都市も含む)集落だろうから、地は人間の集落に従って腫れている事になる。となると、「地の腫るる」と表現される、その腫れの原因は人々の暮らしと読める。
凧は新年のめでたい風習だ。子供の健やかな成長を祈り、厄除けの意味もあり、また願いを空に届ける意もあったと聞く。人々の期待や祈りを乗せて飛ぶはずの凧は、子供たちと共に、未だ地の低きにある。そして人々の営みが地を腫らす源であるならば、この凧たちは揚げようとしても虚しく地を這うに留まるだろう。
かなかなに包まれ煙漏れなくなる
このかなかなは声である。気温の低い朝方か夕方に鳴くのだが、ここでは夕方と取りたい。「煙」とあるからだ。「誰そ彼」と言うように人の区別、事物の区別がつかなくなってゆく頃が、煙という、視界をぼやけさせるものと親和するからだ。ここで煙は「漏れなくなる」ほど、かなかなの声に「包まれ」ている。
かなかなの声に封じられているのは、視界に煙のような効果をもたらす夕方の時刻と、その時刻の範疇に閉じ込められた一切の景色と事物と生物だろう。「漏れなくなる」時刻は止まっているに等しいから、いわば永遠だ。何もかもが夕光と夕闇の中で互いの外形を侵食し合ったまま、自らの尾を銜える蛇のように循環している。その状態を卵の殻のように包み込んでいるのが、かなかなの声だ。
しかし、声というものは、広がる性質を持つ。互いの外殻を侵蝕し合う一切の存在を内包して、「夕方という時刻」は永遠に煙っているが、その煙る永遠を、「かなかなの声」という、拡張し続ける卵の殻がぴったりと封じている。
無月なり車輪が耳を掠りたる
十七くらいだったか、河川敷で寝ていて、バイクに髪の毛を引かれたことがある。なんか音がするなあ、と思っていたが、面倒なので目も開けなかった。頭の上を轟音と風が通ってから起き上がると、バイクが遠ざかって行くのが見えた。頭を巡らすと、コンクリートの上に髪の毛が切れて落ちている。ひどい嫌がらせだが、怪我もしなかったので良しとした。その当時、生き死にも面倒だった。死ぬ時は死ぬし、死なない時は死なない、それだけだ、と決めていたのは、盛んな血気が、全力であさっての方角へ向いていたのだろう。
無月の闇の中からいきなり耳を掠った車輪は、きっとそんな感じで、防ぎようもなく、何も出来ず、通過してから車輪だと気付く位だ。こうして句と結晶したのは死ぬ時ではなかった訳で、先ずはめでたい。この車輪は運命の象徴にも見える。タロットカードの大アルカナ十番、「運命の輪」を思っても良い。
「無月」が利いている。闇を表すだけなら他にも季語があろう。しかし、無月とは「中秋無月」とも言うように、空一面の雲の上には煌々と満月が輝いている。掲句の車輪の正体は、満月の真円の影とも言える。
火をたたむやうに桜の坂下る
「火をたたむやうに」をどう取るかだが、火は迅速なものだから、その速度を超えないと、たためない。坂を下る速度を「やうに」で喩えたと読んだ。パタパタと下ってゆく感があるのは、一つには素早く何かを畳む時にどんな風かという事が連想されるから、もう一つは全体に連なるa音である。「やうに」なので実際に火の手が上がっている訳ではないが、坂を下る人の行く先に火の手が上がっていて、下るにつれ火は鎮まってゆくような景が浮かぶ。
坂に沿って桜が咲き誇る。国花であり、日本人の死の象徴でもある。花のめでたさの中に死を蔵する。地へと散り伏す花びらを、畳まれる火と見たか、または火を桜と見たか。国の花なら国土の花。国産みの神話を思うなら、この坂は比良坂を蔵している。
坂ならば、上りと下りがある筈だが、冥界はどちら側か。やはり下方が冥界かと思う。となると、掲句は冥界へ向かっている事になる。
比良坂と火、と合わされば、イザナミは火の神カグツチを産んだ際、その陰を焼かれて命を落としたのだ。妻を失ったイザナギは、カグツチを斬り殺す。では、火をたたみながら下ってゆくのは誰だろう。
次に、連作「パルマコン」の諸句に移る。初めに、同じく坂の句を上げる。今度は上ってゆくであろう句だ。
坂のたかさに日傘がさはる鳥の影
坂を上ってゆくひとを、その背後から見ている。長い坂の勾配は緩やかで、その人の掲げている日傘の突端が、坂の、遙かに遠い終点の高さと重なる。極端な遠近法が、景に用いられている。
日は高く容赦なく照りつけ、日傘は白々と光を照り返す。坂に鳥の影が落ちる。何の鳥ともわからぬ鳥、だが鳥と認めるに足りるほど大きな影が、坂を素早く滑らかに上り、日傘と日傘の蔭のひとに瞬く間に追いつき、一瞬、影は日傘とひとを覆ったかと思うと、忽ち坂の遥かな終点に到って、その行方は知れぬ。鳥は何なのか。ひとが防ぐことも避ける事も出来ず、白昼の不思議もない坂に影をもたらすものだ。
子らのにほひ砕け鏡の町薄暑
「匂い」なる語は「丹生」、「絵の匂い」という言葉があるように、赤などの鮮やかな色、麗しい様や声をも指す。匂いが、例えば「撒かれる」や「飛び散る」や「広がる」なら、子らの楽しい遊びの形容とも取れるだろうが、「砕け」という、遊びと取るにしても不穏な表現、いや、子供たちは密かに不穏な遊びを為すものだ。「砕け」るのは子らの匂いであるが、同時に鏡にも掛かってくるだろう。砕けるのが鏡の宿命であり、終点だからだ。
鏡とは薄いものだから、薄暑が鏡の性質であるようにも見える。砕けた鏡が薄暑となるのなら、その破片は、そこはかとない熱を帯びているだろう。鏡の町は、何もかも鏡で出来ているのか、或いは鏡が町の角々や道々にあるのか。鏡は互いに果てなく映し合い、結果として町は無限の奥行を抱き、映る人々は無数のドッペルゲンガーを持つだろう。
数多のドッペルゲンガーを日々の営みに見て、なおも気が狂い難いのは子供の柔軟性だが、それにも限度がある。砕けるのは子供の正気だろう。その「匂い」、無限に分裂する様、その姿、その声がドッペルゲンガーなのだ。
月光にけものの触るるみづ固し
月光は冥府の冷たい光で、その触れるもの全てを硬くする。例外は春の月光だが、掲句の場合は秋だから、やはり触れるもの硬く化すだろう。それは此の世の最も柔らかなもの、水であろうと同じことだ。
句中では、けものが水に触れるのだ。既に硬く化した水に触れるのか、けものが触れることにより硬くなるのか、判然としない。仮にけもののせいで硬くなるなら、このけものは月光と同じ性質を持つことになる。「みづ固し」と観るのは、作者の眼である。月光と云い、けものと云うが、それらは実は作者ではないか。
「水鏡」なる言葉がある。さざ波も無い水面は、月下に鏡の如く硬く見えるだろう。だが、けものは既に水面に触れている。触れて尚も硬いまま、さざ波も立たぬままであるなら、このけものは月の眷属か。
薔薇に胸突かせ耳鳴りをさめたり
耳鳴りとは突然来る隔絶だ。聴覚において外部と切断される。もっと言えば聴覚において現世と切断される。キインと聞こえたり、蝉の声のように聞こえたり、人によって様々だ。他の感覚器官は此の世と繋がっているのに、聴覚だけが断ち切られ、代わりに別の世の感覚が入ってくる、あの孤絶。
薔薇とは艶なものだ。句中の薔薇は、真紅であって欲しい。数多の花弁を瑞々しく重ねて、此の世の欲望を美しく体現していて欲しい。「突かれ」ではなく、「突かせ」だから、薔薇に強要している。此の世に引き戻せと、薔薇に命じている。耳鳴りは「消え失せる」のではなく、「をさめたり」なので、まだ続いている耳鳴り(と耳鳴りが開く別の領域と)を、意志の力によって無理矢理抑えつけている。
この度はたまたま身近に薔薇があったので、収めることが出来た。次はどうだろう。薔薇か、それに代わる此の世の麗しさの体現が、身近にあるだろうか。
虫籠に透いて爪から喪の気配
虫籠に何が入っているのか。兜虫や鍬形虫のような、大きな虫か、それとも鳴く虫の類か。虫籠に触れるか否かの位置にある爪が、籠の格子の間から透けるなら、虫は小さく儚いものの方が良い。鈴虫や邯鄲や松虫のように鳴くものであれば良い。「喪の気配」とあるからだ。「一寸の虫にも五分の魂」というが、鳴く虫の音色は、魂が細く訴えるように聞こえる。
「透いて」は、爪自体にも掛かる感がある。長い美しい爪を思わせる。爪は喪われた者の魂を探っているのか。或いは爪は、そして手は虫籠の中にあって探り、そして虫たちは今や無く、その透いた魂だけが鳴いているのか。この爪が不思議とエロティックなのは、「透いて」と「喪の気配」に挟まれているからだ。死と性は裏表にあって、互いを際立たせる。
ひめはじめ胸乳にききし島の誕生
「ひめはじめ」とは何を表すか良く解らない季語らしいが、ここでは「胸乳」とあるから、まぐわいだろう。
島の誕生は海底火山の噴火によって起きる。掲句では、まぐわいの相手の心臓の高鳴りをマグマの流動と聞き、肺の膨張収縮に合わせ震える乳を島の隆起と捉えている。秋津洲の誕生を思わせる。イザナギ、イザナミの二神が、交わりによって次々と島を産んだ神話に、自らの交合を重ねている。
3. 「福島プリズン」「戦前的愛をめぐつて」「名の影」
「戦前的愛をめぐつて」(We7号、2019年3月)より、ひめはじめの句を挙げる。
ひめはじめ耳のまろみの奥の沖
中七下五の蕩けるような響きが良い。そのリズムが、そのまま交歓の深まる様子を表すようだ。まぐわいの際に五感が敏感になる、それを聴覚に集中して描いている。「まろみ」と形容されるのは男性の耳ではあるまい。女性の耳だろう。その奥にあるのは例えば三半規管。平衡感覚を司り、乱れれば眩暈を引き起こし、その形状は海に揺らぐが如き渦巻きだったりする。その揺らぎの果てなさを沖に喩えると同時に、相手と自身の耳の奥に聞こえる血流を、潮の響きとして聴いているのかもしれぬ。
「私の耳は貝の殻 海の響きを懐かしむ」とは、コクトーの有名な詩だ。その詩を踏まえているだろう。耳を貝の殻と観れば、その奥の沖は貝の記憶だ。では、まろみは貝の肉か、などと読み出すと「ひめはじめ」の語は、もう動かない。耳、まろみ、奥、沖、全ての語が象徴として「ひめはじめ」を支えることになる。
最後の一字の「沖」において、突然、遥けさへと投げ出されるのが、この句の絶頂である。交歓の極みを、沖の広がりと深みに重ねる。
このような跳躍による突然のズレを、文化の八割を占めると言われる視覚情報から考察した句を、「戦前的愛をめぐつて」から一句挙げる。
金盞花視差にうまるる架空の椅子
視差、を辞書で引くと、
1.二つの違った場所から同一物を見た時の網膜像や視方向の違い。両眼で立体や遠近を異にする対象を見た時に生ずる視方向のずれや両眼間の網膜像の差異を両眼視差・網膜像のずれと言う。人の認識とは視覚情報においても無数に分裂する。そのいずれかの認識に着席しなければ、人は日常を生きることが出来ないが、その着席点=椅子さえも、かりそめのものモノ、或いは全く架空のモノである。
2.カメラのファインダーの視野と実際に撮影される画面との差。
とあるから、掲句は視覚情報における認識論に言及したものだろう。一つのものを二人が見た時にそれぞれの見え方は違うのみならず、同一人物内においても右目と左目の見え方は違う。更には生で見た時と撮影した画像を見た時では、映像が異なる。
金盞花は花弁が非常に多い。その花弁の正確な数を捉える事は難しい。中国では金銭花ともいわれるように高価な花であり、金の象徴である。
キリスト教圏では、絶望、悲哀の象徴とされる。金盞花に限らず、黄色っぽい花は皆そうらしい。何故なら、黄色とはキリスト教を迫害したローマ皇帝の衣の色であり、また、裏切り者ユダの服の色とされるからだ。
では、ここで「架空の椅子」と金盞花の東西の象徴(金銭、金、迫害、裏切り、悲哀、絶望)を組み合わせるなら、現世における認識の揺らぎと、その何処かに着席せざるを得ない遣る瀬無さが浮かぶだろう。
認識の目的とは、区別であろう。自我と外界の間に様々な線引きを成すために認識するのだ。自分と他者を社会的に区別する手段は何だろう。区別した、と認識するためには、最低限なにが必要か。やはり名だろう。それがフルネームであっても、姓あるいは名だけであっても、たとえ愛称、渾名であっても、人が人を特定し区別するのは名だ。
死後においても、呼称が無ければ個別の供養のしようもなく、無縁仏としてまとめるしかないのだ。大空襲における身元不明者の、死後の魂の悲痛さは、そこにある。例えば、「きみ」という不特定な人称代名詞では個人を特定できないから、供養する事も出来ない。その場合、「きみ」とは「名の灰」に過ぎないともいえる。その呼びかける事の不可能性を超えんとすれば、どれほどの苦闘が必要か。
「名の影」(連句誌『みしみし』不定期刊4号掲載。2020年冬)から、次に挙げる。
名の影が縞に埃と種袋
雨戸の隙間などから漏れる光が、舞う埃に当たって縞目を成すさまを思った。種袋が寂しい。寂しいのは袋ではない。地に蒔けば繁殖を成す種が、袋に封じられたままだから寂しい。
問題は「名の影」である。これはわからない。「わが名の」とか「種の名の」とか言えば、名の内容は限定され判り易くなる。それを敢えてしなかったのは、名というモノに懐疑を抱いているからだろう。およそ事物でも人でも名によって認識される。では、名を以て呼ばれるそのもの自体は、名の影に過ぎないのか。そのような問いかけを思う。(光が当たれば消える影と、風に散らされれば行方も知れぬ灰と、どちらがより寂しいだろう。)
へだたりを貫き鱗散らし野火
「鱗散らし」とあるから、瞬く間に進む野火を蛇と観たのだろう。たちまち火の粉となり弾ける草を、鱗と観たのだ。「へだたりを貫き」には、怒りに似た鬱屈が感じられる。何かを打破したいのだろう。認識を打破したいのか。「認識できない」という「へだたり」をか。
からだのない豚がぬめるよ花の前転
また無茶苦茶な句を、と思うが、意外と緊密なスラップスティックだ。「豚がぬめるよ花の前転」だけなら、むしろ微笑ましい。「よ」が利いている。
だが、「からだのない豚」だ。幻覚なのか、豚の霊なのか、しかし奇妙に赤剝けのぶよぶよした煙のような姿が浮かぶのは、「花」の語がそう連想させるのだろう。花が前転する訳ではない。ぬめった挙句に前転する、その前転のさまが花のようであるよ、と読めるからだ。一見滑稽なヤケクソの内に潜む悲痛さを感じる。
夜のなか母乳の繁吹くなか巣箱
ちょっとした地獄だ。地獄から逃れようとして巣箱がある。巣箱は籠るためのものだ。狭いが、そこしか逃げ場がない。夜である、母乳はしぶいている、血がしぶくようにか、雨がしぶくようにか、いずれにしても、この母性は暗黒の容赦なさをしぶかせている。(母乳とは、赤血球の無い血液だ。)
夜目が利かず、翼を濡らすわけにいかない鳥は、母乳の甘く息詰まる匂いの中で、飛び立てぬ。夜が果て、母乳が果てるまで、籠るしかない。
ふるさとは詰め牢なりき鵙日和
「福島プリズン」(We4号、2017年9月)から引いた。一読明快だ。惨たらしいのが当然なのが、ふるさと一般の性質である。鵙が牢人の声だ。「福島プリズン」には、次のような句もある。
麦秋に骨が泳がうとしてゐる
爪のないはだしを街のどこかで見た
ぼくを忘れたふるさとの百物語
これらが皆、一つの姿を詠っているという気がしてならない。そして如何にも奥歯に物が挟まったように詠われている一句がある。
子らのよく首吊る枝の枯木星
出来は良くない。只の怪奇趣味に堕しているようにも見えるほど、たどたどしい句だ。どんな子らが、なぜ首を吊るのか、全く描かれていないではないか。
それゆえ論ずべき句でもないと見做すのは簡単だが、どうしても気になって仕方ない。怨念を取り敢えず素描しただけにも見える。だが、描くほどの怨念が無いのに有るポーズを取っているようにも見えない。
怨念を如実に出そうにも、自身の鬱屈が堰と化していて、出すに出せないような印象も受ける。一定以上の強い怨念を乗せるには、俳句では短すぎる事もあろう。
(怨念が熔錬され打ち延ばされ研ぎ澄まされていけば、やがて五七五のリズムの鞘に納める事も出来よう。)
それにしても「首吊る」である。「首吊られ」や「吊るされ」ではない。子らは自らの意志で首を吊る。枯木にどれほどの星が掛かろうが、いまさら子らと何の関わりがある、と思うが、冬の晴れた夜の自死は納得できる。子供にしてみれば、寒く明るい朝のまた来ることが、もはや耐えられないからだ。十三から十五の頃、毎日通る道の、樹の枝には黒いゴミ袋がいつまでも垂れ下がっていて、いつも首吊りの影に見えた。見るたびに自らの姿を重ね、明日になれば、と日々をやり過ごしていた。先延ばしする事が生き延びる技術だった頃を懐かしく思い出し、懐かしさとは概ねそのようなものだ。掲句がその出来如何に拘わらず、気になって仕方ないのは、単に私の懐古趣味かもしれぬ。
この句の半年後、『We』5号(2018年3月)に、作者は短歌を載せている。「戦前のうた」の一首。
子らよ砂鉄こぼす子らよ水木の枯枝に並び首吊る子らよ
※「水木」に「みずき」とルビ
先に挙げた句よりも、怨念の手触りがある。「砂鉄こぼす」「水木」「並び」が、その手触りである。
自分の順番を心待ちに耐える日々にも飽き、ぶら下がった他者を仰ぐたび「先を越された」と悔しく思うのにも飽きて、「並び」て首を吊った。
水木は水を良く吸い上げる事から、その名がある。「枯枝」は冬の落葉を示しているだけで、地下に流れる水が無いわけではあるまい。なぜなら、子らが実っているからだ。水木の「奇妙な果実」である。子らが果実であるなら、地下の水を水木が吸い上げた結果、実った。子らは地下の、水の子である。
砂鉄は乾いている。鉄は血の匂いだ。乾いた血が、子らから散っている。乾いて零れるのは砂鉄でも血でも無く、子らの心か。とうに無い涙の代わりに砂鉄を零している。作者は、「よ」と三たび、子らに呼び掛けている。先に挙げた句では詠い得なかった感情の迸りがある。
作者は、子らへの共感に危うく留まっている。もし共鳴しておれば、子らの虚ろな目の中に、見渡す限りの血泥の地平を希む怨念を、幻視した筈だ。「共感はしても良いが、共鳴はするな」。であるから、これで良いと思う。
先に挙げた「福島プリズン」の、泳ごうとしている骨、爪のないはだし、忘れられたぼく、を思う。水の子と、作者は合わせ鏡の如く対峙しているか。次の句も「福島プリズン」にある。
頭蓋裂いて脳の松虫とつて呉れよ
なぜ蟋蟀でも鈴虫でも邯鄲でもなく、松虫なのか。それを解くには、松虫にまつわる説話を思う必要があろう。
「松虫の音に友を偲び」(「古今集」仮名序)という。この一文を注釈して、「三流抄」では、松虫の声に聞き惚れるうち叢に死した友を嘆く説話を挙げ、次のように説く。「友ヲ忍ビ、友ヲ恋ル事ニハ、松虫ノ音ニヨソヘテ云ナリ」
亡霊である友と一夜過ごすさまを描いた謡曲「松虫」(伝・世阿弥)では、「三流抄」の説話を受けて、次のように歌う。「そのまま土中に埋れ木の 人知れぬとこそ思ひしに 朽ちもせでまつむしの 音に友を偲ぶ名の 世に洩れけるぞ悲しき」
夜が明けて、友は消えてしまう。謡曲「松虫」は次のように終わる。「草茫々たる 朝の原に 虫の音ばかりや 残るらん 虫の音ばかりや 残るらん」
松虫の声は幽明の境を超え、日昇りてもなお消えぬ。掲句の場合、松虫は脳の深奥で鳴いているのだろう。松果体の近くで鳴き、見えぬものを見せ、友を偲ぶ名を聴かせるか。その松虫自体が既に霊であるか。
その声、その偲ぶ名、その影が苦痛と化すなら、鳴く声を消すために、「頭蓋を裂いて」でも、松虫を取り去るしかない。声は消えない。頭蓋を裂く事も出来ぬ相談だ。「とつて呉れよ」との思いは、不眠の闇に吸い込まれるばかりか。脳を松虫の響く叢と観るなら、頭蓋は夜の天穹だろうか。
春永や昼に色めく胞衣工場
「戦前的愛をめぐつて」の一句。先に挙げた「ひめはじめ耳のまろみの奥の沖」の前に置かれている。交歓の景の句の前に、胞衣(えな)工場の句は置かれている。
胞衣工場とは、出産において生ずる胎盤などを処理する(多くは焼却する)工場。十二週未満の胎児も送られてくる。
胞衣信仰にみられるように、胞衣は本来、霊的な力を持つ。縄文の頃より胞衣は、人の肉体ではないが人に準じ、生まれた子の運命を左右する重要な物と見なされていたから、埋葬の習慣があった。分身、第二の自我、複体の類と見なすことができる。貴族階級なら、胞衣塚を立てて祀った。胞衣甕、胞衣壺、胞衣桶と、時代により特別な収納器があった。邸内、神社、山、川に埋葬する習慣が廃れたのは、明治以降、伝染病を防ぐ目的として、条例が発布された後だ。
掲句には、まず「春」という語が置かれている。繁殖の春であり、交合の意も含む語である。次に「永」という語。長い時間を表す。「永」は長く伸びた地形、器物、生物を表す。生物ならば、代表的なモノは蛇であろう。蛇は地祇の具現化でもある。
「春永」は年始に使われる祝いの言葉でもある。「春永に」と言えば、いつか暇な時に、の意。「いづれ春永に」は別れの言葉。
「昼」の語は「日ル」、「ル」は状態を指す語であるから、太陽の在る状態を指す。その「ヒル」という響きからヒルコ(日ル子)を連想させる。ヒルコはイザナギとイザナミの子、「うつろ舟」に載せられ「流された」神である。「うつろ舟」は胞衣を連想させる。
「色めく」とは、「時節になって色づく。はなやかになる」と、春の花開く意の他に、「異性を誘う」と色情の意、また「興奮・緊張していた様子があらわれる」と激情の意、「軍勢に敗色があらわれる」と統制の乱れる意がある。
更に言うなら「色」とは現世の事物全般、存在あるように見えて実在しないもの、「色はにほへど散りぬるを」を思えば良い。「色」には肉体の意もある。従って、「色めく」を「肉体めく」(肉体のような感じがはっきりする)と読み換えることは可能であり、この読み換えは、下五の「胞衣工場」との組み合わせにおいて解釈するなら重要だ。
「肉体めく」の形容が、工場内にて処理されるものにも派生してかかるなら、この形容により、処理されるモノの種類に応じて、分身、或いは哀惜、或いは執念、或いは怨念の姿かたちを見ようとする、作者の意志が浮かび上がる。
今、上五中七の一々の言葉が意味するもの、象徴され連想されるものを挙げた。これだけの象徴と連想が、「胞衣工場」という建物と、その内部で行われる諸々の処理作業と、処理されるモノに掛かって来る。
胞衣工場にまつわる、諸々の正の霊力、負の霊力、神聖なるものと禁忌なるもの、寿ぎと怨み、胞衣にまつわる様々な社会的環境、時代の変遷により百八十度変わる胞衣への認識、それらを遍く鑑みた時に、どうしても発する言葉は慎重を期して淀む。その言葉の滞りを乗り越えて、短さゆえに最も適切な詩形に結晶させた作者の意識は、工場で処理される何に向けられているか。
4. 「名の灰」
以上の事を踏まえ、作者の三詩型融合作品『名の灰』(詩客2020年7月25日)を見てゆく。「名の影」を越えて「名の灰」である。
自由詩作品は、灰に「きみ」と呼びかける内容。ここで作品中に記される灰について挙げると、先ず題にある通り「名の灰」、次に「かつて恒星だった」灰、次に「灰、でしかないぼくの名」、更に「ものどもの/灰」「きみが棲みつく/灰」「かつてきみだった/灰」のように、様々に定義されてゆく。
これらは灰を定義しようとする試みに見えるが、実は認識することが非常に困難な者を定義し、認識しようとする試みだと思う。詩全体に呼びかけが満ち、呼びかけられる人称代名詞は、親しく且つ一定の敬意を以て、「きみ」だからだ。先に挙げた作者の句に沿うなら、いわば「架空の椅子」扱いされている者を存在させようとする試みに思える。
灰には記憶がある。「灰、記憶/が閉じこめられ/ていて/そばをかすめる/ならば消えてしまう/灰、だった」。この記憶が灰自体の記憶なのか、それとも灰が、灰の有る (例えば焼却炉のような) 場所において吸収してきた記憶なのかは判らない。人は肉体によって人なのか、それとも記憶と感情によって人なのか、と同じくらい判らない。
「灰、の手紙の宛名の空欄にぼくの名を書こう、すでに/灰、でしかないぼくの名は/灰、だったきみとであうことはない」
「灰」の語りを聞こうとする意志が、ここに表れる。「灰」の方では、誰に宛てたつもりでもない手紙である。宛名が空欄なのだから。その空欄に「ぼくの名」を書くとは、「灰」の心を引き受ける意志表示だ。出会う事が無い「きみ」と出会うには、それ以外、途がない。
自由詩を論ずるのが難しいのは、どこまでを引用して良いのかわからない点だ。取り敢えず、呼びかけられる「灰」の正体を、最もよく推察できそうなパートを丸々挙げる。
死んだもの/でも、生まれくるもの/でも、生きているもの/でもなく、生まれること/ができなかった/ものどもの/灰、石炭、きみが棲みつく/灰、棒状の(その両端は弁になっている)、液状の/日付、かつてきみだった/灰、墓泥棒のように回転する/灰、であっておくれ、出自を/灰、にして、あらかじめ/白紙状の氷点下の骨灰/となるのであろうから/崩れながら燃え尽きる石の/灰、のくずおれる振動/のさまよい/であっておくれ灰は「ものども」とあるから、複数が化した灰である。「きみ」と「ものども」の関係は、「ものども」の内の一人としての「きみ」とも読める。
また、「ものども」の一人にも拘らず「ぼく」に呼びかけられることにより「きみ」という独自性を持つとも読める。
また、「きみが棲みつく」石炭あるいは灰とも読めるから、「きみ」は焼く側と焼かれる側の両方に属するとも読める。
立場が判然としない、この「きみ」の描写は、「きみ」が過去現在未来において、どこに属しているかさえ判らない存在であることを示している。
灰の境遇については、改行無しで読めば「死んだものでも生まれくるものでも生きているものでもなく生まれることができなかったものども」となり、過去現在未来における一切の存在を否定されたものとなる。
死んだもの/でも、生まれくるもの/でも、生きているもの/でもなく、生まれること/ができなかった/ものどもの一連の改行によって、「死んだもの」である状態が先ず肯定され、次に「でも、生まれくるもの」と未来が肯定され、「でも、生きているもの」と現在が肯定される。
このような改行により、境遇が全く逆のものとなる。「死んだもの、生まれくるもの、生きているもの」ならば、此の世における存在を認められている。改行なしの状態が現実の非情な認識であるなら、改行は、存在を否定されたものを存在せしめようとする、作者の苦闘である。
「灰、棒状の(その両端は弁になっている)、液状の/日付、かつてきみだった/灰、」から解釈するに、まず日付は液状である。「日付、かつてきみだった」を倒置と読むなら、「かつてきみだった日付」となり、「液状の」という形容は、「日付」を通して「きみ」にも掛かって来る。
「きみ」は、かつて日付であったが、その日付は液状で、流れ、滴り、定まらず、流転する。今の「きみ」は日付ではない。ここでふと、人間にとって最も重要な日付は、誕生日か命日である事を思う。
「墓泥棒のように回転する」とあるから、墓に関わる何らかの窃盗に例えられるのか。これは副葬品を盗むというよりは「墓に入る」事自体を盗むように思われる。となれば、「きみ」は墓に入ることを正当化されない状況にあるのか。
「出自を/灰に、して、」出身地も、何処の誰の血を引いているかも焼失させられ、「あらかじめ/白紙状の氷点下の骨灰/となるのであろうから」。
この「骨灰」という言葉がついに出た時点で、もはや私には、「きみ」の正体が一つしか浮かばない。
「くずおれる振動/のさまよい/であっておくれ」と「きみ」に呼びかける「ぼく」は、「きみ」の有りようを能う限り正確に把握したいと思っているだろう。
最初から存在しなかったとされる「きみ」、過去にも現在にも未来にも存在を否定されている「きみ」を、せめて「くずおれる振動のさまよい」として、自身の知覚にも漸く感知できる存在として、肯定する試みだ。
(一つ、どうしてもわからないのは「棒状の(その両端は弁になっている)」という記述だが、何かの機械の一部か、或いは「きみ」が灰となる前に入っている何かの容器なのかとも思う。)
先に丸々挙げた長いパートの後に、まるで一段低い呟きのように位置を下段にずらして、次のパートが置かれる。
生まれることが、でき/なかった、きみは、/くずおれる振動の、/さまよい、であっておくれ「生まれることができなかったきみ」は、改行によって表されるように、「なかった、きみ」、つまり最初から無かったことにされている「きみ」でもある。その「きみ」にもう一度繰り返し「くずおれる振動の、さまよい、であっておくれ」と、こいねがう。
この次のパートの冒頭に「ゆりかごを見いだす、」とある。ゆりかごとは揺れる物、緩やかな振動を造り出す物だ。
先に引用した部分を、今一度挙げる。
灰、の手紙の宛名の空欄にぼくの名を書こう、すでに/灰、でしかないぼくの名は/灰、だったきみとであうことはないこのパートの直ぐ後に、後半部分の同じフレーズが反復される。違うのは、改行と、一段低い呟きの位置の如く置かれている事だ。
すでに、灰、でしか/ないぼく、の名は、/灰、だったきみと、/であうことはない「ぼく」と「きみ」が出会わない事、「ぼく」もまた灰でしかない事が再度確認され、更に言えば改行された結果、「無いぼく」である事が分かる。
読点と改行を取り払うと、「灰でしかないぼく」「ぼくの名は灰」というフレーズが浮かび上がる。「ぼく」は肉体であり、「名」は社会的認知である。
先に挙げた「きみ」を指すだろうと思われる「白紙状の氷点下の骨灰」という表現に呼応して、「ぼく」を描写する表現がある。
灰、かつてぼくだった/灰、もはや火はない氷点下のここで、「ぼく」が現在は灰である、と自らを認識しているのは、「きみ」との共鳴の結果ではないか。
「共感はしても良いが、共鳴はするな」と昔、厳しく戒められた。還って来れなくなるから、というのがその理由だが、共感と共鳴の間の線引きは実際難しい。比良坂の或る一点に立ち続ける桃の木の在り方のように難しい。
最初のパートで「灰、を解く鍵ははじめから/灰、であっただろうから/読め/ない、」とある。最終パートの直前では「壜状の、からだのない、ぼくだった/灰、がきみだった/灰、を掘る、/そして読む、/鍵なしに」と変じる。
鍵とは何だろう。灰を解く、解き明かすためのモノ、ならば、鍵を「きみ」の名と読む事も可能だろう。
一方で「からだのない」「灰」であるぼく、即ち「きみ」と同等の存在となった「ぼく」は「鍵なしに」「きみ」を読む事が出来る。これは共鳴して「きみ」と同次元に移行した結果か。次に、最終パートを挙げる。
見えない、ふれ得ない、/読み得ない、きみを、/火も、燃えるものも、もうない、/ここで、ぼくだった灰が最後の一行が無ければ、「きみ」の存在は全く感知できないという事実だけで終わる。だが、最後の一行「ここで、ぼくだった灰が」は、二行前の「きみを」に掛かるのだ。「ぼくだった灰が」、いまや灰と化した「ぼく」が、「きみを」どうするのか。
恐らく、感知する。少なくとも、感知しようとする。先の二行「見えない、ふれ得ない、/読み得ない、きみを、」で語られる、どうやっても感知できないという事実。その事実を、「ぼく」は覆そうとする。「ぼくだった」事を脱して、今や「灰」と化して、感知できない現実を転覆させようとする。
感知できず認識できない「きみ」の存在を、肯定し、感知し、認識する事が、「ぼく」の、希望とは言えないほど微かな希望、だが自ら灰となってでも実現させたい希望である。
改行と読点により、多重の、時には相反する意味を生じさせる技法が、ここでは示されてきた。滴りのようにしか生じ得ない言葉を、その滴りの断続の間合いを様々に変え、連結させることにより、多重の意味を、同時多発的に、立体的に生じさせる技法である。
これは書こうとする動機が重すぎて言葉を失う状態、あるいは書こうとする動機が強すぎて言葉をどれほど重ねても言い終えない状態において、有効である。
即ち、重過ぎる心、激し過ぎる心は、表現する言葉を持たない。その言い得ない言葉を、如何にして言おうとするか。記憶、感情の渦巻き過ぎる心を、如何に言葉として彫り出すか。
俳句もまた、原則五七五しか無いリズムの束縛と、季語という連想増幅器を用いて、(文学の領域に移行するのであれば)これを成し得る、というのは、この論の前半において、一々の句の読みを展開してきたとおりだ。
短歌作品では、次の一首が最も自由詩作品に呼応するだろう。
崩れつつ生まれるように身の影のほとりを鳩は骨となりゆく
鳩が何を暗示するか、洪水の去った後のノアにオリーブの葉を運んできたのが鳩である事を考えれば、再生の希望だろう。だが、その鳩は「崩れつつ生まれるように」「骨となりゆく」のだから、自由詩作品における「死んだものでも生まれくるものでも生きているものでもなく生まれることができなかったものども」に呼応する。
ここで漸く俳句作品を読む事が出来る。三句ある。
水鳥のをらず水ある水のなか
鳩ではないが、羽搏くものである。水鳥としたのは、水から飛び立つ鳥だからだ。だが、「をらず」である。水鳥は居ない。居ない水鳥をわざわざ出すのは、願望として水鳥が居て欲しいから、水から飛び立つモノを切望するからだ。鳥は、よく魂に擬せられることを思う。
水は二種類あるようだ。水の中にもう一種類の水がある。水にしか見えないような何かかもしれぬ。それが「きみ」であるのか。水木に吸い上げられれば実るのか。
配られて花にいつぽんづつの指
この花は一枝であるように思われる。参列者に配られる花だろうか。花が供花であるなら、情景はわかりやすい。献花台に順に置かれてゆく花の枝に沿って、指が一本ずつある。献花する者達の指かもしれぬ。全て供えられた結果、全ての指達は献花台の向こうを、一度ずつは指すだろう。或いは元から花に、指すための指が(それは見える者にしか見えぬかもしれぬが)内蔵されているのかもしれぬ。指される事により存在できるものがあるかもしれぬ。
舌ふたつ出会ひし桃の正午なり
一見、エロティックに見える。舌は舐め、絡むものである。配されているのが桃であるから尚更だ。逢瀬自体を桃に喩えているというのが、一般的な読みだろう。だが、掲句は、自由詩作品と融合すべく配されている。だから、この場合、別の読みをも考えるべきだろう。
悲痛な自由詩作品を読んでから、掲句を読むと、これは語りを封じられた舌二つが出会ったように読める。語られ得ない「きみ」と、語り得ない「ぼく」だ。
そう思うと、桃は比良坂の境に立つ樹にしか見えぬ。正午は午前と午後の境だ。なぜ午前零時にしなかったのかを考える。一つには冥界に付きすぎるから、もう一つは作者が、幽明の境を隅々まで照らし出したいからか。「ぼく」が、「きみ」を何としても見出したいのなら。
5. 樹のおもかげ
ここで再び、この論の冒頭に挙げた句を読む。
樹の灰の樹のおもかげを蛇滑る
蛇が灰の上、おもかげの上を滑るのは、再生させる為か。この蛇は、霊妙な迅速な力で、樹を再生するだろうか。そのために、灰を滑るのか。おもかげは樹の記憶であり感情だろう。その灰に遺された記憶と感情を、蛇は保管し、再生を試みるなら。『名の灰』に記された「きみ」を、見出そうと試みるように。
作者が現代詩、短歌、俳句のいずれに進むにせよ、今の殆どの作家が言い得ず、言おうとも思わない領域へ進めば良いと思う。言葉の多重性の深みへと潜き、あらゆる出来事の背後に幾重にも絡み合う「潜在的形成力」を、見抜くようになれば良い。(それは滅多に見抜かれぬまま、複雑な膨大な機構を構成する無数の歯車のように組み合わさっている。だが、歯車をずらす事も抜き取る事も出来る筈だ。)
蛇は地祇の力を発現し、灰は、蛇の動きに蘇らんとして舞い上がる。灰は地を肥やし、樹々を育て、森を築こうとする。斎藤秀雄は、蘇りへの苦闘を書き続けるだろう。
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