〔俳句の沃土〕
地獄に灯る
舟として地獄に灯る夏布団 竹岡一郎
柴田千晶
『みらいらん』第4号(2019年夏)より転載
シナリオの師、馬場当はよく地獄の話をした。終わりの見えない階段をずっと降りてゆくと、死んだ母親が電信柱に生まれ変わっていたとか。先生が話す地獄の景色は、現実の景色とそう変わりがなくて、ただ死んだ人が、郵便ポストになっていたり、バス停や自転車、切り株なんかになって、日常に紛れていた。先生は、もう人に生まれ変わりたくないと思っていたのかもしれない。
竹岡一郎『けものの苗』の世界は、馬場先生が話していた地獄と少し似ている。冒頭の句、ただ夏布団に寝ていたはずなのに、いつの間にか地獄を漂う舟に乗っている。竹岡の俳句には、夢と現の境、この世とあの世の境がない。
句集に登場する動物や虫や草たちは、かつては人であったのかもしれない。
蛇となる途中の廊下拭き磨く
雑巾がけをしているうちに、廊下が蛇に変わる。いや、廊下の途中で人の方が蛇になるのかも。もうすぐ蛇になると思いながら廊下を拭いているほうがいい。ぴかぴかに磨いた廊下には、蛇になりかけている自分の顔が映っていて、もう人ではいられない悲しみがこみあげてくる。
でも蛇になってしまえば、人であった記憶はきっと消えている。
竹岡はその消えた記憶を手繰り、懐かしんでいる。「狐わらし」の章の扉には〈十三歳の私を迎えに来た母は狐であった〉という詞書がある。母と子の再会の場面を描いた十六句は童話のよう。
狐詫ぶ人の世に吾を置きしこと
白き尾に夜をくるみけり狐の母
狐跳び月嚙み取って呉れにけり
町の灯がみんな狐火住む人も
人に還り狐の言葉もうわからぬ
子を人の世に置き去りにし、十三年後に迎えに来た母狐。人目を避けるために夜を白い尾でくるんだり、月を嚙み散って子にやったり。母狐は離ればなれでいた時間を必死で埋めようとしているよう。けれど、子狐は人の世に戻ってしまい、もう母の言葉がわからない。
どうしようもない淋しさ。存在の不安のようなものが、俳句として立ち上がる。
紅蓮なす世の突端は尺蠖立つ
蟒蛇の舌に東京熔けても綺麗
蛸だらけなる廃園を逃げ惑ふ
朧より生れし巨艦が東京へ
ミサイルの光と知らず草ひばり
陥落の町の真中に撮られ家族
紅蓮なす世も、熔けた東京も、蛸だらけの廃園も異様な景色だ。東京は壊滅し、きっともう人は生きていない。
ではこの記憶は、だれのものなのか。
地獄に灯る夏布団に何かが乗っている。
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