【週俳11月の俳句を読む】
俳句的な、あまりに俳句的な
久留島元
栗の秋八王子から出て来いよ 西村麒麟
当たり前の日常が、小さな操作で俳句になる。
操作の方向を「栗の秋」という季語のもつ多幸感にもちこむのが、いつもながら麒麟の国、仙境に誘われる趣。
西村麒麟としてはすでに確立された文体のなかで何を見せるかだが、今回はすこし日常生活の要素が強く、桃源郷を離れ現代より。日記帳めいた句もあるが、この句、八王子だから詩になるのであって、例えば甲斐の国から出て来いよ、などとやってしまったら臭すぎて目も当てられぬ。
八王子から栗の名所へ、うきうきと人を誘い出し、うきうきと自らも出かける作者が浮かぶ。
水洟やテレビの中を滝流れ 西村麒麟
朴落葉まだらに雨の染み込めり 小野あらた
トリビアルな描写に定評ある作者、このあたりの表現はさすがだが、既知の世界という気もしないではない。
くつついて力のゆるぶ玉の露 小野あらた
同じくトリビアルに季語に向き合った句。
くっついて形のくずれた露玉を「力のゆるぶ」とした表現が巧みだが、同時に口語の「くつついて」の、ちょっと幼い雑な感じがいい味になっている。
定評があるということは、もう次の世界への期待もあるということで、若くして句集を編んだ作者がどこへ進むのかも気になるところだ。
木の葉雨犀の背の縮まつて皺 安岡麻佑
動物園と見れば実景だが、木の葉雨のなか動物園で犀の皺を見ているというのは、奇妙である。その奇妙さが、とても俳句的で、妙なリアリティがある。
冬銀河肢体ねぢれて球送る 安岡麻佑
なんらかの球技かと思うが、なぜ夜中なのだろう。ナイターだろうか、それにしては星空の存在感が大きい。
中七下五のリアルな描写力が見事で、それが際立つだけに背景となる季語とのかかわりがよくわからなかった。
どちらも大きな景の季語にリアルな描写をぶつける、という構成であるが、こちらはやや季語の存在感が勝ちすぎたか。
鴨川の冷たき土の音を聞く 柴田健
晩秋の鴨川、作者は流れる川の、その底の「土の音」が聞こえるほどに川に近い、川端などを歩いているようだ。
観光地も遠くはなく、晴れていれば有名な「等間隔カップル」が並んで、結構人気もあるはずだが、この句の情景は静か。日暮れ時か、青年らしい憂愁のなかにあって辺りの喧騒も聞こえないのか。
京都、滋賀を舞台にした句群、京都に学ぶ学生のはずだが、視点は旅人の、挨拶句に近い。作者の立ち位置が、やや不透明にもみえる。
2017-12-17
【週俳11月の俳句を読む】俳句的な、あまりに俳句的な 久留島元
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 comments:
コメントを投稿