成分表76 プレゼント
上田信治
「里」2013年5月号より転載
自分は贈り物を貰うことが苦手だ。子どもの頃からそうだった。
自分がそれほど(つまり、相手の気持ちにふさわしいほどは)嬉しがれないことを察して動揺するからで、受け渡しのセレモニーを、あたふたと終わらせようとしてしまう。褒められているときも、そうなる。
ひところ流行ったテレビの投稿ビデオ番組の定番に、子どもがゲームボーイをプレゼントされ、喜びのあまり「ゲームボーーーーーーイ!」と叫んで泣くというのがあった。
人間は、世界に完全に受け入れられたと感じた時、あんなふうに感情を爆発させるのですね。あれくらい、よろこべばいい、なにか貰ったら。
洋梨はうまし芯までありがたう 加藤楸邨
芸術とか表現といった行為も、人から人へのプレゼントの一種だけれど、それはふつうの贈り物とは違う手渡され方をする。
それは、贈り手によっていったん高く投げ上げられ、上のほうを通過して、すとんと受け手の手に落ちるのだ。
「上のほう」というのは、共同体とか人間集団のレベルということで、文化とも神とも全記憶とも言えるのだけれど、もともと宗教とごく近いところで生まれたであろう芸術とか表現とかの本質は、そういった上のほうを通して実現される「慰め」なのだと思う。
その贈与はリレーされて、続いている。
俳句は「挨拶」といわれて、横にいる人に手渡すという意味で、クリスマスのプレゼント交換に似たところがあるけれど、それにしても、いったん上のほうを通すのでなければ、表現行為として格好がつかない。
英語のプレゼントは「贈り物」であるのと同時に「現在」であり「現前」でもある。
語源のくわしいところは知らないけれど、ポンと目の前に現れる贈り物が、天から降って来たようなものだという実感が、きっと、その言葉には生きている。
ゲームボーイを貰ったあの子は、きっとそれを感じていた。
ああ、だから、俳句は、世界から降って来たものを、横の人に手渡すと思えばいいのか。
ゆふ空から柚子の一つをもらふ 種田山頭火
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