【週俳1月の俳句を読む】
左半分だけ拝む
江口ちかる
街道に銭を散らしてゆく鯨 福田若之
作者不詳の日本画が発見されたような。
山口晃は、日本画の大和絵のような世界に馬型バイクや(武士が跨っている!)たなびく雲の下の俯瞰図に、瓦屋根を載せたビルを描いたけれども、そういったハイブリットな感覚で、東海道五十三次の街道筋の上に鯨が飛翔しているイメージを思い浮かべた。
鯨は銭を散らしてくれるという。銭の散る音、よろずの手が差し出されるさま。
めでたい。
雑煮食ってゴジラはねむる檻の中 片岡義順
子どもの頃、ライダーものの怪人はにくらしかったのに、ウルトラマンの怪獣の味方をしばしばしたくなったのはなぜだろう。
ひとつには、巨大であることの哀切さだったのかもしれない。
直近のサイズよりぐっと小さめだった第1作当時ですら、体長50メートル、体重は2万トンだったゴジラである。そんなに大きいなんて、やはり哀しい。
ゴジラは水爆実験で突然変異し、ヒトへの恨みを抱き陸へとあがってきた。
そのゴジラが雑煮を食べてねむっている。
数々の建造物を破壊してきた彼であれば、檻を壊すことなどたやすいはず。あまんじて檻の中にねむるゴジラは何を思うのだろうか。そこに至る物語を妄想するといとおしい。
また、祝い箸をもつゴジラ、塗り椀を抱え込むゴジラ、餅を味わうゴジラ、のどにつまらせかけて胸をたたくゴジラ等々を想像し、ほのぼのもしたのである。
冬桜失禁の父慰めて 今井 聖
冬桜は、万人が愛でる姿形ではないかもしれない。
花は小さく、淡色で、枝ぶりも控えめである。だがしずかな美しさをたたえている。
失禁は父の存在をそこなわない。失禁の父を厭わず、叱らず、慰める家族もいる。
冬桜は父だと思った。
御降や坂の終はりに来て寂し 鈴木総史
『夢十夜』のだらだら坂を歩いてみたいと思う時期があった。
慈雨のなか、坂を(上っている感じがするが、どうだろう?)ゆき、やがて傾斜の終わりに立つ。さきは平坦な道なのか、目的地の門扉なのかはわからないが、坂の終わりが寂しいという。坂が終わりをはっきりとさびしむのではなく、坂によびおこされる微妙な感覚から解放されることへの意識下の寂しさではないか。
坂には感情を刺激する何かがあり、とらわれてみたい魅力をはらんでいる。
安売のタイヤ積まれて淑気かな 松本てふこ
黒いゴムタイヤが無造作に積まれているさまと、淑気の組み合わせ。
駐車場そばの屋外スペースだろうか。ふだんは日常のなかにさりげなくまじりこみ、車の一部として機能しているタイヤが、単独で、集団になり、しずもっている、
圧倒的なモノ感。
一種すがすがしく、平和である。
初富士の左半分だけ拝む 近 恵
一読して、おもしろい!と思った。
車窓のひとでいて、同行者に富士山がみえたよと教えられる。おくれて窓の外を見たときには、富士山は窓のフレームで半分に切られていたという状況なのだろうか。
だがそもそも、富士の左半分とは何を指すのだろう。
だれでも描きやすい絵のひとつが富士山だと思う。頭頂部が平らで白く、山裾へと左右対称に延び広がっていく。胴体は淡い青。だが脳内で平面的に把握している富士のかたちは、ひとつの見え方にすぎない。
新幹線の窓から見える富士を、Aは正面からすっかり見つくした気でいる。だが、富士山を中心として、Aより左へ90度の位置にいるBが見ているのもまた富士山である。Aは永遠に、Bにとっての富士山の左半分(もちろんぴったり一致ではないけれど)しか知らない、などと、益体もないことを考えたことであった。
机の上机の下の淑気かな 杉田菜穂
「机の上机の下の」の、すこしだけ違えて繰り返した語感がすきだ。
机の平らさは、こどもにとってはじめての地平線だったかもしれない。
机の下や箪笥のなかは日常のなかの非日常である。家のなかでのかくれんぼ。見つかるとわかっているのに机の下にもぐりこんだ。椅子をできるだけ引き寄せて息をひそめた。
さて、勤務先には机がずらりと並ぶ。机の下に、恋人やドラえもんや鎌をふりかざした使者や外階段やトマソンの扉がひそんでいないとどうして言い切れるだろう。きっとのぞけばたちまち消えてしまうのだ。
机の上にも机の下にも淑気がある。それはほのかに異なる淑気かもしれない。
義父に妻あり伊勢海老の味噌を吸ふ 佐藤文香
義母ではなく、義父の妻。
光沢を秘め、どろりとしてあやしげな色合いの味噌なのだろう。
義母は頭部の殻をささえもち、中身を箸でかきだそうとはせず、器用に味噌を吸う。
なにげない所作が、コケティッシュな表情を見せたのだろうか。
「義父に妻あり」の簡潔な文言が、ふだんと異なる空気をとらまえた瞬間を感じさせて、かっこいい。
■2018年 新年詠
0 comments:
コメントを投稿