2018-07-01

肉化するダコツ⑩ 採る茄子の手籠にきゆアとなきにけり 彌榮浩樹

肉化するダコツ⑩
採る茄子の手籠にきゆアとなきにけり

彌榮浩樹



蛇笏の句からしゃぶりとる、俳句作品が俳句であるための秘儀。
それをめぐる極私的考察の10回目。

この句、蛇笏の全六千数百句のなかでも、いちばんの偏愛句だと言ってよい。
この連載でとりあげてきた句はどれも、僕にとっての“神品”なのだが、その中でもこの句の“気色悪いチャーミングさ”は格別である。

この句の秘密を、4つ挙げたい。

1.一句を構成する語の多さ
「採る」「茄子」「手籠」「きゆア」「なき」という<詞>に、「の」「に」「と」「に・けり」の<辞>が組み合わされて、10の単語(「手+籠」とみれば11単語)で一句の世界が立ち上がっている。たいへん多い。だが、少しも“散らかった感じ”はしない。ことさらに分析しないと“語が多い”と気づくこともない。総体として「きゆア」を中心につややかな紺色の音や空気感がシンプルに体感されるように、緊密に構成されている。
その構成とはどのようなものか?

2.打ち出しの「採る茄子の」
ここにすでに仕掛けがある。「採る茄子の」から「手籠に・・・」まで至ると、僕はかすかな眩暈を覚えるのだ。

a 採る茄子の手籠にきゆアとなきにけり ・・・ 原句
b 茄子採れば手籠にきゆアとなきにけり ・・・ 改悪句

bならば、意味はすっきり通る。日本語では<私は・私が>という主体が常に言語表現の背後に潜んでいるから、bでは<私が>「茄子(を)採れば」と、上五全体が固まりとして主体の動作として受け取られ、「ば」で主語が変化して(接続助詞「ば」の前後で主語が変化するのは日本語としてごく自然な表現である)、「(採った茄子が)手籠にきゆアとなきにけり」と「茄子」を主語にした句に着地する。ごく自然な流れだ。

ところがaでは、「<私が>採る」「茄子の・・・(なきにけり)」と、上五「採る茄子の」のなかでいきなり「私→茄子」の主体の変転が行われる。そのため、「<私>が採る茄子の手籠に・・・(ん?)」のあたりで(僕は)意味が収集できなくなるのだ。意味のこの一瞬の攪乱は、しかし、「採る・・・手籠」のつながりによって、身体感覚としては破綻なく中七以降につながり、「きゆアとなきにけり」で、「採る茄子の・・・」との意味のつながりが明確になり、腑に落ちるのだ。このジェットコースターめいた意味の揺動が、下五の「なきにけり」に生動感を与えている。bよりもaの方が「なきにけり」が弾んでいる。

3.「なきにけり」のひらがな表記
ひらがな表記の<呪文化>効果については前々回詳しく検討したが、この句の「なきにけり」にも、そうした効果があり、一句全体の質感の精妙さを高めている。次のように「鳴く(啼く、でもよい)」に替えてみるとよくわかる。

a 採る茄子の手籠にきゆアとなきにけり ・・・ 原句
c 採る茄子の手籠にきゆアと鳴きにけり ・・・ 改悪句

cは、(宮沢賢治的な)メルヘンの感じが強くなるが、これは改悪だろう。嘘くさい。俳句作品としての迫真性、「茄子」らしさが失われてしまっている。原句aは、「鳴く(啼く)」というイメージを濃厚に孕みながらも、意味を表面化させないひらがな表記(=呪文化)によって、「茄子」らしさや「きゆア」の音の響きをリアルに読者に感じさせる。もちろん、そのリアルは何よりも「茄子が鳴く」という奇想によるものだが、それを前景化させないことがこの句の場合には大切なのだ。

4.「きゆア」、何と言ってもこの句の“気色悪いチャーミングさ”のキモ、だ。
擬音語は、意外性(飛翔)の高さと納得性(着地)の見事さの止揚がいのちだが、この「きゆア」はまさに絶品だ。硬さ、光沢感、ほのかな湿り気。まさに、採りたての濃紺の茄子の、視覚的印象・触り心地までもを、「きゆア」という音・表記で描出している。

a 採る茄子の手籠にきゆアとなきにけり ・・・ 原句
d 採る茄子の手籠にきゆあとなきにけり ・・・ 改悪句

dの、より気味の悪い方を好む方もいるかもしれないが、原句aに比べて読み取りにくいし、cの「鳴き」同様、dの「きゆあ」は獣くささが強すぎる。それを、「きゆア」と表記することによって、「鳴く」と見立ててはいるがあくまでも植物である「茄子」なのだ、という無機質・静物的な感じが加わっている。

総合的にこの句は、「茄子」を鳴かせるという奇想を、その奇想に溺れ・独りよがりに暴走するのではなく、さまざまな日本語表現の機微を織り込み俳句の措辞の技術を凝らすことで、読者が自然に感受することのできる真率な次元へと高めている。例えば、「手籠に」の「に」も、<音象徴>としての接触感が、単に<完了・強意の助動詞「ぬ」の連用形>などという意味の機能を超えた、読者の体感へのインターフェースとして絶妙に働いているのだ。

蛇笏のことばに、「最も地味な為事」というものがある。
「なにが世のなかで最も地味な為事かといって、俳句文芸にたずさわるほど地味なものは外にあるまいと思う」(第一句集『山廬集』序)。
掲句も、表現内容は、まったくもって地味なものだ。「茄子をもいで籠に入れたら音がした」。面白くも何ともない。
しかし、この地味が、「採る茄子の手籠にきゆアとなきにけり」と俳句作品化されることで<絢爛たる技を凝らして見事につくりあげた地味>に化す。これが俳句の凄みだ、この奇妙奇天烈な地味こそ俳句特有の味なのだ、と僕はこの句から強く思わされる。









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