2018-08-19

【句集を読む】運動形式から俳句形式へ 花谷清句集『球殻』を読む……黒岩徳将

【句集を読む】
運動形式から俳句形式へ
花谷清句集『球殻』を読む

黒岩徳将


「球殻」は花谷清第二句集。句集の章立ては「輪郭」「公転」「創発」「間隙」「反跳」「分岐」「等号」となっていて、それぞれ2011年〜2017年の作品を一年ずつ収めている。

青き踏むモーツアルトのソナタの眼

言わずもがな、踏青は屋外を彷彿とさせる季語なので、モーツアルトの眼は眼前にはない。モーツアルトだけでなく「ソナタの眼」であることで、一歩踏み込んで、その人の眼に深く入り込みたい気分になった。「ソナタを弾いている眼」ということか。ハ長調であってほしい。

実ざくろや古地図に水の冥き途

対象の奥を見つめ、流れるはずであろう水の暗さに想像を巡らせる。石榴の実の質感を思えば、目の前に暗い水があっても成立しそうな句である。しかし、それ以上に古地図に流れる(であろう)水、ともう一段階クッションを置いて間接的にすることで、より石榴の実の陰影が際立った。

時間より狭き空間つばくらめ

次元が違うものを無理に比較することで俳句形式に押し込めて詩情を生み出す方法はこれまでにもあったはずだ。その手法の試行に留まっているかどうかは、配する季語にも大きく関わる。燕の飛翔は時間から空間への移行だと思うと、この燕は、もがき苦しんで空間の外には出られないのかもしれず、苦しそうだ。もっと遠くへ飛んで欲しいと思うが、厳しいのかもしれない。

巻貝の渦紋につづく花うつぎ

「つづく」は難しい。空木の花に渦のようにループするイメージは、この句を見るまで思いいたらなかった。

仮死の紙魚着払いにて届きたる

着払いは俗な人間社会を表しているが、届いているのは本ではなく紙魚だと捉える主体の立場はやや浮世離れしている。人間より紙魚に興味があるのかもしれない。

残像の手毬残響の手毬唄

対句形式や像→モノ、響→唄だという理屈で捉えるだけで終わりたくない。キーは語順にある。「手毬」で切れているので、手と地に突かれた毬が時間差で響くことこそが認識のずれを生み、現実からの浮遊観を醸し出した。この手毬、読者の頭の中では永遠に上下運動を繰り返す。

運動、と書いたが、作者が物理学者であるという外部情報を差し引いて読もうとしても、「運動」は一つのテーマと言える。(動き、というよりも運動というニュアンスを重視したい)。

モトクロスの前輪鯖雲へ翔る
ぼうふらの激しく横へうごかざる
眼が合えば眼から寄りくる春の鹿
立ち尽くすぼくら疾走する蟻ら
去年今年止まり続けるゼノンの矢
滝壺へ右ネジ向きに下る坂
きさらぎのソリスト弦よりも撓る


各章から運動を志向した句を引いた。運動というテーマを基底にして、味付けの手法はさまざまだ。例えば蟻の句も前述の手毬の句と同じ対句構造だが、アングルが興味深い。「立ち尽くすぼくら」は地面から僕らの身長に向かっているカメラだと思ってもいいし、上から眺めていると捉えても面白い。「疾走する蟻ら」は一転して徹底的に地べたを這う視線だ。この句は句集の帯に「ことばに変換しておかなければ、失われてしまうような一瞬の感覚の凝縮」という言葉とともに紹介されているが、「疾走」という語を選択しているのにも関わらず、音のないスピードを蟻に見定めたことが「一瞬の感覚の凝縮」なのだろう。清は、運動する形式・座標が頭にまずあってから俳句を構成しているのかもしれない。その証拠に、滝壺の句は滝の美しさや季語としての本意にあまり関心がない。この把握手法には神社仏閣老病死をメインテーマに据えた句のような抹香臭い雰囲気を消去するのにも役立っている。

運動以外はどうか。集中の他の特徴としては、以下の三つが興味深かった。

一 章立てのタイトルの語が使われた句が元ネタにある
二 偉人の生年—没年を横に記した句がいくつか見受けられる
三 時々、立ち止まらせるように口語体の句が飛び出してくる。

一について、句を挙げる。

列島の暗き輪郭熱帯夜
自転しつ公転しつつ冬ごもり
創発の即刻直後秋つばめ
ジュラルミンの楯に間隙春疾風
翡翠か水に反跳のみ残し
分岐して分岐して滝音ひとつ
質量の前の等号冬隣


「創発」は個の行動によって、全体の秩序が規定されることを言う。人工生命や人工知能の分野で重要となる概念である。「即刻直後」は「即刻」と「直後」両方詰めているところが興味深い。「時間より狭き空間つばくらめ」でもがいていた燕が、創発により飛翔する。「輪郭」〜「等号」はいずれも硬いイメージを持った言葉で、その語が使われた句における核になっている。硬そうなジュラルミンに「間隙」を見いだすことで春の風が一気に吹き抜ける。等号の句は「前の」が難しく、読み切れなかった。

句集の題を冠した句「かぎりなく脆き球殻雁渡る」と「悴みて全き球にペルシャ猫」を横に並べて鑑賞すると、このペルシャ猫は’詰まっていると考えるのも楽しい。

二についてはこのような句である。

ジョブス逝く林檎一箇所だけ齧り
《スティーブ・ジョブス1955-2011》


夏の蝶レヴィ・ウォークとも違う
《ポール・P・レヴィ 1866-1971》


短夜の撃たれつづけるJFK
《ジョン・F・ケネディ1917-1963》


アンネに日記ゾフィーに調書ばらに露
《ゾフィー・M・ショル 1921-1943》


ジョブスの句は、あのApple社のマークはジョブスが噛んだのだいう断定だが、それほど驚きはない。ポール・P・レヴィは調べたところ数学者で、レヴィ・ウォークはランダム・ウォークという株価の変動 • 微生物の運動などといったいろいろな量が時間の経過とともにランダムに変化していく量を確率論の立場で表現した最初の人がレヴィであることから付けられたものらしい。要は、夏蝶の動きとそのグラフの変遷を重ね合わせたということである。

ケネディとゾフィーは社会詠の一歩手前ということだろうか。政治的主張を述べているわけではなく、「撃たれ『つづける』」と時間を引き延ばしたり、薔薇の露にゾフィーの無念を集約させる。

三について、「異物としての口語体」が突然飛び出してくる感覚もそれこそピンポン球が跳ねるようでもある。

シーシュポス午後は爆睡してごらん

シジュフォスではなく、「シーシュポス」を選んだことも、「ごらん」と響き合っている。



ランダムウォークの参考資料
file:///Users/kuroiwatokumasa/Downloads/sotugyou.pdf

花谷清「球殻」
http://furansudo.ocnk.net/product/2425





















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