【週俳7月の俳句を読む】
縦と横
鈴木茂雄
ふと思ったのだが、キーボードを指で打つ軽快さを得た代償として、文字を線でたどって紙の上に言葉を綴るという楽しみを失くしたような気がする。それと同じように俳句を横書きで書いたり(打ったり)読んだりするようになって、縦書きの俳句を上の句から下の句まで一気に読み下し再びもとに戻っては一句全体に反響させるという俳句的読書法、いわゆる「行きて帰る心」の味わいを忘れてしまっていることに気がつくときがある。「俳句はやっぱり手書き、縦書きが似合う。」(Twitter)そんなことをつぶやいたあとにこの「俳句を読む」の原稿依頼のメールが届いた。届いたタイミングがわたしには偶然と思えず、今回はこのことに触れて書こうと思う。
湯浴みの時間蜘蛛たれさがる時間 加藤知子
ネット上の横書きの俳句は、ときにキャッチコピーのようにコトバがきらきらして縦書きより訴求力がある(ように思える)。タップダンスのような軽快さを体感する。だが、その代わりに縦書きの俳句を読むときに覚える立句の重厚感と言ったものが奪われたような気がしてならない。いずれにしても、横書き俳句を読むときは、これらの呪縛から心を解放させてやる必要があるだろう。
たとえば上掲の句がそうだ。なんと横書きのよく似合う俳句だろう。一読、キャッチコピーのように横に一列に並んだ文字がいっせいに目に飛び込んでくる。左から右へと視点を移動させると、「湯浴みの時間」と「蜘蛛たれさがる時間」の二つのまとまった文字列が右から左へと電光掲示板のように流れ出す。だが、よく見ると、ときどき流れが左から右へ逆流しているようにみえる。目の前をさっと流れ去ったようにみえて、実際はあの電光掲示板のように右から左へ何度も繰り返して文字は現れる。一瞬、文字は逆流してはまたもとの位置に現れるのだが、その文字がコトバになって具体的な像として立ち上がろうとしないのだ。横書きを横書きのままで読むといつもこうである。
縦書きにして読むとどうだろう。ノートに書かれたものや句集に収められた縦書きの作品になったときの印象を思い浮かべてみよう。上から下へ読み下す。すると、文字の周囲に白い空間がひろがる。紙に刻まれた文字が凹凸をともなうコトバとなってにわかに浮かび上がろうとする。「湯浴み」と読んだ瞬間に「時間」はそこでいったん静止し、白紙に描かれた、やがて裸体になるであろう輪郭から、微かな湯気と共に滲み出てきた泡のようなものがむくむくと湧き立ち、まだ形をなしていないものが形をなそうとして起き上がり、色に染まり、陰影を深め、豊満な肉体を自ら形作ろうとする。「湯浴みをする女」だ。そう思ってしばらく眺めていると、こんどはまなじりに静止していた「蜘蛛たれさがる時間」がじりじりと小刻みに動き出す。
その瞬間、わたしは読み手から書き手の位置へと移動する。いやそうではない。読み手から書き手へと変身するのだ。湯浴みする女を眺めていたはずのわたし自身が気がつくと浴槽に浸かっていて、天井から垂れ下がっている蜘蛛を見上げているのである。すると今度はまた色彩のついた「湯浴みの時間」から「蜘蛛たれさがる時間」というモノクロの世界へテレポートしてしまう。「湯浴み」や「蜘蛛」と対峙する視点が変わったのではなく、視点の主体そのものが変わったのである。
この句を書いた(もちろん縦書きで)作者自身も書き上げたものを上から下へと何度も読み返しては推敲しているうちに読み手に変身して、しばらくは行きて帰る心を味わって読んだことだろう。縦書きの一行詩には行きて帰る心が作動する装置がある、ということをあらためて知る一句となった。
しかし、それにしても、入浴することを「湯浴み」と言ったり、蜘蛛が垂れ下がっているという情景はどこか現実離れしていることを暗示していて、しかもこの「時間」は時の流れのある一点からある一点までの「時の長さ」のことなのか、時の流れのある一点の「時刻」のことを言っているのか、よくわからない。入浴しているときに蜘蛛が垂れ下がってくるという、これは作者にとって日常的な空間なのか、それともそれとは異なる世界のことなのかということも、よくわからない。湯浴みの時間/蜘蛛たれさがる時間、というこんな単純なフレーズだというのに、単純なフレーズゆえにコトバの交差が理性では合理的な解釈ができないシュールな世界へと読者をいざなう。
ただ、注目したのは「たれさがる」という平仮名表記の箇所。それが意図的であっても無意識の結果であっても、かぎりなく透明に近い蜘蛛の糸を描こうとしているのに違いなく、それは作者の奥深い所にひそんだ意識と深く繋がろうとしている心の表れにほかならないと思うのだが、どうだろう。
このほか印象に残った作品を挙げておこう。
脳の襞さわぐ万緑かがみの間 加藤知子
よたよたとみんな大人や夏の家 西村麒麟
八月の終電はみな広島へ 紀本直美
地球儀の子午線のずれ夏休み 金山桜子
高糖度トマトみたいな日々でした 秋月祐一
2018-08-12
【週俳7月の俳句を読む】縦と横 鈴木茂雄
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