2018-09-09

【山田耕司句集『不純』を読む】曖昧なもののために 穴・卵・骨・ボタンA 伊東光穂

特集【 山田耕司句集『不純』を読む】
曖昧なもののために 

穴・卵・骨・ボタンA

伊東光穂


人間だってナマコと一緒だよ。入り口と出口をつなぐただの筒なんだ
(絲山秋子『愛なんていらねー』)


はじめて『不純』を読んだ時に、性的な句の多さが気になった。

例えば、穴の句や卵の句。穴と卵と言えば、性的な語彙の中心にある言葉である。また、穴の句は性的な行為を示唆していると思われるような表現もある。しかし、性的な高揚は率直に句にされてはおらず、「穴」の句の場合でも、単に性的なものとして把握され得ないような曖昧なつくりになっている。これはなぜなのか。

また、『不純』句中には肉体の部分や服はしばしば出てくるが、肉自体は描かれていない。一方、「骨」の句ははっきりと作られているのだ。

穴、卵、骨。これらを、人間を含む生命の誕生と死後に関わる象徴として読んだ時に、『不純』中の性に関する句を捉える上で、重要な「曖昧さ」の感覚が読み取れるのではないか。

本論考は、まず、文学作品や人類学的な知見を参照しつつ、『不純』の穴、卵、骨の句が持つ曖昧さを分析する。そして、穴、卵、骨によって描かれた曖昧な宙吊りの状況から抜け出す力を「ボタンA」句に読み取る試みである。

挿せない穴

挿す肉をゆびと思はば夏蜜柑

 『不純』

巻頭句である。「ゆび」と思える棒状の何かを何かに挿している。挿すと言うからには、挿せるほどの柔らかさを持った何かであろう。

柔らかな何かに棒状のものを挿すことを性行為の喩であるとも読めるが、なぜかこの句では「ゆびと思はば」(思えば)と曖昧に書いてある。このような書き方によって、性行為の表象ではなく、「性行為を強くイメージさせながらも違うかもしれない」という曖昧さを描き出している。さらに、挿しているものが結局何の肉か分からない、という二重の曖昧さによって句が成り立っている。

春それは麦わらを挿す穴ではない
挿しどころなく歩くなり秋なすび
鼻のあなに舌は届かずヒヤシンス
穴ひとつ足らぬ一期を花見かな 
豆の花おのが耳穴は覗けず


これらの句で「穴」はほとんど、地面や人間の耳や鼻など特定の部位の穴だと理解されうるが、文学作品や神話の中では、「穴」を人間の肛門とヴァギナの表象として理解する傾向が広く見られる。また、巻頭句の性的な印象からも、穴をそのようなものとして理解するのはあながち誤読であるとも言えないだろう。

ここで、穴を象徴として深く読み込むために、稲垣足穂の『A感覚とV感覚』とバタイユ『エロティシズム』の「穴」に対する分析を参照し、『不純』の穴への感覚との相違を探っていく。

結論を先取りすれば、足穂がA感覚を「飛翔」と結びつけた点とバタイユが穴を恐怖と恥辱の領域とした点が異なるが、「穴への憧れ」は共有している。

『A感覚とV感覚』において、足穂は、性的感覚をA(アナル)感覚、V(ヴァギナ)感覚、P(ペニス)感覚を分け、A感覚が人間の最も原初的な感覚であり、芸術的創造性に深く関わることを論じていく。

まず、フロイト以来中心的に論じられてきたP感覚とV感覚が、A感覚から派生したものでしかないと論じる。A感覚は「セックスの原始形態で、単孔類時代のまま取り残されている」(稲垣、219)。単孔類は名前の通り、尿道・生殖孔と肛門が分化していない総排出腔(単孔)を持つ、かものはしやハリモグラといった動物種である。

つまり、人間のA感覚とは、排泄と生殖が分化されていない生のあり方への憧憬であり、ここからA感覚の抽象化傾向や「未生以前への憧れ」(無機界への還元)という性格も描かれるのだ。
 A感覚の特徴として、①A感覚は子を産むためにはなく、社会からの生産要請から自由であるため、精神性が高く②V感覚のように、子宮という壁がなく、肛門-口-外部をつなぐ「無底」の穴であるため、人間精神の無限への憧憬と関わりがある。

「云おうとするのは、児童期以来、ひそかに保持されてきたA感覚に重心を置く自己色情が、抽象能力と結合して、能く個性的な思想や芸術を生み出したというのである。」(稲垣、242)禿鷹が、お尻をつつく夢を見て、A感覚を刺激されたダヴィンチは、(肛門から)飛行機の卵を産むことを夢見る。より直截に言うと「A感覚にはつばさがある」(稲垣、219)のである。


松岡正剛は『フラジャイル』の中で次のように述べている。

足穂は肉体そのものの機械学化を試みて、人体をA(肛門)からO(口腔)に突き抜ける無底のAOパイプとみなしていた。・・・われわれの人体にはOからAへ、またAからOに抜けている一本のパイプがある。そのパイプの中は発生学的にも「外部」であって、もしAから風を吹き込めば、そのまま十六観法の阿闍梨の口から吹き出る気息よろしく、風はOから外へむかってふきだしていくにちがいない。その、本来は外部であるはずのパイプを、足穂はたんにOからAにいたる消化管とはみなさずに、人間のホモエロスを垂直に貫く精神機械学的なAOパイプと見たわけだった。こんな一節がある。「そもそもA感覚は、根源的遼遠におかれているとともに、遠い未来からの牽引でもあった。それはつねに根源に向かって問いかけながら、それ自ら感覚的超越として諸可能性の中に飛躍していくところの、遠く遥かなる感覚なのである。(松岡、239)

足穂の言うA感覚は、時間発生以前の「なつかしさ」と時間の彼方の永遠への「あこがれ」を合わせもった感覚なのかもしれない。

『不純』の句の穴は、AなのかVなのかは曖昧である。後にも述べるように、この曖昧さは方法として選び取られたものでもあるが、AとVの持つ近接性によるものであるとも言える。バタイユは、『エロティシズム』の中で、汚物と腐敗と性欲の領域の近接性を語る。

屍体に対していだく恐怖は、人間の源泉としての下腹部の排泄に足して私たちがいだく感情に近いのだ。恐怖の感情は、私たちが猥褻と呼ぶ肉欲的なものを眺めた場合のそれに似ているだけに、この二つの比較にはますます意味があろう。性器の導管は排泄をする。私たちはこれを「恥部」と呼び、肛門をもこれに結びつけている。聖アウグスティヌスは生殖器官と生殖機能の猥褻さについて苦しげに主張した。「私たちは糞と尿のあいだから生まれるのだ」と彼は述べている。・・・全体的に眺めれば、汚物と腐敗と性欲の領域は、ずれながらも一つの領域を形づくっており、その関連はきわめてはっきりしているのである。(赤坂、113)

このような、AとVの場所の近さに加えて、生命エネルギーの循環も、これらの領域の近接性を示している。民俗学者の赤坂憲雄は『性食考』でバタイユを引きながら次のように述べている。

ある者の死は、生殖に仲立ちされて、ほかのだれかの誕生と相関的である・・・生はまず「生のための場所を残しておく死に従属し、次いで、死に続く腐敗に従属する」が、この腐敗は「新たな存在を産み出すために必要な養分を循環させる」という役割を託されている。(赤坂、195―196)

腐敗はわれわれが「そこから出てきて、そこへ帰ってゆく」世界そのものの要約であり、引き裂かれた両義性をはらんでいる。「活気にみち、悪臭を放ち、生温かく、恐ろしい面貌をしたこれらの物質、そのなかで生命が発酵し、卵と胚と蛆がうごめいているこれらの物質」から出てきたわれわれは、それに恐怖しつつ魅惑されるという両義的な反応をせざるを得ない。(赤坂、197)

バタイユによると、このような生命の根源的な領域は社会の禁止の対象になる。その禁忌を破ることで恐怖と魅惑に彩られた生/性と死に近づくエロティシズムが得られる。よって、「エロティシズムとは死に至るまでの生の称揚である」。

以上のような足穂とバタイユの穴に対する感覚と、山田耕司の句の感覚には大きな隔たりがある。穴の句を見返してみよう。

春それは麦わらを挿す穴ではない
挿しどころなく歩くなり秋なすび
鼻のあなに舌は届かずヒヤシンス
穴ひとつ足らぬ一期を花見かな 
豆の花おのが耳穴は覗けず


穴への「挿しどころがなく」、穴に舌が「届かず」、穴が「覗けず」、穴が「足りない」。穴に挿すことへの不能性を描きながらもわれわれがそこから生まれ出た原初の穴への憧憬を捨て切れずさまよっている。

この不能性は足穂やバタイユには見られないものである。穴への憧憬は足穂とバタイユと共有しているものの、足穂の「飛翔」感覚やバタイユの「恐怖や腐敗」は感じられない。このような「穴」の句の性的な不能感や表現の曖昧さは、後に述べる卵の句にも同じように見られるのである。

性と死が入り交じる曖昧な領域としての穴。そこはわれわれの「ふるさと」である。しかし、『不純』の句にはわれわれはそこに帰ることができないという認識をのぞかせるものがある。

ふるさとや玉にラムネの底とほく
涅槃西風ゆりかごに片脚しか入らず
とり肉が卵をくぐり涅槃西風




孵化しない卵 

寒卵割れば出すなり淡きもの

   眼の球はぬれつつ裸ふきのたう
秋すだれまぶたは割れて目は濡れて
目の玉の羽化せぬことを遠花火


卵に関する象徴を理解するために、バタイユの「目玉の話」(生田耕作の「眼球譚」という訳で広く知られている)から始めたい。

・・ある日、午後六時の傾いた太陽が浴室を照らしだすころ、半分中身が殻になった玉子が一個便器の水に流され、奇妙な音を立てて水を吸いこみ、私達の目の前で沈んでしまいました。これはシモーヌにとって重大な意味をもつ出来事でした。彼女は身をこわばらせて、長く快楽の絶頂をきわめながら、私の目玉を唇で挟んで、いわば呑みこんだのです。そして、目玉を乳房のように執拗に吸って離さず、私の頭を引っぱって便器にまたがり、水に浮かぶ玉子めがけていつになく勢いよくおしっこを注ぎかけ、明らかな満足感を味わったのでした(バタイユ、78)。

『目玉の話』の中では、目玉と玉子に加えて、睾丸のイメージも重ねられている。そして、性器を媒介とした睾丸/目玉の摘出・挿入による涜聖的行為によって激烈な快楽を得ることが描かれている。なぜ卵がこのように汚されるのか。それは、卵が世界/宇宙(誕生)の象徴であることに由来している。

澁澤龍彦の『宇宙卵について』(『胡桃の中の世界)所収)によると、キリスト教において、卵は聖母マリアの「処女懐胎の伝統的なアレゴリー」であることに加え、中世キリスト教会の伝統では、「処女懐胎によって生まれた幼児キリストのシンボル」でもあった。澁澤は更に視野を広げ、世界各地の宇宙卵神話の中に描かれた象徴としての卵を取り上げ、卵が世界/宇宙の開闢と重ねられてイメージされてきたことを詳らかにしている。

卵の中に胚がふくまれ、その胚から世界が生じたという、卵によって説明される宇宙発生の神話は、ケルト、ギリシア、エジプト、フェニキア、ティベット、インド、ヴェトナム、支那、それにシベリアやインドネシアにいたるまでおよそ世界中のあらゆる民族のもとに認められる、もっとも普遍的な象徴の神話である。日本の『古事記』の伊邪那岐・伊邪那美神話に現れる「葦牙の如く萌え騰がる物」もエリアーデによれば、この宇宙卵の最も典型的なものの一つにほかならない。・・・「卵」とは、エリアーデによれば「全体性のイメージ」(「東方起源」叢書『世界の誕生』の巻末論文より)であり、一般に組織の最初の原理として、カオスから生ずるものである。やがて卵は2つの部分に分化して、天と地、昼と夜、太陽と月、火と水、男性と女性などといった、相互に対立的なものを生ぜしめるであろう。・・・このように卵のシンボリズムは、創世神話において世界の誕生を説明するものであるとともに、二元的な対立の分極作用をふくんだ原初の一元性、存在の多様性を萌芽としてふくんだ原初の現実という観念をも、同時に意味するものであるということを強調しておかなければなるまい。・・・だから、卵は本質的に両性具有なのである。・・・原初の一者とは、まだ時間の作用によって毀損されていない、完全な、円満具足した充溢であり、要するに卵なのである。天地創造とともに、つまり卵が砕かれるとともに、時間が始まるのである(澁澤1988;102-103)。

このように、宇宙卵神話と両性具有神話は「同じ原理の二つの表現」であり、だからこそ世界各地で創造と生命の象徴となっている。そして、性交とはこのような原初の一元性回復しようとする試みである。

しかし、山田耕司の卵の句にはこのような宇宙卵としてのイメージは読み取れないのである。

寒卵割れば出すなり淡きもの

澁澤によると、卵を割ることは天地創造の象徴であるとされていたがここでは曖昧な淡きものが流れ出るだけである。まるで黄身がなく白身だけの卵であるかのように、生命感が感じられず気味が悪い。

バタイユにならって目玉を卵の表象として考え、上記の句を読んでみる。

目の玉の羽化せぬことを遠花火

目の玉は飛べない。「飛行機の卵」を産もうとするA感覚を論じた足穂との違いはここにもある。

秋すだれまぶたは割れて目は濡れて

まぶたが割れて濡れている目は、秋すだれによって視界が遮られているのだろう。また、まぶたが割れることは寒卵の句に連なるだろう。

以上のように、『不純』の穴と卵の句については、バタイユや足穂に比べると性的不能性の影を帯び、曖昧に描かれている。次章では、このような表現の曖昧さ≒「不純さ」が選ばれたものであることであることを、海鼠を例に論じてみたい。

海鼠・この曖昧なるもの

羽化もせずもう酢海鼠となつてゐる
泣く人に海鼠を見せてをりました
ゆく雲を足裏と思ふ海鼠かな


海鼠は人間的な秩序に収まらない生物である。

前後があるが、頭や尾は無い。尻から呼吸用の取水をする。口は裂けており、口の周囲には口腔から出てくる管足以外の器官は無い一方、肛門には「肛歯」と呼ばれる歯がある。このように、海鼠は人間の上下/入口出口(口/肛門)の秩序の外にいるものである。

この句集における海鼠の句は三句を数えるばかりだが、この句集によって示されている性の感覚は、海鼠に象徴される「曖昧さ」に貫かれているのではないか。バタイユを引くまでもなく、そもそも性を句にすることが「不純」として捉えられることもあるだろうが、この表現上の「曖昧さ」こそ「不純」を理解する鍵である。

「不純」なものを考えるうえで手がかりとなるのが、人類学者メアリー・ダグラスの著書『汚穢と禁忌』(原題:Purity and Danger)である。PurityとはPure(純粋)であることを意味する。そして、Pureの対義語は”Impure”つまり 「不純」である。ダグラスは神話や当時の未開民族のフィールドワークから共同体が「不浄/汚穢」なものをどのように認識し、排除あるいは聖化しているかを分析した。

第一に、汚穢は共同体の周辺部に生まれると想像される。そして未開民族の共同体に、より明確に観察されるように、共同体の周辺と身体の周辺とはパラレルなものとして捉えられる。未開民族が肉体の開口部や排泄物に大きな関心を示すのは、それらが社会の周辺部を象徴するからであり。いかなる社会も、またいかなる観念の構造も周辺部は不可避的に脆弱であるため社会の崩壊を導く恐れがある。周辺部は、自己と他者との境界が曖昧になる部分でもある。

第二に、曖昧なものは危険である一方、共同体や個人に新たな力をもたらすものとされている。ダグラスはコンゴのレレ族によるセンザンコウ(ウロコの生えたアリクイ)に関する儀礼を例に挙げる。センザンコウはレレ族の動物分類に矛盾をもたらす存在である。

それは魚と同様にウロコがあるのに木によじ上る。哺乳類というよりか卵生のトカゲに似ているけれども、幼獣に乳を与える。そして、レレ族にとってその最大の意義は、他の小型哺乳類とは違って一匹しか子供を産まないことであるのだ(ダグラス、374)。

レレ族は、一度に多くの子を産むという多産性によって動物を定義しており、一度に一人の子しか産めない人間と区別している。だからこそ、一匹しか子供を産まないセンザンコウは異例であり、動物と人間の境界を揺るがすものである。一方、人間が双子を産むことも人間的限界を超える異例なことである。

こうして、人間界における双生児の両親と森林界におけるセンザンコウとが、豊穣の源泉として祭式に取り入れられるのである。センザンコウは嫌悪されたり完全に異例とされたりすることなく厳粛な儀式に取り入れられ、新たに成人の資格を獲得したものはそれを食べることによって仲間に多産性を与えることができるとされるのである(ダグラス、375)。

これらのすべてのことから引き出される教訓は、生の事実は混沌たる無秩序だということであろう。もし肉体のイメージから不快感を与えない側面だけを抽出するようなことをすれば、我々はそれだけ歪んだものを見る覚悟がなければならない。肉体とは多少小孔があいた水差しのようなものではないのだ。

別の比喩を用いれば、肉体はつづれ織りのようなものではない。雑草をことごとく除去してしまえば地味は痩せてしまう。庭師は引き抜いた雑草を土に戻すことによってともかくも豊饒性を保たねばならない。

ある種の宗教が異例なるものないしは忌むべきものを特別に扱い、それらをして善きものを生むための能力たらしめるのは、雑草を鋤き返し芝を刈って堆肥を造るのと同じことなのである。

このことこそが、不浄なるものがしばしば新生の儀式に用いられるのはなぜかという問題に対する回答の一般原理なのである(ダグラス、365)。

尻から呼吸し、肛門に歯がある海鼠は無論、「不純」なものである。穴と卵を例にとって述べたように、『不純』中の重要な句は人間の穴の秩序を攪乱する、海鼠のような曖昧さを特徴としている。山田耕司は曖昧さによって、俳句という文芸に新たな生命をもたらそうとしているのではないか。

余談だが、本章の最初に掲げた

羽化もせずもう酢海鼠となつてゐる

と前章で挙げた

目の玉の羽化せぬことを遠花火

の句と関連付けて読むと、海鼠(なまこ)と眼(まなこ)の類似が見えてくる。半分言葉遊びだが、海鼠/眼が「羽化しない」つまり「飛べない」ことは、前章で述べた、A感覚的なものとしてだけでは『不純』の句は捉えきれないということを示唆している。

しかし、『不純』には穴や卵といったふるさとに帰れず、曖昧さにとどまったままでいる状態の句だけではなく、人間の行き着く先を詠んだ「骨」の句がある。

みんな骨 

ものの骨白露の皿に戻さるる
口から出すいらない骨よ秋彼岸
骨埋めてしばし見てをり春の泥


赤坂憲雄『性食考』では、仏教の男性僧が俗世への執着を捨てるために書いた「九相図」という絵画のジャンルについて下記のようにまとめられている。

「九相図」は屍体が朽ちる過程を九段階に分けて観想することによって自他の肉体への執着を滅却する、九相観(九想観)という仏教の修行に由来している。この九相観を行うことで、どんな美しい容姿も汚物の上を仮の姿で覆い隠しているようなものであると知り、淫欲を防ぐことができると説かれる。屍体が朽ち切り、骨だけになった状態は、八相(骨相:膿膏を帯びた一具の骨、又は純白でばらばらになった骨)または九相(焼相:焼かれた骨)という九相図の最終段階である。白骨は屍体がバタイユの語る恐怖と魅惑に彩られた腐敗のプロセスを終えた状態である。

腐敗ののちに訪れる白骨化は、死者の憎悪/生者の畏怖がともに解消される契機となるだろう。白骨はもはや生き残った者たちに、嫌悪や恐怖を感じさせることはない。それは「死と解体」の基本的な和解をもたらすのだ(赤坂、197)。

※またも余談だが、本書の表紙を描いた山口晃にも「九相圖」という作品があり、彼の好んで描く馬バイクが朽ち果てていく様が描かれている。

『不純』中の屍体は九相図で言うと、腐敗の段階が描かれず、最終段階の骨のみが描かれている。 腐敗ではなく腐敗の後に残る「骨」しか句には出てこないことからもバタイユの感覚との違いが見られる。『不純』句中で肉の悦びや腐敗があからさまに描かれないことは、曖昧さという表現上の戦略であるということは先にも述べたが、そもそも作者は性的な高揚(の反復)への諦めに近い感情を抱いているように思われる。

絶頂に来たりて毛虫ただ戻る

この諦めは下記に述べるように「結局は皆骨になる」という認識によるものなのではないか。例えば、下記の句では生/性の高揚の場所が死の場所と同じであることが示唆されている。

鶯やしやぶるくちよりでるめだま
口から出す要らない骨よ秋彼岸

妙な声出すまで春の泥うがつ
骨埋めてしばし見てをり春の泥


※春の泥をうがつことが性的な隠喩であるとすれば、妙な声とは喘ぎ声である。

山田の句はこのような性と死の両義性を捉えている。また、結局人間は皆死ねば骨になるという冷めた認識も伺える。この認識が性の高揚を素直に句にすることを妨げているのではないか。

では、なぜ俳句をつくるのか。穴から出て、穴の中へ帰ることを求めつつも帰りえず、しばらく生きて骨になる私が俳句を詠むとはいかなることであるか。この問いに答え得る手がかりとして次の句を取り上げたい。

古池茶で乾杯

古池や押すに茶の出るボタンA


まずはこの句のイメージを読み取ってみたい。社食や学食に置かれているような飲料を出す機械に「A」と書かれたボタンがある。それを押してみる。茶が出る。

ボタンを押すこと自体、またボタンを押した結果、液体の出てくること自体に特別な感動はない。しかし、押す前には只の「ボタンA」であったものが、「押すと茶の出る」ものと気づいた。ここにわずかな驚きがある。あるいは作中主体はボタンAが茶の出るボタンであること慣れ親しんでいるのかもしれない。

だが、あくまでもボタンAと茶の関連は偶然である。なぜなら、商品ラベルの見えるボタンではなく、「ボタンA」だからである。つまり、明日ボタンを押したら茶ではなく、コカ・コーラが、はたまた知らない飲み物が出る可能性もある、ということだ。

ボタンAを押すことは、慣れ親しんだものを繰り返しているだけの作業ではない。何が出るボタンか明示されていないからこそ、私たちはボタンAを押し続けるのである。

言わずもがなではあるが、この句は芭蕉の古池や~の句を下敷きにしている。また、この句は芭蕉を引用することでこのような日常の小さな発見を5・7・5に変換し続ける俳句への自己言及的な批評を行っている。すなわち、俳人はそこにあるボタンAを押すことによって似たような句作を繰り返している(に過ぎない)というような苦みのある諧謔が含まれている。

さらに、古池の澱みや匂いと、機械のタンクの中の茶のイメージが重なり合っている。また、蛙が古池に飛び込む音と機械が低いうなりをあげながら茶を出す音もずれながらも重なり合っていることで、イメージが重層化している。

しかし、先にも述べたように、ボタンAからは永遠に茶が出てくるわけではない。何が出るボタンか明示されていないからこそ、私たちはボタンAを押し続け、句を作り続けるのだ。それは、世界の偶然性/可能性を受け入れ、喜ぶことであり、偶然性に賭けることでもある。ボタンAから出てくる名前のないものに名前を与えること。それは端的に言って「詩」だ。世界にあるものの名前を忘れてみること。名付け直してみること。それも詩だ。

さて、私のボタンAからは何が出てくるだろうか。しかと味わうことにしよう。


>> 左右社HP『不純』

■参考文献
赤坂憲雄『性食考』岩波書店、2017年
稲垣足穂『稲垣足穂コレクション A感覚とV感覚』河出書房新社、1987年
澁澤龍彦『新編 ビブリオテカ澁澤龍彦 胡桃の中の世界』白水社、1988年
ダグラス、メアリー『汚穢と禁忌』塚本利明訳、ちくま学芸文庫、2009年
バタイユ、ジョルジュ『マダム・エドワルダ 目玉の話』中条省平訳、光文社、2006年
*バタイユ、ジョルジュ『エロティシズム』『ジョルジュ・バタイユ著作集』第七巻、澁澤龍彦訳、二見書房、1973年
松岡正剛『フラジャイル 弱さからの出発』ちくま学芸文庫、2005年

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