2018-09-09

【山田耕司句集『不純』を読む】“純粋”を逸脱する 高須賀真之

 特集【 山田耕司句集『不純』を読む】
“純粋”を逸脱する

高須賀真之

山田耕司の第一句集『不純』を読んだ。読後、既知のせかいがひっくり返ってしまうような、そんな錯覚に襲われ、まだ目の前のせかいがぐらぐらと歪んで見えている。

まず目に付くのは表紙だ。山口晃によるイラストは違和感に満ちている。屋台から電柱が伸びている、というよりも、電柱を支え(中心部)として屋台が形成されている。その屋台も売っているものはおでんや蕎麦ではなく「珈琲」と「雑貨」である。そして空へと伸びる電柱の先には屋根がついていて、なにやら鳥の巣箱のようなものまで見える。そこから伸びる電線はねじれの法則のようになっていて、けっして交わることはない。

驚きはまだつづく。目次を開けてみて、そこに記された言葉の異様さに呆気にとられる。これはいったいなんなのだ?

これは読んでみればわかるのだが、各章のタイトルは句からの引用になっているもの(「一 ボタンA」なら<古池や押すに茶の出るボタンA>、「三 目隠しは本当に要らないんだな」なら<向日葵よ目隠しは本当に要らないんだな>、など)、引用ではないが基になっているであろう俳句があるもの(「六 眼球は常に全裸」なら<眼の球はぬれつつ裸ふきのたう>)もあるのだが、多くの章タイトルはもはやなにを基にそのタイトルが付けられたのかよくわからない。「二 身から出たサービス」ってのはいったいなんだ?もはやダジャレじゃないか・・・「五 山田耕司VS山田耕司」とは?(これも読めばわかるが、第五章は山田耕司の句と山田耕司の句を戦わせるというメタ的な構造をとっている)・・・それから「十 脱ぎたては柔らかい」ってなんだ?・・・まだ肝心の俳句に至ってすらいないのに、この時点ですでに『不純』ワールドに迷い込んでいる。

そして句集をひと通り読んでみて、どうやら山田俳句には人間と人間でないものとの境界の曖昧さが、もっと言えば、人間が人間であるという前提に対する疑いがあるように感じる。

 挿す肉をゆびと思はば夏蜜柑

句集第一句目。認識の順番としてまず「ゆび」を認識し、そしてそれが「肉」である(肉体の一部である)と理解するのがおそらく“ふつう”だろう。だが、この句ではまず「肉」を認識し、そしてそれを「ゆび」であると思うという。ここでは“ふつう”の物事の把握の仕方が逆転している。

にんげんの手を摑んだる砂遊び

砂遊びをしていたら思わずだれかの手を摑んでしまった。それ自体はよくあることだろう。だがわざわざ「にんげんの手」と断ることで、肉体としての、もっといえば異物としての他者の「手」の感触がぞわりと伝わってくる。

にんげんだと言ひ張つてをり着ぶくれて

「着ぶくれて」まるで熊かなにかのような恰好になってしまったのだろうか。それで「にんげんだと言ひ張つて」いるのだが、わざわざ「にんげんだ」と主張することで、そもそもこの「着ぶくれて」いるのは果たしてほんとうに「にんげん」なのだろうか?という疑いがむくむくと湧き上がってくる。

この「にんげん」であることの前提への疑いは、たとえば若手の劇作家・演出家で劇団「Q」(キュー)主宰の市原佐都子を思い出させる。市原の演劇作品『地底妖精』では人間と妖精のハーフが出てくるのだが、彼女は人間の赤ちゃんのことを「肉の塊り」と呼んでみたり、セックスのことを「交尾」と呼んだりする。こういった人間の当たり前の認識をズラすような言葉は、市原戯曲の他の作品の中にもたびたび登場するが、山田俳句においても、この認識をズラすというか、人間をどこか単なる動物だったりモノであったり、そういったものとして見ているような眼差しがあるように思える。

そのため山田俳句においては、動物やモノといったものたちの境界線もまた、曖昧にならざるを得ない。

抱いてみてあやしてみても冬の石
黒松や箒に雌も雄もなく
瓢箪をわが子とおもふ
かな

モノとの境界が曖昧になっている例。「冬の石」は当然赤ん坊ではないが、「抱いてみ」たり「あやしてみ」たりしてしまう。ユーモアだが、子を失った親の悲哀のようなものも透けてみえなくもない。「箒」というモノには「雌」も「雄」もない。でも「箒」となる前の木には生殖能力はある(「黒松」が「箒」になるのかはしらないが)。「鰻」が「瓢箪」のことを「わが子とおもふ」のは、やはり形状が似ているからか?でももちろん「瓢箪」は「瓢箪」であって「わが子」ではない。この句もおかしみの裏に一抹のかなしみが入り混じる。

口に芋を食はせてをるや火星見ゆ
寒鯉をみてゐるわれのふと動く


認識がズレている例。“ふつう”なら「口」が「芋」を食うわけだが、この句の場合だと「口に芋を食はせてをる」。まるで「口」が自分とは異なる別の生物のよう。醒めた客観視と「火星見ゆ」という冴えた眼差しが響き合う。「みてゐるわれのふと動く」という表現にも、どこか自分自身(自分の肉体)を突き放して見ている視線がある。

焚き火より手が出てをりぬ火に戻す
ものの骨白露の皿へ戻さるる
口から出す要らない骨よ秋彼岸
さりながら四肢に骨有りひきがえる
生肉を寝かせてきたる花見かな


極端に対象が物質化されている例。たぶん普通に考えれば玩具か人形の「手」なのだろうが、唐突に「手」と言われることであたかもそれまで肉体/体の一部であったはずの生の「手」が落ち葉やゴミといっしょに燃やされているような錯覚に陥る。そしてはみ出ていたから「火に戻す」。とても機械的な表現が「焚き火」とは対照に冷たい感触を残す。「ものの骨」が「皿へ戻さるる」、「口から出す要らない骨」、「さりながら四肢に骨有り」、「生肉を寝かせてきたる」という表現にも、どこか機械的で無機質な響きがある。また、<生肉を・・・>の句に関しては、単純に「花見」のバーベキュー用の「生肉」を「寝かせ」ただけなのかもしれないが、句集の最後の方に置かれているためか、ここまで『不純』を読んできた者としては、「生肉」というのは「生」の人間そのもののことを言っているのではないか?という深読みもしたくなってくる。

他にも<人出づるこの毛皮より湯槽より><鬼燈や垂らせる袖のなかに腕>といった句も肉体の一部(あるいは全体)がモノ化している(認識がズレている)し、<たんぽぽに穴ある顔を寄する吹く>という句は「顔」という部位にたくさんの「穴」が開いていることを意識させる。<目の玉の羽化せぬことを遠花火>という句は、「羽化せぬ」ということで逆説的に「目の玉」の生物性を浮かび上がらせるようだ。「目の玉」が「羽化」する光景は、もしかしたらとても綺麗かもしれない。

ここまで“認識のズレ”を中心に『不純』をみてきたが、山田俳句にはどこか“喜劇性”があることに気付かされる。それは言い換えればウィットに富んでいるということだが、“喜劇”といっても、それは手放しのユーモアなどではなく、どこか悲哀さだったり、かなしみの一歩手前にあるやるせなさのようなものだったりの裏返しとしての“喜劇性”だ。

チェーホフがどうみたって悲劇としか思えない『桜の園』『かもめ』を“喜劇”と称したことは有名だが、山田耕司の俳句にも、どうしようもなさから来るおかしみが滲み出ているように思える。

あるいは、どうしようもない状況をどこか一歩引いて楽しんでいるような視点。それはけっして悪意をもってやっているのではなく、せかいに対して正直すぎてしまうが故なのではないだろうか。

山田耕司の戯曲「あの鐘を鳴らすのはサザヱ」(山田耕司のHP参照)にもまた、この“喜劇性”はみられる。どこか別役実を思わせる不条理な内容だが、かなしみが振り切れた先にある滑稽さや静かな狂気が見え隠れする。

俳句や戯曲をとおしてもわかるように、条理を逸した出来事や感情に山田は目を逸らそうとしない。

<不純>とは、条理―“ふつう”―を守ろうとする“純粋”なせかいから零れ落ちてしまったものたち、“純粋”なせかいに隠されてしまったものたちが混沌と入り混じる場のことではないか。あるいは、“純粋”から逸脱しようとする力学ともいえるだろうか。

なんにせよ、わたしたちを取り巻くせかいを彩っているのは、この剥き出しで不恰好でなんだか取り扱いのよくわからぬ<不純>たちなのかもしれない。

研ぎ方のわからぬ虹となつてゐる


>> 左右社HP『不純』

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